第12話 苦悩と器用と少年少女
「おはよーう諸君。数学の宿題やってきたー?」
「写さしてもらおうっていう魂胆が丸見えな台詞吐いちゃいけませんよー、野村さーん」
教室でいつも起こっていそうなよくある光景。そんなものをまるっきり聞き流して机に頬杖をついているのは、先日ちょっとしたトラブルにあった少年、穂坂迅人だった。
「ほーさかーあ。宿題やってきた~?」
「やってきたけど見せない。あと写させもしない」
「じゃあノート貸してー」
「却下」
ゾンビのように近寄ってくる野村をてきとうにあしらって追い払う。
「穂坂、昨日は何してたんだ? ……ってかめちゃめちゃ疲れた顔してんぞ、大丈夫か?」
「そんな顔してんのか?」
「自覚ないのかよ……」
野村と一緒に登校してきた東野に心配される。
「いや、昨日はいろいろあったんだよな………」
考えてみれば昨日は大変だった。傘を返してもらったり放課後に追いかけられたり謎の現場を目撃したり帰る時間が遅くて結局一発殴られたりと、本当に大変だった。
(………今日は、まだ来てないのか)
ぽっかりと空いている席に自然と視線が行ってしまう。席の主、白河有希は今、ここには居ない。
『彼女はちょっと複雑な位置に居るんだ。僕があまり詳しいことを話すわけにはいかないんだけど、僕達が立っている『学生』というポジションも持っているうえに、僕らの知ることのできない領域にも居場所があるって言うんだ。彼女に手を出したりしたら消されるだろうね』
ふと、本当にふと思い出すのは、入学して間もないころ、更に言えば白河有希が転入してきてすぐのころに聞いた、見知った生徒会長の言葉。
知ることのできない領域。消される。聞いた時は全く意味が分からなかったが、どうやらあの言葉に間違いはなさそうだ。
(………どうなっているのやら)
正直、昨日居たあの男も気になる。一般人を巻き込みたくはない、と言っていたが、自分や白河が一般人ではないような言い方だったところになんだか引っかかる。
「穂坂~、宿題終わんない~」
「なんとかがんばれ」
後ろで騒いでいる野村には目も向けずに切り捨てる。
(けど、結局はどうしようもないんだよな)
そう、結局自分にできることなどない。これは穂坂迅人の問題ではなく、白河有希の問題なのだ。
首を突っ込んでも逆に迷惑をかけるだけかもしれない。
一、二年前は何度も問題に首を突っ込んだことがあるのだが、今回はそういうわけにもいかないだろう。
(…………ホントに、何だったんだろうな)
はあ、と疲れたような溜め息が出た。考えを断ち切るように頭を振って、ぎゃあぎゃあと騒がしい後ろに目を向けてみる。
そこには、ブツブツと何かを言いながら数学の問題集と格闘する野村と、呆れたように傍観する上城と東野、ニコニコ笑いながらヒントを与える真中、といった風に、どこまでも平和な光景が広がっているだけだった。
意味のわからない騒動などとは無縁の、平和な風景。
けど、騒動の中に居るものからみれば、それがどれだけ残酷であるか分かっている穂坂は、平和を見ることはできても、平和の中に混じる気にはなれなかった。
「結局は、当事者であるかないかなんだよな」
揺れる思考にてきとうに結論をつけて、宿題終わったばんざーい、と騒いでいる平和なクラスメイトにたった今思い出したことを告げた。
「数学の宿題って確か明日までだったと思うんだが」
直後、自分の努力を帳消しにされた少女の絶叫が朝の教室に轟いた。
放課後、『今日はねこまんまが食べたい』というお達しをうけてじゃあちょっと早いけど作るか、とか考えてたら丁度出汁のかつお節がなかった。
「怨むよかつお節……お前なんでこんな時に限ってねーんだ………?」
今日、朝の数学宿題騒動ののち、白河有希は登校してきた。だが、いかにも具合悪いですみたいな調子だったので、クラスの面々が半強制的に早退させてしまった。
だが、問題はそこではない。先日判明した事実、『意外と家が近い』という事実はとてつもなく危険度が高い。
今、買い物に行って帰る途中なのだが、この状態で鉢合わせ……などといったら本当に気まず過ぎる。
「どうしよう………」
意外と本気で悩む少年穂坂はかつお節の入った袋を見て、盛大な溜め息をついた。
首を突っ込む度胸もなければ、見て見ぬふりする器用さもない。
見て見ぬふりができるのなら、最初から悩んでなどいない。
意外と役立たずな己の精神面にもう呆然とするしかない。
溜め息と一緒に悩みも出ていけばいいのに、とか思うのだが溜め息をつけば逆に気が重くなるばかりで、一向に打開策など浮かばない。
「本当にどうすんだよ………」
「悩む前に行動指針をはっきりさせてはいかがですか?」
迷える少年がつぶやいた独り言。それを切り捨てるように飛んできた声。
警戒心を見せずに振り返る少年の額に、真っ黒な拳銃が突き付けられた。