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フォー・アイデンティティ

フォー・アイデンティティ

作者: ぽーよら
掲載日:2026/05/10

【あらすじ】

鬱屈とした冴えない日常を送る男、レイ。

ある日レイは、ケガをした男を助ける。男の名前は楓と言って、両親を殺害した罪で追われている殺人犯だった。楓は大金を持っていたため、レイは小銭欲しさに殺人犯であることを承知の上で匿い、手当をして、家に住まわせることを決める。だが楓は、兄を名乗る男に執拗に追われていた。

ふたりが奇妙な共同生活をしているうちに「第四の男」の存在が浮上する。レイには秘密があった。楓にも秘密があった。そして楓の兄にも、、、。それと同時に、大型ショッピングモールで、白骨遺体が発見される。ふたつの事件の関係性は、、、。


※カクヨム、pixivでも公開しています。

フォー・アイデンティティ                              著・ぽーよら




 プロローグ


 バーの玄関口の一部である石畳と、道路のアスファルトとの境目に、ちょうど溝ができていて、そこに溜まった血が固まっている。乾いていたとしても血を踏むのがどうしても憚られたので、そこをまたいで、清野喜一は、目的の方へ向かった。

 正面入り口のガラス戸の前に警察が何人かいる。全員が大柄でいかにもな風体なので、ここで起きた事態の深刻さを物語っていた。もう気にもしないくらい何度も通りかかった店構えだが、非日常を前によく考えると今まで一度も店内に足を踏み入れたことがないことに気がついた。

「すみません、ここで、殺人事件があったと聞いて……」

 喜一が話しかける。警察が身分と名前を聞いてきたので、手っ取り早く、医師免許を提示して、それから名乗った。暑い。もうすぐ夏になるから。視線を落とすと川縁の木々が、太陽を受けてめいっぱいに輝いていた。若い警察官が尋ねる。

「お医者様ですか。何か?」

「はい、ここの、井川のせがれも、親父も、その親父も、おふくろも……いえ、この町みんな、私が診てきましたから、そこから死人が出たと、それも殺人事件だと聞いて驚いて……」

「清野先生!」

 ようやく顔見知りが出てきた。相撲取りのような体型の、ベテラン。いかにも新人めいたまるい額の若者の前に出る。揃いも揃って腰にたいそうな装備をつけていて、わずらわしそうに見える。この町で殺人事件だなんて、七十五年生きてきて初めてだった。

「いやぁ、後からお伺いしようと思ってたんです。隣の旅館の女将さんや、向こうの歯医者の先生はレイちゃんだって言ってました。俺はそうは思えなくて……まだ確認が取れていないので、身元照会にご協力いただけませんかねぇ?」

「もちろんです、心当たりが三人……」

 貴一が呟くと若い警察官は不思議そうにした」 

「三人? あれ、このバーは店主のひとり暮らしだと伺ってたんですが……」

「いえ、男が……男が三人。殺されたのが誰か、殺したのが誰か……何にせよ、三人なんです」

 貴一は空を仰いだ。

「私が、間違えたんです……」

「え?」

「私が、間違えました」

 ささやくような独白。警察官が聞いていようといまいと、どうでもよかった。

「己は己にしかなれない。アイデンティティはひとつだけ。誰かになれる……人生を変えられる、そんなばかなことを、私か吹き込んだから……」

「……」

 すっかり黒く乾いた血溜まりに目を落として、喜一は数日前のことを回想した。理想を語るべきではなかった。

 いつだって、自分を変えられる。夢を持って前に進め。障害を乗り越えて、理想のライフスタイルを追求しろ……。


 言うべきじゃなかった……。

 その結果が、これだった。

 喜一が神妙そうにするので、その場の警察官は全員が全員、背筋に妙な寒気を感じた。田舎の、なんてことない怨恨による犯行で、すぐに片付くはずだった。そうじゃないのかもしれない、という杞憂が、アスファルトから立ち上るじわじわとした熱気のように、頭をもたげかけていた。




——————



 一、井川レイ


 一ヶ月前


 十六時。

 ただでさえ柄の短いほうきが、すっかり先のすり減ったせいで余計に使いづらくて、レイは腰をかがめて、店の前の石畳を掃除する。特に、石畳と、道路のアスファルトのちょうど境目に妙な溝ができていて、放っておくと落ち葉やらゴミやらが溜まる。はんぱに火のついたままの吸い殻を踏み潰してから薄汚れたちりとりへ。辺りも目配せする。綺麗好きの自覚があって、毎日のルーティンのひとつは、開店前のバーの正面入り口の徹底した清掃だ。

 几帳面にアイロンがけしたシャツ、黒髪、華美さのない表情。この男が、井川レイ、職業はこの、目の前のバーの店主。

 はぁ、とため息が出る。無意識だった。レイは三十三年間、この町で過ごしている。田舎のとっくに廃れた温泉街。父親がバーを始めた頃こそは景気も良く、毎日を浴衣の観光客のおかげで遊んで暮らしたという。しかし前述のとおり、バブルが弾けた後の生まれのレイにはまるで想像もつかない世界のおとぎ話で、レイが成長し物心着く頃には街中廃旅館だらけで、年々盆踊りやら育成会やら、町の活気がが無くなっていって、観光バスもめっきり減って、成人する頃には優秀な人間から都会へ脱出していった。レイは居残ってしまった。脱出の機会がなかった。自分を、負け組だと考えていた。父親が急死して仕方なくバーを継いで、切り詰めた生活をしている。バーは川沿いにあって、自宅兼店舗のボロ屋、隣も古い旅館で、女将が毎日涙ぐましい声量で客を迎える。こちら側はまだいい。目の前の旅館は廃墟で、レイが小さい頃に火事で人が死んだ。取り壊す、取り壊す、と何度も言われてきて、二十年以上そのままだった。川辺から対岸を望むと、びっちりと旅館が佇む。これを、上手いことフォトグラファーが加工しきらびやかな写真にしたものが、観光向けのパンフレットには載るのだが、よく見ればどれもこれも雨垂れの汚れをすらなんとかする財力もなく、退廃を待つ小汚い店構えでしかない。ましと言えるのならば、一部は老人ホームに改装されているので少なくともひとはいるということ。改めて、レイは三十三年、ここで過ごしている。たいした感動や面白おかしいこともない。流行りのライフスタイルについて行けなかったので、ここにいる。耐えなければならないことが複数あるが、どれもこれも、そのうちなんとも感じなくなった。何かがすり減っているのだが、それが何かはわからない。レイにも、さすがにそろそろ、と思うような箒を買い替える気もなかったからである。

「……?」

 手を止める。

 レイがなにもない方向を振り向く。

 ざ、ざ、と箒の音の向こうに、うめき声のようなものが聞こえた気がしたから。ちょうど、隣の旅館との間の、細い路地。幅は一メートルあるかないか。人は通らない。ここに物があったり、猫のフンがあったり、草が伸びていると、女将が嫌味を言ってくるので、レイがよく手入れしている場所でもある。近寄る。腕が見える。人がいるのだとわかった。


「……」

 覗き込むと、路地に男がいた。肩にかかるぐらいの傷んだ金髪。根本は黒くなっている。軽装に見える。レイは着ないタイプの服装。無精髭。ぐったりと座り込んで、よく見ると所々に痛々しい傷がある。殴られたようなアザに見えたし、縛られたような跡にも見えた。

「えっ!? だ、大丈夫……ですか!?」

 そっと近寄る。生きている。事故か、観光客同士のトラブルかもしれない。もしくは、この辺でよく問題を起こすのは、酔った消防団やヤンチャな仕事の連中だ。まだ、熱中症の季節には早い。

「あ、あの、今、救急車呼びますから!」

「……」

「え? 何て?」

 男が何かを呟いたので、レイはしゃがんで近寄って男に耳を傾けた。その時だった、男は目を見開いて、ぐっ、とレイの腕を掴んだ。

「いたっ」

「救急車も警察も呼ぶな……家はどこだ、俺を介抱しろ……」

「……!」

 いきなり、男はレイを睨みつけて脅してきた。鋭い眼光に射抜かれると体がこわばった。視線を下に落として、後悔した。ナイフだった。男の手には小さめだが、見たことのない形状の刃物がしっかり握られている。その切先がしっかりと自分を捉えているのがわかった。遠くでひとの声がする。ありふれた日常にそぐわない凶器。わかったことはただひとつ。

 逆らえば、殺される。

「あ、あの家は、そこで、二階……」

「行くぞ」

 声が震えてうまく話せなかったし、足ががくがくとした。レイは男の言うままに、バーの正面の隣の階段から、居住空間である二階へ男を導いた。玄関を開けて先に入るように言われる。木製のドアはとっくにツヤを無くしていて下の方が劣化してボロボロで、それを男はとんでもない音をたてて閉めて、さらに流れるような動作で鍵をかける。室内を一瞥して、カーテンを閉めて、近くのベッドへ倒れ込む。レイは男が地面に座っていたことを思い出して、洗濯したばかりのシーツに同情した。男は見るからに辛そうで、ひどく浅い呼吸音だけでも体調の悪さがうかがえた。レイは今なら逃げられる、近所の家に行って助けを呼んで……などと頭の中で、ハリウッド映画ばりの一大活劇を想像した。

「おい」

「えっ、は、はい」

「カバンを……」

「え?」

「駅のコインロッカーに、カバンを置いてきた、取ってこい……」

「……」

 男がレイに、鍵を投げた。レイはそれをキャッチできずに床に落とした。

「礼はするから……」

「……」

 ナイフで脅しておいて今更、と思ったが、陽が翳り始めると、夕方らしい空気と色を取り込む窓辺はこのイレギュラーな状況とまったく真逆の、屈托しきった日常を想起させるのにぴったりだった。なぜなら真っ先に、窓際のテーブルの上の固定資産税の請求書が目につくことになるからだ。そろそろ国民健康保険の請求書も来る。年金はもっと辛い。礼という言葉にやや期待した。恩を売っておいて損はない。小銭でもいい。そんな、矮小な自分にうんざりしながら、部屋を出た。

 幸い、駅は歩いて五分もしない。なんとか温泉駅などというありきたりな名前で、観光地らしいレトロ風の駅舎に建て替えられたのが割と最近だ。その時にコインロッカーが出来たので、まだ真新しくて、町に馴染んでいない。いや、やたらと大きく描かれた、町をPRするためのアニメキャラクターのせいかもしれない。自転車の駐輪場の真ん前だが人がいないのでレイはなんの警戒もなく、キーに書かれた通りの一番大きい扉を開けた。中から黒い大きなバッグが出てきた。担ごうとして、やたら重くて、一度地面へ置く。

「なんなのもー……」

 ファスナーを開けて中身を見て、レイは思わず尻餅をつくほど驚いた。


 中には大量の札束が入っていた。


「なに……これ……」

 レイが見たこともないような量の、まだシュリンクのついた札束が、大きめの旅行バッグにぱんぱんに詰め込まれている。レイは慌ててファスナーを閉じて、きょろきょろと辺りを見回して、足早に駅を後にした。普段は気にしないような帰宅途中の小学生やら、デイサービスの車やらがやたらと気になった。家まで心臓がもたないかも、と思うほどだったが、なんとか帰宅した。


「ちょっと、何これ! あなた何したの?」

 入るなり、ベッドに横たわる男へ声をかけるが、反応がない。バッグを置き、近寄ると男はささやかな寝息をたてていた。汗臭いのと、錆のような血の臭いがした。レイはそっと、外へ出た。

「警察……警察、いや、えーと、先に町内会長に、いや……」

 レイは開店前のバーの前でうろうろとしながら考えた。どう考えても、ひとりで抱え込める問題の範囲を超えている。男は何者なのか、怪我の原因は何なのか、あの大金は一体……。

 ぐるぐると考えがまとまらないレイを思ってか、ぽつりぽつりと街頭が灯り始める。もうすぐ夜になる。まだ、夏とはいえないのに春とも別れる頃合いの、季節の変わり目。不安定な気候。ぬるい風。どうしてこんなことに。こんなに落ち着かない気持ちは久しぶりだった。すると、ひとりの男が、レイに近づいてきた。

「すみません」

「え?」

 男は駅はもうすぐですか? と尋ねてきた。廃れていても観光地、レイにとっては慣れた質問だった。

「あ、お、温泉駅ですか? はい、あと五分ほど道なりに行けば……」

「地元の人?」

「あ、はい」

 レイは男を観察した。四十歳くらいだろうか? 身なりが、この辺りの人間ではなかった。革靴や長いストールのことを指す。この辺の人間は農家や自営業ばかりでこういった格好はしない。サラリーマンもいるが、違うとわかる。老若男女、めかしこんでいるのは地元の人間ではない。しかし、観光客にも見えない。

「人を探していて……このビラを配っています。心当たりがあればご協力下さい」

「……」

 ビラを受け取る。

 ビラは行方不明のとある成人男性を探している、という内容だった。名前は羽賀楓。二十五歳。顔写真に見入る。先ほど、レイのバーの横にいた、あの男だ。レイは自分を悔やんだ。おそらく、顔に出ていただろう。知っている、と。

「……」

「……」

 しばらくふたりは互いに無言だった。

「こ、このひと、なんで失踪したんですか……?」

 沈黙を破ってのはレイだった。黙っていればいいものをいかにも演技めいた質問をしてしまう。

「彼は私の弟で、羽賀楓といいます」

 楓。

 レイは心の中で男の名前を復唱した。

 彼は楓と言うのか。

 傷んだ髪や、鋭い眼光を思い出す。

 さらに目の前の男は、一枚の写真をレイに見せてきた。ありふれた家族写真で、昔のインスタントカメラの出来のそれは、父親らしき男性、母親らしき女性に、子供。庭先で遊んでいる様子を、当時なりの画質で鮮明に切り取っている。男は写真に映る子供が弟だと説明した。自分は映っていないと言うが、目の前の美丈夫は写真の中の男性とあまりにも似ているので、何も不思議はなく、レイは血縁関係を察した。

 レイは手元のビラに目を落として、もうなるべく目をあわせないように意識した。連絡先には、羽賀達也とあって、090から始まる電話番号が添えてある。

「弟は両親を殺害して、金を持って逃げたんです」

「は⁉︎ 殺人⁉︎」

 思わず大きい声が出た。

「ええ。事件の内容を考慮してか、あまりメディアには取り上げられていません」

 レイの部屋にはテレビがない。動画配信サイトはよく見るが、ニュースには興味がなかった。たとえ身近な殺人事件があったとしても、気にも留めないだろう。

「そ、なんですね……そんな、危険な男がこんな田舎町に……」

「弟は精神的な面でも問題を抱えています。もし見かけたら、警察か、私に。近寄らないように」

「は、はぁ……」

「私には両親が残してくれた五千万円があります。情報提供者には謝礼金を支払います。なので、どんな情報でもいいので、何かあればご連絡を」

「……!」


 男はそう言って、駅の方へ去っていった。

 レイはその場でしゃがみこんだ。顔を伏せる。怒涛の展開に、ついていけない。

 あの、部屋で寝息を立てている男が、殺人犯? 両親を殺し、金を盗んだ? まずいのでは?

 ……匿っていては、殺人の共犯になるのでは?

 健全な良心よりも、保身が働く。次にニュースに乗るのが自分だとしたら、破滅を意味している。

 ビラを見る。謝礼金のことも書いてある。……いくらくれるのだろう。本当に支払われるのだろうか。あの男を売って、謝礼がでれば、過去に免除されていた分の年金の追納や、リボ払いの溜まってるクレジットカードをなんとかできるかもしれない。それから、あの、重たいバッグの中身を思い出す。あれの行方が気になる。あの殺人犯が捕まったら、あれはどうなってしまう?

 レイは想像した。少し先を。……もし、殺人犯の男を匿って、真面目に介抱していたらきっと、そのうち男が金で何かを買ってくるように言う。一万円札を渡されて、おつりが出たら、それを貰える。数千円かもしれないし、数百円かもしれない。だが、金は金だ。もっと気前がいいかもしれない。おこぼれがあるかもしれない。

 次にレイが取る行動の心理のほどは、金だけではなかったが、レイは無自覚だった。

「……」

 レイは、立ち上がり、徒歩で数分の薬局へ向かった。ガーゼや消毒液や、抗炎症剤を買って、顔見知りの店員と他愛のない話をして、帰宅した。



 一・五、つかめない右手


 自己紹介をしろと言われたら、井川レイは、まぁ、普通の人間ですと、答えた。

 自分の内面は知っていた。臆病で引っ込み思案で、何をするにもたくさん確認をした。そのくせミスは減らないし、いざという所で雑で、やりたいと思ったことに手を出すとは途中で飽きる。悪いところばかり列挙したが、仕方ない。自身の良い点というものが思いつかなかった。


 さて、レイの祖父は、同じ町で商店をやっていて、(その息子でレイの)父親はそれを手伝いながらバーを開業した。それが今のレイの住居で、物語の重要な拠点にあたる。

 レイの記憶の中の祖父は、どうしようもない飲んだくれだった。昭和初期の生まれの農家の長男坊なので、当然、古い価値観と生活感を持っていて、レイが特にまだ小さい頃は男盛りで元気もあったために、酒を飲んで暴れると手がつけられなかった。それこそ家族に暴行をすることなどはなかったが、近所の味噌屋を呼び出して意味不明な難癖をつけたり、庭にレイやレイの母親がいるとわざと食べかすを捨ててそれを片付けさせた。内弁慶で、外面は良くて、レイやレイの母親の、家族に対する気持ちというものは、外野には理解はできなかった。父は何も言わなかった。でも確かに祖父を良く思っていなくて、だからこそ新しい仕事を始めたわけで、レイは黒いランドセルに映る愛想笑いの父の顔を今でもよく思い出すことができる。

 祖父が暴れるのが決まって食卓の時なので、レイは素早く食事をかきこんで、部屋へ戻るという癖がついた。おかげで少食で、痩せ身で、好き嫌いはなかった。その部屋が今、ちょうど件の殺人の容疑者、羽賀楓とやらに占領されている場所である。広いが、窓が北と東の間に向いていて朝はやたらと眩しくて、古い家屋なので四季を問わず毒の虫が出る。

 酒が嫌いだった。なんとしても、大人になってから自分は酒を飲むようにはなるまいと考えていた。父母が祖父が暴れるのを諌める声を聞くのが嫌で、クローゼットで隠れて過ごした。決まって、子供らしい妄想が、幼少期のレイを助けた。つまり、理想の自分を考えた。子供は将来どんな人間になりたいかを、学校ではよく聞かれる。子供ながらにしてレイは、思ってもいない嘘は得意で、先生になりたいとか、人の役に立って仕事がしたいとか、大人が喜ぶ答えを言った。

 本当は、強い人間になりたかった。

 嫌なことから逃げたりせずに、立ち向かえるような人間になりたかった。夢をもって、その目標へ突き進むような、漫画の主人公のような存在に憧れた。

 ある日、祖父がいつも通り暴れるので、レイは勇気を振り絞って、やめてよ、と一言だけ言った。本当の所は、家族愛や他者への思いやりを解きたかった。理想の自分ならこうする、というのを実践してみたのである。しかし現実は、漫画とは違う。

 レイは別室へ連れていかれて、母親からひどく叱責された。大人には大人の話や、ものごとの度合いがあって、子供は話に入るな、余計なことを言うな、ひとりで部屋に大人しくしていろ、と言われた。

 ひどく理不尽に感じた。この世の全てが嘘だと思った。学校では、嫌なことには嫌と言えとか、悪いことを目撃したら正すように教育されるのに、実のところ世の中は白黒でも二面でもなく、グレーで多面的で、その場その場で対処の方法が違った。まだ子供のレイにはわからなかった。

 恥ずかしくて、情けない気持ちになった。良かれと思ったことが間違いで、叱責をうけたのだから。……何より、悲しかった。

 こうしてレイの、理想の自分は、あっけなく散っていった。

 しかし大人になってからは、それこそ三十歳を過ぎてからは少しだけわかった。家族は祖父に耐えて暮らすしかなかった。祖父だっていつも機嫌が悪いわけではなかったし、共に自動車免許しか能のない両親が出ていってまともに生活ができるかと問われれば答えは現実的な一面を覗かせた。そして子供からすれば耐えがたいことも、大人からすればそうでもなかったりする。気づく頃にはすっかりひと嫌いで、臆病な屈折した大人になっていた。

 ただ理想の自分を諦められなかったことはあって、レイは自分へのささやかな抵抗を止めることなかった。キレイに生活を整えてみたり、やはり酒もタバコも遠ざけたし、節制を美徳とした。

 それから、理想の自分を忘れないようにした。たとえ、なれなくても。日々の生活が、美しい妄想を摩耗させても。

 レイは結局、出て行くタイミングを無くして、ずっと生まれ育った場所に居残った。そのうち、母は出ていった。祖父と父は似たようなタイミングで死んだ。祖父は老衰で、父は病死。最後の頃にはレイもわずかばかりの介護に携わった。行政の支援が手厚くて、特段苦労はしなかった。新盆も過ぎていよいよひとりで自由になれる頃合いに、三十三になった。まだ若く、人生は長いのに、出て行くという判断ができずにいた。新幹線の停まる駅まで行くと若者専門の職安があって、職業訓練だとか、スキルアップだとか、力強い文字の広告がたくさんあった。やろうと思えばいくらでも人生を変えられるチャンスがあった。しかし、できなかった。

 それは過去の出来事から来るものかもしれない。勇気をだしても、それが間違ったことで、否定され、ただ悲しい思いをするだけだから。自分は無知で無力で、何も変えられないから。

 レイは、いつか誰かが、とぼんやりと夢想した。誰かが目の前に現れて、自分の生活を一変させる何か大きな出来事をを巻き起こしてくれるはずだと。その時にきっと先の見えない閉塞感や、うんざりする請求書や、くだらない世間話のすべてから解放されて、素晴らしい生活が訪れる、と。


 いつか、きっと、誰かが。


 そうして、楓と出会った。



——————




 二、羽賀楓




「あ、お……起きた?」



 楓が目覚めると、目の前に気弱そうな男がいた。睨みつけた……つもりはなかっだが、明らかにおどおどした態度でこちらをうかがっている。


 俺は……。


 まず、自分のことをしっかりと問う。

 俺は、羽賀楓。


 生きてる。


 これは楓のルーティンでもあった。起きたらまず、自分が、しっかりと自分であることを確認する。

 ……何があったか、よく思い出せない。

 わかることは、自分が確かに、羽賀楓であるということだった。

 それから、逃げ出そうとしたことは、わかる。自分が酷い目にあっていたことも。大柄な男にいつもひどく折檻されていた。血管の浮いた左腕を思い出す。それはきっと父親だったはず。さらにここ数年は監禁されていて、尊厳を奪われ、奴隷のように管理されていた。逃げ出す計画を立てて、実行したはず。しかし邪魔をされて、殴られて、気を失ってその次は確か……。

 楓は横たわったまま、これまでの経緯を回想した。残念ながら二十五年間の記憶の中に、良かったと言えるものがない。手のひらに触れるシーツの感触は、何年か使い続けたもののそれで、過去に別の場所で何度も触れたものとまるで同じなのに、ただ、柔軟剤の匂いがして、それが、今いる場所がもはや非日常であることを確実な現実に感じさせた。

 ずきん、と頭痛がする。よりよく記憶を取り戻そうとすると、いつも拒否反応が出る。思い出せないこともあるが、逃げ出した。金を持って、できるだけ遠くへ、と。できるだけ田舎へ、と。軽装で飛び出したのと、怪我のでいで中途半端な場所に辿り着いたのも覚えている。廃れた温泉街で、すれ違ったのは老人ばかりだった。誰も、自分と大荷物を気にしていなかったのは、観光地故かもしれない。


「……」

 楓はいよいよゆっくりと上体を起こしながら、さらに直近の記憶について、これまでを振り返った。古臭い形の室内灯が目に入って、薄いグリーンのチェックのカーテンの向こうが真っ暗なことに気が付いて、今が夜だとわかった。

 ……たしか、バーの横で適当な男を捕まえて脅した。家に上がり込んだ。そこで、意識を失った。そこまで、振り返る。また気絶したのは怪我のせいだろう。

 室内を見回す。十畳程度。自分が寝ているベッドに、テーブル、ソファ。綺麗に片付いている。使っていなさそうな健康器具があったり、本棚は本が縦と横にと、まちまちに埋まっていたりする。プラスチックのカゴにはコームやエアコンのリモコンがいっしょくたに入っている。家具は見るからに安物で、色も素材もばらばらで、インテリアとしてはまったく格好がついていない。どこにでもある古い、普通の家。

 男をよく見た。数時間前に出会った男に間違いない。黒髪に、太い眉尻が下がっている。唇が厚い。肌が白い。ベッドから離れた位置に所在なさげに体育座りをしていた。

「金……」

「そこにあるよ……何もしてないよ……」

「……警察は」

「呼んでないし、あなたのことも誰にも言ってない」

「……」

「し、指名手配、されてるんでしょ……? 羽賀、楓……さん」

 普通は、通報する。楓は訝しんだ。バッグはベッドの脇にある。レイは続けて、あなたにお兄さんが探していたよ、と告げた。兄……。ひとり、心当たりがあった。しかしレイはそれも、余計なことを発言せずに対処したと言う。

 ふと、自分の体を見ると、手当してあるのがわかった。自主的にやったとしたら、つまるところ、見返りが欲しいのだろう。察した。

「お前、名前は」

「あ、い、井川です。井川レイです」

「そうか……」

 立ちあがろうとすると、特に脇腹が灼熱の痛みを訴えた。だが、立ち上がる。パンツのポケットから、ナイフを出した。見せつける。

「あっ」

 没収しなかったのはよほどの間抜けか、わざとか。それに気づいたレイという男は驚いて硬直した。逆手に持って、思い切り振りかぶって、レイの爪先すれすれの、畳にどすん、とナイフを突き立てた。

 ガガガ……! とそのまま線を引く。ナイフは床の畳の目に逆らって、ささくれだった痛みを一メートルほど残した。


「俺が回復するまで介抱しろ。いいな? そこがお前のテリトリーだ。こっち側が俺。文句ねぇな?」

「……」

 刺されると思ったのか、レイという男は、手で顔を覆って、怯え切っ他様子で何度も頭を上下に振って返事をした。

 楓はベッドに戻った。一言、水、と言ったら、レイが小さな足音で出て行くのがわかった。数分後に、ベッドのサイドテーブルに、水が届けられた。



——————


 とんでもないことをしてしまった。


 殺人犯が、自分の部屋にいる。


 レイはずっと落ち着かない気持ちだったが、正気でいるためにも、バーを開店して、いつも通りのルーティンをこなした。

 バーはレイの父親が始めてからもう二十年はやっている。壁紙のセンスは古いし、フェイクレザーの椅子は所々はげているし、儲かっているわけではないが、町内会の集まりや、めっきり数が減ったなりに観光客が来たりすることと、この町においては珍しく若い店主の店なので重宝されていた。今日も、常連客が数名、ちびちびと呑んでいる。

 楓を思い出す。怪我のせいか辛そうだが、腹の傷はレイにはどうしようもなくて、ただ消毒液で拭って、ガーゼを当てただけだった。ナイフを振りかざす場面を思い出すと、恐怖からどうしようもなく体がこわばる。刺すつもりはなかったのかもしれないが、本当に殺されるかと思ったのだ。ぱさりと、グラスをぬぐっていた布を落としてしまった。


「あ」

「レイちゃん、お疲れモード?」

「あ、あはは、大丈夫です……」

 声をかけてきたのは大谷という警察官で、顔見知りだ。私服だが、カウンター越しでもわかる大柄な男で、明らかにカタギではなかった。この辺りの旅館などでトラブルがあると来るのは皆こういった相撲取りのような警察官だった。

「彼女とヤリまくってんじゃないのぉ、ワハハ」

「まぁ、それなりに」

「結婚しなよぉ!」

「ええ、そのうち」

「そういえば、あいつ覚えてる? 井川ちゃん同級生に高橋っていたでしょ、東京で働いてるって、結婚して、子供できたらしいんだけど、ウチの子の働いてる保育園見に来たんだって! 世間は狭いよねぇ!」

「あはは」

 レイはまったく興味のない話に愛想笑いをした。大谷はこの辺の中年連中同様言動に品がなくて、爪楊枝を人前でも使うような男で、潔癖ではないもののレイはひそかに嫌悪していた。この男は父親と同世代で、話すことは他人の噂話ばかりだった。もう、顔も思い出せないような小学生時代の同級生の話をされるとうんざりした。他にも、スーパーで、昔の同級生の母親に会ったりすると似たような展開になる。自分の子供の自慢話。続いて、レイがなにをしているのかを聞いてきて、例えどんな回答でも、レイちゃんはお父さんの跡を継いでえらいね、と言われる。こういった手合いは実際の所は、自分の子供が都会へ出て立派に働いて人生を真っ当に過ごしていることを再確認しながら、さらにそれをレイのような格下と認定した相手と比べて、自分が間違わなかったことや肩書きの存続に安心しているだけで、他者の生活などには全く興味がないことも、レイにはわかっていた。陰で、どんな風に言われているかも。これがうざったらしくて、レイはスーパーへは近寄らなかった。割高でも、コンビニを利用した。

「レイちゃん、疲れてんのは、俺の方なの、いたわってよね。ニュース見た?」

「え?」

 どきっとした。部屋にいる殺人犯のことかと思ったからである。レイは部屋にはテレビがない旨を説明した。実の所もう何度も話している。

「これこれ。ほら、でかいショッピングモールできるでしょ。整地中に、ひとの一部見つかったの」

「えっ?」

 大谷が、レイに新聞を渡す。地元の新聞社のもので、一面ではないにしろ、事件の概要が書かれている。タバコ臭いそれに見入る。ここから車で三十分ほどの場所に、新しく大型のショッピングモールができる。高速道路にも近く集客が見込めるほか、近隣は再開発で忙しくなり雇用も増えた。いよいよ開店の時期のめやすが発表され、レイも、客と、こんな店舗が入って欲しいとか、誰と行きたいとか、話に花を咲かせたことがある。そんな期待の場所で、整地作業中に、人間の右手が見つかったという。女性のもので、年齢は三十代か四十代だそうだ。白骨化していて、死後二十年は経っているそうだが、当然、殺人事件である。ショッピングモールはこの辺りで一番の大きさになる商業施設として期待され、誘致した市長なとが力を入れていることから、事件の早期解決のために、大谷たちも駆り出され、てんてこ舞いだという。

 楓には関係がなさそうで、レイはほっとする。大谷には、一杯サービスすると伝えた。大谷は喜んだ。

 レイは接客の隙を見ては、スマホで楓について調べた。家族間の殺人、犯人は精神に問題を抱えている……などのワードを検索したり、ニュースサイトで直近の事件を調べる。しかし、達也の言うとおり、警察がメディアの情報を規制しているのか、羽賀楓という名は出てこない。

 ……楓は、本当は、どんな男なのだろう。

 どんなバックボーンを持つ人物なのか。なぜ、殺人を犯したのか。

 結局仕事をいくらこなしても、退屈な日常に現れた非日常な存在を、どうしても気にかけずにはいられなかった。


——————


 二・五、左手の悪魔


 たとえば一番昔の記憶は? と聞かれたら、殴られて地べたに這いつくばっている時に見えた自分の鼻血で汚れた床だし、一番新しい記憶は? と聞かれても、同じような場面が思い浮かぶ。


 楓の人生を一言で表せばそれは、暴力に支配されてきた人生、となる。それがわかるような物心のついた頃には、自分の家庭がまともじゃないこともわかるようになっていた。

 いつも目の当たりが腫れていたせいかもしれないが、どうにも、自分を殴ってくる相手の顔が思い出せない。おそらく、父親だとは思う。確実なのは、左利きだということ。いつも左で殴られた。母親はどんな存在だったか思い出せない。いたのかもわからない。いなかったのかもそれない。

 楓は子供ながらにして、自分よりずっと体格のいい相手に蹂躙される恐ろしさを知っていた。対処方法は一言で言えば、耐えること。相手を喜ばせるような反応をしないことも重要だ。耐える、耐える、耐える……。そうする他無かったというのに、楓が耐えられるからこそ、虐待は暴力とは違う方向に進んだ。

 一番嫌だったのが、人間としての尊厳を秤にかけたような選択をさせられる時だった。毎日、服か、水かと問われた。それは、裸で過ごすか、水をコップに一杯だけ与えられるかの選択だった。家から出してもらえることはないので誰に見られるわけでもないが、裸でいることが幼いながらにしてどうも抵抗があって、楓はたいてい、服を選択した。シャツが一枚与えられた。冬は寒くて、こごえて過ごした。それでも、脱水症状を起こして倒れるまで、そうするしかなかった。他にも、あえて与えたモノを目の前で壊すとか、排泄をコントロールするとか、今思えばどうやって耐えていたのかもわからないような目に合わされた。

 こう言うと驚かれるだろうが、楓は学校に行った記憶もない。字の読み書きも、自分を殴ってくる理不尽な左利きから教わった。たまに社会常識を教えるという目的で外に連れて行かれることもあったし、ごく稀に、膝に乗せられた。

 大人しく、言う通りにしていれば良いと考えた。いつか、誰かがきっと助けてくれる。しかし、そんな考えは甘かったと、今なら思える。

 楓がだいたい十五歳ぐらいの頃に、家に、知らない大人が来た。ふたり。中年くらいの男女で、突然訪問してきて、楓を見つけて、驚いて狼狽していた。

 楓は、この時初めて、人生で、ここ一番のあるかないかくらいの大きな声で叫んだ。助けて、と。次の瞬間に、いつもの見慣れた左手が、目の前の人間をナイフで刺した。ふたりともあっけなく床に倒れて動かなくなった。

 玄関から廊下から、そこら中が血まみれになった。

 何が起きたのか理解できなかったが、まず自分じゃなくて良かったと感じた。なぜなら、目の前の無惨な肉塊が、判断を間違えた自分だったかもしれないから。……矮小な自分に嫌悪感を感じた。無辜のひとの死を、何とも感じない残酷さにも。しかし、どうしようもなかった。

 その後死体を切ったり煮たりして、できるだけ細かくしてゴミに捨てると説明され、手伝いをした。廊下を掃除するように言われ、漂白剤を薄めた液体で、拭いた。素手だったので、ひどく手が荒れた。そして、言われた。お前のせいだと。お前が、助けてを求めなければ、こんなことにはならなかったと。

 それからは、ますます扱いは酷いものになった。足枷や手枷をつけられたし、それで拳で殴られるだけだったのが、道具が使われた。それは、ムチだとか、拷問器具だとか、そういう非日常的なものではなくて、画鋲だとか、はさみだとか、電気だとか、日常生活で手にするもので行われた。もし楓が、今後社会に出るようなことになったとしてもトラウマで後生苦しむようにこうするのだと言われた。ここを出てどこかに逃げたとして、その先で、同じものを見た時に、苦しむように、と。しかし殺されるようなことはなかった。楓はおもちゃだった。サンドバッグだった。壊れるまでは捨てられない、それだけで生きていた。

 しばらくして、問題を自覚した。

 二〇歳を超えたあたりから、たまに記憶が飛ぶようになった。

 自分が今まで何をしていたのか、思い出せない。ふと、次の瞬間には、何時間もたっていたり、部屋の中の違う場所にいたりする。何の予兆もなく始まり、終わる。予防や対処療法は思いつかなかった。しかし、知識が無いなりに短期的な記憶障害の一種だろうと考えた。あまりに過酷な生活が、いよいよ精神を蝕んできたのだと。

 まずい、と思った。

 このままでは、自分が自分でなくなってしまう。そんな恐怖を感じた。楓には楓なりの夢や希望があったのだ。命を脅かされない生活。あたたかい食事。テレビを好きなだけ見てみたい。漫画を読んでみたい。友達が欲しい。働いてみたい。普通の人間のような生活をしたい。

 このままではいけないと思った。

 誰も助けてはくれない。いつか誰かが、なんて、幻想だ。逃げ出さなくてはならない。自分で行動しなくてはならない。

 楓は逃走の計画を立てた。何度もシュミレーションを重ねて、何度も失敗して、その度にひどい折檻を受けた。また、失神した。そして……。


 また、記憶が飛んだ。


 気がつくと、両手が見えた。自分の両手だ。真っ赤で、べたべたしている部分と乾いている部分があった。覚えがあったので、大量の血液だとすぐわかった。楓はよく鼻血を出していたから。顔を上げると、目の前に、血まみれの人間が転がっていた。

 流石に面食らって尻餅をついたが、まじまじと顔を見た。これは……自分の家族だろうか? よく、わからない。見たことがない。いや、きっと正しくは、記憶がない、だ。周囲を観察する。ここはいつものリビングだろうか? 暗くてよくわからないが、窓から見える景色はいつもと変わらない。すると、左利きが現れた。何かを叫んでいる。手にはナイフ。とっさに、それを奪った。そして攻撃した。左利きも反撃をしてきて、腹のあたりに激痛を覚える。しかし、最初の自分の攻撃の方が勝っていたらしい、左利きがその場から去る。

 窓の近くに、黒い大きなバッグを見つけた。ジッパーが開いていて、中身が確認できた。さらに周囲を観察した。左利きもいない上に、ドアが開いている。廊下と、その先の玄関らしき扉も見える。……逃げられる!

 生きていくには金がいるというのも知っていたからバッグを担いだ。しかしあまりに重くて、半分は置き去りにした。後は暗闇を夢中で走り抜けた。朝日が出るころ、再び脇腹の痛みに気がついた。ひどい傷だが、かまっていられず、進んだ。途中何度も意識を失いかけた。ひとの真似をして電車に乗って、寂れた温泉街についた。バッグが重くて、仕方なくコインロッカーへ預けた。傷をなんとかしなくてはならない。眠らなくてはならない。休息が必要だ。ついに歩けなくなって路地に座り込む。


 ……そんな時にレイを見つけた。


 自分を救えるのは自分だけ。

 自分で、なんとかしなければならない。

 近寄ってきたレイに、ナイフを突きつけた。




——————




 三、生活


 楓の目的は単純で、金を持って、後生逃亡生活をすることだった。今はとにかく、傷を治したかった。これでは何もできない。だが、楓の腹の傷はなかなか回復しなかった。刺された傷で、抗生物質が必要だった。だが、病院に行くわけには行かなかった。レイの買ってくる薬でなんとか誤魔化した。誤魔化しているだけなので、良くはなっていないとわかっていた。やることはなかった。回復に努めるのが今の仕事。なので、楓はレイをよく観察した。

 レイは献身的で、よく楓の世話をした。言うことを聞いて、部屋のすみで大人しくしている。レイの生活リズムに合わせて、楓も生活を送った。まず、バーの開店は午後十七時から。レイは一時間前から開店準備を始める。二十三時半ラストオーダー二十四時で閉店。土日は、常連客や、観光客、コンパニオンを連れ立った団体などがはいる場合もあったが、平日は暇なようで、レイは何度も楓の様子を伺いに二階に来た。

 不思議なことに、店が終わってもレイは起きていて、眠るのは朝の五時あたりだ。明るくなってから、睡眠薬を摂る。楓はそれを自分にも寄越すようにいった。脇腹が熱を持っていて、痛くて眠れないからだ。そしてレイは昼頃に起きる。楓を介抱してから、職場であるバーへ向かう。この一連の流れが、ふたりの奇妙な共同生活の全貌だった。

 さて、楓がレイに拾われて数日たった。その日は、怪我のせいか、ひどい熱が出た。雨のせいかもしれない。体がだるくて重い。定休日なので、レイは楓につきっきりだった。といっても、食事を摂らせたり、汗を拭いたり、薬を飲ませたりするだけ。他に何ができるか、レイ自身もわからない。

「クソ……」

 レイがガーゼを切って、適度な大きさにしたものをあてがう。傷口は嫌な臭いがした。

「あの、ど、どうしたの、この、ケガとかって……」

「関係ねぇだろ」

「……ぬ、縫ったりしないとダメなんじゃないの……?」

「……」

 楓がわざと大きく舌打ちをしたので、レイは黙った。楓の体を見ると打撲だのすり傷だのはもう綺麗さっぱり消えている。刺された場所だけが、治らない。縫うほどでもないはずなのにどうにもその後が悪い。楓はなんとか考えろ、とレイを凄んだ。

「か、髪……」

「あ?」

「髪、切って、黒くして、俺みたいに、して、俺のふりして、病院いく? とか……。保険証使って……」

「……」

 ばかな提案だった。体格、人相、肌の色、あまりにも違う。

 楓はレイを刺して、レイが病院に行けば、レイの処方薬をそのまま貰って使えると考えた。しかし、刺されたとわかれば、病院の方が通報する可能性もある。ビンが刺さったとか、客とケンカしたとか……適当な理由を考えたが、レイは、そういうタイプに見えない。回らない頭を必死に回転させたが、妙案が浮かばない。

 冷や汗で、ひたいが冷たいのがわかった。服を着替えたかった。おとがいのあたりが汗でべたりとしていて。髪が張り付いて不快だった。楓は絞り出すようにつぶやいた。

「俺がここで死んだら、困るのはお前だぞ……。何か考えろ」

「え……?」

 外の雨は規則的な音だが、窓の外の雨樋が壊れていて、そこから雨水があふれるので、不規則に、びちびちと、地面を水が叩きつける音がした。台風の季節の前に直したいと考えていて、ずっと放置していた。ほかにも家屋はたくさんの痛みがあって、いつ瓦解してもおかしくない。まるで、今のこの状況のように。それに触発されたか否か、しばらくの沈黙の後に、レイはどうやらようやく事の深刻さに気づいたようだった。自宅に、殺人犯を匿っていた、まではまだましで、その遺体が見つかったとなれば、殺人犯は、今度は自分の方である。

 レイは右を見たり左を見たり、いかにもまずいといった表情で慌てて、しばらく落ち着かなかった。しかし、雨音が強くなった頃に、ようやく、ひどく小さな声で発言した。

「き、協力し、て」

「あ……?」

「切って、俺のこと」

 雨の音が煩くて、よく聞こえないはずなのに、楓にはしっかりとレイの声が届いていた。

「……」

「し、死なない程度ってか、その、大怪我じゃない程度に、それで、そしたら俺が、病院に行って、薬もらってくる。処方薬の方がいいと思うから……」

 レイも似たような考えだったのかと、楓はほんの僅かに、感動した。

 肘だけで上体を起こした所をレイがささえる。そうしてベッドにふたり、肩を並べた。楓はレイに、腕を出すように言った。互いの心音や、呼吸のリズムがはっきりわかる距離だった。レイの緊張が嫌でも伝わる。どのくらい切るか考えた。自分の腕を見るとちょうど切り傷の跡があって、たしか包丁の試し切りとか言われて切付けられた時のもので、そのくらいがちょうどいいだろうと思った。

「やるぞ」

「う、は……はい……」

 ぐ、とレイが目を固く閉じる。パチン、と、折りたたみ式のナイフが展開する。その目的を、携行から実用へと変えた時の音がした。

「!」

 レイが、本当にやるの、とか、心の準備が、とか言い出す前に、楓は行動した。

 ゆっくりとナイフをレイの腕に押し当てる。服の上から。じわじわと血が広がる。

「痛いか」

「いっ、い、痛い! 痛い! 痛いです」

「できるだけ、痛くなくしてる。もう少し、がんばれ……。汚れたビンで切ったとか、適当なこと言え。病院に行ったら、なんとか行って、多く薬もらってこい」

「うう〜……」

 縫わなくていいが、病院に行った方がいい程度に。楓が再びパチンとナイフを折りたたんだ音がして、レイは目を開けようとしたが、楓が静止する。手のひらで、レイの目を覆う。まつ毛がくすぐったいと思った。

「見るな。タオル巻いてやる。病院は近いのか」

「近い、です」

「行ってこい」

「……」

 レイは無言で立ち上がった。足早に部屋を去って行く。タオルで押さえてはあるが、血がのぞくのが見えた。楓は再びベッドに横たわった。

 ふー、と息を吐いて、痛みをやりすごした。ひと仕事終えたような爽快感があった。

 ……痛かっただろう。

 ……自分と同じような痛みだったのだろうか。

 ……金のためだけにここまでするだろうか。

 不思議なことに、毎日顔をあわせて共に寝起きして、さらにいろいろ世話までさせていたので、多少なりとも興味が湧いていたのである。さらに言えば、もっと深く切るとか、無理やり殴ったりする方法もあったのに、しなかったのである。それに、気がついてしまいそうで、けれどそうなると煩わしいことが起きそうで、楓はゆっくりと意識を手放した。


 この作戦は功を奏して、レイがもらってきた処方薬、特に市販されていない抗生物質は効果的で、次第に楓の腹の傷は回復していった。レイの腕も問題なく回復した。互いに傷が、残っただけだった。


——————


「俺、コンビニ行ってくるんですけど、いるものある……?」

「ない」

「……」

 奇妙な共同生活も慣れたもので、レイはもうさほど怯えてもいない様子で楓に話しかける。生来の性格か、ややお喋りで、嫌な客が来たとか、コンパニオンが吐いたとか、少々の愚痴を話す。黙って聞いた。

 それから、レイに金を渡すと、喜んでおつかいに行った。お釣り……たいしたことのない端金を貯めている。今日は公共料金の支払いに行くらしい。楓が、カバンの中の金を使えと言ったら、目を輝かせていた。

 腹の傷もだいぶ良くなった。そろそろ体を動かさないといけない。次の逃亡計画を考えなくてはならない。だんだんと外は夏の気配がして、きょうはまったくの快晴で、楓はうんざりとした。

 ……外の様子はどうだろう。

 ……自分は追われているのだろうか。

 ベッドから起きて、少し体を動かした。歩ける。ほっとした。そしてレイが家を出たしばらく後に、楓は、一階のバーへ向かった。まだ開店前だ。誰もいない。酒が飲みたかったのと、好奇心。バーはカウンター席が六席に、テーブル席もあってそこそこ広い。ここをひとりで回すのは大変だろうと思った。禁煙だとか暴力団根絶だとかのポスターが貼ってある。カラオケの機材に、ビールのサーバー、バケツや掃除道具。一般的な、ありふれたバーの様子。閉め切っていたのでこもった匂いがした。

 カウンターへ入る。シンクには灰皿があった。勝手に喫煙を始める客を注意できずにいる楓が思い浮かんだ。ウイスキーをいくつか見つけたので、ロックで胃に流し込む。その辺にあった乾き物も口に放り込んだ。入り口と反対側の勝手口を見つけて扉を開けた。バイクが駐車してある。レイのものだろうか? ……レイのことを、まだよく知らない。平凡な容姿に、能力。目先の金に目が眩んで、こんな自分を介抱するような所や、気弱なくせに度胸があるところ、突拍子もない行動をして見せたりと、一筋縄ではいかない男のように感じる時もある。邪魔にならないので、どうもしない。所詮は一時の付き合いで、自分がここを出ていけば関係は終わる。

 すると、突然、バーの電話がなった。

「!」

 近づくと、090から始まる番号が、ディスプレイに表示されているのがわかった。心当たりがあった。それを無視して、楓は二階へ戻る階段へ向かった。

「うっ」

 いきなり、ズキンズキンと、ひどい頭痛がした。

 この痛みにも心当たりがあった。なんらかのきっかけで、暴力を受けていた時のことを思い出すと、いつもこうだった。脇腹の傷の具合が良くなってきた。もう、行かなくてはならない。いつまでもここにはいられない。

 途中、二階へ向かう階段の窓から、外を見た時に、川沿いの遊歩道が見えた。中学生くらいの若者が、自販機でジュースを買って、東屋でたむろしていた。

 外の様子が気になった。世間は自分をどう扱っているのかを知りたい。レイの部屋にはテレビが無くて、新聞も取っていない。自分はスマホが無い。すると足音がして、レイが帰ってきたのとかち合う。手にはコンビニの袋。余談、レイは駅の中のコンビニへよく行った。自炊はしない。金が無くなるわけだった。夕食を買ってきた。当然、楓の分も買ってきた。

「あそこ」

「え?」

「遊歩道があるだろ。行ったことあるか」

「あ、えと、実は、ないです」

「……?」

 楓が気だるそうに睨むので、レイは答えた。

「最近整備されてできたところで、もとは何もない藪だったんだ。……俺みたいな地元のひとほど行ったことないと思う」

 レイはよく、地元、地元じゃない、そんなくくりで話をした。都会に憧れてを抱いている反面、それがコンプレックスになっている、楓はそう感じ取った。

 部屋へ入る。レイも付いてくる。荷物を置いて、去ろうとする。

「じゃ、俺、開店準備だから……」

「睡眠薬は」

「え……あ……!」

 一眠りするつもりだったので聞いたのだが、レイが焦り出す。慌てて部屋に入って、いつも薬を置いている棚を漁る。珍しい様子だ。しかし出てきたのは空の袋。

「あ、どうしよ、やばい。ない。……ない、かも」

 レイが怯えていたり困っているような場面は何回か見たが、ここまで焦っているのは初めて見た。レイは必ず睡眠薬を飲んで眠る。それも、明るくなってから。……何か、精神的な問題を抱えているのかもしれない。自分のように。

「えーと、今日はもう、店だし、だめだし、明日は……」

「どこで貰える」

「病院……こないだ、俺が腕切った時に行ったとこの……。えと、内科なんだけど、この辺のかかりつけで、たいていのことは診てくれるかんじだから、そういうのも、くれる」

 レイが言っているのは、駅とは反対の方向に歩いて五分ほどの清野医院という小さな診療所だ。普段は老人で溢れている。明日、レイが貰いに行けばいいだけの話なのだが、それでは間に合わない。なので、楓は別の計画を考えていた。

「病院は何時までだ。俺がもらいに行く」

「え、ど、どういう意味」

「お前のフリして行く」

「え、あの先生、清野先生、俺が子供の頃から知ってるひとだよ? てか、他人の保険証とか使うのは……」

「お前が前に言ったんだぞ」

「あ……そ……か……」

 レイは考えた。リスクがある。楓の正体がバレるかもしれない。通報されるかもしれない。……睡眠薬がない方が、まずい。

「あ、そうだ、なら、これ……」

 レイはいそいそと、コンビニの袋から、ヘアカラーの箱を取り出した。

「怪我治ったし、出ていくのかなって、で……髪切って、染めると……いいかなって買ってきたんだけど、良かった。今から、やれば、病院間に合うから……」

「……」

「お、お願い、します、ばれないように、気をつけて……」

 楓は大人しく箱を受け取った。洗面台にヘアカット用のはさみがあることは知っていた。使えるかどうかはわからない。はさみは苦手だった。




——————


 四、男がひとり 



 側溝は温泉の排水が流れているので、冷え込む朝は湯気がはっきりとわかった。温泉らしい匂いもする。レイの自宅はトイレや洗面所などの水回りの設備が路地に面していて、窓からは側溝が見える。今も硫黄めいた匂いがしているが、すっかり、楓の使ったヘアカラーの匂いでかき消されてしまった。

 しばらく観察してわかったことだが、レイの生活はつまらないもので、女っ気もなければ友人もおらず、若者らしくイベントや旅行に出かけるとかそういう派手さもなく、買い物をたくさんすることもなければ、自宅と職場の往復で、暇つぶしは本を読むことか、もしくはスマートフォンで動画を見ることくらいだ。楽しいことはないが、苦痛もない。安寧ではあるが、刺激はない。今何か抱えていることがあるとすれば、大金を持った殺人犯を匿っていることぐらいだった。

 さて、楓は、レイの提案通りに、髪を切って、真っ黒に染めた。ヒゲも剃った。洗面台の鏡を見つめる。やはりはさみが苦手で、手が震えて、髪を切る行程は上手くいかなかった。辺り一面が水で濡れているが、片付けるのは自分じゃない。鏡の周りの、これまた古臭いデザインの樹脂はとっくに黄ばんでいて、フローリングもかさついている。築年数が古いだけあって不便な家で、収納やコンセントが少なくて、窓も今時見ない昭和ガラスが嵌めてある。そこからの光源はひかえめで、やや頼りなく楓に降り注いでいる。

 鏡に映る自分は自分じゃないみたいで、新鮮だった。

 ……レイに似ているような気もした。


 レイから預かった財布を漁ると、マイナンバーカードが出てきた。写真はたしかにレイだが、短い黒髪の男性、という括りなら、今の自分と相違ない。楓は、クローゼットから勝手にレイの服を借りて、靴を借りて、久しぶりに外へ出た。靴だけはやや小さかった。楓なりにコーディネートもしてみたので、マスクをして、あとは、できるだけ普通のふるまいをするだけ。

 まず、バーの周りを確かめた。先日見た、川沿いの遊歩道へ下るゆるやかな坂がある。バーの前もゆるやかな坂で、隣は緑色の外観の、古い旅館。向かい側は大きな廃旅館で、入り口にはチェーンがしてある。道が細く別れていて、バーから見まわしただけでも、歯医者、銀行、さらにほかの旅館、居酒屋などがうかがえた。道路は狭くて一方通行が多くて不便で、しかしこの駅前あたりに、昔ながらの主要な施設が密集している。少し離れた交通の便の良い所に消防署は移動した。市役所も。ほかは頓挫した。

 深呼吸をする。人通りはない。夕方だがまだおだやかな日和で、平和ボケしそうなほど、何もない。清野医院の場所は聞いていたので、真っ直ぐに向かう。自分が追われていることは知っている。それでも、外に出て、外界の様子を見ると気分が良くなった。自分の境遇を考えると、窓越しじゃない本当の空はまだ数える程しか知らない。気分も良いはずだった。それからこれは、怪我のせいでしばらく閉じこもっていたので、外へ出て、真っ当な人間然とするためのささやかな訓練でもあった。

 小さい本屋の前で立ち止まる。新聞をちらりと覗いたが、メジャーリーガーのなんとかどうのとか、西日本の豪雨がうんたらとか、自分については載っていない。この辺の事件としては、先日の白骨遺体の一部が見つかった件ばかりが取り上げられていた。新しいショッピングモール建設は市長肝入りのため、些細なことも大々的に公開して広く情報を集めているらしく、楓の件はあくまで家庭内でのいざこざなので後回しにされているのかもしれない。楓にとっては好都合だった。新しく、胴体の骨や、衣服が見つかったらしい。この件がもっと、自分を守ってくれればいいと、そう思った。新聞を戻す。

 道に戻ると、腰の曲がった老婆がぺこりと頭を下げてきた。……マスクをしているせいだろうか、おそらく、自分をレイと間違えた。そう解釈することができた。老婆はこんにちは、こないだはどうもね、と言った。ええ、と適当に返して別れた。レイだったら、談笑くらいはするのかもしれない。普段あんな風に町にとけこんでいるのか。自分には可能性もありえない生活。穏やかな陽気につられてか、散歩をしているようなひとも見受けられて、他人からは自分もあんな風に見えているのかと想像した。

 まるで別の人生を歩んでいるかのように、足取りは軽やかだった。そのうち、古い診療所が見えた。外壁の一部がレンガ調で、窓はすりガラス。清野医院と書かれた立体的な看板は所々はげている。

 中へ入って、受付をする。レイが子供の頃から行っている、と話していたことがあるのでバレるかと思ったが、受付の年配の女性はこちらを見ることとなかった。マイナンバーカードでの受付は機械を使ったのでバレなかったのかもしれない。狭い待合室は、薄いピンク色の壁紙に、水色のソファで、老人たちは皆知り合いのようで、ぺちゃくちゃとおしゃべりに夢中だった。井川レイさん、と呼ばれて、診察室へ向かった。


「井川さん……あれ……はぁ……」


 医者は小太りで、初老だった。メガネで白髪。レイを見るなり悪態をついた。いやみたらしい表情をしていた。

「あのねぇ、前にも言ったけどね、他人に保険証使わせたりするの犯罪なんだよ、わかる?」

 ……バレている。

 思わず眉間にしわがよった。

 どこまで、バレただろうか。周りを見回した。もしもの時は逃げなくてはならないから。窓はある。簡易的なベッドに、薬棚、体重計……。病院はどうして病院らしい匂いなのだろうか。匂いだけはどこも同じ。

「井川さんにもそう伝えてね。この辺のひと、ほんと常識ないんだから」

 医者はぶつぶつと心情をもらした。これは後から知ったことだが、この辺の温泉旅館、ホテルなどは厳しい勤務体系からも寮があるのが当たり前で、学歴も問わないし三食付くので脛に傷のあるものや流れものなども受けいれるそうで、こういった例は珍しくないことだそうだ。しかし、この医者は楓の正体にまでは、そもそもにして興味がないようだった。診察は流れ作業的でじっくり相手する気はないという態度が見て取れる。

「睡眠薬を」

「はいはい……。あれ、この間来てるね、あれ、それは君だった? 井川さん? まぁどっちでもいいか」

「それは、もう治った」

「血は争えないよなぁ」

「!」

 医者の言葉がひっかかった。レイのことだろうか。

「ほんと、井川と言ったらねぇ、お父さんもそのお父さんもやんちゃでね。酒にタバコに、バイクもうるさいし。なんとかならない? 君もそっち関係? バーで客とケンカして、診てくれ、なんてしょっちゅうだったし。何でもいいけど、トラブルはやめてね。僕は父とは違うんだから」

「……」


 ……医者の語るレイの肖像は、楓の知るそれとは明らかに乖離していた。


 レイはタバコを吸わない。バイクも使っているのを見たことはない。

 レイの顔が頭に浮かぶ。控えめな笑顔。

 ……嘘をついている? 献身的な態度、おどおどした様子、あれらはまさか、演技だとでも言うのか。

 とたんに不安になって、薬をもらえるまで落ち着かなかった。急いで出て、小走りでバーへ戻った。バーは営業中でカウンターに数名ひとがいた。メニュー表が外にもあって、その辺がちょうど出入り口で、全面がガラスなので、楓が戻ってきたのがわかったのだろう。接客を中座して、レイは外へ出てきた。白いシャツ。足首までの長いエプロンは邪魔そうだった。

「だ、誰かと思った。染めたんだ。あの、も、もらえたよね? 睡眠薬」

 睡眠薬を見せる。レイはひどく、安堵した表情になった。

「来い」

「え……な、なに」

「……」

 楓はレイの腕を掴んで、店を右手に回ってバーの裏口へ引き摺り込んだ。バイクがあって、狭くて邪魔だ。互いの足がもつれてレイがバランスを崩したのをいいことに、所々穴のあいたトタンに、レイを強く押し付けた。にぶい音がする。

「どういうことだ」

「えっ」

 胸ぐらを掴む。

「その態度は演技かって聞いてんだよ」

「え? ……?」

 レイはぽかんとした表情をしている。これも演技なのか。

「病院に行った。聞いたぞ。井川さんはやんちゃで、タバコだのバイクだのケンカだの、そういうのだってな。今のお前と随分違うな? 目的は何だ? 俺を懐柔するつもりか? 金か?」

 楓がまくしたてる。てっきり、怯えて、言い訳を始めると思ったが、みるみるうちに、見たこともない不機嫌な表情に変わった。

 昼間はあんなに晴れやかだったのに、天気予報の通りに、夜はやや冷え込んで肌寒くて、そして曇り空。もうすぐ雨が降る。一晩中降るらしい。

「……それ、清野先生の、若い方の先生でしょ。言ったの」

「……」

 若い。これは、レイの説明不足であったが、この町では、七十代前半くらいまではまだ若手扱いだ。当然先ほどの医師……五十代の人間もその範囲に括られる。

「俺のことじゃないよ。俺の名前はっきり出した? まぁ、出してもわかんないだろうけど。てか、それは、俺の父親のこと。あと祖父」

 レイが、楓の腕の辺りを押す。

 楓は、服から手を離した。

「……あなたはどこから来たの? 都会でしょ、どうせ。だからわかんないんだよ。いい?この辺じゃね、若い子とか子供はね、みんな、誰々の息子です、とか誰々の孫です、みたいな感じで自己紹介しないと通じないの」

「……」

 楓は黙って聞いていた。病院での回想を思い出す。レイという名前は出さなかった気がする。医者は早口で、めんどくさそうな態度で、目も合わなかった。

「この辺で井川さんって言ったら俺の祖父か父のことだし。どっちもとっくに死んでるけどね。何にせよ、間違いだよ。あなた、俺と生活してて、俺が一度でも、タバコ吸ったりした? 俺免許あるけどペーパードライバーだし」

「……そのバイクは」

「これ? 俺興味ないよ。うるさいだけでしょ。もう乗れないんじゃない? 知らないけど。……どいてよ」

「あぁ……」

 自分の勘違いだったのかと、楓はばつが悪そうにする他なかった。

「はぁ……」

 ため息をついたのは、レイの方だ。

「出ていきたい……」

「……」

 いつのまにか、雨が降っていた。鋭い針のような、小雨だった。地面が少しづつ黒く染まっていく。

「都会に行きたい。こんなところにいたくない……」

 レイはうんと低い声でそうぼやいた。

「……父親が嫌いなのか」

 楓が問う。初めて、個人的なことを聞いた。

「……大っ嫌いだった。祖父もね。昔の育てられたかたした田舎の長男坊だよ。わかるでしょ」

 わかる、と言いかけて、楓は言わなかった。わかる、というその部分は、そこじゃなかったから。


 レイは、いつもより態度が悪かった。明らかに楓のせいだった。

 これ以上、会話は無かった。

 いよいよ暗くなった空はそのままに、レイは店へ戻った。楓も、部屋へ戻った。



——————





「あの、すみません、うちは十八歳未満の入場はお断りしてるんです」


 レイは店先で、懇切丁寧に対応をした。

 楓と揉めた後店に戻り通常通りの勤務を続けた。二十二時を過ぎた頃、乳幼児と、幼児をつれた家族が入店しようとした。レイは上記の通りに断ったが、父親の方が、難癖をつけてきた。もう雨は上がっているが、濡れたアスファルトの匂いと肌寒さが残っていて、レイも何となく疲れていた。早く帰りたい。


「どこにそんなこと書いてあんの? 法律で決まってんの」

「条例で……そこに、書いてあります」

「はぁ?」

 県の条例で、居酒屋やバーなど、酒の提供がメインの店は届出が必要で、かつ、十八歳未満の立入に関しては制限がある。レイの店も、当然遵守している。

「お兄さんの言い方がね、悪いと思う」

「入るなりさぁ、出て行けみたいな態度だったよね」

 父親に同調して、母親の方もレイを責めた。他の接客もあるので、切り上げたい所だが、タチが悪い。県が、宿泊客への割引クーポンをたまに配る。するとこういう、普段の客層とは違うタイプが観光に来て、トラブルや警察沙汰が増える。このあたりは、子供が入れるようなファミレスチェーンなどはない。田舎の温泉街なので当然だが、大きな商業施設や娯楽施設もない。子供連れの楽しい場所ではない。そのうち子供がぐずりはじめて、父親は苛立ちをレイへぶつけた。

「謝れや、なぁ」

「はい、申し訳ありません」

 レイは深々と頭を下げたが、男は引き下がらない。

 面倒なことになったと同時に、ふと、楓を思い出した。

 今日、楓は髪を切って、染めて、レイになりきって、病院へ行った。近寄った時にまだほんの少しヘアカラーの特有の匂いがして、容姿よりもそのことが、楓が別人になったと感じさせた。

 どんな気持ちだったろう。殺人の容疑者としての自分をで偽り、普通の平凡な人間として町に紛れ込むのは。薬をもらってくるのに成功したわけだから、彼は疑われなかった。つまり、レイに成り切るのに成功したのだ。

 ……自分も、楓に、なれたら。

 殺人事件の犯人という情報を抜いても、楓は、レイよりも強気で、実際にたくましく、レイのように、いかにも舐められるような雰囲気ではない。いかにも男らしい感じで、格好いい。

 ……自分もあんなふうだったら。自分が、楓だったら。ああいう容姿や言葉使いだったらそもそもにしてこんな事態にはならないのではないか。自分がこんな目にあうのは、自分のいかにも気弱そうな容姿や態度が原因なのではないか。

 ……自分も、楓に、なりきってみることはできないだろうか。

「いやほんと舐めてるわ、舐めてる。お兄さんさ、あーもう、最悪、どうすんのほんと」

 うろうろしながら悪態をつく男、同調する母親、泣き喚く子供。

 すぅ、と深呼吸をした。

 そしてレイはすべて無視して、バーの入り口へ戻り中に入って思い切り、ドアを閉めた。ガン! と、とんでもない音がした。鍵を閉める。最初は男のほうが何かを言っていた様子だが、防音なので、よく聞こえない。レイは無視をして、他の接客へ移った。そのうち、家族はいなくなった。

 他の客にトラブルかと聞かれ、レイは、クーポンの利用で、客層が悪いと伝えた。常連客は納得した様子で、うちもだと答えた。


「ふぅ」

 ……悪くないかも。

 楓のふり。とまでは言わないかもしれない。それでも、状況をなんとかできたし、何よりすっきりとした。トラブルがあってもいつも、何もできずに謝るだけの自分ではなく、相手にあわせた相応の対処ができたのだ。


 また、何かあったら、楓になってみよう。

 楓の方が、都合がいい時に……。


 いつも通りに勤務を終えて帰宅すると、楓は眠っているようだった。先程の出来事を話してみたかった。どんな反応をするだろうか。普段、レイが雑談や愚痴をこぼすと、楓は黙って聞いている。無視とは違って、返答や合槌こそないものの、聞いてくれているのがわかっていた。

 ……この奇妙な生活はいつまで続くのだろう。楓が起きないように、物音を立てずに行動した。そっと、靴箱の上に鍵を置いて、靴を脱いで、室内干しの洗濯物の間を通り抜けてクローゼットへ。

 すると楓がとても、とても小さな声でぼやいた。


「……何で、俺に良くした。金か?」


 レイは驚いて、楓の背中を見た。

「な、なに、今さら……」

 楓は反応しなかった。

 こうしてふたりの一日が終わった。




——————




 五、男がふたり



『なんで、俺に良くした?』


 翌日。レイが普段のルーティン通りに寝たり起きたりしても、楓は眠ったままだった。

 レイの中で、楓の言葉が、何度も繰り返された。

 もちろん、不順で矮小な動機があった。客観的に、リスクに見合わないと言われれば、それまでだ。レイはバーの鍵を開けて店へ入った。ここからは、考え事をしていても体が勝手に動く。照明、音響、昨日の片付け……いつもと全く同じ開店準備をする。いつもと同じ、ひとりきりの足音。今日は予約が入っている。近くの警察署の集まりだ。コンパニオンも来る。人数分のおしぼりを置いて、コースターを置いて、テーブルの真ん中には乾き物のセットを置いた。自分の腕を見ると、一筋の切り傷があった。治っているが、跡になった。

 すると、まだ開店前なのにカランカランとドアベルが鳴る。

「あれ?」

 来たのは、今夜の予約を取り付けた大谷だった。

「よ、井川ちゃん、おつかれ、ごめん、人数増やせる?」

「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」

「畑山のヤツの息子が結婚するってんで、飲ませてやりたくてね」

「そうなんですね」

「コンパニオン連れてくるからさぁ、紹介してあげるよ、奥さんには秘密ね」

「あはは……大谷さんは、若いですね」

 大谷はレイのお世辞に喜んだ。ぱんぱんのビール腹。話が長い。人生には刺激がないとねぇ! と背中を叩かれた。薄っぺらい自分の体とは違う手にエネルギーとか、人生の積み重ねなんかを感じた。

「じゃあ、あとでね」

「はい。お待ちしてます」

 大谷は去っていった。……楓に警告しなくてはならない。ひとりならともかく、複数の警察の集まりでは、万が一もありえる。レイは最近は一応はネットのニュースや新聞を見てはいる。不思議なことに、やはり楓の話題にたどり着くことはなかった。テレビもネットも芸能人が結婚したとか、アメリカの政治がどうのとか。自分の人生に関係のない、他者の話ばかり。これは幸か不幸か。ショッピングモールでの事件は毎日のように客が話題にしていたが、家出少女だのパパ活だの、眉唾な噂ばかりだった。

 レイは二階へ向かった。楓はまだ寝ているだろうか?

 昨日、揉めて以来、楓とは会話をしていない。それでも、声をかけなくてはならない。もう雨は上がったのだから、気持ちを切り替えなくてはならない。

「あの……ちょっと……」

 ドアを開けて声をかける


「!」


「……何だ」

「あ……」

 レイは驚いた。楓が、遠出するような準備をしていたのだ。

 シャツに、上着、帽子。荷物をまとめている。夕方の、オレンジと紫の空からの逆光で、表情は見えない。

「……どっか行くの」

 聞くな、と思ったが、それ意外の言葉がなかった。返ってくる答えは、わかっていたのに。

「もう行く。世話になったな」

「……そ、か」

 これは、本来であれば、喜ばしいことのはずだった。トラブルメーカーがいよいよ消えるのだ。平穏な日常が返ってくる、それだけのこと。しかし、レイは心の中で確かに落胆していた。はっきりとわかった。

「いくらいる」

「えっ」

「いくらかは、金を置いていくから」

「……」

「お前のおかげで助かった」

 本当に、金が欲しかったのだろうか。レイは自問自答した。おつかいのお釣りに、たかが数百円数千円に喜んで、そのためにここまでしていたのだろうか。余計なケガをして、不正を黙認して。

 人生は刺激がないとね、か。先ほどの会話を回想した。

 本当は……。


 部屋の中で、天を仰いだ。この部屋の中で唯一三十三年間変化のない木目の天井が、レイを見つめていた。

 レイにはあっさりと、答えが出た。いや本当は、はじめから答えは心の中にあった。わかっていた。気が付かないふりをしていただけ。


 ……きっと自分はこの非日常を楽しんでいたのだ。


「で?」

「え……?」

「聞いただろうが。昨日。何で俺に、ここまで尽くしたんだよ」

 楓はしゃがんで、金の入ったカバンから、札束を出して、テーブルに置いた。もっといるか? と続けた。ひとつの束が百万円だとして、レイにとっては目のくらむ大金だった。

「い、らないよ……」

「あ?」

「……」

 楓がレイを見上げた。

 レイは見たことのないような表情をしていた。

「楽しかったわけじゃないけど……と、特別な、人間になれたみたいなそんな感じで……悪くなかった、から」

「……」

「わかるでしょ……。俺の生活、つまんない感じだったでしょ。そこに、あなたが現れた。それで、この町の、平凡な奴らとは違う、自分は……違うんだって、思えたから……」

 だから、楓に協力していた。

 今ならはっきりとわかった。いい年して、悪い予感に胸を躍らせて、自分でコントロールしきれない状況に転がされるのを、楽しんでいたのだ。毎日変わらない何の面白味もない見慣れた部屋にいる、イレギュラーな存在、楓。大金を持った殺人犯など、絵本の中に出てくる魔法使いなんかよりもずっとずっとファンタジックで心踊る存在だった。そしてその共犯が自分。自分だったのだ。

 選ばれた、そんな気分だったのだ。

「あのさ」

「……」

「今日、これから警察のひとたちの集まりだから、行くなら早くした方がいいよ。……もしくは」

「……」

「もしくは、もう一晩いる……とか。どっちでも、いいけど。じゃ……」

 レイは楓の顔を見ないで、その場を去った。

 さよなら、は言えなかった。


 開店とともに警察の飲み会が始まって、騒がしくなった。楓のことを考えてしまうので、ちょうど良かった。仕事を終えて部屋に戻るのはきっと二十四時を過ぎる。魔法は解けているのか、それとも。……まだ期待している。そんな自分を自嘲した。ガラスの靴なんて持っていないのに。

 ビールグラスが足りない、炭酸水が足りない、次にやることを計算しながら体を動かしていると、カウンター席の椅子にコンパニオンが座った。

「水もらえます?」

「はい、えーと」

「氷無し。薬飲みたいから」

「お待ち下さい」

 レイは言われた通りに水を提供した。コンパニオンは胃薬を飲み干した。そのまま席へは戻らずに、カウンター席に座って、レイを見つめた。不自然なつけまつげと、涙袋のメイク。カラーコンタクトのせいで視線がかちあうことはない。

「ね、私、前も来たよ。覚えてる?」

「……あー、すみません。コンパさんはけっこう見るので……」

「えー、もう」

 名刺をもらう。所属するコンパニオンの会の名前、源氏名、電話番号……。興味はない。生返事で笑顔で受けとって、終わりのはずだった。

「おい」

「え」

「てめぇ、何、俺の女にちょっかい出してんだ」

 コンパニオンの横から、男がレイに絡んできた。これがたしか、大谷の言っていた畑山とかいう警察官だ。

「そんなつもりは」

「水貰っただけだよー」

 レイの反論に、コンパニオンも同調した。だが。

「ちょっと表出ろや兄ちゃん。な、ふたりで話そうや」

「……」

 面倒な展開になった。コンパニオンは、やめなよ、とかそんなんじゃないよ、とか、畑山をなだめようとしているが、逆効果だった。レイにとっては割とよくある展開でもあった。こういった男の集まりで、暴力的な揉め事は珍しくない。普段どんなにまともな社会人然とした演技をしていても、人間性の内側に隠された、問題を起こすことで仲間に力を誇示しようとするホモソーシャルな面が、酒の力で表に出る。人間は所詮は猿だ。

「やめろ畑山」

「ひっこんでろ!」

 大谷が仲裁に来たのを、畑山が大きな声を出して反抗した。すると、遠くの席でわいわいとしてた他の警察官たちも驚いて、しん、と場が静まり返る。ふたりの力関係は知らないが、異変は確実に伝達した。密室に多人数が集まった時の特有の匂が、酒やら何やらの匂いと交わっている。有線は昭和の名曲を流し続けている。夜の店は往々にして、こういった宿命にある。レイは、この仕事を嫌っていた。

「畑山、飲み過ぎだ、まぁまぁ。井川ちゃんも謝るよ、な、井川ちゃん」

「はい、もちろんです」

 大谷の他にも数名が、揉め事になる前に止めようと努力をした。畑山に近づく。なだめる。

 レイはカウンターから出て、すみませんでした、と頭を下げた。たとえ自分に全く非が無くても、謝罪することはよくある。まったく無感情だった。形ばかりの謝罪。コンパニオンは、他のコンパニオンに目配せをしていた。大事になると予感していたのかもしれない。大谷が、レイちゃんが謝ったならこれで終わりな、と言った。しかし畑山はますますヒートアップした。

「舐めてんのかコラ! 外出ろって言ってんだろ‼︎」

「!」

 畑山が、レイの腕を強く掴んだ。そのままレイに殴りかかろうとした。寸前……レイはぐ、と目を閉じた。コンパニオンが、キャーと悲鳴を上げたのがわかった。しかし、衝撃は来なかった。

 その代わりに、う、と畑山の、鈍いうめきが聞こえた。


 目を開ける。


「!」



 目の前に楓が、いた。


 楓が畑山を殴ったのだ。

 レイを助けるために。

 それはまるでスローモーションのように、レイの目に焼き付いた。店内は薄暗いはずなのに、楓の周りだけが光に包まれたかのように白く飛んで見えた。


 少し遅れて、がたーん、と椅子やらグラスやらを巻き込んで畑山倒れて、物が落ちたり割れたらするけたたましい音がした。


「あっ、あ⁉︎ えっ⁉︎」

「……大丈夫か」

「だっ、大丈夫だけど、ばか! 相手、警察」


 当然楓は本気ではなかったので畑山は軽傷で、すぐに起き上がり楓に飛びかかろうとした。大谷やら他の警察官やらが腕や肩を掴み数人がかりで抑えた。畑山があまりに喚いて暴れるので、皆、楓を見てはいなかった。

「い、行って、はやく」

 レイは楓に逃げるように促した。退店させて、二階へ戻るように言う。騒ぎを聞きつけて、喫煙のために外へ行っていた仲間が戻ってきたり、コンパニオンが勝手にカウンターのお中に入って氷を用意したりして殴られた畑山を介抱する。そんな騒ぎのどさくさにまぎれて、楓は店を去った。

 しばらく騒動は続いた。場はお開きなって、全員が徒歩かタクシーで帰宅した。警察官が酔って喧嘩では当然話にならないので、大谷の方から緘口令が敷かれた。

 大谷に、殴った男について聞かれて、レイは、最近泊めている友人と答えた。妙に頭が冴えてきて、友人を呼び出して畑山に謝りに行かせる、と、思ってもいないことを提案したら、大谷は案の定、今日のことは無かったことにしたいので、互いに不問にしたい、と申し出た。レイは快諾した。

 店を閉めて、レイは楓を探しに出かけた。まだ、いる。そう思ったから。店内はひどい有様で、椅子が倒れて脚が外れているし、割れたグラスや乾き物が散乱している。有線を切ったり、電気を消したり最低限のことだけをして鍵をかけて、裏口を出て、部屋から見える川沿いの遊歩道へ向かった。



「……」

 楓がいた。川を背に欄干に腰掛けている。何故か、ここにいると思った。

「……」

 楓も、レイに気がついた。

 ちゃんと、正面から目があったのは初めてだったかもしれない。

「……ばか」

「助けてもらったヤツのセリフかよ」

 うつむいているはずなのに、楓が少し笑ったような気がした。

 川のせせらぎは昼も夜も変わらない。今は歪んだ月と、旅館の窓から溢れるにぶい灯りをを反射している。遠くに、なけなしの観光客の声がした。夜風の匂いがした。

「ここはじめて来た」

 レイは楓の隣へ来た。実際に、本当に初めて来た。

「ん」

「なにこれ」

「買ってみたかったから」

 楓が、缶コーヒーを差し出す。

「俺コーヒー飲めない」

「もう小銭ねぇよ」

 部屋に戻れば大金があるのに、今ここで缶ジュースのひとつも買う小銭がない。そんな、いびつで不思議な状況が、笑える。今はもう心地良くすらあった。缶コーヒーを開ける。苦い。コーヒーをおいしいと思ったことがない。

「ね、なんで行かなかったの」

 レイが問う。コーヒーを楓に返した。楓はコーヒーを一口飲んでから答えた。

「……さぁ」

「あなた本当に人殺したの」

「……」

 多分、と、小さい声で、楓は答えた。


「俺には……問題がある」

 え、とレイは聞き返した。

「記憶がないんだ。……というか、記憶が、たまに途切れる。昔から。で、いつのまにか違うところにいたりとかして」

「そう、なの、……?」

 レイは楓の兄だと名乗った、達也のことを思い出した。弟は精神的に問題を抱えていると言っていた。

「昔から……ガキの頃から、ブン殴られてたのは、覚えてる。多分、親父だと思う。そのせいだと思う」

 つまり、幼少期から虐待を受けていて、そのせいで精神的に問題を抱えている、それが、記憶障害である。そう言う話だった。それはまぎれもない、楓の過去の告白。

「大人になってからも、ずっと監禁されたりとか、してた。で……気づいたら、目の前に、両親の死体が転がってた」

「……!」

「……俺がやったかは、わからない」

 けれど、逃げるしかなかった。そして、今に至る。

「思い出そうとすると頭痛がして……無理なんだ」

「そっか……」

 じゃあ、あなたじゃないかもね、とレイはぼやいた。

「俺が殺人犯じゃなくてもいいのかよ。つまんないんじゃねぇのか」

「別に。容疑者ってだけで十分おかしいよ」

「お前は」

「ん?」

「フツーの人間は睡眠薬飲んで明るくなってから寝たりしねぇんだよ」

「あー……まぁ、そうかも……」

 レイも問題があると楓は仮定していた。それは、鬱屈した日常からくるうつだとか、その程度のものだとら考えていた。要するに、環境を変えれば、なんとかなると考えた。

 ……なんとかしてやりたいとも、考えた。

「一緒に」

「……え?」

「一緒に、来いよ。どこがいい」

「……」

 いつもはどこを見てるかわからないような覇気のないレイの瞳が、大きく見開かれていた。対岸の建物の人工の光を取り込むそれが、真っ黒ではなくて、暗めのブラウンなのだと楓は気がついた。

 レイの反応がいまいちなので、楓は少しむすっとして続けた。

「おい、お前が出ていきたいって言ってたんだぞ」

「え、あ、それは、そうなんだけど……。え? え……え? 今、ってか……え? 本当に?」

「本当に」

「うそ……」

 どこでレイを気に入ったのか、ぼんやりと、楓は思索した。もちろん、これからも、ひとりで逃亡する気だった。顔が割れるリスクを犯して、警察の集まりの前に顔を出した。レイを助けたかったから。

 考えたいけれど、隣の旅館の室外機の音だとか、ボイラーの音だとかがやかましくて、楓は考えるのをやめた。思いつかない。理屈じゃないのかもしれないし、もしかしたら、まともな人間と接近するのが初めてだから、距離感を見誤っているのかもしれない。気の迷いかもしれない。それでも、かまわない。空を仰ぐ。星が遠い。昔の人間ってはどうやってあれを道標にしたのか。今となっては風の前の塵同のように弱々しく見える。自分はもっと遠くに逃亡するつもりだった。何かの縁できっと今ここにいる。星の導き。楓にしては珍しく、感傷的で抽象的なことを考えた。

「あのさ……」

 レイが話し始める。声がわずかに震えているように感じた。

「……」

「俺は、こんな生活嫌で……ずっと、出ていきたいと思ってて、けど、そんな力とかなくて……」

「……」

「いつか、何か、劇的なことが起きて、夢が叶うって、そうなればいいなって……」

 同時に、それが幼稚なお姫様願望めいたものであるとも、理解していた。何も、起きない。自己憐憫にもってこいの病気の恋人だの、大金のあるあしながおじさんや、自分だけが認められる世界。そんなものは全部フィクションだ。

 レイが俯いて、ぽつりぽつりと話す。口元がどことなく、笑っているように感じられた。

 同意はもはや必要なかった。明日からも、きっと、ふたり。

「荷物、いるやつだけ纏めろ」

「うん」

「明日、行こう」

「うん」

 もう日付は回っていて、楓の言う明日はすぐそこだった。夢が叶う。人生が変わる。あとのことはどうでも良かった。違う景色が見たかった。海が見たかった。ここじゃない人混みの雑踏を感じてみたかった。風を浴びたかった。いい気分になりたかった。




——————

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