第九話:本物と、本物のようなもの
ワゴン車がレインボーブリッジを渡る。窓の外に広がるのは、半年前に逃げるように去った、あの無機質な摩天楼だ。しかし、今の明菜と志乃の瞳には、都会の光を撥ね退けるような、静かで強い光が宿っていた。
「……見て、あれ」
志乃が指差した先、巨大なビルボードには、眩いばかりの笑顔を浮かべた新進気鋭の若手アイドルグループが湯気の立つお椀を掲げている。
『サンライズ・フーズ謹製:伝統の味・一汁一菜シリーズ。時間を超える、本物の安らぎを。』
それは、明菜たちが旅先で見てきた泥臭い風景を、高精度のフィルターで濾過し、清潔にパッケージングしたような、完璧な「商品」だった。彼らは、明菜たちが拒絶した抽出エキスと保存料の塊を、「伝統」という名の衣で包み、全国の食卓へ送り込もうとしていた。
「私たちの旅を、あんな風に利用するなんて……」
悔しさに唇を噛む志乃に、悠里が背後から冷徹に告げた。
「資本主義は、いつだって『本物』を飲み込み、それを効率よく消化しようとするわ。彼らは今夜、この東京のど真ん中で、数千人を集めた大々的な『伝統食フェスティバル』を開催する。HI-TECHとして、そこに乗り込みなさい」
「乗り込む……道場破りのようなことですか?」
「いいえ。並んで店を出しなさい。彼らは最新の化学とマーケティングを駆使して、誰にでも好まれる『最高に美味しいとされる味』を無料で提供するわ。あなたたちは、これまで通り、一汁一菜だけで立ち向かうのよ。判定を下すのは、現代の味覚に汚染された、都会の消費者たちよ」
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会場は、銀座の超高層ビルの屋上特設ステージ。
サンライズ・フーズのブースは、煌びやかなレーザー演出と、大音量のBGMに包まれていた。最新の加熱什器が並び、マニュアル化されたスタッフが、完璧なタイミングで「再現された伝統」をカップに注いでいく。
対照的に、HI-TECHのブースは、持ち込んだ薪と、龍三の削り器、そしてあの「火の国大根の種」から育った泥のついた野菜たちが並ぶだけだった。
「さあ、皆さんも食べてみてください! これが日本が誇る、新時代の伝統食です!」
サンライズ・フーズ側のアイドルたちが歌い、踊る。その味を口にした観客たちは、「美味しい!」「これが本物の出汁なんだね」と口々に称賛し、SNSに次々と投稿していく。彼らの「出汁」は、人の脳を直接刺激する旨味成分が科学的に最大化されており、一口で強烈な快楽を与えるように設計されていた。
一方、明菜たちのブースに並ぶ人は、ほとんどいなかった。
「……明菜さん、どうしよう。誰も来てくれない」
焦る志乃に、明菜は静かに微笑んだ。彼女は、龍三の削り器を手に取った。
「志乃ちゃん。今夜は、私たちの旅を全部、この音に込めるの。……いい?」
明菜が削り器に鰹節を滑らせた。
「シュッ……シュッ……」
喧騒の中に、小さく、けれど鋭い音が響く。その音は、都会の騒音を切り裂くように、どこまでも清らかに、真っ直ぐに伸びていった。
「志乃ちゃん、歌って。あの、海の底で聴いた歌を」
志乃が目を閉じ、マイクなしで歌い始めた。マイクを通さない彼女の地声は、スピーカーから流れる大音量の電子音よりも、ずっと深く、人々の鼓膜を震わせた。
その歌声と、削り節の音に誘われるように、一人の老紳士がブースの前に立った。彼は、サンライズ・フーズのカップを片手に持っていた。
「お嬢さん。その不器用な音、久しぶりに聴いたよ。一杯、頂けるかな」
明菜は、丁寧に引いた鰹出汁に、ほんの少しの麦味噌を溶き、一本の大根をじっくりと煮たものを添えて差し出した。
老紳士は、一口、汁を飲んだ。そして、持っていたサンライズ・フーズのカップを、そっと足元のゴミ箱へ置いた。
「……ああ、これだ。これには、記憶が入っている」
「記憶……ですか?」
「サンライズさんの味は、確かに美味しい。だが、三口目には飽きてしまう。そこには『驚き』しかないからだ。だが、あんたのこの出汁には『赦し』がある。一日の終わりに、自分の身体を肯定してくれるような、静かな熱があるんだ」
その老紳士は、日本屈指の食文化功労者だった。
彼の言葉を皮切りに、一人、また一人と、観客たちがHI-TECHのブースへ足を運び始めた。
「……何、これ。味が薄いと思ったのに、後からどんどん、色んな情景が浮かんでくる」
「今まで食べてたのが、いかに『刺激』だけだったか分かる気がする」
サンライズ・フーズの担当者が慌てて叫ぶ。
「デタラメだ! 私たちの製品の方が、成分分析上、旨味数値は三倍も高いんだぞ!」
しかし、一度「本物の温度」に触れた人々は、もう戻らなかった。
都会の真ん中で、数千人が静まり返り、一杯の味噌汁を慈しむように飲む。そこには、派手な演出も、巧妙なマーケティングも存在しなかった。ただ、一人の人間が、一つの食材と向き合い、命を繋ごうとする切実な祈りだけがあった。
悠里は、その光景を配信カメラで世界へ向けて発信していた。
「……見てなさい。これが、HI-TECHの、そして食の真理が、巨大な資本に勝利する瞬間よ」
配信のコメント欄は、かつてないほどの静寂と、それに続く深い感動の言葉で埋め尽くされていた。
夜が明ける頃、フェスティバルは終わった。
ゴミ箱には、大量のプラスチックカップが捨てられていたが、HI-TECHのブースには、空になった大釜と、使い古された削り器、そして観客たちからの、数えきれないほどの「ごちそうさま」という言葉が残っていた。
明菜は、朝日に照らされる東京の街を見つめ、志乃の肩を抱いた。
「志乃ちゃん。私たち、ようやく辿り着いたね」
「うん。……でも、明菜さん。一汁一菜の旅は、これで終わりじゃないでしょ?」
明菜は、懐に残っていた最後の、あの「火の国大根の種」を一粒、手のひらに乗せた。
「ええ。世界中の、まだこの味を知らない人たちへ。……次は、どこへ行こうか」
一汁一菜の聖域。
それは、特定の場所にあるのではない。
心を込めて出汁を引き、大切な誰かのためにご飯を炊く。その場所こそが、世界で最も尊い、彼女たちのステージなのだ。
(第一部・完)




