第七話:無菌室のメロディ
九州の赤土を離れ、HI-TECHのワゴン車が辿り着いたのは、関東近郊に突如として現れた巨大な白亜の建造物だった。そこは、最新鋭の「完全密閉型・AI管理植物工場」を運営する、アグリ・フロンティア社の心臓部だ。
今回の「炊き出しライブ」は、地域共生を掲げる同社からの招待という形を取っていたが、そこには明らかな「意図」があった。
「ようこそ、明菜さん、志乃さん。ここでは土も、太陽も、虫も必要ありません」
二人を迎えたのは、白衣を着た若き経営者、九条だった。彼は、一切の塵も許さないクリーンルームを案内しながら、整然と並ぶLEDライトの下で育つレタスを指さした。
「土は不潔です。天候は不安定です。しかし、ここでは一年中、完璧に計算された栄養価の野菜が、最も効率的に生産されます。これこそが、食料危機を救う『真実』だと思いませんか?」
明菜は、窓越しに見える、あまりにも綺麗な、そしてあまりにも表情のない緑の葉を見つめた。
「……ここでは、種は笑わないんですね」
「笑う? 科学的ではありませんね」
九条は冷笑した。
「明菜さん、あなたの配信は見ました。しかし、泥臭い伝統や、不確かな命の熱量に頼るやり方は、もはや時代遅れです。私たちは、あなたの知名度を使って、この『清潔で安全な未来の食』を広めてもらいたい。今夜の配信、楽しみにしておいてください」
--------------------------------------------------------------
その夜の生配信は、工場の無機質な多目的ホールで行われた。
背景には整然と並ぶ培養液のタンク。ステージには、土の匂いなど欠片もしない、完璧に洗浄された野菜たちが並べられていた。
「皆さん、こんばんは。今夜は、最新の技術で作られた野菜を使って、お料理をします」
明菜の声は、いつになく強張っていた。彼女の手元には、九条が用意した「工場直送・ビタミン増量小松菜」と、合成アミノ酸で調味された「機能性味噌」がある。
コメント欄には、九条が雇ったサクラか、あるいは効率主義に賛同する声が目立ち始めた。
『土臭いのはもう飽きた。これからは清潔第一でしょ』
『栄養価が計算されてるなら、それが正解じゃん』
『明菜もついにハイテク側についたか』
「……今夜作るのは、小松菜のお浸しです」
明菜は包丁を握った。しかし、まな板を叩く音は、どこか空虚に響いた。
野菜を茹でる。鮮やかな緑色は保たれているが、立ち上る湯気の中に、あの九州の畑で感じたような「大地の吐息」はない。
「志乃ちゃん。……歌って」
明菜が促したが、志乃もまた、困惑していた。
バックに流れるのは、工場の機械音をサンプリングした冷たい電子音。志乃は声を振り絞るが、その歌声は、鏡のように反射する白い壁に跳ね返され、どこにも届かずに消えていく。
「……歌えない」
志乃がマイクを下ろした。
「どうしたの、志乃ちゃん?」
「明菜さん、この野菜からは、何の音も聞こえないの。震えも、痛みも、喜びも。ただ、静かなだけの無。私、何を信じて歌えばいいのか分からない……!」
配信は騒然となった。画面の向こうで九条が苦々しく顔を歪める。
その時、明菜はそっと懐から、茂作から託された「火の国大根の種」を取り出した。
「九条さん。あなたの野菜は、確かに綺麗で、栄養もあります。でも、ここには『明日』がない。この種は、土の中で眠り、寒さに耐え、虫に齧られ、それでも次の命を繋ごうと必死に足掻いてきた記憶を持っています」
明菜は、九条から渡された小松菜を一口食べた。
「……味がないわけではありません。でも、この野菜には『物語』がない。人が食べるのは、栄養素だけじゃない。その食材が辿ってきた時間と、関わった人たちの想いなんです」
「そんなものは非科学的な幻想だ!」九条が怒鳴るように乱入した。
「いいえ。幻想を食べて、人は心を動かされるんです。心を動かされない食べ物は、ただの『燃料』です。私たちはアイドルだから、分かります。完璧なアンドロイドのダンスよりも、転んでも必死に立ち上がろうとする人間の汗に、人は感動するんです」
明菜は、九条の用意した機能性味噌を脇に除け、持参した、あの九州の麦味噌をほんの少し小松菜に和えた。
「今の私たちに必要なのは、無菌室の正解ではなく、泥にまみれた矛盾。……志乃ちゃん、もう一度。今度は、この種のために歌って」
志乃の瞳に火が灯った。
音楽を止め、彼女はアカペラで歌い始めた。それは、芽吹く前の種が、固い土を突き破ろうとする力強さを秘めた、魂の叫びだった。
配信の同時視聴者数は、九条の予想に反して過去最高を記録した。
『綺麗なだけのものは、もうお腹いっぱいなんだ』
『明菜が言うこと、分かる気がする。食べてるのは「命」なんだよな』
『志乃の歌、泣ける……』
九条は、激しく流れるコメントを見つめたまま、立ち尽くした。
配信終了後、悠里が影から姿を現した。
「九条さん。あなたの技術は素晴らしいわ。でも、それを『食の正解』だと決めつけたのが間違いよ。技術は命を支えるためのものであって、命の代わりにはなれない」
悠里は明菜の肩を叩いた。
「行きましょう。次の目的地は、海よ。潮風に耐えて育つ、本物の旨味を探しに行くわよ」
白亜の工場を後にするワゴン車のバックミラーには、朝日に照らされる建物が映っていた。
明菜の手の中には、まだあの種があった。
一汁一菜の旅は、いよいよ核心へと迫っていく。
自然の驚異と、人間の営み。その境界線で、明菜は「究極の出汁」の正体に触れることになる。
(第八話へ続く)




