第五話:黄金の鎖と、失われた塩むすび
代々木公園でのフェス成功は、HI-TECHの運命を一夜にして変えた。「一汁一菜アイドル」というフレーズは瞬く間にトレンドを席巻し、明菜と志乃の元には、これまででは考えられないような巨大なビジネスの話が舞い込んでいた。
「素晴らしいわ、二人とも。これこそがブランディングの勝利よ」
事務所の役員会議室。悠里の隣に座るのは、大手食品メーカー「サンライズ・フーズ」の戦略担当者だった。彼は満面の笑みで、数枚の企画書を広げた。
「明菜さん、志乃さん。我々は、あなたたちが監修する『HI-TECH流・究極の一汁一菜パック』を全国のコンビニで展開したいと考えています。明菜さんのあのレシピを、忠実に、かつ安価に再現する。ターゲットは忙しい現代人です。これは日本の食文化を変える革命になりますよ」
提示された契約金は、明菜がこれまでの人生で見たこともないような額だった。さらに、ゴールデンタイムの料理番組のレギュラー出演、冠イベントの開催。それは、不人気時代には夢にまで見た「成功」の形そのものだった。
しかし、企画書を読み進める明菜の手が、ある一点で止まった。
「……あの、この原材料名のところにある『抽出エキス』や『保存料』、それにこの『砂糖代わりの甘味料』は何ですか?」
担当者は、さも当然だというように肩をすくめた。
「工場のラインで大量生産する以上、品質の安定とコストカットは絶対です。でも安心してください。味付けは最新の化学技術で、明菜さんの味噌汁を完璧にシミュレートします。一般の消費者は、本物との違いなんて分かりませんよ」
「……違いが、分からない?」
明菜の脳裏に、あの泥だらけの畑で源三が言った言葉が蘇った。 「虫を殺し、草を殺し、土を殺さなきゃ、綺麗なだけの野菜は作れん」
「お受けできません」
明菜の静かな、けれど断固とした声に、会議室の空気が凍りついた。
「な……何を言っているんだ、明菜さん。これは君たちの、いや、グループの未来がかかっているんだよ」
「未来のために、今、目の前にある『命』を誤魔化したくありません。私のレシピは、あの土と、あの水と、あの農家の方々の汗があって初めて完成するものです。工場でエキスの粉末を溶かしたものを、私の料理だとは言えません」
「明菜さん!」志乃が声を上げた。その瞳には、焦燥の色が浮かんでいた。「気持ちは分かるわ。でも、これを受ければ私たちはトップアイドルになれるの。もっとたくさんの人に私たちの名前を知ってもらえるのよ。少しの妥協くらい……」
「志乃ちゃん、それは妥協じゃない。裏切りだよ」
明菜は、志乃を真っ直ぐに見つめた。
「あのフェスで、私たちの結んだおむすびを食べて泣いてくれた人たちは、私たちの顔を見ていたんじゃない。私たちが注いだ『熱』を食べてくれたんだよ。それを量産品に置き換えた瞬間、私たちの歌も、料理も、ただの商売道具に成り下がってしまう」
会議は決裂した。サンライズ・フーズの担当者は憤慨して席を立ち、悠里は終始無言のまま、冷めたコーヒーを見つめていた。
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翌日から、HI-TECHへの風当たりは急激に冷たくなった。 期待されていた大型タイアップは白紙になり、一部のメディアでは「高慢なアイドルが大手メーカーを拒絶」というネガティブな記事が躍った。
「……後悔してる?」
深夜、いつものように明菜の家を訪れた志乃が、暗い顔で尋ねた。
「後悔はしてないよ。でも、志乃ちゃんのチャンスを奪ってしまったかもしれないのは、本当に申し訳ないと思ってる」
明菜はそう言いながら、ガスコンロの火をつけた。 「お腹、空いてるでしょ。今日は、何にも特別なものはないけど……」
明菜が作ったのは、ただの塩むすびだった。 具はない。海苔もない。ただ、あの海塩と、小さな米屋の主人が守り抜いた古来種の米。
志乃は、差し出されたおむすびを黙って受け取り、一口齧った。 一瞬の静寂の後、志乃の目から一筋の涙がこぼれた。
「……美味しい」
「……うん」
「明菜さんの言う通りね。この味は、パック詰めにはできない。工場でどんなに精密に真似したって、この『温度』だけは再現できない」
志乃は、掌に残った米粒を一粒残らず口に運んだ。 「私、決めたわ。どれだけ売れなくても、どれだけ叩かれてもいい。私は、このおむすびの味を信じてくれる人のために歌いたい。加工された偽物の輝きなんて、もういらない」
二人が手を取り合ったその時、キッチンのドアが静かに開いた。 そこには、いつの間にか悠里が立っていた。
「悠里さん……」
「いい顔になったわね、二人とも」
悠里は、手元にあった契約書をビリビリと破り捨てた。
「サンライズ・フーズとの話は、私の方で正式に断っておいたわ。代わりに、新しいプロジェクトを始める。……明菜、志乃。あなたたちの『本物』を、もっと過激に、もっと純粋に貫き通す場所を作るわ。……それは、全国の耕作放棄地を巡る『炊き出しライブツアー』よ」
「炊き出しライブ……?」
「そう。都会のビルの中じゃなく、土の上にステージを作るの。食べ物のルーツを辿り、その土地の人々と一緒にご飯を作り、歌う。金にはならないかもしれない。けれど、そこには誰も見たことがない『聖域』が生まれるはずよ」
悠里の瞳には、かつてないほどの情熱が宿っていた。 商業主義の巨大な波に抗い、彼女たちは自ら険しい道を選んだ。
それは、虚飾に満ちた芸能界という海を、一杯の味噌汁という小さな舟で漕ぎ出すような、無謀な、けれど誇り高い挑戦の始まりだった。




