第四話:喧騒の中の清流
山里での修行から戻った明菜と志乃を待っていたのは、プロデューサー悠里が用意した、あまりにも無謀で、あまりにも巨大なステージだった。
「来月、代々木公園で開催される『ワールド・フード・カーニバル』。HI-TECHとして、ここに出店しなさい」
悠里が放り出した企画書には、世界中の美食や、SNSで話題の「映えグルメ」が軒を連ねる、国内最大級の食フェスの概要が記されていた。数万人が来場し、人気店は一杯数千円の豪華なメニューで競い合う。
「出店って……私たちはアイドルですよ? 歌って踊るんじゃなくて、料理を作るんですか?」
志乃が驚きを隠せずに尋ねると、悠里は不敵な笑みを浮かべた。
「歌もダンスも披露してもらうわ。でも、メインはあくまで『食』。他の店がフォアグラやトリュフを競っている中で、あなたたちは、あの山里で学んだものだけで勝負しなさい」
悠里の出した条件は過酷だった。提供メニューは一種のみ。価格は、他の店の半分以下。そして、一切の「化学調味料」と「添加物」の使用を禁じるというものだった。
「……一汁一菜で、フェスに挑むということですね」
明菜が静かに言うと、悠里は頷いた。
「ええ。刺激に慣れきった都会の舌に、あなたたちの『真実』が通用するかどうか。これはHI-TECHの存続をかけた賭けよ」
準備期間中、明菜のキッチンは戦場と化した。 フェスという過酷な環境で、大量の人数に、かつ「本物」の味を届けるのは容易ではない。明菜は、源三の農園から直送される大根と、あの小さな米屋の主人が「これなら冷めても旨い」と太鼓判を押した希少な古来種のお米を確保した。
配信では、その試行錯誤の様子が連日公開された。
「皆さん、フェスで出すおむすびの『塩』が決まりました。海水を太陽と風だけで干し上げた、力強い塩です。これで握ると、お米の甘みが爆発するんです」
明菜の言葉には、かつての迷いはない。土に触れ、命の根源を知った彼女の言葉は、画面越しでも視聴者の心に重く響いた。
一方、志乃は自分の役割を見出せずにいた。ダンスや歌なら誰にも負けない自信がある。しかし、包丁捌きでは明菜に及ばない。
「私にできることなんて、あるのかな……」
落ち込む志乃に、明菜は優しく微笑み、一本の「しゃもじ」を差し出した。
「志乃ちゃん。おむすびはね、掌の温度で味が変わるの。志乃ちゃんの、あの情熱的なステージと同じ。心を込めて結べば、それは最高のパフォーマンスになるよ」
志乃はその言葉にハッとした。完璧な形を目指すのではなく、食べる人の心に届く温度を目指す。それは、彼女がアイドルとして長年追い求めてきた「一体感」そのものではないか。
フェス当日。代々木公園は、肉を焼く煙と、大音量の音楽、そして数万人の熱気に包まれていた。 HI-TECHのブースは、他の派手な装飾の店に比べ、驚くほど地味だった。白木のカウンターに、藍色の暖簾。そこには「一汁一菜:HI-TECH」とだけ書かれている。
「何だよ、アイドルが味噌汁? 冗談だろ」 「あっちのチーズタワーバーガーの方が旨そうじゃん」
通り過ぎる人々は、嘲笑混じりにブースを一瞥していく。しかし、正午を回った頃、風向きが変わった。
明菜が大きな鍋の蓋を開けた瞬間、あたり一面に、清らかな、けれど力強い「出汁」の香りが立ち込めたのだ。それは、脂ぎった会場の空気を一変させる、涼やかな一筋の風のようだった。
「……いい匂い」
一人の若い女性が、ふらふりと吸い寄せられるようにブースの前に立った。SNSの撮影に疲れ、胃もたれを隠しながら歩いていた彼女に、明菜は一杯の味噌汁を差し出した。
「お疲れ様です。まずは、一口飲んでみてください」
女性が汁を口に含んだ瞬間、その表情が劇的に変わった。強張っていた肩の力が抜け、目元がふわりと緩む。
「……美味しい。身体の中に、じわーって染み込んでいくみたい」
その様子は、瞬く間にSNSで拡散された。 「代々木公園に、砂漠のオアシスみたいな味噌汁がある」 「HI-TECHのむすび、具がないのに何でこんなに甘いの?」
行列はみるみるうちに伸び、他の人気店を凌ぐ長さになった。 明菜が汁を注ぎ、志乃が心を込めて結ぶ。二人の動きは、まるで見事なデュエットのように調和していた。
その時、一人の強面な男性客がブースに現れた。業界でも有名な食通の評論家だ。彼は差し出されたおむすびを一口食べると、しばらく目を閉じて沈黙した。
「……お嬢さん。あんた、この米をどうやって炊いた?」
「火の力を信じて、米が笑うまで待っただけです」
明菜の答えに、評論家は豪快に笑った。
「参ったな。美食を極めてきたつもりが、このシンプルな一杯に、俺の舌は降参だ。これは料理じゃない。祈りだ」
その言葉は、集まった観衆の拍手に包まれた。 ブースの裏でそれを見守っていた悠里は、静かにグラスを傾けた。彼女の隣には、いつの間にか源三も立っていた。
「あいつら、やりやがったな」
「ええ。本物は、どんな喧騒の中でも埋もれない。それを彼女たちが証明したわ」
夕暮れ時、予定していた千食分は完売した。 疲れ果て、けれど見たこともないような晴れやかな顔で笑い合う明菜と志乃。
「明菜さん、私、今日初めて『アイドル』になれた気がする」
「志乃ちゃん……」
「歌うことだけがアイドルじゃない。誰かの心と体を、本当の意味で満たすこと。それが、私たちの新しいステージなんだね」
二人は、夕日に染まる会場を見渡した。 HI-TECHの快進撃は、ここから加速していく。
けれど、明菜は知っていた。どれほど有名になっても、自分が帰る場所は、あの深夜二時の、静かな台所であるということを。




