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崖っぷちアイドルの自炊革命  作者: 北大路京介


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第二話:心の空腹と黄金の卵

明菜の「一汁一菜配信」から一週間。ネット上の空気は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。派手な演出を削ぎ落とし、ただ湯気の向こう側で微笑む明菜の姿は、疲弊した現代人の心に、不思議な安らぎを与えていた。


しかし、その静かな波紋を力ずくで踏みつけようとする者がいた。


「おはようございます……」


「HI-TECH」の専用レッスンスタジオ。明菜が恐る恐る足を踏み入れると、鏡の前で一人、完璧なフォームでストレッチをこなす女性がいた。グループの不動のセンター、志乃だ。


志乃は明菜の挨拶に答えず、鋭い視線を鏡越しに突き刺した。


「明菜さん、あの配信、一体何のつもり? 事務所でも話題になってるわよ。アイドルが生活感丸出しで味噌汁を啜るなんて、夢を売る仕事としての自覚がなさすぎるんじゃない?」


志乃の言葉は、氷の粒のように鋭い。彼女は徹底した自己管理で知られ、食事もサプリメントと高タンパクな低カロリー食しか口にしない。その美しさは、削り抜かれたナイフのように研ぎ澄まされていた。


「志乃ちゃん……私は、ただ、本当に美味しいものを食べてほしいなって思って……」


「『美味しい』なんて主観でしょ。私たちに求められているのは、誰もが憧れる『正解』の姿なの。あんな貧乏臭い映像、グループのブランドを汚すだけだわ。悠里さんも、何を考えて許可したんだか」


志乃はタオルを首にかけ、明菜の横を通り過ぎようとして、一瞬だけ足を止めた。その顔色は、メイクで隠しきれないほどに青白い。


「……あんなものを食べて、何が変わるっていうの」


吐き捨てるように言い残し、志乃はスタジオを出て行った。その背中を見送りながら、明菜は胸の奥がチリりと痛むのを感じた。志乃の言葉は、かつての自分自身の迷いそのものだったからだ。


その日の午後、プロデューサーの悠里から呼び出しがかかった。


「明菜、次の配信の準備はできている?」


悠里は、デスクに置かれた「HI-TECH」のスケジュール表を眺めながら言った。


「はい。次は、卵焼きを作ろうと思っています。あのお米屋さんに教えてもらった、命を繋ぐための料理を」


「いいわ。でもね、今回は一つ条件がある。ゲストを呼びなさい。志乃よ」


明菜は目を見開いた。


「志乃ちゃんを!? でも、彼女は私のやり方を否定していて……それに、今はすごくストイックな時期だし……」


「だからよ」


悠里は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


「今の志乃は、空腹を忘れた野良犬と同じ。自分の体が何を求めているのかさえ見失っている。彼女に、あなたの『本当の味』を叩き込んでやりなさい。これはプロデューサーとしての命令よ」


その夜。配信開始の十分前。明菜の自宅キッチンには、不機嫌を絵に描いたような顔でパイプ椅子に座る志乃がいた。


「本当に嫌。なんで私が、こんな狭いキッチンでドキュメンタリーごっこに付き合わなきゃいけないの」


「志乃ちゃん、ごめんね。でも、今日はどうしても食べてほしいものがあるの」


明菜は、ずしりと重い銅製の卵焼き器を取り出した。それは悠里から「使いこなしなさい」と渡された、年季の入った道具だった。


配信の開始ボタンを押す。画面には、割烹着姿の明菜と、どこか場違いなほど華やかなレッスン着姿の志乃が並んだ。


「こんばんは。今夜は、スペシャルゲストとして志乃ちゃんが来てくれました」


コメント欄が猛烈な勢いで動き出す。


『えっ、センターの志乃!?』 『異色のコンビすぎる』 『志乃ちゃん、顔が引きつってない? 大丈夫?』


明菜は、冷蔵庫から三つの卵を取り出した。それは、ある養鶏家が「鶏の幸せが味になる」と信じて、広々とした土地で自由に放牧して育てた鶏が産んだものだという。殻を割ると、そこには鮮やかなレモン色の黄身があった。


「志乃ちゃん、卵を割る音を聴いてみて。生きている音がするから」


「……ただの卵でしょ」


志乃は冷たく返したが、明菜が菜箸で卵を解く音、白身を切る規則正しいリズムに、いつの間にか目を奪われていた。


明菜は出汁を少しだけ加え、醤油を一滴。砂糖は入れない。


「卵焼きはね、巻こうとしなくていいんです。ただ、卵の気持ちになって、返してあげるだけ」


銅の卵焼き器が熱を帯び、ジュッと心地よい音が響く。明菜の所作は、まるで祈りを捧げているかのようだった。薄い膜が重なり、層を成していく。少しずつ厚みを増していく黄金色の塊。


キッチン全体に、焼けた卵の香ばしい、懐かしくて優しい香りが満ちていった。それは、どんな高級香水よりも強く、本能に訴えかける香りだった。


「はい、お待たせしました。焼きたての卵焼きです」


明菜は、湯気が上がる一切れを、箸で志乃の皿に置いた。


「……私、夜の炭水化物や脂質は制限してるの。知らないわけじゃないでしょ」


「一切れだけでいいから。これは、栄養素じゃなくて、志乃ちゃんの心のためのご飯なの」


志乃はためらい、画面の向こう側の数万人の視聴者を意識して、渋々箸を動かした。小さく口を開け、一切れを運ぶ。


その瞬間、志乃の瞳が大きく揺れた。


ふわりとした食感の後に、濃厚な卵の旨味と、出汁の深みが一気に押し寄せる。それは、彼女が長い間忘れていた、身体の奥底から込み上げる「喜び」だった。


「……何、これ」


「美味しい?」


「……わからない。わからないけど、なんだか、すごく、懐かしい気がする。お母さんが、昔作ってくれたような……」


志乃の言葉が途切れた。彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。


完璧であろうとして、誰にも弱みを見せず、自分を追い込み続けてきた十九歳の少女。彼女が必死に守ってきた「アイドルの仮面」が、温かい卵焼きの熱によって、静かに剥がれ落ちていった。


コメント欄が、かつてないほどの優しさに包まれる。


『志乃ちゃんが泣いてる……』 『見てるこっちまで涙が出てきた』 『明菜の料理には、魔法があるのかも』


「志乃ちゃん。食べることは、自分を大切にすることなんだよ。私たちは、食べたものでできている。だから、自分をいじめないで」


明菜は、志乃の震える肩をそっと抱き寄せた。


配信が終わった後、部屋には静寂が戻っていた。志乃は皿に残った最後の一切れを大切に食べ終え、小さく呟いた。


「……負けたわ、明菜さん。あなたの料理、本当に……ムカつくくらい、美味しい」


その言葉に、明菜は今日一番の笑顔を見せた。


「また、いつでも食べに来てね。次は、季節の炊き込みご飯にする?」


「……考えておくわ」


志乃はぶっきらぼうに答えて立ち上がったが、その足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。


その様子を、タブレット越しに見ていた悠里は、一滴のウィスキーをグラスに注いだ。


「さて、次はどう動くかしらね。HI-TECHの、そして明菜の『食の革命』は、まだ始まったばかりよ」


窓の外では、夜明けの光が街を照らし始めていた。

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