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崖っぷちアイドルの自炊革命  作者: 北大路京介


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第一話:深夜二時の台所

深夜二時。冷え切ったワンルームマンションの室内で、ノートパソコンの冷却ファンだけが、虚しく唸りを上げていた。


画面の中では、不自然なほど明るい照明に照らされた二十代半ばの女性が、必死に笑顔を振りまいている。不人気アイドルグループ「HI-TECH」の最年長メンバー、明菜だ。かつては次世代のホープと謳われたこともあったが、今やグループの活動は開店休業状態。残されたわずかな仕事は、深夜の個人生配信だけだった。


「はい、皆さんこんばんは! 今夜は……えっと、最近流行りの『おしゃピク』でも使える、レインボーベーグルサンドを作ってみようと思います!」


明菜は、事前に用意していた色鮮やかな食材を、不慣れな手つきでカメラの前に並べた。合成着色料で染められた毒々しいまでの青やピンクのパン。その横には、形だけは立派だが、水っぽくて味の薄い輸入物のパプリカやレタスが転がっている。


画面の下を流れるコメント欄は、相変わらず冷酷だった。


「また映え狙いかよ。中身が伴ってないんだよな」 「料理下手なのに無理しなくていいから」 「HI-TECHって名前のわりに、やってることがアナログで古臭い」 「明菜って、何を目指してるのか分かんないよね。もう二十代後半でしょ?」


明菜は、視界の端で踊る文字から目を逸らすように、パンにナイフを入れた。断面を綺麗に見せようと指先に力を込めるが、パンは無残に潰れ、中から安っぽいクリームが溢れ出した。


「あはは、ちょっと失敗しちゃったかな。でも、味はきっと美味しいですよ……」


無理に作った笑顔が、鏡のように映る画面の中で歪んでいる。自分でも分かっていた。この料理には心がない。ただ「いいね」が欲しくて、誰かの真似をして、記号としての「幸せ」を演じているだけだ。配信が終われば、この虹色のパンは一口も食べられることなく、ゴミ箱へ行くか、あるいは翌朝の胃もたれの原因になるだけだった。


一時間後。配信を終えた明菜は、明かりを消した暗い部屋で、一人ソファに深く沈み込んでいた。


「私、何やってるんだろう……」


アイドルになりたかったのは、誰かを笑顔にしたかったからだ。けれど、今の自分は誰を笑顔にしている? 画面の向こうのアンチを嘲笑させ、自分自身を削り取っているだけではないか。


翌朝、明菜は重い足取りで所属事務所に向かった。待っていたのは、数々のスターを世に送り出してきた伝説的なプロデューサー、悠里だった。黒のタイトなスーツに身を包み、鋭い知性を感じさせる眼鏡の奥から、悠里は明菜を射抜くような視線で見つめた。


「昨日の配信、見たわよ」


悠里の声は、冬の朝の空気のように冷たく、澄んでいた。彼女はデスクの上に置かれたタブレットを指先で弾き、明菜が作った「虹色のパン」のスクリーンショットを表示させた。


「明菜。あなた、これが本当に美味しいと思って作っているの?」


「それは……その、見た目が華やかな方が、ファンの皆さんも喜ぶかと思って……」


「嘘を吐きなさい」


悠里は断言した。


「あなたは食べ物を愛していない。そして、自分自身も愛していない。そんな人間のパフォーマンスに、誰が心を動かされると思う? あなたの料理は、魂のないハリボテ。そして、あなた自身のアイドル活動も、今やそれと同じよ」


明菜は言葉を失った。弁解の言葉は、喉の奥に張り付いて出てこない。悠里は椅子から立ち上がり、窓の外のビル群を見つめながら続けた。


「今のあなたに必要なのは、足し算じゃない。引き算よ。飾り立てることをやめ、本質だけを見つめ直しなさい。明日の夜、もう一度配信をしなさい。ただし、メニューは私が指定する」


「……何を、作ればいいんですか?」


悠里はゆっくりと振り返り、冷徹な美しさを纏った唇を開いた。


「ご飯と、味噌汁。それだけよ。それ以外は一切認めないわ」


マンションに戻った明菜は、呆然としていた。アイドルが、全世界に向けて「ご飯と味噌汁」を配信する? そんな地味なものが、今の時代に通用するはずがない。


しかし、悠里の言葉には、拒絶できないだけの重みがあった。明菜は仕方なく、キッチンの奥に押し込んでいた古い土鍋を引っ張り出した。それは、実家を出る時に母親が「これだけは持っていきなさい」と持たせてくれたものだった。


明菜は、これまで避けてきた「本質」と向き合わざるを得なくなった。


彼女はまず、近所の商店街にある小さな米屋へ向かった。そこには、彼女が普段スーパーで買う真空パックの米とは違う、力強い香りが漂っていた。


「おじさん、一番美味しいお米をください」


店主は、明菜の切羽詰まった表情を見て、奥から茶色い紙袋を持ってきた。


「美味しい、っていうのは人それぞれだがね、お嬢さん。この米は、農家の方が八十八の手間をかけて、大地の力を吸い込ませたもんだ。丁寧に洗って、火にかけなさい。米が笑うまで待つんだよ」


米が、笑う?


明菜は不思議な心地で、次に味噌と出汁の材料を探した。いつもは粉末のインスタントで済ませていたが、今回は煮干しを手に取った。銀色に輝く小さな命。その頭と腹わたを一匹ずつ取り除いていく作業は、驚くほど静かで、瞑想に近い感覚を彼女に与えた。


夜、二時。再び配信のライトが灯る。


画面の中の明菜は、昨日のような派手な服ではなく、清潔な白いシャツに、古びた、けれど丁寧にアイロンをかけられた紺色のエプロンを締めていた。


「こんばんは。今夜は……流行りの料理はお休みします。ただの、ご飯とお味噌汁。それだけを作ります」


コメント欄には、即座に困惑の文字が並んだ。


「は? 放送事故?」 「手抜きすぎだろ」 「一汁一菜? おばあちゃん家かよ」


明菜は、その声を背中で聞きながら、土鍋に米を入れた。水を含んだ米が、透明に透き通っていく。煮干しを水に浸し、弱火にかける。しばらくすると、部屋の中に、これまで知っていた「インスタントの香り」とは全く違う、深くて濃密な香りが立ち込め始めた。


「出汁を取る、という言葉があります。それは、食材の命を引き出すということなんだそうです」


明菜は、古い料理本で読んだ言葉を、噛みしめるように呟いた。その本には、食べ物は単なる栄養素ではなく、自然界の循環そのものであると記されていた。農薬を使わず、土の力を信じて育てられた野菜には、私たちの体と魂を浄化する力があるのだ、と。


明菜は、大根を銀杏切りにした。包丁がまな板を叩く「トントン」という音が、深夜の静寂に心地よく響く。


「大根の皮も、捨てません。ここが一番、お日様の匂いがするから」


彼女の手つきは、決してプロのように速くはない。しかし、一つ一つの動作に迷いがなく、食材を慈しむような優しさが溢れていた。


やがて、土鍋の蓋の隙間から、真っ白な湯気が勢いよく噴き出した。甘く、香ばしい、米が炊き上がる匂い。


「あ……」


明菜は、思わず声を漏らした。それは、彼女が都会の喧騒の中で、いつの間にか忘れてしまっていた「生きている匂い」だった。


彼女は、お玉で丁寧に味噌を溶き入れた。煮え立つ汁の中で、大根と小松菜が踊る。


「できました。今日のご飯です」


画面に映し出されたのは、湯気が立ち上る一杯の白飯と、具沢山の味噌汁。そして、少しばかりの自家製の浅漬け。


豪華な装飾は何もない。けれど、そこには見る者の胃袋を直接掴むような、圧倒的な「実存」があった。


流れるコメントの速度が、目に見えて落ちていった。批判の言葉が消え、代わりに、これまで見たこともないような反応がポツリ、ポツリと現れ始めた。


「……なんか、お腹空いてきた」 「その湯気、こっちまで届きそう」 「お母さんのご飯、思い出しちゃったな」 「明菜ちゃん、今の顔、すごくいいよ」


明菜は、カメラを忘れたかのように、茶碗を両手で包み込んだ。じんわりと伝わる温もり。彼女は一口、ご飯を口に運んだ。


「……あまい」


噛みしめるほどに、大地の生命力が体の中に流れ込んでくる。嘘偽りのない、本当の「美味しい」という感覚。


その時、画面の通知が激しく鳴った。


グループの絶対的センターであり、完璧な美しさを誇る志乃が、この配信を視聴し始めたという通知だった。


「こんなの、アイドルの配信じゃない。ただの自炊記録でしょ。恥ずかしくないの?」


志乃の辛辣なコメントが画面を横切る。しかし、明菜は動じなかった。彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、画面越しに志乃を見つめ返した。


「恥ずかしくなんてありません、志乃ちゃん。私は今、自分をちゃんと生かしている気がするから」


配信の同時接続数は、かつてない数字に跳ね上がっていた。


明菜の、そして「HI-TECH」の運命が、一杯の味噌汁によって大きく動き出した瞬間だった。



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