エピローグ
小さな町の通りにひっそりと佇むその店には、目立った看板もなければ、宣伝もしていない。けれど時折、物好きがふらりと立ち寄り、店主のうんちくを聞いては満足して帰っていく。
「これ、昔の工房で使われてた天球儀なんですよ。回してみます?」
アデルは微笑みながら客に応じ、売る気のあるようなないような口調で応対する。
陽の落ちた夕方、客が引けてひと段落ついたところで、彼は湯を沸かしに奥へと引っ込んだ。手にした茶器は少し欠けているが、お気に入りだ。
幸い、第二の人生を決心できた程度には蓄えもある。好きなものに囲まれて、好きなものを手入れしながら暮らす日々。夢にまで見た生活だった。
それでも、ふと、胸の奥が疼くことがある。
あれから幾度となく思い出した。あの祭りの夜、輪の中で踊ったひと時、そしてそのあと。
翌朝、泊まっていたはずの宿屋へ迎えに行った時には、彼女の姿は部屋になかった。そして、机の上には一枚の紙片。
――ありがとう。これで十分です。どうか、お元気で。
『これで十分』とは、なんだったのか。あれほど多くを語り、笑い合ったのに、彼女は何も言わずに去っていった。
彼女がそれから何をしているかも、定かではない。最後の任務を終えてすぐ、約束通りに退職願は受理された。
「こんにちは」
店先に吊るした鈴の音にまぎれて、愉しげな声がした。
アデルが顔を上げると、店の入り口に立つ、見慣れない客。……否、見慣れていないふりをしているだけだ。
以前より軽く日焼けした肌。肩までの髪を風になびかせ、男物の上着を羽織っている。けれどその瞳は、まぎれもなく。
「またお忍びですか? 姫様」
アデルが穏やかに笑えば、セラフィーナ──名もなき旅人は、微笑んで帽子を取った。
「もうばれてしまいましたの?」
「そりゃあ、マントの縫い目から靴の癖まで覚えてますからね。あと、香水が一緒」
「やっぱり、あなたは鋭いですわね」
セラフィーナはくすりと笑うと、そっとカウンターの前に腰を下ろした。
「夢、叶いましたのね」
「ええ。なんとか、ね。のんびりやってますよ。王女様の監視役がついてこないぶん、随分と気楽です」
「まあ失礼な。今日はお客さんとして来てあげたのに」
「お客さんなら、お買い物しないと」
アデルは、棚から小さな銀の手鏡を取り出す。どうやら好みを当てられたらしく、少女は少しだけ身を乗り出した。
「当店の店主は頑固者ですから、値切りは通用しませんよ」
セラフィーナはひょいと眉を上げる。
「そうね……でも、交渉はしてみてもいいかしら?」
「ええ、受けて立ちます。けど、俺はまけませんよ」
二人の視線がぶつかり、笑いがこぼれる。
あの夜とは違うけれど、同じようにあたたかい風が吹いていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
誰も死なない、怖いことは起きない……他の作品も含め、眠る前のお口直しを目指しています。少しでもホッとしていただけたなら幸いです。お付き合いいただき、本当にありがとうございました。




