パンと盗人
第三王女の要望は、いくつかの町をめぐって市場や人々の様子を見ること、それから。
「今夜はお祭りがあるのでしょう? 行ってみたいの!」
「はあ。どうりで人出が多いと」
人が多ければそれだけ危険も増える。アデルは少し悩んだが、まあどうにかなるかと思い直した。要人護衛の経験はある。二人きりというのは初めてだが。
町はずれの坂道をくだり、小さな橋を渡る。まずは遠くへは行かず、近くの市街で足慣らしをする予定だった。アデルはなるべく休憩をとりやすい道を選んだが、予想に反して、セラフィーナが歩みを止めることは一度もなかった。
朝の空気は穏やかだ。露店が並び始め、小麦の香りが風に乗ってくる。
「わぁ」
石造りの小さなパン屋の前で、セラフィーナがふと立ち止まった。まだ看板も掲げられていないうちから、店先の棚には焼きたてのパンがずらりと並べられている。
「ほら見てください、豆パンに、木苺のジャムに……見たことのないパンも!」
アデルは立ち止まったまま、目を輝かせるセラフィーナを見ていた。護衛対象というより、無邪気な子どもが市場で迷子になりかけているような光景だ。
「一つ……いいえ、五つは買いたいですね。朝食用、昼食用、それと保存用と――」
「姫様、買い込みすぎでは?」
「だって、おいしそうでしょう? お出かけといえば食ですもの」
セラフィーナが意気揚々と懐から財布を取り出したその瞬間、アデルは思わず手を伸ばす。
「待った。それ、王都の金貨じゃないですか」
王宮の紋章が刻まれた、銀細工入りの高額貨幣。こんなものを出せば、間違いなく周囲の注目を浴びる。
「あっ、ごめんなさい。つい、いつもの癖で……!」
「もしかして、財布を持たせると危ないタチです?」
結局、アデルが手持ちの銅貨でパンを購入し、二人は並んで広場の縁に腰掛ける。
セラフィーナはバターの香りのパンを頬張りながら、うっとりとした声を漏らした。
「しあわせぇ……」
ほくほくと目を細める姿に、アデルは思わず噴き出した。
「まるで、王宮よりこっちのほうが良いって顔じゃありませんか」
「王宮の朝食は格式ばかりで味がありませんのよ。……よろしければ、あなたもどうぞ?」
「……じゃあ、ひと口だけ」
パンを分け合い食べ終えた二人は、広場を抜けて市場通りへ向かう。
通りは先ほどより賑やかさを増し、香辛料の香りが混じり、呼び込みの声が飛び交っている。
「活気がありますわね」
セラフィーナは露店に並ぶ品々に顔を近づけながら、目を輝かせた。視線の先には、鮮やかなベリーの山。小さな手描きの札には、『三皿で五ギル』とある。
アデルはその後ろで、ぼんやりと歩きながらも周囲に目を光らせていた。
「あら、こんな野草もお店に並ぶのですか?」
「それは薬になるやつですね。俺も昔、遠征中によく使ってました」
「あなた、薬草の知識もあるの?」
「死にたくなけりゃ覚える、ってだけですよ」
他愛もない会話の最中、ひときわ大きな声が辺りに響いた。
「コラァッ、待て小僧!」
人混みの先。一人の少年が、小さな布包みを抱えて店の台から飛び出した瞬間だった。セラフィーナが思わず息を呑む。
少年はまだ十歳ほど、顔は煤け、足は裸足。通りの人波をかき分けるように逃げようとする。
だがすぐに店主が追いつき、少年の襟首を乱暴に掴んだ。
「このクソガキ、干し肉を丸ごと……!」
少年は何も言わず、ただ必死に包みを握っていた。
周囲に人が集まり始める。
「こいつ、何度か見かけた顔だぞ。衛兵に突き出してやる」
「待ってください。それは――」
セラフィーナが思わず踏み出しかけた、そのとき。
「よかったら、その代金、俺が払います。いくらです?」
アデルがひと足早く前に出た。突然割って入った男を、店主は胡乱な目つきで睨みつける。
「……七ギルだ。あんた、関係者か?」
「まあ、知り合いの……親戚ってことにしておいてください」
アデルは銅貨を手渡し、未だに少年の首根っこを掴む手をやんわりと、しかし迷いなく剥がした。
「子どもが腹を空かせてやったことです。品物もまだ手つかずでしょう?」
「……まったく、最近のガキは。次はないぞ!」
鷹揚な態度を崩さないアデルを一瞥し、店主はため息と共に戻っていった。
呆然と突っ立っている少年へと布包みを渡してやり、小声で話しかける。
「次は逃げきれる自信があるときだけにしな。それと、食う前に手ぇ洗えよ」
少年は一瞬だけアデルを見つめ、何も言わずにうなずくと、通りの端へ走っていった。その背中を見送りながら、何事もなかったかのようにセラフィーナのもとへ戻る。
「すんません、お傍を離れました」
「どうして庇ったのですか?」
首を傾げるセラフィーナに対し、アデルは頬を掻いた。
「俺もガキの頃、盗み食いしたことはありますし。姫様からしたら、聖騎士に相応しくない告白でしょうけど」
「必ずしも正義が善き振る舞いとは限らないこと、私にも心当たりはありますわ」
つい先刻までパンにはしゃいでいた少女は、静かに目を伏せ微笑んだ。アデルは数度、瞬いて、やがて緩やかに首を振る。
「王族ってのは何かとややこしいんでしょうね。俺には想像もつかない」
「そうかもしれませんわね」
「俺と違って、王女を辞めるなんてことはできないでしょうけど。その分、今日は息抜きできるといいですね」
セラフィーナは弾かれたように顔を上げる。アデルは、通りの向こうを指さした。
「さ、行きましょう。まだ時間はたっぷりありますよ」




