炎と影
前夜、黒翼はバルゼン南部前哨を陥落させた。
帝国兵は半年の停滞から前進した喜びに満ちていた。
一晩経ち、戦線へ転進——補給線のための“道”を、さらに広げるために。
――夜明け前。
山稜の端が薄く白み、バルゼン南部に口を開けた谷は、青黒い霧を深く吐き出していた。
帝国前線の塹壕に、鈍い号令が落ちる。
「前へ——」
だが誰も動けなかった。
谷底でうごめくものが、銃口の先で蠢いていたからだ。
人型。だが人ではない。
膨れた静脈に黒い魔素が脈打ち、眼窩は煤のように空洞。
歯の隙間から漏れる白煙は、腐臭と鉄錆のあいだで震えている。
「……ゾンビだと?」
カラムが低く吐く。息が白い。
隣でネロが端末を開き、指を滑らせた。青い光のドームがさっと展開する。
「魔素の過剰投与による神経支配型……アークリベレーターの改良種です。
死体を媒体に、術式で動かしている。弾丸は関節を壊す以外、ほとんど——」
谷底から一斉に、喉を擦るような呻きが上がった。
次いで、岩肌を爪で裂く音。群れが登りはじめる。
「射!」
号令と同時に前線の銃列が火を噴き、乾いた連射が斉しく谷へ注ぎ込まれた。
身体が千切れても、奴らは這ってくる。
兵の瞳から血の気が引き、銃床を握る指が震える。
「……こいつら、生きてるのか死んでるのかも分からねぇ」
カラムの声に、リヴィアは小さく息を呑んだ。
(また…こんな時に…。)
焦げた鉄の匂いが、十年前の景色を引きずり上げる。
エルデナの最後の日。燃える街。倒れた友。
胸の奥で、固く凍った何かが、きしむ。
「後退の準備を——」と誰かが叫びかけた、その時。
丘の向こうから、風向きが変わった。
熱を帯びた気流が、霧を押しのけて吹き込んでくる。
「炎……?」
次の瞬間、丘の稜線が真紅に弾けた。
焔の渦が巻き上がり、そこから赤い軍装の影が飛び出す。
「道を開けぇ!」
轟、と声が谷を貫いた。
先頭の男が掌を合わせ、空へと叩きつける。炎が裂け、道が刻まれる。
——紅蓮掌。
「リュウ・ファン大尉だ!」
後列の兵が歓喜と畏怖を混ぜた声を上げる。
紅蓮の列先頭、黒髪を後ろで束ねた女が膝を落とし、掌で地を打った。
「炎走!」
地表に赤い亀裂が走り、炎の蛇がゾンビの列を縫って爆ぜる。——シェン・レイリン、副長。
「右、密集。わたしが切る」
涼しげな声。片眉だけ動かし、短く指示を飛ばすのは、切れ長の目をしたラン・ファ。
掲げた掌に、細く鋭い炎が糸のように張り、絡みついた群れの関節だけを焼き抜いた。
「はいはい、どいてどいてーっ!」
赤いマフラーを翻した少女が、谷底へまっしぐらに進み、ずぶりと群れへ突っ込む。
掌が稲打つように乱打するたび、焔の花弁が連続で咲いた。
「紅蓮乱打ッ!」——最年少のミン・シア。
後方の影が無音で抜け、逆足でゾンビの項を蹴り抜く。
足先に生じた細い風刃が、焔と交差して頸椎を断つ。
寡黙な暗殺者、グイ・トン。
そのさらに後ろで、無印の腕章をつけた男が静かに陣を描く。
「共鳴、今——」
低く、ハオ・レンが声を落とすと、紅蓮掌全員の炎が一拍遅れて揃った。
炎の位相が合い、熱が“面”になる。
リュウが一歩、前へ。
片手を胸に、もう片手を天へ。
「紅蓮葬陣——!」
谷底から立ち上がった炎柱が、螺旋を描いて閉じる。
群れが焼け、悲鳴でも呻きでもない、空気の悲鳴が上がった。
圧倒的だった。
兵たちの喉の奥から、自然に歓声が零れる。
「すげぇ……」「紅蓮掌だ……!」
リヴィアは、炎の向こうを見た。
焔の縁で、風が震えている。
熱の波、その背を、闇が撫でていた。
「待てリヴィア……行くつもりじゃないよな」
カラムが問う。返事の代わりに、リヴィアはぴたりと立ち位置を変える。
胸元のペンダントが、微かに音を立てた。
「焦るな、俺たちは戦闘部隊じゃないぞ」
「でも——兵士には違いないのでしょう」
息を吸う。
リヴィアの輪郭から、黒い獣影がゆっくりと立ち上がった。
しなやかな背、低い姿勢、黄金の双眸。
「黒豹」
彼女は崖の端へ一歩。
足裏が雪を噛み、次の瞬間、黒い影は風を切って落ちた。
「……行ったぞ!」誰かが叫ぶ。
「続けぇええ!」士気が爆ぜ、前線が雪崩れる。
「ったく。——アシュ、リズ、ネロ!」
「待ってましたぁぁ!!」
「えっ、行くの!?」
「僕は待ってませんよ!絶対待ってませんよ!」
黒翼の影も、炎に重なる。
⸻
谷底。
炎は道を作り、闇は縫い目を探す。
ゾンビの指がリヴィアの肩を掴もうと伸び、その前に、刃が閃いた。
「黒閃」
音が消え、黒い線が世界の継ぎ目を切り裂く。
切断線が左から右へ、糸のように流れ、群れが“遅れて”崩れた。
黒い煙が細く立ち上がり、風に折れる。
「へえ」
炎の中から、レイリンが振り返る。頬に灰が一本ついている。
「闇魔法なんて珍しいじゃない」
ミン・シアが横からひょいと顔を出す。
「おっかない顔してるね!」
リュウは鼻で笑って、前を向いたまま言った。
「気にすんな。——こいつは味方だ」
炎と闇が、呼吸を合わせ始める。
紅蓮掌の炎柱がゾンビの列を縦に裂き、リヴィアの黒閃が横糸を断つ。
グイ・トンの蹴りが散らした風刃を、ラン・ファの制御炎が拾って関節だけを焼き抜く。
背後、アシュの火弾が跳弾で狭間を潰し、ネロの青いドームの輪郭が味方の誤射を吸い取る。
「帯域、下げます。炎、右へ二度!」
「了解」ハオ・レンの声が重なり、紅蓮掌全体の炎相が一段低く揃う。
熱が無駄なく流れ、谷の空気そのものが“操られて”いく。
「——右、崩した。前へ!」
リュウの一喝で、紅蓮掌が一段下の棚へ跳ぶ。
リヴィアは崖面に掌を当て、魔素の流れを聞いた。
(奥だ。谷は続いてる)
黒豹の影が肩を撫で、彼女は走る。焔の縁を、風の道だけ選んで。
帝国兵たちも、もう怖れてはいなかった。
「行けるぞ!」「紅蓮掌と黒翼に続けぇ!」
怒号が風に乗り、銃声と掛け声が重なる。
谷は、いつの間にか“帝国の道”になっていた。
⸻
谷の奥が、ひらけた。
岩壁に穿たれた古い砦。
石造りの門には、青い紋が回転している。
バルゼンの術士が並び、斜面の上段には魔導砲。
砦の向こうへ、細い橋が一本、峡谷を跨いでいた。
「……面倒だな」
カラムが舌打ちするより早く、リヴィアが一歩、出た。
レイピアを鎖骨の高さ、刃先を低く。息を一拍、吸って止める。
闇色の粒子が刃の先で凝り、周囲の音が遠のいた。
「黒閃」
黒い糸はまっすぐではない。
符核と符核の“結び目”だけを拾い、静かに断つ。
門の文様が一瞬、逆回転し、光が消えた。
防御結界が、音もなく落ちる。
「——今!」
レイリンが走り込む。掌を引き、腰ごと捻る。
拳が空気ごと燃え、正面を殴り抜いた。
「炎帝拳ッ!」
灼熱の衝撃が石門を粉砕し、内側の陣兵をまとめて吹き飛ばす。
熱風が頬を打ち、リヴィアは思わず目を細めた。
「派手ね」
「あんたが地味すぎるのよ」
レイリンが笑い、二人は同時に踏み込んだ。
上段の魔導砲が口を開く。
「アシュ!」
「任せろ!」
火球が斜面で二度跳ね、砲身の根を穿つ。
もう一門がこちらへ照準を——
「反相、付けます」ネロの声。青い軌が砲口に薄膜を張り、圧縮魔弾の位相が“ずれる”。
狙いが甘くなった瞬間、グイ・トンの足が砲手の側頭部に無音で入った。
門内へ。
細い中庭、狭い階段。
バルゼンの術士が必死に詠唱するが、黒閃は“言葉の結び目”から斬る。
呪が途中でほどけ、口の中で霧になる。
リヴィアは躊躇わない。
(——もう、止まらない)
刃は迷いではなく、道を切り拓くためのものだ。
砦の中心に掲げられていた青旗が、燃え落ちた。
代わりに、黒地に双翼の紋が、小さく、風に噛む。
「制圧完了!」
誰かの声が上がり、谷に遅れて歓声が伝播する。
レイリンがリヴィアの肩を軽く叩いた。
「悪くないじゃない、闇の人」
「あなたもね。少し——暑いけれど」
「ふふ。あたしたちは太陽だから」
少し離れた高台で、リュウが二人を見下ろしていた。
炎を背に、薄く笑う。
「……影の黒翼、か。噂以上だな」
リヴィアは答えず、遠い方角を見た。
燃える砦の向こう、風は細く、冷たい。
そのとき、カラムが駆けてきた。肩で息をしながらも、親指を立てる。
「よくやった。——黒翼、離脱準備だ」
「もう?」ミン・シアが頬を膨らませる。
「俺たちは“道を開ける”のが仕事だ。占領は正規軍に任せる」
ラン・ファが短く頷く。「合理的」
リュウが片手を上げた。
「黒翼、礼を言う。次は、俺たちが先に行く」
カラムが肩をすくめる。「好きにしろ」
リヴィアは一瞬だけ、男の瞳を見た。
炎の奥に、氷のような無表情が沈んでいる。
風が走り、谷の煙を薄く裂いた。
歓声と、軍楽の遠い音。
黒翼の影は焚き火の輪から半歩だけ離れ、やがて炎の明かりの外へ消えた。
⸻
撤収の列が山道を戻るころ、空はようやく朝の色になった。
リヴィアは振り返らない。
谷底の黒い煙が風で千切れ、霧に溶けていく。
胸元の銀が、衣の下で小さく触れ合った。
風は静かに吹き、闇は静かに寄り添う。
⸻
【帝都・軍務評議会】
白と黒の大理石が敷かれた長卓。
議員の襟章が一斉に光り、書記の羽根ペンが一斉に走る。
壁の時計は秒針を持たない。ただ時を“示すだけ”の飾りだ。
「次、バルゼン南部戦況」
軍務議長の乾いた声。
特務課席から、グレイが立つ。
「黒翼分隊および帝国直属・紅蓮掌が先導。
前線は谷を突破、砦を制圧。損耗率、全体で2.7%。敵の主力はアークリベレーター改良種。
黒翼は遮蔽解除と術式切断、紅蓮掌は殲滅を担当。以上です」
控えめな拍手が、卓上で小さく連鎖した。
誰も、血と煙の匂いを知らない手の音。
「グレイ君の部隊が大活躍みたいだね」
上座の老議員が穏やかに言う。
「諜報部隊にしては少し目立ちすぎやしないか」
会議が終わる。廊下の大窓から、灰色の帝都が見える。
背後で足音。気配が止まる。
「よくやったな、少佐」
柔らかな声と、冷たい目。ヴァルグレイス将軍が立っていた。
「民は英雄を求める。
黒翼は影でいい。——影は光を際立たせる」
「どうゆう意味でしょうか。」
グレイが短く返す。
ヴァルグレイスは、笑った。笑みに温度はない。
「目的を見失うなという事だ。」
将軍が去り、廊下に風が通った。
グレイは懐から二つの書類を取り出す。
——現場戦果報告と、議会配布版。
数字が違う。戦死者四十二名が、配布版では四名に。
破壊規模、功績の配分、全てが“都合のいい形”へ整えられている。
(誰が、どこで、なぜ)
書記官長の署名——ディルク・ハイゼン。
グレイは書類を丁寧に折り、内ポケットへ戻した。
「少佐」
エレナが現れる。小声、早足。
「それ、深入りは——」
「する」
短い一言に、彼女は目を伏せた。
⸻
【バルゼン北部・廃教会/革命軍潜伏地】
割れたステンドグラスから、白い霧が差し込む。
ろうそくの炎が、風の通り道を示していた。
「……帝国が押しています」
セリウスが膝をつき、卓上へ汚れた地図を広げた。
血の指跡が、谷と砦をなぞる。
長身の男が、片眼鏡の奥から地図を覗く。カイゼン・アドラー。
「そうか。まだ早いな、帝国が勝つには」
「計画に、移るのですか」
セリウスの声は低い。
「どこまでやる」
カイゼンは蝋を指で潰し、火を指先で消した。
「バルゼンを救わねば」
静かな声が、廃墟に落ちる。
「次の合図で、南の“塔”を叩く。——目を醒まさせるためにな」
セリウスは拳を握った。
バルゼンの風が、割れた窓から吹き込む。
遠くで、炎の匂いがした。
(リヴィア……君は、どこまで行く)
霧が鐘楼を撫で、鳴らぬ鐘が微かに揺れた。
帝国の勝利の歌が、遥か遠くで小さく響く。
そして、別の歌が、静かに始まろうとしていた。




