出撃
夜明け前の帝都は、まだ淡く青い霧に包まれていた。
黒翼の隊舎前に、黒いマントを羽織った五人が静かに並ぶ。
冷たい風が頬を撫でるたび、緊張と静寂が肌に沁みる。
「全員、揃ってるな」
カラムの低い声が響き、隊員たちが一斉に敬礼する。
ジンがヘリのローターを回しながら叫んだ。
「準備オーケーだ!北方へは直行、気流が荒いからしっかり掴まってろ!」
金属の軋む音とともに、黒い輸送ヘリがゆっくりと浮かび上がる。
帝都の光が遠ざかり、眼下には雪を冠した山々が広がっていく。
「……本当に行くのね。戦場へ」
リズがぽつりと呟く。
「俺たちは軍人。戦争が存在意義だ。」
アシュが口の端で笑い、銃の装填を確かめた。
「過激過ぎるのよあなた。」
リズが(ここにリズの表情を入れる)
ネロは黙って端末を操作している。
その目の下には深い隈があり、緊張を隠せない。
「ネロ、寝てないの?」
「……感知範囲を広げるための調整中です。バルゼンの地脈は特殊なので」
リヴィアは黙ってその言葉を聞いていた。
窓の外、遠くに見える白い霧の山脈――そこがバルゼン。
かつてエルデナの北方国と交易していた国。
だが今は、戦火に飲み込まれた廃墟に過ぎない。
カラムが短く地図を広げる。
「帝国の北限がここ。バルゼンはそのさらに山の向こうだ。寒冷地帯で、標高は2000を超える」
「……寒そうね。」リヴィアが呟く。
彼女の吐息が白く曇る。
その指先には、あのペンダントが光っていた。
ヘリが止まったのは、雪混じりの風が吹く岩場だった。
霧が厚く、数メートル先も霞んで見えない上に足場も悪い。
「ここが……前線?」
リヴィアは息を呑む。
あたりには傷だらけの兵士たち。
肩を撃たれた者、凍傷に倒れた者、誰もが生気を失っていた。
医療班が手当てをしているが、その目に光はなかった。
「戦線はまだ先だ。」カラムが低く呟く。
リヴィアは目を伏せた。
(まるで……あの日のエルデナと同じ。)
崩れた建物、焦げた旗、泣き声。
10年前の惨劇が脳裏をよぎり、息が詰まる。
「おい、リヴィア」
カラムが肩に手を置いた。
「無理すんな。ここじゃ誰でも震える」
「……大丈夫です。」
リヴィアはかすかに微笑んだが、その指先は冷たく震えていた。
黒翼は進軍を開始する。
霧の中、ネロが魔導端末を起動する。
淡い青光が地面を走り、周囲に半透明のドームが展開した。
「魔力感知、展開。範囲半径……約60メートル」
霧の中の魔素の流れが視覚化され、地形が地図のように浮かび上がる。
リヴィアは目を見張った。
「これが、あなたの“視界”なのね」
ネロは少し照れたように笑う。
「魔力量が多いあなたなら……もっと広く見えるはずです」
彼の声に、リヴィアは胸が少しだけ温かくなった。
前方から激しい爆発音が響く。
土煙の中、帝国兵たちが必死に砲撃と銃撃を続けていた。
しかし敵陣地は見えない。
霧が濃く、魔法障壁が張られている。
魔法弾が空を裂き、帝国兵を次々と吹き飛ばしていく。
「まるで壁みたいだ……」アシュが舌打ちする。
「このままじゃ前に出れねぇ!」リズが叫ぶ。
その時だった。
リヴィアが一歩、前に出た。
「私がやる」
カラムが驚いて振り返る。
「待て、リヴィア!ここは――」
しかし彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
リヴィアの周囲から黒い魔力が立ち込める。
――風が、止まった。
次の瞬間、リヴィアの周囲に黒い光が渦を巻く。
空気が震え、地面が軋む。
闇が波紋のように広がり、霧を一瞬で吹き飛ばした。
霧が裂けた瞬間、敵陣の実体があらわになった。
段丘状に掘り込まれた塹壕、岩肌に食い込む黒鉄の杭――**増幅杭が三十メートル間隔で打ち込まれ、その周囲に魔素導線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
背後の斜面には、崩れた修道院跡を利用した転写砲**が四門。口元に淡青の紋が回転し、魔弾を圧縮していた。
「今だ、撃てぇッ!」カラムが咆哮。
アシュが両拳銃の安全装置を親指で弾き、腕を交差して引き金を絞る。
「バースト・ケルン!」
円錐状に収束した火炎弾が二条、最前列の増幅杭へ突き刺さる。炎は杭のルーンを逆走して内部に侵入、中空の符核を過熱させて炸裂させた。爆圧で周囲の土嚢がめくれ上がり、兵が尻もちをつく。
「右二本、落ちた!」リズが駆ける。
踵で雪を散らし、低い姿勢から斜め上へ膝蹴り。その刹那、脛からふくらはぎに雷が纏う。
「ライトニング・エッジ!」
彼女の軌跡が稲妻の破線となって増幅杭の根元を断ち、基台の符を焼き切る。負荷を失った魔素導線がビーンと悲鳴のように鳴って消えた。
「左斜面に転写砲、四門!」ネロが端末を叩く。
「魔素密度が斜面の裏へ逃げてます、補助陣がある! 距離六十、丘の窪み!」
ドームの内壁に地形線描が走り、見えないくぼみが青線で浮上する。
「取る!」カラムが両手を広げ、指で空間を掴むように捻った。
土が縦に裂けて立ち上がり、板のように形を変える。
「テラ・バスティオン!」
土板は盾となって兵の前へ滑り込み、直後に転写砲の魔弾が叩きつけられる。白磁の破片のような魔光が弾け飛ぶが、盾は風圧の支柱で裏打ちされ、破れない。
「アシュ、右の砲口を沈黙させろ!」
「了解!」
アシュが滑り込みながら跳弾軌道で二連射。火炎弾は岩壁で角度を変え、砲身の根元に吸い込まれて内部爆発を起こした。砲手が吹き飛び、砲架が横倒しになる。
正面、霧が再び濃くなる。
装置側から逆相の霧が噴き出していた。魔法障壁の位相ずらしだ。
リヴィアが一歩前に出る。
レイピアを鎖骨の高さでわずかに構え、呼吸を一拍――吸って、止める。
刃先に闇色の粒子が集まり、周囲の音が吸い込まれる。雪のざらつき、兵の荒い息、遠雷の低鳴――すべてが遠のく。
「――黒閃」
音がない。
漆黒の線は、世界の“縫い目”だけを正確に切断していく。
まず増幅杭の符核が静かに割れ、続いて背面の補助陣の結び目が解け、最後に転写砲の符文回転が止まった。
遅れて轟音。切断されたエーテルラインが火花を散らし、各所で連鎖的にオーバーフロー爆発が起きる。
「―――ッ、今の、見えたか?」帝国兵が呟き、誰かが十字を切る。
ネロが青ざめた声で告げる。
「魔素流、逆流してます……地脈に戻るんじゃなく、地表に湧き出してる。ガルディアンスパイン(古代結界)が逆共鳴を起こして――」
空気がぐにゃりと歪んだ。
アシュの火焔が横に滑る。リズの稲妻がしぶきのように散って地面を焦がすだけになる。
「全員、下がれ!」カラムが盾を展開して兵を押し返す。
「だめだ、この帯域じゃ術式が噛み合わない!」
「――私が行く」
リヴィアが前へ。霧の奥、黒い装置群のさらに先、地脈の節がある。肌でわかる。
(ここを、抑えればいい)
レイピアを腰の低い構えに落とす。
靴裏が雪を噛む。一歩、二歩、そして消えた。
黒の残光だけが線条となって走る。
彼女の身体は闇のベクトルに分解され、次の瞬間には装置の真上にいた。
「黒閃・斑」
刃先から無数の細線が扇状に広がり、装置の符文層だけを精密に穿つ。
爆発は起きない――起こさせない。
断たれた回路は沈黙し、増幅機はただの鉄塊へ戻る。
だが地面が吠える。
地脈の節そのものが怒り、黒い渦が噴き上がる。
気温が一瞬で下がり、雪が内側へ吸い込まれていく。
「戻れリヴィア!」アシュの叫び。
届かない。
彼女は刃を伏せ、地を突いた。
「――黒渦」
闇のうねりが渦の芯を形成し、反転した魔素流を抱き込んで固定する。
周辺の乱流が収束し、暴走帯域がひとつの井戸に押し込められていく。
「固定、三十秒……いまなら行ける!」ネロが叫ぶ。
「突撃! 右面の段丘、駆け上がれ!」カラムが風柱で兵の背を押す。
アシュが上段から火力を撒き、リズが段差ごとに雷を落として敵の膝を抜く。
帝国兵が怒号を上げ、塹壕を越える。
白旗が一本、また一本と上がった。
渦が静まり、黒い霧がゆっくり濃く降りてくる。
その帳を押し分けるように、リヴィアが歩み出た。
制服の袖は裂け、前髪が頬にかかる。呼吸は整っている。目は凪いでいる。
「――兵器の一部、破壊完了。前進を」
沈黙。次いで歓声。
帝国の旗が前哨拠点の砦に掲げられ、戦線は初めて北へ一段、押し上がった。
リズが駆け寄り、興奮で頬を紅くして叫ぶ。
「見た!? いまの制御、どうやって――」
「後で分解する」アシュが肩で息をしながらもニヤリとする。
「助かったぜ、闇の剣士」
カラムはただ一度、無言で親指を立てた。
遠くで軍楽がかすかに鳴り、雪煙の向こうで夜の狼煙が上がった。
――バルゼン前哨、陥落。
黒翼、初戦にして戦線を動かす。
夜。奪還した拠点に灯がともる。
焚き火の周囲で兵士たちは酒を酌み交わし、歌を歌っていた。
カラムが笑いながらジョッキを掲げる。
「リヴィア、お前のおかげだ!今夜は飲め!」
リズが肩を叩く。
「もう少しで私も焦げるところだったけどね!」
アシュは無言で酒瓶を差し出す。
「……よくやったな」
リヴィアは少し驚きながらも、それを受け取った。
酒が喉を通る。
温かい。久しく感じていなかった“生”の実感。
(悪くない……この感覚。)
火の粉が夜空に舞い上がり、星のように消えていく。
奪還した拠点に夜が訪れた。
吹き抜ける冷たい山風に混じって、焚き火のぱちぱちと弾ける音が響く。
薄い空気の中でも、戦線の兵士たちは笑っていた。
勝利の酒は、疲れを忘れさせる唯一の魔法だった。
カラムが大きなジョッキを掲げる。
「おい、黒翼!そして新入りのリヴィア・ノクス! この勝利はお前のおかげだ!」
兵士たちの歓声が一斉に上がる。
「うおおおおっ!黒翼万歳!」「闇の女神に感謝を!」
焚き火の炎が弾け、夜空に火の粉が舞った。
リヴィアは少し居心地悪そうに笑いながら、カラムから酒瓶を受け取る。
「……私は、ただやるべきことをしただけよ」
「そういうのを“やるべきことをやった”とは言わねぇんだ」
カラムが笑いながら豪快にジョッキを鳴らす。
「お前が霧を吹き飛ばした瞬間、みんな動いたんだ。あれが“黒翼”の始まりさ。」
アシュが横でため息をついた。
「おいリヴィア、あれはマジで化け物じみてたぞ。あんな魔力放出、初めて見た」
「……褒めてるの?」
「当たり前だ。あんたが敵じゃなくてよかった」
アシュは苦笑しながら銃を撫でる。「ま、オレの火炎弾もなかなかだったけどな」
リズがその隣で小突く。
「自分のこと褒めるの早すぎ。リヴィアさんの方がずっとカッコよかったわよ!」
「はぁ?お前見えてたのかよ霧の中で!」
「感電するくらいの距離まではね♪」
二人が軽口を交わすのを見て、リヴィアは小さく笑った。
ネロが端で静かに端末をいじっているのを見て、リヴィアは声をかける。
「あなたも休んだら?」
「いえ……戦闘後の魔力分布を解析してて。リヴィアさんが放った“黒閃”の波形、興味深いです」
「波形?」
「はい。普通の魔導波は円状に広がるんですが、あなたのは“逆流”してる。中心に向かって魔素を吸い込んでるんです。まるで……空間そのものが反転してるみたいに」
リヴィアは少し眉を寄せた。
「それは……危険ってこと?」
ネロは首を振る。
「いえ、制御されていました。あなたの体が“闇”に馴染んでるだけです」
その言葉に、リヴィアは一瞬言葉を失った。
(――闇に、馴染んでいる。)
嫌な響きなのに、不思議と胸の奥にすっと沈み込んでいく感覚があった。
カラムが大声で割って入る。
「小難しい話はあとだ!飲め!食え!明日はどうせ地獄だ!」
リズが皿を差し出す。
「焼き獣肉、ジンの特製だって。食べてみて!」
「……ジンって整備士の?」
「そうそう、意外と料理うまいのよ。たまに焦がすけど」
リヴィアは一口かじり、ふっと微笑んだ。
「……悪くないわね」
「でしょ?帝国の飯の中では上等よ」
リズが嬉しそうに頷いた。
やがて夜は更けていった。
笑い声と歌声が風に混ざり、戦場とは思えない穏やかな時間が流れる。
その中で、リヴィアは焚き火の明かりを見つめながら、ひとり静かに考えていた。
(……悪くない。この感じ。みんなの笑顔。
だけど――。)
焚き火の光がペンダントに反射し、小さな閃光を放った。
その光は、どこか懐かしい“温もり”のようでもあった。
兵士たちが眠りについたあと、静かな夜が訪れる。
黒翼の宿営テントの外で、リヴィアはひとり夜空を仰いでいた。
山々の向こうに、淡い北極光のような光が揺らめいている。
そこへ、カラムが酒瓶を片手にやってきた。
「眠れねぇか」
「……少し、目が冴えて」
カラムはリヴィアの隣に座り、酒瓶を差し出した。
「飲め。冷えるだろ」
「ありがとう」
二人の間に沈黙が落ちた。
焚き火の残り火が、赤く弱々しく光る。
「お前、戦場慣れしてねぇ顔してたな」
「……10年前に、全部見たわ。燃える国も、死んでいく人たちも」
リヴィアの声は、どこか遠い。
カラムは少し黙り、やがて低く言った。
「それでも前に出た。偉いよ」
「……怖かったわ。足がすくんで。でも、動かずにいられなかった」
「そういう人間が、戦場を変えるんだ」
カラムの言葉に、リヴィアはわずかに笑った。
(この人……見た目よりずっと、優しいのね。)
その時、少し離れたテントからリズとアシュの言い争う声が聞こえてきた。
「おい、布団取り合うなって言ってるだろ!」
「寒いんだからしょうがないでしょ!アンタのが厚手なんだから分けなさいよ!」
「俺の方がデカいんだから必要なんだよ!」
カラムが吹き出す。
「ははっ、あいつら、今日も元気だな」
「……賑やかで、いいわね」
「お前もそのうち混ざれ」
「……考えとくわ」
風が少しだけやみ、空に星が浮かぶ。
リヴィアは静かに立ち上がり、ペンダントを握った。
「……ありがとう。少し、眠れそう」
「そうか。じゃあ、また明日だ」
「ええ、カラム。」
夜風の中、焚き火の最後の火が小さく消える。
その瞬間、リヴィアの胸にかすかな決意が芽生えていた。
――この人たちを、もう二度と失わないように。
壁時計の針が、午前二時を指していた。
静まり返った廊下の先、執務室の扉がノックされる。
「失礼します、少佐。」
エレナが入室し、報告書を差し出した。
わずかに乱れた呼吸が、ここまで走ってきたことを物語っている。
グレイは書類を受け取り、視線を落とす。
「……黒翼、初戦でバルゼン前哨を制圧。損害、軽微。」
短く息を吐く。
「そうか。」
ほんの一瞬、口元がわずかに緩む。
エレナが眉をひそめる。
「少佐……まるで驚いていないようですね。」
「驚く理由がない。――リヴィアがいたんだ。」
「……彼女ですか。」
エレナの声に、微かに棘が混じった。
「確かに、戦果は見事です。しかし、報告を見る限り――制御不能寸前だったとか。
あの力は危険です。あの女は……また、同じことを繰り返すかもしれません。」
グレイは報告書を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
背を向けたまま、窓の外を見た。
「エレナ、危険を恐れるなら、戦場には立てない。」
「……っ」
「だが、あいつは立った。十年前と同じように。
それだけで十分だ。」
淡々とした言葉の奥に、確かな誇りがあった。
グレイは窓の向こう――遠い北方の空を見つめる。
まだ夜明け前の、暗く静かな空。
「リヴィアこれで前に進めたな。」
エレナは沈黙したまま視線を落とした。
だがその表情には、悔しさと、どこか安堵にも似た影が宿っていた。




