決意の朝
――聖暦一〇三四年。
天界と人間界、そして魔界。
三つの世界が存在した。
天界に住む住人たちはその昔、人間という存在を作り、力を与えた。
力の残骸が集まり、人ならざる者が生まれ、魔界が誕生した。
人間界では、かつて“魔法”が学問と信仰の中心にあったが、
いまや工学と軍事がそれに取って代わり、魔素は資源として採掘・管理される。
魔導学院は減り、工廠が増え、人は魔法よりも機械を信じるようになった。
今、人間界の中心にあるディナシア帝国は、
かつての信仰と魔法の時代を過去のものとし、
力と支配の時代へと進みつつあった。
だがその繁栄の影で、滅びの種は静かに育ち、
ひとりの“異端”が世界の構図を書き換えようとしていた。
――闇に、風が吹いた。
焦げた鉄と血の匂いが、肺の奥に張りつく。
地平線の向こうで爆炎が弾け、焼けた大地が赤く脈動していた。
泣き声も、叫びも、もう遠い。
リヴィアは焦土の上で立ち尽くしていた。
制服は裂け、片袖には同級生の血が乾いてこびりついている。
足元には、共に笑い、共に魔法を学んだ仲間の亡骸。
彼女の胸元のバッジには、かつて所属した学園の紋章――
**「エルデナ王立魔導学院」**の刻印。
それは、穏やかで誇らしい日々の象徴だった。
リヴィア、グレイ、そしてセリウス。
三人は同じ教室で魔法を学び、
時に競い、時に語り合った。
グレイは頭脳明晰で戦術理論に長けた青年。
セリウスは、誰よりも正義感が強く、仲間を想う男。
リヴィアは、誰よりも真っ直ぐに魔法を信じていた。
――それが、帝国の侵攻までは。
偽りの情報によって「エルデナが帝国を滅ぼす兵器を作っている」と喧伝され、
帝国議会は開戦を宣言。
平和と学術の国エルデナは、一夜にして焦土と化した。
空を覆う砲火。
魔法を無効化する未知の兵器。
抵抗する間もなく、王都は陥落した。
そして今――
リヴィアの足元に広がるのは、滅んだエルデナの残骸だった。
「……やめて……もう、やめて……」
呟きは風に呑まれた。
夜空を裂くように無数の魔法が交錯し、
炎の嵐が世界を呑み込む。
背後から、聞き慣れた声が聞こえた。
――セリウスの声。
「リヴィア、下がれッ!」
その瞬間、轟音。
視界が反転し、地面が崩れ、彼女は瓦礫の中に呑まれた。
炎と風が混ざり、赤と黒が融けあう。
世界が焼け落ちていく中――
リヴィアの瞳に最後に映ったのは、
すべてを巻き上げる突風。
それは怒号のように荒れ狂いながらも、どこか温かく、
まるで彼女を包み込むように吹き抜けた。
彼女は、その一瞬の“ぬくもり”を胸に、意識を手放した。
それが、エルデナ王国の終焉の日だった。
「……また、あの夢。」
リヴィアはゆっくりと瞼を開いた。
視界に映るのは、天井の古い木目。
軋む音を立てながら、隙間風がカーテンを揺らす。
朝の光は灰色で、遠くから工場の汽笛が響いていた。
時計の針は六時三十分。時計の音だけが、部屋の静寂を刻む。
リヴィア・ノクス――28歳。
エルデナ王国出身の元魔法使い。
十年前、祖国の滅亡とともにすべてを失い、
今はディナシア帝国首都レグニアの外縁工業地帯で、
小さな金属加工工場の事務員として働いている。
職場の名は、「第七魔鉄鉱精錬工場」。
帝国軍の兵器部門に資材を納める国家指定工場だ。
魔素を含んだ鉱石“魔鉄鉱”を精錬し、
軍用装備の材料や魔導兵器の動力源を生み出す場所。
その過程を支える膨大な事務処理の中で、
リヴィアはただの一事務員として日々を過ごしている。
――誰も知らない。
この小柄な女性が、かつて帝国を震え上がらせた魔法国家の生き残りであることを。
そして、彼女がいまだに**魔力を秘めた“魔法使い”**であることを。
胸元で静かに揺れる、小さな銀のペンダント。
エルデナ王国の紋章が記されたそれは、今や意味を持たないただの銀細工。
だが彼女にとって、それは――過去に囚われ続けている自分の象徴だった。
呟きながら、彼女は冷めたパンを口に運び、
古びたコートを羽織って外に出た。
⸻
灰色の空の下、鉄橋を列車が駆け抜ける。
車窓の外では、無数の煙突が一斉に煙を吐いていた。
摩天楼群が遠く霞み、朝霧の中にぼんやりと溶けていく。
この街――ディナシア帝国首都レグニア。
五つの副都市を従える巨大都市国家。
中心には、摩天楼の群れがそびえ、
その中央には“グランドアーカム”と呼ばれる塔が天を突いている。
貴族と議員が暮らす高層区、
兵器工場と研究所が密集する中層区、
そして、民衆が肩を寄せ合う暗い下層区。
秩序と繁栄の帝国――その言葉の裏に、無数の犠牲が積み重ねられていた。
街を満たすのは、機械油と鉄の匂い。
魔法よりも工学が優先され、「効率」と「生産性」が人の価値を測る時代。
列車の車内では、誰も話さない。
誰もが灰色の顔をして、決められた線路の上を走る。
リヴィアは窓の外を見つめた。
心のどこかで、遠い昔――“魔法が世界を照らしていた時代”を思い出していた。
⸻
「次は、第七プラント前――」
車内アナウンスが響き、リヴィアは無言で立ち上がった。
プラットフォームに降りると、冷たい風が顔を撫でた。
鉄の匂いと油の臭いが混じり、遠くのサイレンが工場の始業を告げている。
彼女が働く第七プラントは、帝国の軍事産業の中でも古い工場で、
魔鉄鉱の精錬と管理を行う補給線の最末端。
軍の施設に近いにもかかわらず、給料は安く、作業員の多くは下層民出身。
「おはようございます、リヴィアさん」
「……おはようございます」
彼女は小さく会釈し、古い帳簿の積まれた事務棟へ入った。
机の上に並ぶ魔導式の打刻機と、黒いインク瓶。
壁には「効率と秩序こそ帝国の繁栄」という標語。
そこに込められた皮肉に、誰も気づかないふりをしていた。
リヴィアは黙々と書類を捌いた。
時折、胸元のペンダントが淡く光り、
そのたびに周囲の魔素が微かに揺れる。
それでも、誰も気づかない。
(……もう十年。まだ、何も変わらない。)
かつて“天才魔導士”と呼ばれた少女は、今や歯車の一つに過ぎなかった。
⸻
午後三時。
事務所の扉が開き、上司が顔を覗かせた。
「リヴィア・ノクス、工場長がお呼びだ」
「……はい」
(私が? ……なぜ今、工場長室に?)
隣の席の同僚が一瞬だけこちらを見る。
不祥事か、とでも言いたげな視線。胸の奥がわずかに冷える。
書類を整え、リヴィアは立ち上がる。
廊下の奥、古びた金属の扉の前で立ち止まる。
ノックすると、低い声が返った。
「入れ。」
扉を開く。
室内は暗く、奥の窓から外光がわずかに差し込む。
机の前に、背の高い男が立っていた。
彼が振り返る。
「……久しぶりだな、リヴィア。」
時間が止まった。
見間違えることなどない。
あの日の戦場で、血と炎の中にいた青年。
「……グレイ?」
男は一歩、前に出た。
軍服は以前よりも重厚で、肩章には帝国の双翼紋章が光っていた。
冷たい灰色の瞳――だが、かつてと同じ優しさが宿っている。
「ここで働いていたとはな。」
「あなたが……どうして。」
「話がある。」
グレイは椅子を引き、リヴィアを座らせた。
⸻
「俺は今、帝国軍の特務課 直属・黒翼分隊にいる。
お前を、そこに迎え入れたい。」
「……冗談でしょう。」
リヴィアは淡く笑った。
灰色の光が頬を撫でる。
「戦争は終わったのよ。
あの時で、全部……終わったはず。」
「終わっていない。」
グレイの声は静かだった。
「帝国は内部で腐っている。議会も軍も、操られている。」
「操られている?」
「――セリウスが動いている。」
その名を聞いた瞬間、リヴィアの瞳が僅かに揺れた。
「……セリウスが?」
「エルデナ侵攻は、ただの領土戦争じゃない。
“あの戦争”には、裏がある。
セリウスはそれを知って、帝国に背を向けた。
今は帝国への反乱勢力“リバースオーダー”の幹部として動いている。」
リヴィアは息を呑んだ。
胸の奥で、遠い記憶が軋む。
焼け落ちた空。仲間の叫び。崩れた大地に沈む母国――。
「……どうして、あなたがそれを。」
「調べた。
俺は帝国の中で“腐敗の根”を探している。
セリウスは外から、俺は内から。
……それぞれ、前に進んでいる。」
「前に……進んでいる……?」
グレイは少し目を伏せ、リヴィアを見据えた。
「リヴィア。お前だけが、止まっているんじゃないのか。」
その一言が、鋭く胸に突き刺さる。
リヴィアは唇を噛みしめた。
外の汽笛が鳴り、灰色の光が窓を照らした。
彼女は小さく呟いた。
「……そんなつもりじゃ、ないのに。」
グレイは立ち上がり、扉へ向かう。
「待ってるぞ。――考えておいてくれ。」
扉が閉まる音が、重く響いた。
⸻
リヴィアは電車の窓に映る自分を見つめていた。
灰色の瞳、疲れた頬。
かつて“エルデナの天才少女”と呼ばれた面影は、もうどこにもない。
(……前に進む、か。)
――止まっているのは、自分だけだ。
⸻
夜。
リヴィアの部屋の窓辺に、灰色の風が吹いた。
テーブルの上には新聞。
セリウスの記事が赤い見出しで躍っている。
胸元のペンダントが、微かに震えた。
淡く光りながら、そこから漏れる魔素が静かに揺れる。
(……もう、逃げられない。)
摩天楼の向こう、グランドアーカムの影が霞んで見えた。
リヴィアはゆっくりと瞼を閉じた。
風は――まだ吹かない。
だが、世界の歯車は、確かに音を立てて動き始めていた。
灰色の光が差し込む執務室。
グレイが去ったあとも、リヴィアはしばらく動けなかった。
机の上には、彼が置いていった一枚の名刺。
「帝国軍特務課 直属・黒翼分隊 隊長 グレイ・アークライト」
その肩書きが、今も夢のように現実味を帯びない。
彼女はゆっくりと名刺を指先で撫で、
机の隅に置かれたインクの染みた書類に視線を落とした。
「……前に進む、か。」
小さく呟き、立ち上がる。
窓の外では、鉄の煙突が夕日に染まり、
レグニアの空は灰と橙の混ざり合った色をしていた。
⸻
工場を出ると、すでに空気は夜の匂いを帯びていた。
遠くの煙突が白い煙を上げ、
風もなく、ただ重たい空気が街を包み込んでいる。
リヴィアは駅へと歩きながら、ペンダントに触れた。
冷たい金属の感触。
それは、あの戦場で最後に見た「風」の温もりを思い出させる。
(……どうして今になって。)
彼がなぜ、今このタイミングで自分を呼んだのか。
なぜ、あの日のことを知っているのか。
そして――なぜ、セリウスの名を出したのか。
胸の奥がざわめいた。
過去と現在が、静かに重なり合う。
⸻
車内は薄暗く、乗客のほとんどが黙り込んでいた。
窓の外には、工場群の明かりが遠く流れていく。
鉄と油の匂い。規則的な車輪の音。
彼女は無意識にポケットへ手を入れた。
中には、グレイから渡された名刺がある。
視線を前に向けた瞬間、
車内の広告掲示板に貼られたポスターが目に留まる。
「革命軍幹部 セリウス・クレイド ――国家転覆容疑」
その名を見た瞬間、心臓が跳ねた。
写真に写る男は、少しやつれ、
かつてよりも険しい目をしていたが――間違いない。
(……セリウス……)
列車の音が遠のく。
周囲のざわめきが消え、
その文字だけが、頭の中で何度も反響した。
「――テロリスト」
彼の名の横に書かれたその言葉が、
まるで彼女自身の過去を断罪するようだった。
⸻
夜の住宅街は、灯りも少なく、
赤錆びた街灯の下で影が細く伸びている。
部屋のドアを開けると、冷たい空気が迎えた。
暖房もつけていない狭い部屋。
机の上に置かれた新聞を広げる。
一面には大きく、
「革命軍“リバースオーダー”、首都近郊で爆破テロ」
という見出し。
小さな写真。
その中心に――セリウス。
「……本当に……あなたなの?」
声が震えた。
新聞を握る手がわずかに震え、
その下で、ペンダントが静かに揺れる。
ガラス越しに覗く夜の街は、灰色の霧に包まれていた。
遠くの高層区には、帝国議会の塔“グランドアーカム”が、
冷たく輝いている。
リヴィアはカーテンを閉め、ベッドに腰を下ろした。
(セリウス……あの人が、テロリスト……?)
目を閉じる。
記憶の奥底で、彼の声が蘇る。
『リヴィア、下がれッ!』
轟音。炎。風。血の匂い。
(……また、あの時の夢を見るのかもしれない。)
彼女はそう思いながら、胸元のペンダントをぎゅっと握りしめた。
金属の冷たさが、心臓の鼓動と同じリズムで脈打つ。
(止まっているのは……私の方……)
その瞬間、ペンダントがわずかに光を反射した。
それは、灰色の部屋の中で唯一の輝きだった。
翌朝。
灰色の朝靄の中、リヴィアはベッドの上でゆっくりと起き上がった。
枕元の机の上には、グレイの名刺。
その隣に置かれた新聞には、
“革命軍幹部セリウス”の名が赤く囲まれている。
彼女は無言でそれを見つめ、
胸元のペンダントをそっと握った。
(……もう、逃げない。)
静かに呟く。
窓の外では、レグニアの空にようやく風が吹いた。
埃を巻き上げるほどではない。
けれど、確かに空気が動いた。
灰色の世界に、ほんのわずかな“風”が通り抜けていった。
リヴィアの髪が揺れ、ペンダントが小さく音を立てる。
それは、十年の沈黙を破る最初の音だった。
読んでいただきありがとうございました。
長編の構想案の冒頭を投稿してみました。
反響次第で続きを投稿してみようと思います。




