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土井中クリスティーの調査日記〜独り舞台の子守唄

作者: 姫之尊

 食料品会社で食料品を開発している人々はもしかしたら天才揃いじゃないかと思い始めた今日この頃、私は相変わらず駅前のスーパーで半額シールの貼られたお惣菜やお弁当を物色していました。



 時刻はよる9時前、先程もうすぐ閉店の放送が聞こえましたが、まだお店の中にお客さんはチラホラと残っています。


 私もそのひとりで、もはや2割引きどころか半額まで来た残り少ない夕飯候補を手に取っては、「今日はハンバーグの気分じゃないかなぁ」とか「やっぱり栄養バランスも考えて野菜を」などとブツブツとひとりで呟いています。


 完全に不審者ですね。他のお客さんたちが時間に追われているおかげで助かっています。


 これが夕方でしたら、純粋で悪意なんて微塵も持っていないような幼い子どもに、「ママー、あの人ひとりでお話してるよー」なんて言われるところでしたね。実際以前言われました。

 

 その時は顔から火が出るくらい恥ずかしかったです。


 去年の秋、とある事件が解けず、普通の高校生だった不流川(ふるかわ)君に助けてもらって解決した時よりも恥ずかしかったと思います。


 彼は今高校3年生になって、受験勉強に勤しんでいるのか、時々メッセージを送って気分転換しないかお誘いをすると、『お気持ちだけいただきます!』と簡潔に返事が返ってきます。



 さて、迷った挙句、今朝食べた白ご飯がまだ炊飯器の中に残っていたことを思い出し、きんぴらごぼうと煮物とほうれん草の胡麻和えだけ買うという、なんとも質素で健康的な買い物になりました。


 といっても、私が健康志向だからとか、今はダイエット中だから肉は控えるとか、そういう理由ではありません。

 そもそも、ダイエットであれば、私は効率を追い求めるタイプなので、きちんとタンパク質は摂取します。制限するのは糖質と脂質だけです。


 要するに何故野菜だらけかと言うと、ただ肉系の惣菜が売り切れていただけです。


 唯一、動物性タンパク質として、アジの南蛮漬けが売っていましたが、何となくあまり好きじゃないので選びませんでした。



 あと缶チューハイを1本だけカゴに入れ、セルフレジに向かいました。

 チューハイは甘くないやつです。食事にはやはりプレーンに限りますね。


 最近の半額シールは、セルフレジの普及が原因なのかして、旧来の丸いシールではなく、バーコード付きのシールが増えています。


 その新しく上書きされた半額のバーコードをスキャナーに読み込ませていき、缶チューハイもスキャンしたらお支払いです。


 スマートにカードでと言いたいところでしたが、今月は限度が近いので仕方なく現金で支払いました。

 まあそもそもセルフなのでボタンを押すだけなのですが。




 日に日に財布の中を圧迫していく小銭を確認し、いつこの小銭を消費しらたいいのだろうと、無性にため息が漏れました。


「ありがとうございました」


 セルフレジをチェックしていた店員さんがお礼を言うので、軽くお辞儀して店を出ました。

 もうお客さん少ないのだから、この時間はセルフレジを停止して普通の有人レジだけにした方が時間は早いと思うのです。

 現に、あと3分程で閉店の時間ですが、振り向いて店の中を見てみると、カゴ半分くらいの商品を詰めたおじ様が今まさにセルフレジに到着しています。


 あのおじさんが実はスーパーの従業員さんで、レジは慣れているのであれば問題は無いのでしょうが、他の仕事をしている人であれば、恐らく店を出る頃には店は閉店時刻を過ぎているでしょう。


 私は、退勤が遅れるであろう店員さん達への鎮魂として、軽くお辞儀しました。


 どうか、あまり怒らないでくださいと。


 

 定時というものが無い仕事をしていると、感覚が麻痺してきますが、帰る時間が決まっているなら、その時間に帰りたい、1分でも遅れるのは嫌だと思うのが、人間の性というものでしょう。


 私がもしあのスーパーで働いていたとして、閉店間近に大量の商品を持ってセルフレジを利用する人を見つけた場合、恐らくは割り込んで強引にお会計を済ませてしまうでしょう。


 と、ギリギリの時間にスーパーで買い物する度、私は街灯と飲食店や僅かな車に照らされた街を歩きながら、考えています。


 深い理由はありません。ただ夜の道をひとりで歩くのは寂しく、なにか無駄なことでも考えて歩いていないと、家が妙に遠く感じられるからです。


 誰でもあると思います。体育でドッヂボールやサッカーをしている時は時間が過ぎるのをあっという間に感じるのに、退屈な国語とかだと50分とか45分の授業が2時間にも3時間にも感じられるあの現象が起きるのです。



 と、無駄なことを考えているおかげで、帰路は随分と短く思え、私が住むマンションの前まで到着しました。

 小さいが、一応オートロック付きなので、オートロックを解除し、エレベーターで2階に上がります。

 2階の角部屋⋯⋯ではなく、そのひとつ手前の部屋が私の部屋です。


 カバンから鍵を取り出すと、ハンカチが落ちてしまいましたが、問題なく拾い上げました。


 部屋は当然ながら真っ暗で、電気をつけると、一人暮らしにはちょうどいいくらいの1LDKの部屋は、今朝のままの様相で保存されていました。



 

 流しに無造作に置いただけのお茶碗と箸。今朝はお茶漬けでした。

 朝お茶を飲んだコップは机の上にそのままになっていて、僅かにお茶が残っています。

 カバンをダイニングの椅子に置いて、スーパーの袋を机の上に置いてから、コップの中身を捨てて、もうひとつの空いた向かいの椅子に座りました。


 ダイニングのテーブルには、椅子がふたつ備え付けられていますが、誰かが遊びに来た時はリビングの机を使ってカーペットの上に座るので、果たしてふたつ必要なのかは謎です。


 今度不流川君でも読んで食事でもしてみましょうか。まともに料理できませんけど。


 でも呼ぶとしたらさすがに冷凍食品やお惣菜を出すわけにもいかないので、修行してからになりそうです。



 朝の残りのご飯をレンジでチンしている間に、速やかに袋からお惣菜とチューハイを取り出し、レンジがチンと鳴ったのを聞き、ほんのりと温まった茶碗を机の上に置けば、食事のスタートです。


 私の家は、かなり躾には厳しかったですが、一人暮らしをしてしまえば、そんなものはクソ喰らえです。

 スマホを触りながら、不流川君に受験勉強の進捗を尋ね、お気に入りの動画を閲覧しながら食事を進めます。


 きんぴらと煮物は温めた方が良かったかもと、若干の後悔を抱いた時には、もう半分以上食べ進めていたので、諦めてチューハイで流し込みました。

 正直味としてはあまり合いませんでした。

 ここはチューハイではなく麦焼酎にでもするべきでしたでしょうか。



 なんだかんだご飯を食べ終え、後片付けをしてからシャワーを浴びると、時刻は11時近くなりました。



 部屋に飾ってある、とあるアニメのアナログ時計の短い針が11時を指すのを眺めながら、以前尾行していた男性が不倫相手とホテルに入ったと報告してから11時間後に、依頼主である男性の妻から離婚を決意するメッセージが届いたのを思い出しました。


 なぜ記憶に残っているのかといえば、本当にメッセージアプリのログで、私が浮気の証拠を送った時間と奥様の離婚決意のメッセージの時間が、1分もずれることなく11時間差で発信されていたからです。


 本当に偶然なのですが、あの時は勢いでおめでとうスタンプを送りそうになってしまいました。

 踏みとどまりましたが、もし本当に送っていたら、あの依頼主の女性はきっと、後日お礼に来ることはなかったでしょう。



 ぼんやりとテレビをつけながら、寝る準備を済ませて小さなシングルベッドに横たわりました。


 現在のテレビは、付けっぱなしにしていても一定時間操作がないと自動で消えるので助かっています。


 おかげで、テレビを見ながらの寝落ちという快感を覚えました。


 布団をかぶり、テーブルの上にリモコンを置きっぱなしにすれば、それで寝る準備は完了です。

 

 あとはテレビに映っているお笑いタレントさんが、私を安眠へと誘ってくれます。





 しかし、最近はこれに加えて、新たな音が私を高品質な睡眠へと運んでくれるのです。



 その音は、今夜も聞こえてきました。

 壁に向かってそっと耳を立てると聞こえてくる、小さなピアノの音。


 本当に小さく、私は最近、それを聞くためにテレビの音をできる限り小さくして寝るか、日によってはテレビを消しています。



 毎晩という訳ではないのですが、だいたい夜中にその音は聞こえます。


 その音は、当然私の隣の部屋から出ています。

 角部屋ではなく、その向かい側の部屋で、若い女性がひとりで暮らしています。



 名前は橋口さんで、たしか保育士さんをしているらしいです。


 なんどか顔を合わせて話したことがありますが、とても気さくな方で、以前実家のお土産だという伊勢うどんをいただきました。




 もちもちとした麺の食感が癖になり、その後しばらくはスーパーの安いうどんを買うのに抵抗があったのは、悲しい副反応でした。


 どうしてその人が夜中にピアノを弾くのかは分かりません。

 そもそも、音の大きさからして、本物のピアノではないはずです。

 恐らくは、子供が使うような小さな電子ピアノで、音をできる限り絞っているのでしょう。


 奏でられる曲は、どこかで聞いたことがあるようなないような、あやふやな物ですが、聞いているとなんだか懐かしい気持ちにさせてくれます。


 私はそのピアノの音を聞く度、記憶を遡って曲名を思い出そうとするのですが、いつも探している途中に寝てしまいました。


 朝になってから思い出しながら探しても、一向にその曲の正体は分かりません。



 いちど演奏している本人に尋ねようかとも思ったのですが、これだけ音を絞って演奏しているということは、時間やほかの要因もあって、あまり人にわけを聞かれたくないのかもしれません。


 とりあえず、私はいつも通りピアノの音色を睡眠導入剤に、夢の中へと入っていきました。






 

 このピアノの音を睡眠導入剤にしてから、寝つきが良くなった気がします。


 昨夜ご飯を炊き忘れていたので、今朝は残っていた食パンに目玉焼きを乗せて食べました。


 私は目玉焼きトーストを食べる度、先に目玉焼きを平らげた某アニメ映画のふたりは何をしてるですかとツッコミたくなるのです。




 今日は朝から相談をひとつ抱えているので、早めに外へ出ると、偶然ピアノの部屋のさらに横の部屋の住民の山口さんと目が合いました。


 そこは家族3人で暮らしていて、確か小さな男の子のお子さんがいました。


 今出てきたのは、その子のお母さんです。

 子供を保育園に送り届けた帰りなのか、ちょうど出先から帰ってきたような様子でした。


「あの、ちょっといいですか」


 珍しく、山口さんが声をかけてきました。

 いつも近隣住民とは出会ったら会釈したり挨拶するだけで、まともに話したのは橋口さんくらいしか記憶にありません。


「はい。どうしました?」


 山口さんの様子からして、それはあまり明るい話題では無さそうです。

 もしかして私が何かやらかしてしまったのかと、何も身に覚えがないのにドキドキとしてしまいました。


 山口さんは言葉を選んでいるのか、何度も瞬きしながら、すぐ側まで歩み寄ってきました。


「あの、最近夜中にお隣からピアノの音が聞こえるって息子が言ってるんですけど⋯⋯」


「ピアノ⋯⋯ですか」


「はい。私達には全然聞こえないんですが、息子は聞こえる聞こえるって」


 山口さんは、何処にも声が漏れないよう、囁くようにおっしゃいました。


 これは、ただ単に耳のいい子供には聞こえ、ご夫婦には聞き取れないと言うだけなのでしょう。

 あの音は私が壁際に耳をすませてようやく聴こえる位の音色ですから。


 さてと、私はどう答えるべきなのか、頬に手を添えながら頭を傾けて考えました。


 聞こえると言ってしまえば、もしかしたら山口さんは橋口さんに、演奏を辞めるように言うかもしれません。

 確かにそれは正当な権利でしょう。深夜に演奏なんて迷惑極まりないものですから。


 しかしそれは、山口さん本人は気づかないほど小さな音です。


 私としては、あれだけ音を小さくしても演奏したいと想っている橋口さんの心を汲んであげたい気がします。


 しかし、私が聞こえないと言ってしまえば、山口さんのお子さんは嘘をついてるとご両親から思われてしまうでしょう。

 そうなれば、山口さんのお子さんは深い傷を負ってしまうかもしれません。無論、そうなれば責任は私にあるでしょう。



「たしかに⋯⋯先日聞こえたような聞こえなかったような⋯⋯でも、あれは多分スマホか何かの動画の音がちょっと大きくなってしまったって感じだったと思います」


 考えた結果、とりあえずこの場は音自体は聞いたけれど、それが生演奏かどうかはよく分からないということにしました。


 これなら、山口さんもいちいち注意なんてしに行かないでしょうし、音が聞こえたという証言者はふたりになるので、息子さんが嘘つき呼ばわりされることもありません。


「なるほど⋯⋯そういうことですか」


 山口さんは納得してくれたのでしょうか、目線を橋口さんの部屋へ向けながら、小さく頷きました。


「すみません、朝からお引き留めしてしまって」


 そして、申し訳なさそうに私に頭を下げられました。


「いえいえ、気にしないでください。別に急いでいる訳でもないですし、そういう音が聞こえたら気になるのが集合住宅で住む人の性みたいなものですし」


 私は手を振りながら頭をあげてくださいとジェスチャーして、朝から笑顔を作ってみせました。


「そうですか⋯⋯ありがとうございます」


「はい。では私はこれで」


 そそくさと切り上げるように、別れの挨拶をして私はエレベーターに向かいました。 


エレベーターの前で振り返ってみると、山口さんは既に部屋の中へ戻って行ってたようです。


 エレベーターが来るのを待ちながら、私はどうして橋口さんが夜中にピアノを弾くのか、改めて考えてみました。


 

 ピアノを弾きたいだけなら、休日の昼間や仕事帰りの夕方や夜など、もう少し早い時間でもいいはずです。


 それなのに、彼女は決まって夜中にピアノを引きます。


 帰りが特別遅い⋯⋯というわけではなさそうで、夜中に隣の扉が開く音はほとんどしません。



 夜中の演奏にはなにか深い理由があるはず。


 私の探偵魂がメラメラと燃え上がります。






 朝から、依頼人の相談を受け、それが終わると、私はショッピングモールに繰り出しました。


 依頼内容は、やはり配偶者の浮気調査です。

 対象の名前や顔を記録し、務めている会社を聞けば、とりあえずそれで相談は終わりました。


 依頼に来た女性は、話している途中泣きそうな顔になっていました。


 この仕事をしていて学んだのですが、人が人を疑うのは愛があるゆえ⋯⋯というパターンはかなりあると思います。

 

 愛があるから信じられる。なんて単純なものではないのです。

 愛があるからこそ疑いたくなるのです。


 疑いはこうやって晴れましたよと、物理的な確証を人は求めるのです。



 その事を不流川君にメッセージで送りました。

 

 彼は今授業中でしょうから、当然返事は帰ってきません。




 ショッピングモールに来たのは、その依頼者の夫がそこで働いているからです。

 ショッピングモール内の携帯ショップで働いているというその男性は、年齢は34歳で、写真で見る限りかなり温厚そうな人で、とても浮気なんてする風には見えませんが、正直顔は全く関係ないです。


 見るからに人の良さそうな菩薩みたいな雰囲気の人でも浮気はしますし、顔に刺青が入った明らかにヤクザ関係と見て取れる人でも、奥様一筋だったりするのです。



 携帯ショップは家電量販店の中にあり、私はぶらぶらと家電を物色しながら、目的の男性を確認しました。

 

 男性は営業スマイルを引っ提げ、スマホを見に来たお客様に積極的に声をかけています。


 依頼主は職場が怪しいんじゃないかと仰っていましたが、しばらく見ていてもそのような気配はありません。

 女性の従業員も確かにいますが、その人とは話す素振りも見せませんでした。


 いつまでも見ていると怪しまれるので、てきとうに商品を物色しながら、ゲームコーナーにやって来ました。


 そこでは、先日発売したばかりのゲームがピックアップされていて、暇そうな大学生らしき人がパッケージを手に取って確かめています。


 私はあまりゲームに興味がないのですが、以前不流川君が遊んでいた、何人かでパーティーを組んでモンスターを倒すゲームが楽しくて、今でもそれを続けています。


 この春までは、彼を誘えばよく付き合ってくれたのですが、今ではさすがに受験勉強が忙しいのか、誘っても時々ほんの1時間くらいしか付き合ってくれません。

 でもやはりゲームは好きなのでしょう。

 通話しながらプレイしていると、彼の声が若干弾んでいるのがわかります。


 このまま職場を見張っていても進展はなさそうなので、退社時刻になるまで、ほかの場所で時間を潰すことにしました。



 本屋で小説でも買ってフードコートでジュースを飲みながら読んでいれば、時間なんてあっという間に過ぎます。



 本屋で好きな作家の珍しいジャンルの作品をみつけ、それを買ってフードコートに行きました。


 平日の昼間だけあって、フードコートはお年寄りや主婦の方が多いです。


 私は某ハンバーガーチェーン店でアイスコーヒーを注文し、ひとり向けのカウンター席に座りました。


 カウンターはぐるりと円形になっていて、その中央には観察植物が植えられています。

 これが夏になると、植物の清涼感がいいアクセントになるのでしょう。




 中々に面白いお話だと思いながら読み進めていると、気がつくと夕方になっていました。


 もう少しで本は読み終わるのですが、ターゲットの男性を逃してはここに居た意味が無くなってしまうので、残念ですが本に栞を挟んでフードコートを後にしました。


 知らない間に、高校生や大学生が増えていたようで、昼間より賑わっています。


 電気屋さんの方へ戻ると、男性はちょうどスタッフルームに戻っていく所でした。

 退勤の時間なのでしょうか。



 私は先回りするように、従業員出入口の方へと向かいました。

 実は私、以前ほんの少しだけこの家電量販店の隣の靴屋さんでバイトしていたので、従業員の出入口は把握しているのです。


 夕方の日差しを浴びながら、その人が出てくるのを待つこと20分ほどでしょうか。


 やっと出てきた男性を確認し、気づかれないように後をつけました。


 探偵の仕事なんて、ほとんどが浮気調査のための尾行で、あとたまに失くした物を探してほしいという依頼が来るくらいなので、尾行はお手の物です。



 私は昨年、不流川君に解決してもらった事件で、漫画やドラマの中の探偵のように、推理して犯人を見つけるなんてこと中々できないことに気付かされました。


 そもそも、警察が調べても分からないことを一般人が暴くなんてできるわけないと、不流川君も言ってました。



 ────



 結論から言うと、その日の男性はシロでした。


 帰りに途中コンビニには寄りましたが、それ以外はなにもおかしな所はなく、教えて貰っていた依頼者の住居へ帰っていきました。


 家に男性が着いてしまえば、私の仕事は終わりなので帰ることにしました。





 そして、帰ってほかの仕事⋯⋯という個人的な調査に乗り出しました。





「これこれ、この曲何か分かる?」




 私はいま電車で30分ほど離れた都市にあるカフェに来ています。

 昨晩、ピアノの音を録音した私は、今朝早速、音楽に詳しい友人を訪ねてみることにしました。

 今日は休日ということもあって、連絡を取ると友人はすぐに了承してくれました。

 私は朝ごはんも食べずに電車に揺られ、友人と駅前で待ち合わせしてカフェに来ました。


 高校まで本格的にピアノをしていたその友人は、会う度に綺麗になっているように思います。

 今日は昼間からデートでもあるのでしょうか。


 唇にはピンクのグロスが塗られ、肩にかかった髪の毛先はオシャレにカールしていました。


 私がスマホで録音したピアノの音を、友人⋯⋯美智佳は耳にスマホを当てながら聞いています。


 美智佳は食い入るように目を押し当てたスマホの方へ向け、真剣に小さな音を聞き漏らさないよう集中しています。



 私は、注文したモーニングセットのベーグルを食べながら、美智佳の答えを待っていました。


「うーん。これは子供向けの童謡じゃないかな。昔聞いた覚えあるんだけど⋯⋯名前が思い出せないや。ちょっと違ってる気もするし」


 美智佳はそう言いながら、スマホを私に返し、注文したミルクティーに口をつけました。


「童謡なんだ⋯⋯だからよく寝れるのかな」


「かもしれないけど⋯⋯よく隣の部屋の演奏で寝ようってなるよね」


 少し呆れるように、美智佳は呆れ笑いをしてカップをテーブルに戻しました。


 私は睡眠導入剤になってくれるならなんでもいいので、そこは気にしたことがありませんでした。


「でも確かに気になるよね。そんな夜中にわざわざ周りに配慮して演奏するなんて。探偵の血が騒ぐんじゃない?」


「まあ騒ぐというかなんというか⋯⋯その隣の家の子が気づいちゃってるので辞めさせた方がいいのかもって思ったり⋯⋯でも演奏になにか事情があったらって思うと言いづらくて」


「事情ねぇ」


 美智佳は小さく息を吐きながら、ティースプーンでミルクティーを混ぜながら、窓の外へと目を向けました。

 窓の外は、往来の人々でいっぱいです。

 休日の都会だけあって、外国人の姿や若い男女の姿も沢山あります。


「たしかに⋯⋯人間色々あるからねぇ」


 なんだか含みのある表情と言い方に、美智佳にも色々事情があるんだと感じ取れました。


「美智佳⋯⋯もしかして彼氏と別れた?」


「いや別れてないよ? このあとデート。格好見たら分かるでしょ」


「見た目はそうだけど⋯⋯なんか今の言い方が」


「ちょっとくらいカッコつけてもいいでしょ」


 美智佳は目を細めながら私を見ると、その頬を唇と似た桜色に染めていました。


 今のところ私には縁のない話だと思いながら、ウインナーにかじりつき、添え物のサラダを平らげました。


「カフェのモーニングって、ひとつひとつは大した物じゃないのに家で食べるより美味しいのなんでなんだろうね」


「さあ⋯⋯雰囲気のおかげじゃない?」


「雰囲気⋯⋯美智佳は彼と一緒だと粗末な物でも美味しいとかあります?」


「そりゃあるけど⋯⋯どうしたの?」


 美智佳はまたミルクティーを飲むと、飲み口を指で拭き取りました。


「なんとなく気になったの⋯⋯」


「気になってる相手がいるとか?」


「気になってるって言うか⋯⋯不流川君とだったらどんな激安店の味はイマイチな食べ物でも美味しく感じるのかなって」


 例えばですが、勉強のために精をつけましょうなどと言って彼を激安食べ放題の焼肉店なんかに連れていったら、不味い肉でも美味しく感じるのでしょうか。


 ファンが回る天井から視線を目の前の美智佳に戻すと、美智佳はブラックコーヒーでも飲んだような苦い顔をしながら、ゆっくりと片方の口角を上げました。


「不流川君って⋯⋯前にお世話になったって言う高校生でしょ?」


「うん。たぶん今いちばん仲良いからね。受験勉強で忙しいからあんまり遊ばないけど」


「いい大人が高校生と遊ぶ⋯⋯清子(きよこ)⋯⋯あんたまさか」


「へ?」


 美智佳が何を言いたいのかわからず、首を捻ると、美智佳はこめかみを抑えながらテーブルに肘をつき、ため息を吐きながら笑いました。


「まあ関係ないからいいけど⋯⋯あんまり高校生をよからぬ事に連れ回しちゃダメよ」


「よからぬ事なんてしてないよ。不流川君の家に行くかオンラインゲームするか、食事するかの三択だから」


「まさか⋯⋯向こうの親公認?」


 言い方が大袈裟な気もしますが、間違っては無いので頷いて肯定しました。



「あんた⋯⋯信用あるんだね」


「まあ探偵だから」


「いや普通探偵なんて信用ないから⋯⋯しかも青髪の変人に⋯⋯」


「たしかに⋯⋯」



 私は自分の髪を撫でました。

 たしかに、私の髪は青いです。青に染めました。


 このあとデートを控えた美智佳をあまり拘束しても申し訳ないので、急いで皿の料理を食べ終え、オレンジジュースを飲み干して外に出ました。


 当然、私が呼び出した訳ですから、美智佳のミルクティーは私の奢りです。



 美智佳と別れた私は、駅の近くにある土産物売り場に行きました。

 そこで適当な菓子を見繕い、電車で帰りました。


 滞在時間は1時間半くらいでしょうか。

 往復1時間かかると考えると、少々もったいない気もします。



 最寄り駅までつき、私は何度も深呼吸して緊張を抑えながら歩きました。


 美智佳が言うように、あの曲が童謡なら、やはり子供関連の事情があるのでしょうか。


 だとすると、やはりそういうことなのでしょうか。


 これが正しいとするなら、樋口さんはちょっぴりメルヘンチックな方で、そして、とてもお優しい方なのでしょう。





 それを知るべく、私は直接その演奏ルームに乗り込むことにしました。


 部屋の前で再度息を整え、髪を直します。


 準備を整え、「いざっ」と心の中で叫びながら、扉をノックしました。


「すみません。となりの土井中です」


 オートロックのマンションとはいえ、不審者と間違われては心外ですので、先に名乗っておきます。


「は、はいっ」


 中から橋口さんの声がします。

 いきなりの来訪に驚いていることでしょう。慌てて準備する姿が目に浮かびます。


「ど、どうしました?」


 橋口さんは髪を撫でながら扉を開けました。

 今日は1日予定がないのでしょうか。顔はすっぴんで、来ている赤いTシャツの襟がヨレヨレになっています。


「じつは、ちょっと出かけててお土産を買ってきたんですけど⋯⋯よくよく考えたら家にまだあるし要らなかったなと思って」


 そう言って買ってきた包装された箱を差し出しますと、橋口さんの視線はその箱に注がれました。


「これ⋯⋯わざわざ買ってきたんですか⋯⋯ほぼ地元なのに」


「はい⋯⋯これには目がないもので。と言っても余ってるので腐らせるのは必須なんですよ」


 我ながら、言い訳が下手だなと思います。

 私は厳格な父と祖父と、優しい母に育てられたせいか、言い訳がすごく苦手なのです。

 幼少期は言い訳をすると、よく叱られました。そのトラウマでしょうか。


「どうぞ⋯⋯ぜひ貰ってください」


「はい⋯⋯ありがとうございます」


 恐る恐る、橋口さんはご丁寧に両手で箱を持って頭を下げました。


 さてここです。これは私の探偵としての経験則なのですが、人は意識外から確信的な話をされると、とっさに顔に出してしまうか、答えてしまうものなのです。


「ほんのお礼ですよ。いつもの子守唄の」


「えっ⋯⋯」


 戸惑いの声とともに、手を離しそうになったのか、箱が僅かに滑り、中のチョコ入りクッキーが動く音がしました。


「いつも演奏してますよね。お陰でよく眠れます」


 橋口さんの顔色が変わります。

 別に怯えるという訳ではないですが、私の言っている事が当たっていることへの驚きでしょう。

 瞼が僅かに上がり、唇が引き締まりました。

 スッピンなので尚更分かりやすいです。


「あの⋯⋯もしかして迷惑でしたか。すみません」


「いえいえ、違うんです。迷惑だなんてけっして。私はいつもお世話になってますし」


「は、はぁ⋯⋯」


「ただ、どうしていつも夜中に弾くのか気になりまして。もしかしたら夜中じゃなきゃダメな理由があるんじゃないかなと、橋口さんは保育士さんでしたし、子供関連で夜中となると子守唄かなって思ったんです」


 橋口さんは瞬きをしながら顎を引いて上目で私を見つめています。

 徐々に私に対する警戒心が解けて来ているのか、橋口さんは箱を持って後ずさると、壁際に沿って立ちました。


「どうぞ⋯⋯ここではなんですから」


「いいんですか? ではお邪魔します」


 せっかくお招きしていただけたので、遠慮なく上がらせていただきました。

 橋口さんの部屋は、ひとり暮らしの女性の部屋とは思えない⋯⋯というより、私の部屋とは随分と違って、かなり整っていて物が少ないです。


 入口傍のダイニングではなく、奥のリビングに通してもらい、私は白く洒落た丸いテーブルの前に腰を下ろしました。

 ところで、橋口さんの部屋にはテレビがありません。どうやって暇を潰すのでしょうか。

 ディスプレイもありませんし、これでは私の好きなモンスターをハントするゲームもできません。


「どうぞ」


 と橋口さんは、スーパーに売ってるパックのレモンティーをグラスに注いで持ってきてくれました。

 そしてそのまま私の前に座ると、両手でグラスを包み込むように抱きながら、小さく息を吐きました。


「聞こえてたんですね。音は小さくしていたのですが」


「まあ⋯⋯私この壁のすぐ隣で寝てますので」


「ああ⋯⋯なるほど」


 壁を指さしますと、橋口さんは納得して何度か頷きました。

 レモンティーは慣れた味で、甘くて美味しいです。今朝美智佳といる時に飲んだオレンジジュースよりも私は好きです。


「それに⋯⋯どうやら山口さんのところのお子さんも聞こえていたらしいですよ。それで私、先日山口さんの奥さんから尋ねられましたので」


「ああ⋯⋯それは申し訳ないことを」


 申し訳なさからか、項垂れながら頭を抑える橋口さんは、元から小柄な方ですが、さらに小さく見えました。


「でも⋯⋯どうしてあれが子守唄だって分かったんですか?」


 橋口さんは項垂れたまま顔を上げました。

 その目は心苦しさからか、何度も私の目とズレました。


 本当に小さい音ですし、山口さん夫婦は気づかないくらいなのですから、そこまで気に病むことはないと思うのですが、この繊細な気質が、演奏の理由に繋がっているのでしょう。


 

「橋口さんが保育士さんで⋯⋯あの曲が童謡だって分かったので、そうじゃないかと」






 私は、敏腕探偵を装い背筋を伸ばしたが、じつはこれは不流川君の推理なのです。



 私は電車の中で、不流川君にメッセージを送りました。


『隣の家から夜中にピアノの音が聞こえるのですが、どうしてだと思います?』


 メッセージはすぐに帰ってきました。

 勉強は休憩中だったのでしょうか。


『何それ怖いです。ただ練習してるだけじゃないんですか?』


 怖いの後には、ご丁寧に怯える顔の絵文字が付いていました。

 普段は絵文字なんて使わない人ですから、多分予測変換に出たのをそのまま書いたのでしょう。


『練習なのでしょうか⋯⋯昼間は聞こえないんですよ』


『お昼は時間が無いだけでは? その人はどんな人ですか』


 話題に食いついたようで、不流川君は即座に返事をくれました。


『普通の保育士さんです。いい人ですよ』


『保育士さんなら尚更練習じゃないんですか⋯⋯でもそれなら休日の昼間でも良さそうですね⋯⋯その曲は?』


『童謡らしいです。具体的にどんな曲かは分かりませんが』


 送信してから、次のメッセージが来るまでに、ふたつの駅で電車は停車しました。

 帰りは始発駅から乗れるので、座ることが出来て幸運だったと、ドア横に立つキャリーケースを持った外国人をもってほくそ笑みました。


『それ思い出由来の行動じゃないですか。子守唄を演奏してあげた時の感覚を味わいたいとか、誰かを想ってとかそんな風な。知りませんけど』


 なるほどと、私は電車の中で頷きました。

 我が意を得たりです。不流川君はやはり頼りになります。






「はい⋯⋯あれは⋯⋯とある子⋯⋯空太君の為に即興で作った曲なんです」

    


 レモンティーに口をつけていると、橋口さんがまつ毛を上下させながら口を開きました。


「オリジナルだったのですか」


 通りで、音楽に精通している美智佳でも曲名が分からなかったわけです。


「それで⋯⋯どうして夜中にその曲を?」


 私の質問に、すぐには答えていただけませんでした。

 静寂がこの部屋をつつみ、それを破ったのは、隣の山口さんの部屋から聞こえてくる足音でした。

 息子さんが何かしているのでしょうか。足音は小刻みに聞こえます。


 そっちに意識を取られていると、橋口さんは何かを決心したのか、唾を飲み込みながら小さく頷きました。


「その子⋯⋯空太君は⋯⋯お母さんとふたりで暮らしていたんです。お母さんは夜の仕事をしている方で⋯⋯空太君、保育園でのお昼寝ではよく眠る子だったんですけど⋯⋯家ではあまり寝付けない子だったらしいんです」


「それは⋯⋯母親がいなくて寂しいとか⋯⋯そういう事情でしょうか」


「はい⋯⋯本人に聞いたところ⋯⋯起きてたらお母さんが帰ってくるんじゃないかと思ってたそうなんです⋯⋯早く寝なさいって叱りに」


 なんとも健気な話に、ついつい目頭が熱くなってしまいます。

 

「それで⋯⋯お泊まり保育が以前あったんですけど⋯⋯その時も空太君は中々寝付けなくて⋯⋯そこで⋯⋯あんまりよくないかもしれないんですけど⋯⋯眠れるまで私が遊び相手になったんです」 

 

 私が鼻の頭を撫でていると、構わず橋口さんは話を続けました。


「その時に電子ピアノで弾いた曲があの曲なんです⋯⋯あれを聞いたら、空太君すぐに眠ってくれて⋯⋯空太君はその後すぐに引っ越したんですけど⋯⋯夜になると心配になって⋯⋯遠くにいるあの子の為に曲を弾きたくなるんです」


 話を終えた橋口さんは、両手を膝の上で軽く震わせていました。


 いい話でしたが、私は今の話に違和感を覚えました。


 しかし、その違和感を口にしていいものか、恐らくですが、橋口さんは私に配慮してある事を隠しています。


 それを暴くのは果たして人としてどうなのかと、いつも人の秘密を探っている癖に考えてしまうのです。


「その空太君がどこに行ったかはご存知ないんですか」


「園長先生のお話だと、お母さんの実家に帰ったって言ってましたけど⋯⋯それがどこかまでは」


 橋口さんは首を横に振りながら、その目を白い収納棚の上の方へと向けました。

 気づきませんでしたが、その上には写真が3枚飾られていて、どれも園児達との集合写真になっていました。



 やはり⋯⋯この人は心の優しい繊細な方なのでしょう。


 だからこそ⋯⋯演奏はこの人の為にも辞めさせた方がいいように思います。


 これは、騒音の問題ではありません。


 恐らくですが、山口さんご夫妻が演奏を聞いても、小さな音なので直接何か言ったりはしないでしょう。


 それよりも、橋口さんの精神衛生上の為に、辞めさせた方がいいと、お節介ながら思うのです。


「あの⋯⋯その空太君のお母さんが働いていた所とか⋯⋯教えてもらったりできますか?」


「え⋯⋯それは⋯⋯」


「この辺で夜の店ってどこにあるのか気になっちゃいまして。最近こっちに引っ越してきた友達もどこかにそういう遊べる店ないかってしつこく聞いてくるんですよ」


「遊べるって⋯⋯そこバーですよ⋯⋯あっ」


 その店の名前を聞きながら、残り僅かなレモンティーを一気に飲み干しました。

 やはり橋口さんはいい人です。だからこそ私に出来ることがあるなら、この人を解放してあげたいのです。


「それと、どの子が空太君ですか」


 ────────




 それから2週間、暇な私は、休日の橋口さんを連れ出して、とある所へと向かっていました。


 ちなみに、浮気調査をしていた携帯ショップの男性はクロでした。

 ただし相手は同僚の女性ではなく、どこで出会ったのかも分からない女性でした。


 どうやら依頼主は離婚するつもりはなく、女性の方へ慰謝料請求をするつもりだそうです。

 となれば、あとは弁護士さんの仕事ですので、私への以来は完了となりました。




 

 その時の報酬で、橋口さんの駅弁代負担してあげました。目指すは隣県です。

 特急の指定席に座りながら、私は購入したとりめしの蓋を開けました。

 唐揚げのいい匂いが、一気に車内に広がるようです。


 電車旅の醍醐味は、景色なんてすぐに変わってしかも飽きやすいものではなく、この駅弁でしょう。


「それにしても⋯⋯どうして空太君の居場所がわかったんですか?」


 私のお弁当をながら見しながら、橋口さんはペットボトルの蓋を開きました。






 そう、私達は今その空太君に会うため、とある場所に向かっています。



 空太君の居場所を特定するのは、そう難しいことではありませんでした。



 私はまず、空太君のお母さんが働いているというバーに客として出向きました。


 そこは店長が直接カウンターに立ってお酒を作っていて、あいにく空太君のお母さんは既にやめた後でした。


 私は、彼女の知り合いを装い、店長といい加減な即興思い出話に花を咲かせました。


 店長は中年のやや白髪の目立つ男性でしたが、とても愛想のいい人で、辞めた空太君のお母さんも、よく働いてくれる人で、居なくなって残念だと嘆いていました。 


 話の中で、彼女の故郷の話をでっち上げると、店長は見事に引っかかってくれて、彼女の故郷がどこか教えてくれました。


 店長はそのあと青い顔をして、私のことを訝しんでましたが、橋口さんと空太君の話をすると、感動してペラペラと空太君母の個人情報を晒してくれました。


 一緒にどうぞと言ってお酒を飲ませた効果でしょうか。 


 それにしても、あの店で働くなら個人情報の流出には気をつけましょうと注意喚起するべきでしょうか。




「それはまあ⋯⋯探偵としての探索能力でしょうか」


 格好つけていますが、見つけられた要因は運と強行のおかげです。知的な要素はありません。


 空太君のお母さんの保証人だった、親の住んでいる市まで漏らしてくれたおかげで、私はこの2週間、何度かその市まで足を伸ばしました。


 あとは何度も市内の保育園に足を運び、空太君を探すだけです。


 空太君の顔は写真から覚えていたので、怪しまれないように保育園の敷地内を眺めながらチェックするだけでした。

 時々、見学と勘違いされて声をかけられることもありましたがそこは難なく乗り越えました。




 私が男性だったら、多分8回は警察のお世話になっていたと思います。



 そして見つけられた要因は、空太君が名前を呼ばれたからなのですが。



「でも⋯⋯どうしてそこまでして空太君を見つけてくれたんですか?」


 スクランブルエッグみたいなのが乗ったご飯を口に運んでいますと、橋口さんが尋ねてきました。

 私はそれをゆっくりと噛んで飲み込んでから、お茶を飲んでひと息ついてから口を開きました。


「それは⋯⋯橋口さんの心配事を拭いとってあげたかったからですよ。今の空太君は虐待もされてないって」


「⋯⋯どうして、空太君が虐待されてたなんて⋯⋯そこまで」


 これに関しては、私自身で答えまで導きました。

 と言っても、不流川君のヒントありきといえばありきなのですが。


「それは⋯⋯橋口さんが普通じゃないからですよ」


「普通じゃない⋯⋯ですか?」


「はい。だって、たった一度の子守唄だけで、それを思い出して毎晩のように演奏するなんておかしな話ですよ。申し訳ないですが。だから考えたんです⋯⋯多分橋口さんは夜になるとその空太君のことを考えて眠れなくなるんだって。じゃあその眠れなくなる悩みの種はなんなのかと考えるとひとつしか無いわけです」


 そこまで言いますと、橋口さんは両手でペットボトルを掴みながら、小さく呟きました。


「それで虐待ですか⋯⋯」


 橋口さんは、私がその答えにたどり着いた理由を知りたそうに、こちらを伺っています。

 ですが、何だかとってもお腹がすいていたので、行儀は悪いですが食べ進めながら話すことにしました。


「はい、保育士が子供のことで悩むとしたら虐待といじめ⋯⋯あとは衛生面や病気、栄養状態くらいじゃないですか? 私が思い浮かぶところでは」


「そう⋯⋯ですね⋯⋯基本的には」


「となると、いじめは転園した時点でそこまで気にすることじゃなさそうですし、病気なら普通に話してくれたでしょうし、衛生面や栄養状態は写真を見た限り普通でしたので、じゃああとは虐待かなと」


「さすが探偵さん⋯⋯すごいです」


「といっても、ただ確率が高そうなものにベットしただけなんですよ」


「あれ⋯⋯でも結局、どうして私の不安を解消してくれようと思ったんですか? それが一番気になります」


 その理由は、元々は近所の山口さんの家から橋口さんの方へ話が行かないようにしてあげたいというお節介でしたが、途中からは変わっていたように思えます。


「それは⋯⋯橋口さんがいい人だからですよ。私はいい人の味方です」


 私の答えに、ひと呼吸置いてから橋口さんは微笑んでくれました。

 そして彼女も同じとりめしの蓋を開け、私達は少し早い駅弁ランチを楽しみました。




 ────────



 

 さて、電車の旅を終え、閑散とした駅に降りると、トートバッグを持つ橋口さんの手に力が入っているのが伝わります。


 今日のために、橋口さんはあるものを持ってきていました。


 それを渡す時のことを考えて、心身に余計な力が入るのでしょう。



 私は橋口さんの1歩前を歩きました。

 もちろん、空太君が暮らす家に向かうためです。

 バーの店長が教えてくれたのは、空太君の祖母の実家がある市と町名だけだったので、保育園を見つけてから、空太君と迎えに来たお婆さんを尾行して家を特定しました。


 ちなみに、空太君のお母さんはそこにはいません。

 空太君への虐待が認められた彼女は、今は空太君から離れて暮らしているようです。


 小さな田んぼに、細く短い稲が植えられています。

 その田んぼの隣を通り過ぎ、空太君の家が近づいてくると、私の足は何故か焦るように早足になり、近いことを橋口さんに感じ取られてしまいました。

 すぐにペースを落としたのですが、時すでに遅く、橋口さんが後ろから声をかけてきました。


「あの、土井中さん」


 振り返ると、橋口さんは両手でトートバッグをぶら下げながら、始めてみるような淡く明るい、例えてみれば、道路脇に咲いているシロツメクサのような、そんな笑顔を見せてくれていました。


「ありがとうございます。私なんかのためにここまでしてくれて」


 微笑みながらお礼を言われると、どうも照れくさく、私はつい顔を逸らしてしまいました。


「お礼を言われることじゃないんですよ。私がしたくてしたことですから。謎を見つけたら解決したくなるのが探偵の性です」


「でも⋯⋯なにかお礼をしないとですね」


「お礼なんてそんな」


 どんどん顔が熱くなるのを感じます。

 私はこう言う、利害関係など無縁な、含みの無いお礼に弱いのです。  


 しかし、お礼と言われると、何も求めないのも逆に失礼かも知れません。

 夕食でもご馳走してもらいましょうか。


 いや、それよりももっといいお礼があります。


「じゃあ、私のこと土井中さんじゃなくて、クリスティーって呼んでくれますか?」


「へ? クリスティー⋯⋯ですか?」


 案の定橋口さんは目を丸くし、クリスティーという単語は、随分と喉になにかがつっかかったような口ぶりになっていました。


「はい。私、クリスティーって呼ばれるの好きなんです。事務所の名前もクリスティー探偵事務所ですし」


 ほんの少し考えた様子で空を見上げた橋口さんは、こちらを向いた時には、また先程のような笑顔を浮かべていました。


「わかりました。ではあらためて。ありがとうございました。クリスティー」


「はいっ!」


 私も満面の笑みで応えたつもりですが、無事に笑顔になっていたでしょうか。

 笑うのが苦手なんて、そんな不思議系女子みたいな個性はありませんが、作り笑いは得意な方ではないのです。


「でもまだ終わってませんよ。それを空太君にお渡しするまでがこの探偵クリスティーのお仕事ですから」


「まるで遠足みたいですね」


 ふふふと、手で口元を抑えながら笑うと、橋口さんはそのまま私の横を通り、進行方向へ向かって歩き出しました。

 キョロキョロと民家の標識を見て、その苗字を見つけると、橋口さんは庭に入る塀の前で胸を抑えながら深呼吸しました。


 私は、できるだけ離れて、塀に遮られず、玄関が見えるところに位置取り、橋口さんが戸の横に付いた小さな古いインターホンを押すのを待ちました。


 インターホンを押してすぐ、出てきたのはお婆さんでした。

 まだそれほど年老いては居なさそうなおばあさんは、橋口さんの話を聞くと、中にいる空太君をその場で呼びました。


 離れていても、空太君が勢いよく飛び出してきたのはわかりました。

 橋口さんに抱きつく空太君と、その空太君の背中を優しく撫でる橋口さん。とても素晴らしい光景です。


 少しふたりはお話したあと、橋口さんはトートバッグから、空太君へのプレゼントを取り出しました。


 それは、小さな録音プレーヤーで、中には橋口さんが作った曲が入っています。

 空太君は機械の操作に慣れているのでしょうか。


 それを再生したのか、耳の隣に持ってくると、すぐに顔色を晴らして橋口さんにお礼を言ってました。



 これできっと、橋口さんが突然いなくなった空太君を思って夜中にピアノを弾くこともなくなり、橋口さんは安心して眠ることができるでしょう。


 あれを夜中に聞いて眠れないのは残念ですが、またお笑い芸人の力を借りることにしましょう。

 それか私も、録音したものをもらいましょうか。




 ふたりは別れの挨拶をし、空太君は激しく手を振っていました。


 私は、先に駅の方へと歩き出しながら、橋口さんが追いつくのを待っていました。


「お待たせしました。これで⋯⋯ようやく凝りがほぐれた気分です」


「なら⋯⋯私もやっぱり、勝手に動いてよかったです」



 私達は駅へと歩きながら、他愛ない話をしました。

 その中で、不意に友人の話になり、私は不流川君が以前ラーメン屋でスマホを丼の中に滑らせた話をしました。


 不流川君が高校生というところに、橋口さんは妙に食いついていました。



 別に高校生でも面白い要素はないと思います。

 不流川君は高校生といっても、かなり捻くれたというか、大人びてますから。



 ラーメンの話をしていると、きゅうに口がラーメンを受け入れるための体制になり、橋口さんと夕食はラーメンを食べようということになり、ついでに不流川君も誘うことにしました。



『不流川君、今夜はラーメンです。7時に駅前で待ってます』


 電車に乗り、県を跨いだあたりで、スマホに反応がありました。


『なんでもう決まってるんですか⋯⋯まあ別にいいですけど』



 意外にも不流川君が了承してくれたので、今夜は3人でラーメンです。

 不流川君が橋口さんを見てどんな反応をするか今から楽しみでした。




 そして夜、待ち合わせ場所に来た不流川君は、思った通り、橋口さんに対してたじろぎながら大人びた挨拶をしていたので、私はそれを見て笑っていました。




 やはり、人の感情の起伏を眺めているのは楽しいです。


 人の観察が楽しくて探偵になった⋯⋯と言えれば、きっと今よりこの仕事が好きになるのでしょうが、果たしてその日は来るのでしょうか。


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