26 三界にあらず・3
天界側の代理人はラファエルである。魔界側の代理人ははサーキュラーだ。そして公平を期すための仲介人はウリエルだった。魔王と唯一神はそれぞれ、彼らの後ろ側に置かれた椅子に陣取って相手の顔を眺めていた。彼らの前には巨大な円卓がある。人数が増えたのでウリエルが急遽用意したものだ。その卓上にはペンが三本と三枚組みの書状が一組置かれている。その書状はラファエルが三日三晩かけて推敲した和平条約の文書だった。
「こないだと一緒じゃねえか」
「だな」
サーキュラーのセリフにウリエルが口を挟む。もっともそれぞれに一人ずつ、形式的なものではあるが書記として付き人がついていた。ラファエルにはガブリエル、サーキュラーにはセラフィム、ウリエルには教会兵だったブレンである。呼ばれたので彼ら三人は円卓の向こう側から出てきて代理人の横についた。
唯一神がサーキュラーの横についたセラフィムを見る。しかし何も言わなかった。ただ黙りこくってセラフィムの顔を見ているだけである。ラファエルもガブリエルも唯一神の出方を待っていて何も言わない。というより言えないのである。この場での最年長者は唯一神であり、こういった議事では最年長者が最初に発言するのが通常の決まりになっていた。本当の最年長はセラフィムだったが、セラフィムは付き人なのでそもそも発言権がない。
進行は仲介人のウリエルである。なのだが、ルールとして誰かが話し出さないと彼は議事に絡むことができないのだった。しょうがないのでウリエルはブレンがノートを広げて記録を取る様子を眺めていた。
「さて」
サーキュラーの後ろで魔王が口火を切った。このままでは埒が明かないように見えたからである。ウリエルは一歩下がって魔王の顔を見た。仲介人なので表立って動いてはいけないのである。
「和平条約を結びたいとのことであったな。そうだな、ウリエルよ」
「そうです」
問われたら答えてもよい。それによって次のアクションが行われる。
「こちらとしては何も問題はない。そしてそちら側、天界側からの提案であるからそちらから他意がないことを証明してもらいたい。でないと我々としては署名はできない」
これは煉獄を天界側が悪用しないということと、セラフィムを諦めるということを言外に含んでいる。
しばらく待ったが唯一神が何も言わないので、仕方なくラファエルが煉獄については肯定した。
「煉獄は中立地帯です。それ以上でもそれ以下でもありません」
そうだな、とウリエルが答えた。ガブリエルが不服そうな顔になる。
「不満か」
魔王が言うとガブリエルは目を合わせずに「そんなことはない」と言った。魔王と争っても勝てないからである。
「セラについてはもうちょっかいを出すな」
これはサーキュラーである。まどろっこしくなったので単刀直入であった。唯一神がびくっとしたが、特に何もなかった。サーキュラーはそんな唯一神を横目で見つつ、話を進めた。当の本人はサーキュラーの後ろに少し下がって話を聞いていた。
「セラは魔王の側近であり魔族だ。もう神々じゃない。手出しするな」
唯一神が椅子に座ったままサーキュラーを見た。その視線を魔王に動かす。今後に備えてガブリエルが唯一神の近くに移動していった。そして唯一神は魔王からセラフィムに視線を移動した。
「ゼラフよ」
セラフィムはそちらを見ようともせず、答えもしなかった。
「返事もせんのか。返答ぐらいしてもよかろう」
ウリエルとサーキュラーはほぼ同時にトラップに気がついた。それからラファエルとガブリエルも唯一神のたくらみに気づいた。魔王は気づいていたが黙っていた。まだその時ではないからだ。
「ゼラフ。私のことは忘れてしまったのか。あんなに目を掛けてやったのに」
名は呪縛となる。もしこの呼びかけに答えてしまえばセラフィムはまたゼラフという名前に戻り、唯一神の手元で操られることとなる。しかしその呪縛は自分で断ち切らねばならない。他の者が代わってやることはできないのだ。
「返事をせんか、ゼラフよ。お前の願いは何でもかなえてやる。またともに天界を治めようぞ」
それでもセラフィムは沈黙を守っていた。唯一神はさらに呼びかける。
「答えろ、ゼラフ。なぜいつまでも黙っている」
セラフィムは顔を上げて唯一神を睨みつけた。反応を見て唯一神がにやっと笑い椅子から身を起こす。
「こちらに戻ってこい、ゼラフ。お前こそが私のちからなのだ」
にやにやと笑いながら唯一神はセラフィムをまっすぐに見た。空気が揺れる音がして数多の青白い雷球がセラフィムの背後に現れる。羽擦れの音がし、六枚の巨大な赤い翼が背に出現する。
「そうだ、そのままこっちに来い。そのちからを振るって皆に見せつけよ。私の頭上に聖なるいかづちを落とし、私の糧となれ」
放電が空気を裂く。硬直したままその場に突っ立っているブレンをウリエルが引っ張りその翼の下に入れる。ラファエルとガブリエルは唯一神のまわりでかばうようにシールドを張り始めた。サーキュラーは魔王のそばに退避し、瞬時に雷球を跳ね返すための網を張った。
怒りの表情でセラフィムが何か言おうとした矢先に魔王が口を開いた。
「抑えろ、セラフィム。私は争いに来たわけではない」
セラフィムははっとし、魔王の顔を見てまた唯一神のことを見た。
「わたくしは……」
間髪を入れずに唯一神が言う。
「お前は我が片腕のゼラフだ。早く戻ってこい」
雷球の数が増えていく。もし彼がゼラフという呼びかけに答えてしまえば天界に縛り付けられることになるし、怒りにまかせて唯一神を攻撃してしまえば、彼はもう魔王の配下でも神々でもなくなり旧世界者の姿をした破壊の権化となる。
唯一神は彼が手に入らないならいっそこの世界ごと壊してしまえと思っているのだ。そのことは周囲の者皆が気がついていた。しかしセラフィムは自分で気づかねばならない。
「お前は誰だ。思い出せ、我が従者よ」
魔王が言ったが雷鳴は止まらない。よだれがこぼれそうな笑みを浮かべ、唯一神はセラフィムに語りかける。
「そうだ、そのまま……お前は私のものだ。そのちからを振るい、私とこの世界を破壊しろ。そうすれば……」
雷球と放電がセラフィムを中心にある模様を作り出す。ウリエルはその模様が、彼が天上に来たばかりの頃に着ていた上着に刺繍されていた文様と同じだと気がついた。あれは真実の彼自身を指し示すシグナルだったのだ。
「やめろ、せっかくの世界が吹き飛ぶぞ」
ウリエルは言ったがセラフィムの耳には入っていなかった。防御網を張りながらサーキュラーが言う。
「正気に返れ、セラ。俺もうお前と戦いたくねえよ」
しかしそれも聞こえてはいない。魔王は椅子から立ち上がり、暴走しかかるセラフィムの前に足を踏み出した。
「お前は誰だ」
セラフィムの意識が魔王へ向かう。その目が彼を見据え、射抜く。
「戻れ、我が従者! 不遜ぞ!」
対峙する魔王の声は響き渡り、今度こそセラフィムの耳に届いた。
「お前は誰だ!」
誰何する魔王の声がする。ほんの一瞬、セラフィムの目が泳ぎ魔王から離れた。そしてとうとう、つい、と翼がしまわれた。
「わたくしは……セラフィム、です」
膨大な量の雷球と彼を包んでいた文様が消える。ぎりぎりまで溜められたいかづちのエネルギーも消え、帯電したきな臭い空気だけが残った。
「彼の者の名はセラフィム。それ以外でもそれ以上でもなく、魔王に仕えし魔族なり。なれば天には戻らず、今生で滅する定めなりや」
不意に響いたのは誰の声だったのだろうか。セラフィムはその場でぐらりと傾き、倒れかけた。それを見たサーキュラーがあわてて飛び出していった時にはもう元に戻っていた。
そして彼は大きく息を吐いた。
「申し訳ありません、魔王様」
これですべてが決まった。唯一神は目を剥いてそのさまを見ていたがやがて椅子に崩れるようにもたれかかり、そばにいたガブリエルはウリエルに水を一杯用意するように頼んだ。
唯一神が疲労で気を失ってしまったので、後半は唯一神抜きで交渉が進められることとなった。ガブリエルは許可をもらって天界にいるほかの御使い達を呼び、唯一神を自室まで運んでその後の看護をするように命じた。
「もう動けないでしょうね」
ラファエルが言うとガブリエルもうなずいた。
「後は存在しているだけだ。だがゼラフのことに決着がついたのはよかった。ゼラフが何者であっても、我々はあの執着にはついていけぬ」
魔王は興味深くそのやりとりを眺めていた。と同時に疑問もわいてきたので直接彼らにぶつけてみることにした。
「少し聞きたいのだが」
魔王に声をかけられて彼らはあわてた。彼らほど長命であっても御使いが魔王と直接話をすることなどめったにない。
「は、はい?」
「何用だ、いったい」
その様子を何となく面白く思いながら、魔王は質問をした。
「お前達の忠誠ぶりはよく知っている。しかしそれでもなおまだ、あの男に忠誠を誓うのか。あの男の存在は、もはやお前達には不要のものではないのか」
ウリエルも脇でその質問を聞いていた。ラファエルは絶句し、ガブリエルはうなった。
「さすが魔王、と言うべきか。我々にその問いを投げかけるか」
ガブリエルが答える。いかにも、と魔王は答えた。
「なにゆえのその問いだ。その問いは我々と我が父の間に亀裂を生むものだ」
魔王は言った。
「ただの興味だ。天界そのものはどうでもよい。だがお前達が本当のところ、あの男をどう思っているのか知りたいだけだ」
ウリエルが腕組みをしガブリエルのそばに寄った。返答待ちの姿勢だ。ラファエルは魔王を見上げ、その顔をじっと見た。
「我々に反逆はできない」
しぼりだすようにガブリエルが答える。
「知っている」
魔王はただ答えを待っているだけだ。そして自分達に危害を加えるつもりも、その言質を取って何かするつもりも全くない。それはよく分かっていたが、そこにいる御使い達にはその姿は大変に禍々しく思えた。
「我々にとって、我が父はすべての父なのだ。不在であるなら我々もまた無いものとなる」
「ほう」
何か答えなければ魔王の呪力からは逃れられない。しかしこんな綺麗ごとでは彼は満足しない。
「我が父が我々だけでは不足で、更なる力を欲したのは確かだ。おそらく、もしゼラフが手に入らなくば他の神々を利用したであろう」
セラフィムも話を聞いていた。ウリエルはじっと黙っている。ラファエルは不安な顔でガブリエルを見ていた。どこまで話してしまうのだろうか、そんな表情だった。
「だからこそ」
ガブリエルは意を決したように言った。
「我々は我が父のそばにいなくてはならぬ。メタトロンのような者は排除すべきであるし、そこの反逆者も存在する意義がある」
ガブリエルが指差した先はウリエルだった。ウリエルは苦笑いを浮かべ、ガブリエルの話に聞き入った。
「我が父は我々にとって存在することが正義だ」
本来なら唯一神とその取り巻きである御使い達は、天界の彼らが住むエリアで何事もなく快適に暮らしていたはずだった。最初はそれなりの地位、それなりの勢力で唯一神は満足していたのである。唯一神に野心がなく、悲哀も争いごともなかったその時代を彼らは楽園と呼ぶ。
「我々は楽園を捨てた。ゆえに我が父のみが正義となったのだ」
ガブリエルの手に古びた木の杖が現れる。彼はその杖をじっと眺めて言った。
「もう戻れぬ。若き魔王よ、我々はお前達を嫌悪するがそうでない時代もあった。よき時代だ。しかしもうそれはかなわないことなのだ。我々に後戻りは許されない」
だからこそ、とガブリエルは続けた。
「我々は憎きお前達に感謝する。敵がいなければ我が父はゼラフを使い世界を滅ぼしてしまったであろう。欲望には果てがないのだ」
一気にしゃべったガブリエルは疲れた様子だった。
「よく分かった」
魔王は言った。
「つまらぬ質問に答えてもらってすまなかった。魔界はそちらが何かしない限りは天界には手を出さぬ。それは約束しよう」
空気がざわついた。
「正直、あの男はもう表立っては動けまい。ならばお前達が天界での主軸となろう。ゆえにお前達が何もしなければ何も起きぬ。そうであろう?」
不意に言われてラファエルはつばを飲み込んだ。
「そ、そうです」
魔王はラファエルを見た。
「天界の事務官であったな。そちらでしっかり抑えていれば何も起きるまい。ではよろしく頼むぞ」
はい、とラファエルは答えた。魔王はついでガブリエルを見た。
「御使いの長老よ、そちらは唯一神より不在の際は全権を委任されていると聞いたが」
「そうだ」
この情報はサーキュラーがこの場所に来て最初に伝えられたものである。
「後はサーキュラー達と話を続けるといい。もう事務処理だけであろうし私は城に戻る」
魔王はセラフィムを呼び帰宅する旨を伝えた。セラフィムは残った者達に挨拶をし、魔王とともにその場からいなくなった。
セラフィムの代わりはサンダーが呼ばれた。サンダーは煉獄につくとすぐにサーキュラーの隣に呼ばれた。
「あ、こんちは」
「どうも」
そのすぐ近くにはウリエルとブレンがいた。サンダーはノートを取るブレンに挨拶をし、それからぐるっとまわりを見渡した。
「お前はここで書類を受け取って俺に渡せ。いいな」
「分かった」
ガブリエルがサンダーをうさんくさげな目で見る。ラファエルは物珍しそうに彼女を見ていた。同じ四大将軍でも今まで見たことのある連中とはまたずいぶん違うな、そう思ったのだった。
「後釜は雷精将のお嬢さんか。まあいい」
サーキュラーが言った。
「属性変更は面倒だろ。用意したものの半分が使えなくなっちまう」
まあそうだな、とウリエルは言った。魔界ならなんてことはないが、煉獄では小さな属性の差で扱える道具が変わってしまったりする。ペンなども場合によっては種類の違うものを用意しなくてはならない。なのでサーキュラーはセラフィムと同じ雷属性のサンダーを呼んだのだった。
「いっつも代わりだからいいよ」
サンダーの言葉にサーキュラーが苦笑する。
「いじけるなよ」
「そういうわけじゃないです。自分以外だと面倒なのは確かだし。書類だけならさくっと終わりにしようよ」
その発言でなんとなく空気が変わった。同じ雷属性でもセラフィムだったらこんな雰囲気にはならないであろう。
「では先に進めましょう。本当にもう後は事務手続きだけです」
ラファエルが言った。一同がうなずく。
「この書面は僕が用意しました。天界、魔界、煉獄と三枚同じものがあるのでそれぞれにサインをお願いします。最初に僕が書きますから」
そういうとさらさらとよどみなく書面にサインをしていった。ついでウリエルが、最後にサーキュラーが署名する。インクからは柑橘系の香りが立ち上った。清めのオレンジであろう。天界ではこういう公式書類にはよく使われる。
三枚全部書き終わった時点でサーキュラーはやれやれ、とため息をついた。
「これで終わりだな」
「そうだ」
ウリエルが答えた。ラファエルがその三枚を手早く分けて持参した紙筒に入れる。そして一つずつサーキュラーとウリエルに手渡した。
「これで全部おしまいです。煉獄は中立であり、さっきのことも、ゼラフさんのことも終了です。天界は魔界に侵攻はしませんし人界にも争いは持ち込みません。ではみなさん書記にその書類を渡して下さい」
これも儀礼的なものである。しかしこの作業が終わって初めてこの条約は有効なものとなるのだ。それぞれがその世界の統治者・統治システムに通達したというしるしである。ブレンはなんということもなく、ガブリエルはやはり不服げな表情で手渡された書類を受け取った。サンダーは両手で受け取り、へえーと言いながらしげしげとその紙筒を見た。
「不満かよ」
サーキュラーが言うとガブリエルは答えた。
「本当はおまえらなぞ顔も見たくない。しかしこうせざるを得まい。このままでは天界が崩壊する」
ウリエルが言った。
「魔王がゼラフを焚きつけなかったことに感謝するんだな。あいつ、意外と気が短いぞ」
「本当だな」
サーキュラーも言った。
「俺はもうああいうセラは見たくねえ。こりごりだ」
じゃな、とサーキュラーは紙筒を持ったサンダーを連れて帰った。ラファエルもガブリエルから書面を受け取りなおし、天界へと戻る。後にはウリエルとブレンが残り、ウリエルはブレンとルーセットに後片付けを命じると自分は書類を持って自室に帰っていった。




