おきたる、うつつの
ふえぇ(幼女)
凄惨な悪夢。そう言うに相応しい夢だった。
再会に一喜すれば、濁り言葉に一憂、
ついには斬殺され、起きてみれば、冬に似つかずに
寝台をしとど濡らし跳ね起きる。
「忘れたほうが、いいのかな。」
言葉によって魂が抜け飛んだか。身体が軽くなった。
今の私と鴻毛、どちらが軽いだろう。
記憶が消えゆく。それに抗って振り返る。
「会う」そう言ったのは私で。
しかし「離れて」と三浦さんは言った。
丸と角は合わず、火と水は交わらないように、
今やルビコンの両側で相対している。
好きだった人を忘れること、それが好きな人の願いだ。それを裏切ってはならないだろう。
覚醒した脳と、翻ってじわじわと全身で感じる
湿り。それは全身拓本のようにできたシミであった。
妙な焦りを吹き飛ばすような母の声に
飛び起きて、直近の諸々をしてからは早かった。
道の隅や木々の残雪が溶けるのはいつ頃で何故
だろうか。友人との再会の季節で、その嬉しさか。
溶けそうな残雪を横目に、坂を下る私の頬は、
空が白んで溶ける雪のように綻ぶ。
家から学校まで。鎌倉のメインストリートと呼ばれてい
そうな場所。それは三浦さんと歩いた場所でもあり。
忘れていた言葉や感情の諸々が蘇った。
雪は何によって溶けるだろうか。気温?日光?
やはり熱?
鎌倉、天気晴朗にして、雪溶けの日なれども小雨あり。
目頭の熱と嗚咽混じりの吐息たる雲は雪を溶かして
くれるだろうか。
道道、短い道程ながらも記憶がよみがえり、
心は凍りつく。
走って走って。道行く人に見られようとも走って。
涙をぬぐって。そんな私をよそに大路、ひいて鎌倉は、
全てが変わりない。微々たる差異を含んで量産され、
私の記憶の中にある景色の一つ、学生が列を成し、
校門へと続く道。
その中に友人を見つけた。諏訪真希だ。変に歪む頬、
悲喜交交にして混濁する感情。何とか涙を収め、
欠伸もとい誤魔化し。
次第の笑顔と、汽車のように小さく液体化した息が飛び
出す。教室まではあっという間だった。
次第に北条や安達、長崎などを共に、話に花が咲く。意識のベクトルは秒針のようにゆっくりと、しかし着実に進んでいた。
休み時間のちょっとした小話…世間話から、年頃の
女の子らしい話まで。その頃、厚く固い氷で閉ざした心の遺物は気づかぬ内に、奥深く底に埋め戻された。
いや、埋め戻していた。
三浦さん…私が愛した貴女の。履行し難き希望。
「ものすごい話変わるんだけどさ、後輩ちゃんがもうすぐ誕生日らしくて…何かプレゼントしてあげたいんだけど、何がいいかな?」
「難しいよね〜みんな何か知ってる?」
北条が切り出した話を振る。次々に見聞したこと、
自身の経験を伝える中で、話は細胞のように派生する。
この時、各々がそれぞれの癖をさらけ出したのを見逃さ
なかった。長崎から落ち着きがなくなり、安達は短い
髪をねじって、諏訪はその長髪を撫でる。
隠しきれない仕草は、同時に助けてくれというサイン
なのだ。
そして、誰もが、仕草をわかっている。わかっていて
やっている。私も――いや。
言い換えれば北条以外、困りごとは表面上、隠すたち
なのだ。そんな三人をよそに微笑する私。
好きな人の言うことだ。もういいんだ。
…でも、少し近づくだけなら、いいかな。
私は左眉を撫でて言った。
「ねぇ、好きな人から『危ないから別れよう』って言われたらさ、どうする?」
思い切って聞いてみたのが、悪かったのか。
みんなきょとんとした顔をして、少しして一斉に笑った。危ないとはなんだと。
急に恥ずかしくなって、上目遣いながらも皆の顔を見る。北条だけが、真顔だ。しまった。と思った。
「好きな人いる……の?」
北条が口を開いた。やはり開いた口がふさがってない。
不思議と空気が重い。
いろいろ入り混じった焦りとともに否定すると、みんながまた笑いからかい始めた。赤くなる私の頭から湯気のようなものがでていることだろう。
「両想いならいざ知らず、片想いならもうちょっとだけ
頑張ってもいいんじゃない?」
そういったのは北条だった。仕方ないなと言うような
笑みを浮かべながら。
「今日、立番してたら文化財について話してる生徒が居てな。物騒な事件もあったし、課題を付与する。
文化財について調べてくるんだ。期限は一ヶ月な。」
やがてチャイムが鳴って、歴史の授業が始まって早々、
宣告された。口角は下がり、血の気は引いた。揚々から
消沈へ。迅速かつ静寂に。
さぁ、どうする。友人たちの方を見た。目が合った。
やることは決まったらしい。
数日立った日、私達は諏訪の家にいた。
木材の香りが仄かにする彼女の部屋は、緑を基調とした、家具もあまりないシンプルなもので、
机の上には幾ばくかの洋菓子と紅茶類が置かれていた。
集まった目的は特別なものではなく、ただ単に例の課題をこなすため…というのは建前で携帯用ゲーム機で
遊ぶためである。
ワイワイガヤガヤ。課題や筆記用具が入った紙を
ほっぽって、夏祭りのようにはしゃぐ私たち。
学校での楽しさとはまた違った楽しさと愉悦。
笑いに窒息気味で、愉悦が混じった声を上げる。
ふと諏訪の勉強机の上に、ノミと木片が。
好奇心の衝動は如何ともできなかった。
「近々、3年生が引退の時期になるじゃん?それで、何か木彫りのものを作って渡そうと思って。…あぁ、そうだ。一緒に作ってくれない…かな?」
ゆるく手を合わせ胸の前にやって、僅かな笑みを
浮かべる。
「私なんかで務まるなら…」
すわっち、前世は楊貴妃だったでしょう?そう言おうと
したらそう言っていた。
「幼年部のころ、積み木を倒していたのはいつも紗希
だったもんね〜!」
うるさいと言わんばかりに北条を見ると、他は笑うか、北条を小突いていたり。そんな私たちをよそに、諏訪の手には三人の玄宗が。
しばらくして、やった!と諏訪の喜ぶ声の対で、私は
不安でしかなかった。どこか怖気づき、ついには前言撤回の意思を固めた。
「あ、あのさ…?私不器用だし、諏訪っちのお父さんとか、鎌倉彫屋さんとも仲いいから、そんな人の娘なら、
やっぱり上手いんじゃないの…?」
諏訪家の材木屋という性質を盾にして、それとなく
言ってみるも束の間、諏訪は、少し顔を曇らせて、
勉強机の引き出しから木製の物体を取り出して
手差しした。
小さな三角錐の底面から、大きな三角錐と直方体の融合物が刺さっている。
現代芸術…?印象派…?
得体のしれぬ何かを見つめ、頭上にクエスチョンマークを浮かべている中、答えが明らかとなったのは、
私達が答えるに答えられず、それを求めるように
押し黙って、5秒程経た時であった。
「犬だよ。犬」
「…?」「えぇ…?」「売れないトリマーさん
呼んだの?」
ともかく、どうやら犬であることらしいとわかった。
おそらくお座りしているのだろう。…そうだろう。
「どーよ?」
「血って、争えるんだ…」
諏訪は、大きく首を縦に振った。
そうして、私たちは、捨てる予定というには立派すぎる
木材を取ってきた。
テーブルの上には彫刻刀、鋸、そして木材が出揃った。
カーペットの上に新聞紙などをひいて、すなわち準備完了、時は来たれりと意気揚々、諏訪は始めようか!と言った。
頷きかけた瀬戸際。立ち止まった。
ちょ待ってよ。
何を作る?サイズは?モデルは?どこをどう役割分担
するんだ?
擦り合わせ以前の問題はさっきの犬もどき誕生秘話のいち部を垣間見た気がした。
まって!と急制動をかける私と、きょとんとする諏訪。
両者の間に満ちる形容し難い温度差は、察した他2人によってグラデーションからコントラストへ変わった。
「何をつくる…の?」
「犬だよ?先輩犬すきだし」
「わかった。下書きは?設計図は?手順は?」
「……考えてなかったかも…」
1時間ほどみっちり時間をかけて生み出された設計図は
ポチと名付けられた柴犬であった。
なんやかんやでネットで調べては削りを繰り返して、
ようやく形にした時、辺りには、削屑が山のごとく
堆積し、柔らかな手には豆ができた。
はっきり言って歪で、専門家が見れば頑張ったねと
お世辞を言い、90年後、鑑定団に出しても1000円の価値が付けばいいほうだろう。
ただそれでも、私たちにとっては豆のできるほどの結晶で、名作であることを、お互いの手を触りあって
確認した。
「ねぇ、知ってる?保存科学って。」
「さあ?誰か知ってる?」
誰も首を縦に振らなかった。
ただ科学というのは皆の了解するところである。
「どうも文化財を1日でも長く長持ちさせる学問なんだって…例えばこの木材、木材の遺物は水に浸っているとか、土砂+水という状況で出土することがおおいんだけどさ、PEG、つまりポリエチレングリコールを用いて水と置き換わって流れ出た木材成分の代わりを高分子でするんだって。」
みんなへ〜。としか言えなかった。
「あとは何でできているかの分析とかを金属とか紙とかでやるんだけど…。お父さんが最近関わりだしてるんだ。それで刀剣の鞘の部分とか、樹種同定したら面白いんじゃない?ほら、三浦さん…?だっけ?あの人が詳しいって、沙希よく言ってたじゃん?あの人とはどうなったの?」
一瞬、心臓が止まったかに思えた。
再び浮き上がって地表に姿を現したそれは、
次いで私を真顔にさせる。
私はしどろもどろに、どうするべきかという
ニュアンスで、そして見つからないなあというニュアンスで、ちょっとわからない…と答えた。
「付き合って、愛も保存されればいいのにね。」
突如の冗談に笑ってしまった。
帰り、諏訪のお父さんに鎌倉駅まで送ってもらう
最中、メールが届いた。車の後部座席で隣りの
北条からだ。
「鎌倉駅から、由比ヶ浜までちょっと付き合ってくれる?」
ただ事ではないことがわかった。他の皆にまで隠してやりたいこと。私は快諾した。
駅前で降りてから北条は無口に近かった。ただ由比ヶ浜に一緒に来てほしい。黙って。というかのように。
滑川河口のほとり。汽水域の冷たい感触に肌を撫でられるほど近くに、北条は私を連れてきた。
「沙希はさ、三浦さんのこと、諦めるの?」
「かな、いろいろあったんだけども、その予定。」
「何があったか分からないけどさ、曖昧にするのはよくないと思うかな。お互いにとってよくないし、沙希はよくてもお相手さんはさ…」
そして口をつぐんで、明後日の方向を見る。
「私ね、沙希のこと、好きなんだ。」
「うん、私も―。」
顔を見た時、息を呑んだ。真剣な稲妻が飛び散る様な
目がそこに。まばたき一つなく、視線も直線で。
「いや、私の愛、重いよ?
沙希は違うと思うけど、私は友人として恋人としての
好き。物心ついたころから、貴女が。貴女は私との付き合いが長くて麻痺して気づいてくれなかったけど。」
何故か、何も言えなくなった。
拒否でも、快諾でもない何か。不幸な嫌悪の感じは
なく、嬉しさの絶頂もなく。
黙る中で迷う。何を言うべきか。言わないべきか。
二の矢三の矢と北条は言を発した。
迷う時、同時に言われ分からずに。
「私は今、ここではっきりさせた。だからさ、ここではっきりしよ?独り善がりだけど、あの人のために。」
「私は…」
どうだろうか。
今までを思い返す。ここ半年程の充実さと、楽しさはあの人からのもので。そして静岡県人と交友関係結べた
のもあの人のおかげで。
なにより、なにかに熱中した、できたのも、あの人の
おかげである。
しかし、離れようと思った。危ないからと離れるよう促したのはあの人が言ったからで。
理由はわからない。私のことが好きで、あの人が私をおもってか。いや、これは自己の理想化に
ほかならない。
この一つ。大きく出るか。恩を仇で返すことになっても。恩のほうが、これまで得たもののほうが大きい。
そう。だから。
「三浦さんが好き。」
北条は、ほおを緩めた。よくぞ言ったとでも
いうように。
「さすが!私の沙希。」
「誰が夏希の…だって???」
冬明け頃に珍し、由比ヶ浜の高笑い。
北条は顔をうずめて笑っている。
そうだ。お昼にいじられたから、いじって…
いや、本心を。貴女という素晴らしい友人に。伝え
よう。
「…貴女は…大事かな」
「えっ?」
「なんでもない。じゃ、またね!」
そう言って家への帰路についた。
21号線。海から山へ。下から上へ。
高架に阻まれその果ては見えずとも。
一歩一歩近づくことは変わらない。
海の生物が陸に上がって、やがては1系統が人間に
進化した。1人前になった。
八幡様の前で別れるとも、どちらがどこへ行くか。
明瞭にして片やそうではない。行く先はしれずとも、
前へ前へ。歩むだけだ。
私は三浦さんを奪還する。
ぐえーっ疲れたンゴ…(きたねえ黄色のアイツ)