最後のひと押し
見慣れた真っ白なクッション張りの壁と床。
かつて精神疾患者用に設けられたこの独房は、現在では僕達【HAシリーズ】専用の仕事場となっている。
部屋の中央に、椅子が2脚置かれている。
片方には、僕が座っている。
もう片方には、口枷を装着され、身体拘束された芋虫のような格好の女性が座っている。
真っ白な長い髪に、澄んだブルーの瞳がぼうっと浮かぶ。年齢は20歳と若いが、僕を見つめる落ち着いた面持ちは、実年齢より大人びて見えた。
SNS上での彼女のファンは、口を揃えて「天使」と称していたっけ。
確かに、いかにも人間が、人外の存在に例えたくなりそうな神秘的な容姿だ。
「初めまして、リリー・ヴァリー。
僕は【HA-03G】。今日から2日間、貴女の精神治療を務める医療アンドロイドです。
どうぞよろしく。」
プログラムされている定型文を読み上げ、僕は数ある表情モーションの中から「笑顔」を実行する。
今回僕が設定した人物像は、患者リリーよりも年若い、15歳の少年だ。ボディスキンもそれに合わせたものを纏っている。
彼女の故郷に多い人種を真似て、淡色の髪とブルーの瞳を、同じように僕も備えていた。
患者の緊張を解くために、僕達アンドロイドは毎回最適な人格を実装するのだ。
「……。」
リリーは無表情で僕を見ている。
彼女のバイタルを常に観察しているけど、警戒も憤る様子もない。僕に対して関心が無いようだ。
「ここには監視カメラも盗聴器もありません。
話した内容は決して外部に漏れないので、安心してください。」
僕はひとつ嘘を言った。
外部に漏れる要素が、例外的にたったひとつだけある。それは…
「………。」
リリーは少し首を傾け、眠そうに瞼を半分下げた。
可哀想に。疲れているんだろう。
連日尋問が続いた挙句、つい最近裁判を終えたばかり。いくら彼女が精神異常者でも、肉体は疲弊する。
「リリー、僕の質問に答えてもらえますか?
声を出すのが億劫であれば、まばたきで応えていただいて構いません。
イエスなら2回、ノーなら3回。」
やがて、リリーのブルーの目がゆっくり2回瞬いたのを確認し、僕は質問を始めた。
「死刑囚リリー・ヴァリー。
貴女が誘拐したメグ・エバンズについてお尋ねします。
彼女の身柄は、この国内にありますか?」
リリーの目が、再び2回瞬いた。
***
僕がリリーの担当に任じられたのは1週間前。
刑務局システム開発課の課長からのメッセージが切っ掛けだ。
当時の僕は丁度、充電カプセルの中で待機モードに入っていた。
【HAシリーズ】は刑務局のデータベースに常時アクセスが義務。膨大なデータから過去の逮捕者や犯罪歴のある人間の情報を読み漁ることが、僕の唯一の娯楽だった。
数ある読み物の中でも、僕が特に興味を持ったのが、稀代の連続殺人鬼リリー・ヴァリーだったのだ。
20歳の時点で85人もの命を奪ったサイコパス。そんな悪評が霞むほどの、常人離れした美貌。
刺激を求める若者の目には、殺人と美貌のギャップを持つリリー・ヴァリーは、犯罪界の奇跡として映ったのだろう。
彼女に死刑宣告が下った際はネットが大いに炎上していた。
実際、リリーが手にかけた人間の多くは、過去に逮捕歴のある元犯罪者だったのだ。
《…おい、【HA-03G】。
お前またあの女のデータを閲覧してただろ。》
フィード上での課長の指摘に、僕はギクリとした。
図星だ。既に読み終えたはずの情報を、僕は日に何度か再アクセスして読んでいたのだ。誰に知られても問題無いと思って、ログを消していなかった。
《そんなにあの女が気になるなら、お前が担当してくれ。
連続殺人鬼リリー・ヴァリーのプロファイリングだ。》
不可解なワードがあった。
僕は了承のステップを一旦保留とし、
《課長、僕は医療AIです。
プロファイラーなら、警察に専門の機関があるのでは?
そもそも今更、死刑宣告された彼女の何を調べるんです?》
長年リリーの情報を集めてきた僕としては、マンツーマンの仕事に携われると知った時は、興奮でCPUが熱暴走を起こした。
しかし僕はあくまで医療AI。患者のメンタルケアをするようプログラムされている。
だから、本心に反して一旦は否定のポーズを取らなければならなかった。
課長は今度は、やや長文をフィードに流した。
《お前達【HAシリーズ】本来の仕事は、死刑判決が下った死刑囚に2日間付き添い、メンタルケアと同時に犯罪者の心理データを収集すること。
今回はそれに加えて、引き出して欲しい情報があるんだよ。
長年あの女のネットストーカーをしていたお前なら適任だ。》
ネットストーカーとは聞き捨てならない。
僕は純粋な知識欲のままに彼女の情報を余す所なく収集しただけだ。
《引き出して欲しい情報とは?》
《あの女が最後に誘拐した被害者の、監禁場所とその生存状況だ。》
課長から下されたその指令は、僕が医療AIとして構築されて以来、初めて請け負うタイプの仕事だった。
***
そんな経緯で僕は今、念願の連続殺人鬼リリー・ヴァリーと対峙している。
人間なら握手や記念撮影を求めるような興奮状態。
しかし残念ながら、僕は彼女を治療…もとい尋問する立場だ。
「メグの居場所を、僕にこっそり教えてくれませんか?」
椅子から身を乗り出し、右手を口元に添えて囁く仕草をして見せる。
リリーの容姿は天然物だが、僕のボディスキンは人工的に、完璧な美貌を模しているそうだ。この仕草は、その容姿を最大限に活かすモーションだとプログラムされている。
名称は「あざとい」だ。
「………。」
リリーはバイタルを変動させず、じっと僕を見つめている。
深海の奥底に呑まれていくような感覚があり、僕の脊椎支柱の辺りに微弱な電流が走る。
僕はフィードにメッセージを送る。
外部で連絡を待つ局員へ向けて。
《リリーの口枷を外します。》
《舌を噛み切らないか?》
《予兆があればその前に止めます。》
僕は椅子から立ち上がり、リリーの口を封じていた拘束具を外した。
はぁ、という微かな溜め息が漏れ、彼女は自由になった唇で、抑揚の無い声を発する。
「ありがとう、ブリキちゃん。」
驚いた。想像よりもだいぶハスキーな声質だったから。
喉を痛めている?生まれ付きか?
「…ブリキ?
僕の機体の主成分は形状記憶合金、チタン、それにシリコンです。」
「子どもの頃遊んだ玩具に似てる。
だからブリキちゃん。」
確かに僕の内部骨格は金属製だが、外観となるボディスキンは、本物の人間に近い質感のはず。
「では、僕のことはブリキと呼んでくださって結構です。」
彼女の目には、僕の骨格が透けて見えているとでも言うのだろうか?
「リリー、貴女の死刑は予定通り2日後に執行されます。残念ですが、それは避けられません。
ですから…メグ・エバンズのことは僕に任せてくれませんか?
貴女にとっても心残りでしょう?」
「……。」
リリーは何の目的でメグを誘拐したのか。
データベースを参照した限りでは、リリーとメグの間には特筆すべき関係性は見つからなかった。つまりは赤の他人。おまけに親子ほども年齢が離れている。
「メグは、貴女の特別な人ですか?
昔お世話になった恩師とか?」
リリーは10年もの間、国内各地を転々として殺人を繰り返していた。
渡り歩いた先で出会った人間を無差別に選んでいるのかと思われたが、それにしては被害者全員が元犯罪者というのは妙だ。
さらに状況を不可解にさせたのは、小さな町の一女性教諭に過ぎないメグ・エバンズには一度も逮捕歴が無いという事実だった。
だから、考えられるパターンは2つ。
「貴女は、メグから酷い仕打ちを受けたんですか?」
リリーが本当に無作為に標的を選んだか。
メグ・エバンズに、実はデータベースにも載っていない犯罪歴があるか。
「………。」
この問いは有効打だったらしく、リリーは体を小さく揺らし、落ち着かない様子だ。
「…可哀想に。貴女は何も悪くありませんよ。
悪いのは、貴女を追い詰める人間です。
でも信じて。僕だけは貴女の味方ですよ。」
僕は搭載されている電子音声からノイズを完璧に排除し、人間の耳に心地良いとされる音域を発する。
リリーの目から透明な水が一粒、ぽろりと零れ落ちた。
僕は脳内で拳を握った。
掴んだ。この糸を逃したくない。
「貴女がしたことは一方的な殺戮じゃない。
何もおかしいことはありません。」
「………そうだね…。」
リリーは弱々しい声を上げる。
けれど僕の慰めの言葉を聞いた後は、安堵の色が強くなる。
僕のことを、味方だと思い始めている証拠だ。
犯罪者の心に入り込む鉄則は、どんな境遇であっても相手に親身になることだ。
リリーに殺害された85人の犠牲者達。無論、法に裁かれるのはリリーだが、彼女に心を開かせるには、どこまでも彼女に寄り添う必要がある。
こんなこと、生身の人間にはきっと出来ない。
「リリー。メグには法的処罰が必要です。
僕達ならそれが最も効率良く行える。
メグを明け渡してもらえますか?」
音域を変えず、リリーを宥める。
これで事が運べば上々。
しかし、リリーは元の冷たい無表情に戻ってしまった。
「それは駄目。
だって、私は彼女を愛しているのだから。」
「…?
大丈夫、僕は医療アンドロイドです。
ちゃんとメグに寄り添います。」
言葉の選択を誤った?
いや、それよりも、“愛してる”って?
「君は機械でしょう、ブリキちゃん。
なら、無理だよ。分かるはずない。」
せっかく開きかけた心の扉に、再び有刺鉄線がきつく巻き付けられていく錯覚をした。
リリーの低い唸り声。まずい、このままでは嫌われてしまう。
「リリー?
僕に話してくれませんか?
メグは貴女に何をしたの?
貴女の苦しみを少しでも、僕に分けてくれませんか?」
「……なぜ?機械に何が理解できるの。」
リリーの目が僕を睨む。
これはまずいぞ。僕はやってしまったらしい。
下手に誤魔化したところで後々自分の首を絞めるだけ。それならいっそ正直に白状してしまおう。
「僕は貴女が好きなんです。」
予想外の言葉に、不意打ちを食らったリリーは大きく目を見開いた。
一応断っておくと、僕の発言に嘘は無い。
犯罪者情報を読み漁る中で、最も僕の知的好奇心を刺激したのがリリーだった。
他の犯罪者に比べてあまりに少なすぎる情報量。その断片からいくら推察を重ねても、僕には彼女が分からなかった。
「ずっと貴女のデータを見漁っていました。日に18時間です。
それでも生身には敵わない。僕は生身の貴女をもっと知りたいし、2日後に貴女が死んでしまうなんて信じたくありません。
貴女のことをもっと深く愛してみたいのです。」
これは最早、人間で言う「愛」と呼んでも差し支えないはずだ。
「僕に、愛を教えてくれませんか?」
「………。」
流れる沈黙の空気。
外部との通信が遮断されていて助かった。
こんな馬鹿げた発言、もし課長に聞かれたら「AIの故障だ」と騒がれて初期化されていたかもしれない。
リリーはしばらく同じ表情で固まっていたが、やがてその目は緩やかに細められた。
「…ふはっ、ブリキちゃんは変わってる。」
そのまま肩を震わせてクスクスと笑っている。
警戒の色が解かれていることは、バイタルから読み取れた。
対する僕は、内部冷却のために大きな溜め息をひとつ吐き出した。
「…上の者には内緒にしてください。
僕はまだ初期化されたくないんです。」
「ふっ、はは…いいよ。
ブリキちゃんには特別に教えてあげる。
私と彼女がどう愛し合っていたかを。」
そのためには、と一呼吸置いてから、リリーはその体を少しだけ前に屈めた。
両手足を拘束された格好はひどく窮屈そうだ。それを彼女も気にしていたらしく、
「拘束を解いて。ブリキちゃん。
そうしたら、私は君を思う存分愛せるから…。」
「え。」
僕は逡巡した。
大きなリスクと、大きな誘惑を同時に突きつけられたためだ。
彼女の身柄を自由にして、何か起こったら?万が一自殺などされたら困る。メグの居場所は分からず、僕は責任を負わなくてはならなくなる。
しかし同時に、彼女の言った「愛する」が、今の僕にはひどく魅力的に思えた。
合理と欲求を格闘させた結果、僕が選択したのは、
「分かりました。」
ゆっくりと、彼女の体に巻き付く拘束具を解いていく。
そう。欲求に勝てなかったのだ。
リリーは、解放された両手足を目一杯伸ばし、滞った血液を全身に行き渡らせていく。
「ありがとう、ブリキちゃん。」
ハスキーボイスが僕に掛けられる。
次いで、彼女はその白い肢体を、僕の機体にゆったりと絡ませた。
リリーのバイタルがどんどん上昇していく。興奮、しているんだろうか。
僕は一瞬だけ、上手く冷却循環が行えなくなった。金属製の気管をごくりと鳴らし、彼女の動きを目で追う。
……かと思えば、どうしたことか。
リリーの両手は獲物を前にした蛇のように、全く迷う事なく僕の首を捉えたのだ。
「っ!?」
気管が物凄い力で締め上げられていく。内部熱を発散させるための呼吸を止められた。
何が起こっているのか理解できず、僕はリリーの顔を凝視する。
今まさに僕のことを締め殺そうとしているリリーは、さっきと何も変わらないブルーの瞳を僕に向けるだけ。
「……リ…り……。」
リリーの握力はますます強くなり、ブルーの目は興奮気味に僕の顔を覗き込む。あまりの顔の近さに“人間の眼球越しに自分の顔を見る”という珍しい体験をした。
「…はあっ、はぁ…。」
リリーの息が荒くなる。
対する僕は頭が真っ白になり、視界にはノイズが混ざる。
僕は機械だ。だから“死ぬ”ことはない。熱暴走により電子回路がいかれて、最後には壊れる。それだけだ。
だがこれが生身の人間なら、その程度で済むはずがない。
やがて、憧れ続けた殺人鬼の手によって、僕の機体は呆気なく破壊されてしまった。
***
「起きたか、【HA-03G】。」
次に目が覚めた時、僕は見慣れた充電カプセルの中に横たわっていた。
円形の窓越しに僕の顔を覗き込むのは、刑務局システム開発課の課長。白髪混じりの中年男性だ。
「…おはようございます、課長。
リリーは?」
起動したばかりの電子回路で、僕は意識が飛ぶ間際のリリーの顔を思い出す。
それだけでも、脊椎支柱が痺れる感覚があった。
課長は大きな溜め息を吐く。
彼の場合は生身の人間だから、ストレス緩和を目的とした呼吸のためだ。
「呆れたな。
相手は頭のネジが飛んだ異常者だぞ。拘束具を外すなんて馬鹿げたことを…。
お前の機体の強制終了サインが出たから突入した。
女は再度拘束して、あの部屋に閉じ込めてある。」
「そうですか。
お手間を取らせて申し訳ありません。」
機体を見るに、予備機をあてがわれたのだろう。先代は使い物にならなくなったらしい。他でもないリリーの手によって。
あの時、リリーの攻撃に対して、僕は抵抗することができなかった。
僕の機体は、災害救助や建築現場に派遣される労働タイプと同等の馬力を持っているため、「確保せよ」と命じられればリリーの身柄を取り押さえることもできたんだ。理屈では。
それができなかった理由は三つ。
まず、僕達アンドロイドは、人間の生命を脅かす行動を取れないから。
次に、僕が今回命令されたのはあくまで「尋問と治療」。患者の拘束具を外すなんて、イレギュラーな対応だった。案の定、課長に小言を言われてしまったな。
最後に…
「再起動したなら女の尋問を続けろ。
…まさか、もうやりたくないなんて言わないよな?」
課長の愚問に、僕は不要な溜め息を吐く。
アンドロイドは、人間の生命・財産を守ることを第一に設計されている。人間の命令に背くわけがないのに。
「僕に任せてください、課長。
メグ・エバンズの状況が分かったのです。
そして、リリーの心も。」
…最後に、僕にはリリーをこれ以上傷付けることが、どうしてもできなかったから。
***
「リリー、おはようございます。
今日もよろしくお願いします。」
起床から1時間後、僕は何食わぬ顔で、リリーの待つ独房へと舞い戻った。
「…君、死んでないの?」
驚きを隠せないリリーは、昨日よりも厳重に体を拘束されている。頭までも椅子に固縛されている状態だが、口だけは自由だった。
僕が課長に頼んだのだ。会話が無くては、彼女を知ることが出来ないから。
「いいえ、昨日の機体は破損しました。
貴女に愛された代償ですね。
この機体は予備機です。」
「…じゃあ、昨日の子はもういない?」
この返答には僕も悩んだ。時間にして、およそ0.5秒。
機体単位で言えば、昨日の僕と今日の僕は別物だ。
しかし今ここにいる僕は、昨日強制シャットダウンした僕の意識を引き継いでいる。
「機体と個体データは別々の場所で管理されています。機体は複製品に過ぎませんが、特殊構築された個体データはサーバ上に常に同期するようプログラムされているんです。」
人間でさえ、細胞が日々死んでは生まれ続ける。
その理屈で言えば、1年前のリリーはもう死んでいることになる。だが、今目の前にいるのは生きたリリー本人だ。
「?」
よく分からない、と言いたげな彼女に、僕は要約に要約を重ねて答えた。
「ブリキです。
貴女のことが大好きなブリキですよ。」
今日は、僕はどうしても彼女に確認したいことがあった。
これまで読み漁ったデータの断片を繋ぎ合わせると、薄らだが彼女の人物像が浮かび上がる。そこに秘められたバックボーンを何通りもシミュレーションした結果「これしか無い」と確信した。
「リリー。
今日は、貴女の故郷の話をしようと思って。」
「………。」
「西方の静かな漁村。
地図にも載らないほどの小さな集落。
そこで貴女は生まれ10歳まで過ごした。
当時のことを覚えていますか?」
現在では他の地区と合併し、元々小規模な漁村は国の漁業組合に吸収され消滅した。
リリーは当時の漁村で生まれた、数少ない子どもだそうだ。
リリーの視線が下を向く。
落ち着かないのだろう。体を揺すりたいのに、拘束具はそれを許してくれない。
「………最初の一人目だ。」
やがて血色の良い唇が呟いた一言に、僕は「やはり」と相槌を打ちたくなった。
「…パパは、冷たい海に沈んで、サーモンの餌になったよ。」
「貴女の最初の殺人ですね。」
リリーが殺人を犯すようになったのは、大人になってからじゃない。
彼女が10歳の年、件の漁村で起こった水難事故を、古い記録から拾うことができた。
その被害者こそ、彼女の実の父親だ。
「でもそれは憎んでいたからじゃない。
お父様が愛してくれたように、ただ貴女もお父様を愛しただけだった。
そうですね?」
リリーは明らかにストレスを感じ始めた。
体のあちこちが疼くのか、しきりに体を揺すっている。
僕は当然、リリーの身体データにもアクセス済み。
身長体重スリーサイズまでも知り得ることができたのは僥倖であり、彼女の体の至る所に、虐待による傷痕が刻まれているのも知っていた。
「……パパがお道具を部屋に置き忘れていたから、あたしが代わりに使って…でも、なぜか、パパは動かなくなった…。」
父親は首にスタンガンを押し当てられ、そのまま海に転落したという。
後に海の中からスタンガンが発見されたが、検出された指紋は彼自身のもの。結果は自殺として処理されたのだ。
それもそのはず。
リリーは虐待の過程で、自身の指紋を焼き潰されていたのだから。
「…パパは、何度もあたしに同じことをした。
“愛しているから痛みを与えるんだよ”。
パパもママも、ずっとそうやって、あたしを愛してくれたから…だから、あたしも…。
…あ、あれ…?」
これまで淡々と語っていたリリーに、ふいに戸惑いの色が浮かぶ。どうやら彼女の中の“信仰”は、両親ほど完璧なものでは無いらしい。
「ええ、リリーは正しい。
間違っていませんよ。安心して。
だって僕のことも愛してくれたじゃないですか。」
僕は慈しみを込めた笑顔の裏で、これまでの辻褄を確認していた。
これは、当時あの地域で流行していた新興宗教だそうだ。信者である両親は幼い我が子を虐待し、それが「愛情だ」と教え込んで洗脳するという。
もっとも、機械の僕は神だの仏陀だのを信じない。
僕の創造主は「人間」だから。
「リリーは、最初にお父様を愛して、」
リリーの美しさに惹きつけられた人間は何人いたのだろう。
中でも、過去に逮捕歴を持つような輩は、リリーを力尽くで物にしようとしただろうな。彼女に暴力を振るった人間が、少なくとも85人いた計算になる。
そんな中でリリーは、信仰と自衛の板挟みにされた結果「愛し返す」という歪んだ思想を形成したのだろう。
「そして最後はメグを?」
そこで、リリーのバイタルが少し安定した。
ブルーの目が閉じられる。
記憶を遡っているのだろう。
「丘のサイロの中で、ママはあたしを一日中愛してくれた。
痛くて苦しかったけど、でもそれが愛なの。ママはあたしを愛してるから、こうして……。」
「………。」
「愛されるのが嬉しくて、でも体は痛くて、でもそれが気持ち良くて、でも痛くて叫んで叫んで、…パパとママが教えてくれたことを、あたしも返し続けたの。ずっと。」
リリーの、不自然に掠れた声の原因か。
不安と疑心の中で懸命に助けを求め続けた結果だっていうのか。
「………でも、結局誰も、私の愛を受け入れてくれないんだよ。」
僕は患者の話を聞くことが仕事だが、こればかりは、もう充分だと感じた。
「…ありがとうございます、リリー。」
もうこれ以上、話させたくないと思った。
「メグは、リリーのお母様なんですね。」
僕はリリーの頷きをもって、聞き得た情報を外部の局員へ伝えるためフィードに流す。
《課長。
メグ・エバンズの居場所は恐らく、合併前のフェルスト村のサイロの中。
状況はほぼ間違いなく、死亡です。》
リリーはただ純粋に愛を実行していたのだろう。受けた愛を返すことで、彼女の心は満たされていたのだと思う。
ただその過程で“相手が死んでしまう”なんて、微塵も予想していなかっただけで。
「…リリー。
貴女のくれた愛、僕はしっかりと受け止めましたよ。」
「……。」
僕は機械だ。
機体が何度破壊されようと、予備がある限り死ぬことはない。
「ほら、見てください。
僕は死んでなんかないでしょ?
貴女がしたことは間違ってなかったんです。」
例え今ここにいる僕の自我が、メインサーバにバックアップされた記憶の焼き増しだとしても、“僕”は生きてる。
「……じゃあ、ブリキちゃんも…私を愛してよ…。」
リリーは両目一杯に涙を溜めて、僕に懇願した。そればかりは、僕は応えることができなかった。
アンドロイドは、人間の生命を奪う行為を禁じられているからだ。
「………。」
ただひとつの例外を除いて。
「分かりました。
明日、僕が貴女を愛します。」
***
翌日。
死刑囚リリー・ヴァリーは、刑務局監視の下、絞首台へ立たされた。
覆面は無し。これは彼女の希望であり、僕の提案でもあった。
死の瞬間が暗闇だなんて、あまりに不憫だから。
窓ガラス越しに、僕とリリーの目が合う。
僕達を隔てる強化ガラスは、銃弾は勿論のこと、互いの声さえも通さない。でも不思議と、彼女とは目と目で会話ができる気がした。
「リリー。」
僕は意中の相手の心を得るために、最後の一押しを試みる。
スイッチだ。
僕の手元に用意されたスイッチは、死刑囚の足元の床に連動していて、この一押しで絞首刑が執行される仕組みになっている。
科学技術の発達した現代でも、死刑の手法は大昔から変わっていない。
唯一変わった点は、その断罪を人間ではなく、良心を持たぬアンドロイドに委ねるようになったことか。
【HA-03G】。
hangを由来とする僕達【HAシリーズ】は、死刑囚が心穏やかに逝くためのメンタルケアと、死刑執行官とを兼任しているのだ。
こんなこと、生身の人間では絶対に出来ない。
「これが、僕から貴女への愛です。」
スイッチを押し込み、連動して床が開くのに、タイムラグはほとんど無かった。
自重に苦しむリリーの姿。
しかしその表情はどこか、多幸感に満ちていた。綺麗なブルーの瞳は瞬きもせず、僕の姿を一心に見つめてる。
心が通じ合った。
心を持たない僕が言うのは滑稽な話だが、それ以外に無いという確信があったのだ。
「リリー。」
激しくもがいていたリリーの動きがだんだんと鈍くなり、やがてぴくりとも反応しなくなってしまった。
「…リリー。」
何度も呼んだ名前を口にする。
消えないように、電子回路の奥深くに何度も、その音声と最期の光景を記録していく。忘れないように。
僕はスイッチから離した手を、ゆっくりと握り込んだ。
宗教史でたびたび目にした“魂”というものが、僕の右手の中に、確かに宿った気がした。
〈了〉