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「ッ!?」
「僕だよ、ネイト」
その正体は、ネイトの主人であった。
捕まれた手首がゆっくりと放され、ネイトはナイフをしまう。
「申し訳ございません。足音の正体がわからず……」
「あぁ、気にしなくていいよ。何をしていたんだい?」
ネイトは少女が目を覚ましたこと、少女の名前はアニーということ、そして今夜はこの森で過ごすため食料を集めていたことをクリートに簡潔に話した。
「なるほどね、なんだか軍事学校のサバイバル訓練を思い出すなぁ」
クリートはくすくす笑いながら歩き始める。
ネイトが「こちらです」と誘導した。
イギリスの男性は十五歳から十八歳までの間は軍事学校に通うことが普通であり、その中でサバイバル訓練もカリキュラムに入っている。
クリートは軍事学校で戦闘機を操る空軍隊に所属していた。
今となっては思い出だが、心身ともに疲れ果てるあの場にもう一度戻りたいかと聞かれたら首を横に振る。
「どうしてここがおわかりになったのですか?」
「うーん、直感かな。ネイトならそこに行くだろうって思ってたんだ」
十年前、クリートとネイトが出会った場所。身を隠すには十分な場所ではあるが、その分禁止区域の奥深くのため、自力で帰ってくることは難しい。
「ご主人様の直感には時々驚かされます」
「はは、褒めてもらえて光栄だ」
国立自然公園禁止区域。
その奥深くに焚き火があった。
焚き火を囲むようにして人が三人座っている。
「アニーちゃんか、よろしくね。僕はクリート・ウェルス・ジェイン。こっちはメイドのネイト」
クリートが自分のフロックコートを少女アニーに着せた。少女は寝衣で薄着の姿だ。
夜の森は冷えるため、着ておいた方がいいとクリートは考えた。
「?」
クリートの言葉にアニーが首をかしげた。
「ん、どうかしたかい?」
「?」
微笑みながら話しかけるクリートに対して、アニーはきょろきょろと目が泳いでいた。
その様子を見ていたネイトが「あ」と状況を理解しクリートの方を向く。
「彼女は貴族英語しか話せませんし、聞き取れないようです」
「なるほどね、通訳してくれるかい、ネイト」
ネイトはクリートの言ったことを貴族英語でアニーに話した。
アニーはそこでようやく「あぁ」と理解する。
「貴族英語しか話せないしわからない、というのは珍しいねぇ」
「ごめんなさい……これしかわからなくて」
「いや、気にしなくていいよ。ネイトがいてくれてよかったね」
ネイトがいなければ会話もままならないことになっていた。本当に助かったとクリートは思う。
「ネイトから聞いたけど記憶が曖昧みたいだね、今は何か思い出したことはあるかい?」
「……いいえ、何も」
「そうか、ゆっくり思い出すといいよ。こういうものはゆっくり時間をかけたほうがいいからね」
「ありがとうございます。その……」
「ん?」
クリートの優しい表情が徐々にアニーの心を打ち解けさせる。
「どうして……どうしてそこまで優しくしてくれるのですか?身元もわからず記憶も曖昧なのに……」
クリートはくすくすと笑いながらこう答える。
「当然じゃないか、目の前でこんな子がいれば助けるのが当たり前だと思うよ」
「そう……ですか。ありがとうございます」
アニーはクリートのことを少し理解できたような気がした。
彼はまさに紳士そのものかもしれない。
少しホッとしたところでアニーは強烈な眠気に襲われてきた。
くらっと頭が重くなり、その場で身体を崩す。
「大丈夫かい?」
「はい……なんだかすごく眠くて……」
「そっか、今日はもうおやすみ。明日になってからまたどうするか考えよう」
「…………はい」
アニーはゆっくりと瞼を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
相当疲れていたのだろう、眠るまでそう時間はかからなかった。
「相当疲れていたようですね」
「そうだねぇ」
クリートとネイトの二人は焚き火をぼうっと見つめる。
太陽がロンドンから姿を消した今、まばゆいものにはどこか惹きつけられるものがある。
「彼女のことをどう思われますか?」
「アニーちゃんのことかい?うーん、そうだねぇ……」
クリートは手を顎に当てて考える。
「この様子だと記憶がやられてしまっているかもしれないねぇ、すぐに思い出せるものでもないと思う」
「ロンドンにいる技師に診ていただきますか?」
「いや、この子の場合はどうだろう。かなり精巧な作りをしてあるからねぇ、もしかすると治せる人はごく一部だと思うよ」
「貴族英語しか話せないことも謎ですね」
「そうだねぇ。もしかすると情報漏洩しないように暗号として貴族英語しか話せないようになっているのかもしれない」
二人は少女の方を向いた。
少女は寝息を静かに立てながら夢の中にいる。二人がアニーのことを、まるで機械の状態について話していることには理由があった。
アニーは自覚がないが、巻車の擦れる音がアニーから聞こえるのだ。
それはとても小さいものだが。
「巻車人形の自覚がないようでしたね。いかがいたしますか?」
「そこは触れないでいてあげよう。自分のことを人間と思い込んだままの方がアニーちゃんにとってはいいかもしれない」
「承知いたしました」
アニーは必死に逃げていた。
追ってきているものは恐怖のそれ。
謎の声が「おいでおいで」と背後から聞こえてくるが、振り向く勇気はない。
背後には恐怖が迫ってきている。
声はだんだんとアニーに近づき、巻車どうしが擦れる金属音が頭の中に響いてくる。
「ツカマエタ」
ガッと両肩を掴まれ、引っ張られそうになったところで、
「ぁ……」
アニーは目を覚ました。
そこは真っ暗闇であった。
寝汗が背中から流れていて少し暑い。
眠る前にあった焚き火は消えている。
あれからかなりの時間が経っていたようだ。
「うぅ……」
頭が痛い。先ほどの夢に出てきた巻車どうしが擦れ合う金属音が脳から離れない。
今何時だろう、わからない。深夜であることは間違いない。夜が完全に世界を覆っている。
徐々に目が暗闇に慣れてきたところで、クリートとネイトの二人の姿を確認できた。二人は座りながら眠っており、寝息を静かに立てている。
(私は……)
アニーは一つ思い出したことがあった。
(私は……逃げなきゃいけない!)
理由はわからない。ただ誰かに追われている。
それだけは確かなことであった。
「ごめん……なさい」
アニーはクリートのフロックコートを脱ぎ、寝静まっている二人にそうつぶやく。
あの恐怖に二人を近づけさせてはいけない。
恐怖は私を追いかけている。
ならば自分がここを離れれば、この二人を巻き込むこともないだろう。
そうアニーは考え、二人を起こさないようにそっとその場を離れる。
「本当に、ごめん……なさい。でも……これで」
助けてもらったことは絶対に忘れないと心に誓い、アニーは森の闇の中を走り出す。
どこにあるかわからない隠れ場所を探して、アニーは足をもつれさせながら走っていく。
それはまるで虫が光を求めて飛び回っているかのようであった。