5
男の声がすると同時に、クリートの額にゆっくりと拳銃が突きつけられる。
男は二人。
二人とも背はクリートと同じほどで、灰色のコートで身を包んでいる。
顔には鉄の仮面をつけており、表情がわからない。
「逆らえば……わかるな?」
男が拳銃をクリートの額に押し付ける。
押し付ける力が強く、クリートは一歩後ろに下がった。
「その子の身元人だ、さっさと、」
ヒュンッ!
男が言い切る前に、クリートの後方から一本のナイフが、男の腕にめがけて飛んできた。
「ぐあっ!」
ナイフが男の腕に刺さり、男は拳銃を落とす。
それを見たクリートは落ちた拳銃を蹴り飛ばし、すかさず男の顔に殴りかかった。
「く、こいつ!」
もう一人の男が拳銃をクリートに向けようとしたとき、またクリートの後方からナイフが飛び、男の腕に深々と刺さった。
すかさずクリートがその男の顔に蹴りを入れる。
ナイフの主はネイトであった。
メイド服に仕込んでいたナイフを取り出し、指の間に入れて構えていた。
「ネイト、その子を連れて逃げるんだ!場所は国立自然公園!」
ネイトはすぐさま眠っている少女を抱きかかえ、部屋の窓を開け勢いよく飛び降りた。
二階から地面にうまく着地し、そのまま国立自然公園がある丘の方へ走っていく。
ネイトの背中を見届けた後、クリートは男二人の方に向き直った。
「ク、クソォ」
「こんなに強いなんて聞いてないぞ……」
男二人がよろよろと立ち上がる。
クリートは一人の胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。
「ぐがっ!」
「君たち何者だい?」
「へ、答えるかよ。おい」
クリートがもう一人の方を向くと、男は手に球状の物体を取り出していた。
そして男は球状の物体についたピンを外し、それを勢いよく床に叩きつけた。
球状の物体が破裂し、勢いよく白い煙が舞い上がる。
周囲を瞬く間に白い煙が覆っていく。
(これは……煙玉か)
クリートの視界が真っ白に染まり、目を開けていられなくなる。
「へ、じゃあな」
胸ぐらを掴んでいた男から腕を払いのけられる。
すぐに追いかけようとしたが、視界が真っ白で周囲がわからなかったため身動きをとることができなかった。
二人の男はこの視界の中で迷うことなく学生寮を出ていき、ネイトの跡を追いかけていく。
視界が悪い中でも動くことに慣れている様子であった。
「なんだい、これは!?」
「火事か、火事なのか!?」
「外に出ろ、外にだ!走れ!」
学生寮にいた人たちが慌てふためく声が下から聞こえた。
誰かが窓を開けてくれたのか、徐々に視界が晴れていく。
クリートも学生寮を飛び出し、国立自然公園へ続く丘の方角を確認した。
「あっちだね、よし」
「ちょっと、ちょっと、クリート!一体これはどうなっているんだい?」
丘の方に走ろうとしたところで、クリートは恰幅の良い女性に止められた。
この学生寮の寮母だった。
「あんたの部屋から何か聞こえてきたけど、何かあったのかい!」
「ごめんね、後で全部話すよ」
クリートはそう言って、丘の方に向かって走り出した。
国立自然公園はロンドンの中で唯一、緑が広がる場所と言っていいだろう。
国の指定で保護区に認定されているこの自然公園は、大きく分けて二つの区域に分かれている。
一つが開放区域、もう一つが禁止区域である。
開放区域は人が自由に立ち入ることができる、野原が広がる区域だ。
休日には各所で野営の準備がされ、自然の中を楽しむ人でにぎわう。
禁止区域は人の立ち入りが禁止されている区域で、鬱蒼とした森が続く区域である。
自然管理官という職を持つものだけが立ち入りの許可をされており、その他の人は入ることができない。
とはいえ、ロープと立て看板で「立ち入り禁止」と書いているだけであり、入ろうと思えば誰でも入れるのだが。
仮に入ってしまえば、大抵は鬱蒼とした森から帰ってくることができない人が多い。
行方不明者が出て捜索をする記事が時々タイムズ新聞でも書かれることがある。
そのため、誰でも入ろうと思えば入れるが、遭難を恐れて入ろうとする者はほとんどいない。
ネイトがやってきたのはそんな禁止区域の奥深くであった。
ネイトは少女を木の根っこの部分に横たわらせ、周囲にあの鉄仮面の二人の気配がないかを確認する。やがて気配がないことがわかると、
(……懐かしいですね)
ネイトは十年前のことを思い出していた。
十年前、ちょうどこの辺りでクリートと出会い、手を差し伸べられた。
あの時は市街地で盗んだ食料を手に、追手から身を隠そうと、国立自然公園の奥深くに逃げていた。
なんとか追手を撒くことはできたが、次はこの鬱蒼とした森の中から出られなくなってしまった。
大樹が何本もあるこの禁止区域は、どこを移動しても同じ木々しか見えず、景色が変わらないという錯覚を持ってしまい、やがて方向感覚を失ってしまう。
あの時、ネイトは数時間歩いたのだが、結局方向がわからず、途方に暮れているところでクリートが現れた。
クリートは微笑みながら手を差し伸べ、
「一緒に来るかい?」
とネイトに尋ねた。
その手を握った時の暖かさは今でも覚えている。
それはまるで太陽のような優しいものであった。
そこから後の記憶は曖昧だ。
自分の足で歩いたのか、クリートに抱きかかえられてもらったのかも覚えていない。
ピンと張っていた緊張が解けたせいか、ひどく眠く疲れていたことだけしか記憶にはない。
「うぅ……」
少女の呻き声が聞こえ、ネイトは我に返った。少女の下に駆け寄り様子を見る。
精巧な人形のようである少女の瞼がゆっくりと開いた。少女の目にネイトの姿が映る。
「気が付きましたか」
「だ……誰?」
ネイトは自分の名前を言った後に、自分の主人であるクリートが少女を助けたことを話した。
今は謎の二人の男に追われており、ここで身を隠していることも伝えた。
「貴女のお名前をお聞かせ願えますか」
「私は……アニー。アニエス・ドールライト」
少し話すのに間があった。ネイトのことを警戒しているのだろう。
「アニー、貴女を追いかけていた男二人のことはわかりますか?」
「……わからない」
「貴女はテムズ川に流されていました。それまでに何があったか覚えていますか?」
「……ううん、わからない。思い出せない」
「では……自分が何者かわかりますか?」
「…………ダメ、わからない」
「困りましたね」
どうやら記憶がないらしい。
自分の名前は覚えているところから、部分的な記憶が欠落しているようだ。
そこを知りたいネイトであったが、わからないのであれば仕方がない。
無理に思い出そうとしても精神的な負担が身体を襲う。そこは自身の経験からわかるものだった。
「では話を変えましょう。アニー、一般英語は話せますか?」
話を変えた理由が一つあった。
アニーが今話している言葉は、一般的な英語ではなく、貴族英語と呼ばれるものである。
貴族英語とは、クリートやネイトが話す英語とは異なる言語だ。
「裁き」以前、イギリスでは貴族同士でのみ通じる言語が貴族間の中で作られていた。
その大きな理由は、平民と貴族の身分を区別するためだ。
平民の中でも優秀な者、富を持つ者は貴族英語を覚える権利が貰え、貴族英語を身につけることは一つの名誉と考えられていた。
しかし、現在は貴族と平民間での隔たりは段々となくなってきており、言葉の壁は特に薄くなっている。
一般英語が貴族間で浸透してきているため、貴族英語のみを話す貴族は、今ではほとんどいない。もしいるとすれば、貴族の中の貴族。自分の住む場所からほとんど外に出る必要がないような莫大な富を持つ一族だけだ。
ネイトは不思議なことに、あらゆる言語の言葉や文字が理解でき、そして話せる力を持っている。クリートは冗談交じりにそのことを「全知全能の神の全知を授かったのだろう」と言っていたが、詳しい理由はネイトにもわかっていない。
ネイトとアニーの会話は今、貴族英語でやり取りをしていた。
アニーに一般の英語が話せるかどうかを聞いた理由は、もし貴族英語しか話せないのであれば、彼女はかなり高貴な一族の少女であることが明らかになるからであった。
「ううん……この言葉、その、貴族英語?……しか話せない」
どうやら貴族英語を話している自覚がなかったらしい。
「ご両親はどこにいるかわかりますか?」
「お父さんもお母さんも……いない。思い出せるのは……真っ暗闇の中でゼンマイの音がうるさく鳴っていること……ぐらい」
夜が近づいてきたのか、鬱蒼とした辺りは暗闇に包まれ始めた。
梟が鳴きはじめ、闇の向こうから得体の知れない足音や鳴き声が聞こえてくる。
「今夜はここで一晩を明かしましょう」
夜の森は下手に動かない方が良い。これはクリートや昔のメイド長に教わったものだ。
下手に歩いてしまうと迷う原因となる。なるべく朝が来るのを待ってから動き出した方が良い。
「近くで食用の木の実などを取って参ります。そこから動かないでいてください」
「……私も」
「いいえ、貴女は今衰弱しています。そこで大人しくしていてください」
「……はい」
ネイトは「すぐに戻ります」と言って森の闇の中に消えていった。
アニーは木の根っこを枕代わりにして、巣の中の雛のように身体を丸め、ゆっくりと瞼を閉じた。
森の中は僅かに目の前の視界だけが見えるような暗さであった。
梟の鳴き声が所々で聞こえてくる。まるで何かに見張られているよう。
ネイトは一歩ずつ慎重に足を進め、木の根っこ付近に落ちている木の実やキノコを採っていった。
(生きるための術、ここで役に立つとは思いませんでした)
ネイトはジェイン家のメイドとして様々なものを当時のメイド長に教え込まれた。
それは、学問から始まり、武術、知識、従者としての心得、そして生きるための術。
それがこうして今に活きている。
「これぐらいでしょうか」
野草やキノコ、木の実などをメイド服の中にしまい、来た道を戻ろうとする。
その時、
「ッ!」
森の奥から足音が聞こえ、すぐさまネイトは近くの木の影に隠れた。
足音はゆっくりとした足取りでこちらに向かってきており、気配は一人だけであった。
あの二人組だろうか。いや、それにしてはもう一人の気配がない。
(…………)
足音が近づき、ネイトの隠れている木の横を通り過ぎようとする。
視界がわからないため、ここからでは足音の正体がわからない。
ネイトはナイフを取り出し、逆手に構え、木の影を飛び出した。
自分の足音を殺すように駆け抜け、足音の主の首元目がけてナイフを運んでいく。
しかし、ナイフが首元に迫る寸前で、ネイトの手首は力強く捕まえられた。






