3
ロンドンに流れるテムズ川は、今日も静かにせせらぎの音を発していた。
「裁き」以前は透き通った色をしていたが、今では遠い昔の話である。
濁った川は青と緑を混ぜ合わせたような色で、とても魚が住めるような色ではない。
民衆の一部からは過去の透き通った色を戻そうという声も出ているが、具体的な動きはまだ見えていないのが現状だ。
そんなテムズ川でも、産業革命の目まぐるしい時間の流れに翻弄される人々の憩いの場にはなっていた。
ここは巻車どうしの擦れる金属音が聞こえない数少ない場所であり、川のせせらぎの音がそれにとって代わってくれている。
クリートとネイトは昼食をフィッシュアンドチップスで済ませ、テムズ川をまたぐように作られた橋の上から川を眺めていた。
クリートが時々ため息をつき、その後ろでネイトが静かにクリートの背中を見ていた。
これからどうしたものだろう。
祖父は自分にだけあのような手紙を書いたのだろうか、わからない。
家にあのような連絡は届いているのだろうか、わからない。
とにかくわからないことだらけであった。
今、祖父がどこにいるのかも何をしているのかもクリートはわからない。
探すにしてもどこから手をつければよいかとクリートは頭を悩ませる。
放浪医ドクトルが言ったように午後の授業に出る、という考えはクリートの頭にはなかった。
このような状況を脇に置いて、大学院に戻り授業を受けることはとてもできない。
「……っ、ご主人様!」
途方に暮れている中、後ろから声がした。
ネイトが自分から話すとは珍しい。
ネイトが話すことがあるとすれば、報告かクリートに対しての返事ぐらいだからだ。
「ん、どうしたんだい?」
クリートがネイトの方を向くと、ネイトはテムズ川の先の方を見ていた。
「人が……」
クリートは橋の下へ視線を移す。
「人が、流れてきています」
ネイトの言うことがクリートにもわかった。
川の上流から流れてくるものがあった。
ネイトの言う通り、人であった。
人が仰向けの姿勢で川をゆっくりと流れてきていた。
「ネイト、手伝ってくれるかい?」
「助けるのですか?」
「当然だよ、ましてや、」
クリートがフロックコートを脱ぎ捨てて川へと飛び込む姿勢になる。
「小さな女の子ならなおさらだよ」
クリートは濁った川にためらうことなく飛び込み、流されてくる人……少女に向かって泳いで行った。
クリートは少女に近づくと、赤ん坊を抱くように腕に包み、少女の息があるかどうかを確認した。
大丈夫だ、まだ息はしっかりとしている。
ただ意識を失っているだけだ。
小柄でクリートの腕に収まるほどの大きさをした少女は、テムズ川の水に汚されていたが命に別状はないようだった。
少女は綺麗な顔をしており、目を閉じて眠っている。
(ん?この子……)
クリートはそんな少女の顔を見ながら既視感を覚えた。
そう、どこかで見たことがある。
しかし、はっきりとではなくぼんやりとした記憶だ。
クリートは陸に向かって泳ぎながらその既視感が何なのかを思い出そうとする。
確か今日、それも今朝だ。
今朝起きて、ネイトと会う前に……
(そうだ、新聞に載っていた)
そこでクリートの記憶が鮮明になった。
この少女の顔を見たことがあった。
それは、今朝の新聞に載っていた、行方不明捜索中の少女の似顔絵だった。