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灰の都ロンドン。
そう揶揄される理由は空と地上にある。
分厚い雲が年中覆い、太陽の光も届かなくなってから二十年余りが経つ。
太陽の光はいつしか忘れ去られ、灰色の雲のみが灰都を支配するようになった。
地上でも建物や舗装された道路も灰色であり、異なる色といえば人々の着る服ぐらいである。
地上は巻車四輪車が走る車道が中心にあり、その脇を人の歩く歩道で分けられている。
巻車四輪車から発せられる金属と金属の軋み音は、開発された当初は騒音の原因になると抗議の声も上がっていたが、それも今は昔の話。
今ではその軋み音は日常風景の一部になっている。
巻車四輪車だけではない、あらゆる場所から金属の軋み音が飛び交うのが、ここ灰都ロンドンの日常だ。
クリートとネイトは歩道を歩きながら祖父のことについて話していた。
「放浪医さんが何か知っていればいいんだけどねぇ」
ネイトは「そうですね」と答えた。
「正直、藁にもすがる思いだよ。もし外れだったら、じじいの知り合いを手当たり次第に探すことになるだろうしね」
「良い返事を期待いたします」
「うん、そうだといいね。手紙には『そちらを危険に巻き込む可能性もある』って書いてあるぐらいだ。何か危険なことに足を踏み入れているのかもしれない」
ネイトが「こちらです」とクリートを街角の薄暗い路地に導いた。
「暗い路地だねぇ、ここにいるのかい?」
「はい、今日はこちらで診察を行っておりました」
二人が路地を抜けると、そこはゴミの溜まり場であった。
所々から生ゴミの異臭がツンと鼻を突く。
ゴミ袋が乱雑に積み上げられており、いつ崩れるかわからない山のようになっていた。
なぜこのような所に放浪医がいるのかクリートにはわからなかった。
考えられるとすれば、今日、ここに重症の患者がいたので手を施したといったところだろうか。
「あれ、あなたは先ほどの……」
ゴミ袋の山の下には、白衣を着た老人と小柄な少女がいた。
少女がネイトを見ながらそう言うと、白衣を着た老人が首を捻って(ひね)クリートとネイトの方を見た。
「あ、やっぱりそうだ。どうかされましたか?ひょっとして忘れ物ですか?」
少女が矢継ぎ早に質問をしてくるが、ネイトは一言「違います」と答えた。
「放浪医ドクトル、お久しぶりです」
クリートがドクトルの方を見ながら頭をゆっくりと下げた。
ドクトルは「ふむ」と左側しかない眼鏡をつり上げた。
彼と会うのは、ネイトを初めて診察に連れて行った時以来だ。
放浪医ドクトル。
その名の通り世界各地を放浪し、どんな人間も無条件で治療を施すと言われている名医。
その名は世界各地に広まっており、中でも子供に対しては治療の一切を妥協しないと言われている。
整った髪にはところどころ白髪ができているが、年をあまり感じさせていない。
姿勢も綺麗で、身長はクリートと同じぐらいか。
「確か君は、クリート坊ちゃんだね」
ドクトルにそう言われ、クリートは「いやあ」と少し照れ笑いした。
坊ちゃん呼ばれをこの年でもされるのは少々照れくさい。
「ご無沙汰しております。ネイトがお世話になっているようで」
「なに、気にすることはない。今日はどんなごようかな?坊ちゃんもどこか具合が悪いのかな?」
ドクトルの近くにいた少女がクリートに寄っていき、しげしげとクリートを見つめ始めた。
「エレナ、やめなさい」とドクトルが言うと、エレナと呼ばれた少女は少し残念そうな顔でドクトルの方に戻っていった。
「うちの助手がすまんね。助手としての腕は申しぶんないのだが、しつけがまだなっていなくてね」
「可愛らしい子ですね。巻車人形ですか?」
「あぁ、主に計測周りを助けてもらっている」
巻車人形、通称ゼンマイドールは人間の姿形を似せた、巻車を動力とする人形のことだ。
単純作業を行うものから、複雑な計算を瞬時にできる高性能なものまで幅広く存在している。
十年前までは巻車が剥き出しになっているものが多かったが、高性能な人形が開発されるようになってからは、目の前にいるエレナのような、人間と見間違うような感情を持つものが増え始めている。
これから普及していくかどうかは不透明なところが多いが、少なからず人々の助けに貢献していることは事実である。
「ドクトル、今日は祖父の事でお話に伺いました」
「ふむ?」
口で説明するよりも直接目で見てもらった方が良いと考え、クリートは祖父からの手紙をドクトルに手渡した。
受け取ったドクトルは眼鏡の縁を上げて手紙を読み始めた。
エレナが背伸びをしながら手紙に何が書かれているかを読もうとしていた。
「……残念だが、私にもわからない。イギリスに来てから数日経つがメキングとは連絡を取れていなくてね」
手紙を読み終えてから返ってきたのはこの言葉だった。
クリートがその言葉を聞き「そうですか」とうなだれる。
「もし私がメキングと会えることがあれば、坊ちゃんのことを伝えておこう。今日は大学院での授業は?」
「午後から一つあります」
「今日はそちらに専念しなさい。頭から離れない気持ちはわかるが、メキングのことだ。きっとそのうち連絡はつくと思うのでね」
クリートは納得がいかない気持ちではあったが、それを口にすることはできなかった。
「わかりました、ありがとうございます」
「それでは失礼するよ。まだまだ患者が待っておるのでな」
医療器具が入ったケースを持ち上げ、ドクトルとエレナは去っていった。
クリートとネイトはしばらくそのまま立っていたが、やがてクリートがふうとため息をついた。
「大きな手掛かりはなし、だね」
大きな手掛かりを期待していただけに、クリートは落胆していた。
これから祖父の心当たりがある場所を手当たり次第に探してみるしかない。
「まずはどこから探されますか?」
「うーん、そうだねぇ」
クリートは路地を抜ける道を歩き始めた。後ろからネイトが追いかける。
「まずはテムズ川でも眺めながら昼食にしよう。フィッシュアンドチップスでもいいかい?」
「私は何でもかまいません」
テムズ川。今では工場排水のせいで濁った色になってしまっているが、それでも雄大な景色を見せてくれる場所の一つだ。休日は多くの人たちで賑わっている。
「昼からも手伝ってくれるかい、ネイト」
「はい、ご主人様」
路地を跡にし、人混みの中に入ったところで放浪医ドクトルは後ろを振り向いた。
どうやらあの青年は追いかけてきていないようだ。
「ねぇ、おじい様」
エレナがドクトルの白衣を手で掴みながらドクトルに聞く。
「どうしてあのような嘘を?メキング様のことについて知っていることがあるはずでしょう?」
エレナは察しがついていたようだ。
嘘をついた理由はいろいろある。
クリートがメキングの邪魔をすることになるかもしれない。
メキングの不安材料になることを避けるためでもある。だがなにより、
「親ごころ、いや祖父ごころというべきかな」
「そふごころ?」
「そう、彼、クリートはメキングにとって唯一血の繋がっている家族なんだ。彼の両親は『裁き』で亡くなっているからね。そんな彼を自分が関わっている事態に巻き込むわけにはいかない。そんな気持ちがあの手紙から読み取れたんだ。だから嘘を言ったんだよ」
しかし、あの行動力があるメキングの孫であるならば、自分の言葉を鵜呑みにして大人しくしているわけがないともドクトルは考えていた。
メキングがどこまでクリートのことを知っているかはわからないが。
ともかく、今起こっている事態にはクリートを巻きこまない方が正しい選択だと考えた。貴族の保守派と革新派の争い。メキングはその中で戦っている。
「メキング、私もそちらに行くぞ」
ドクトルの歩みが少し早くなった。