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青年、クリート・ウェルス・ジェインは目を覚ました。
日はすでに高く昇っていて、外から人の歩く音がよく聞こえてくる。
(あぁ、昨日の夜は寝るのが遅かったねえ)
クリートはそう思いながら身を起こし、欠伸をしながら風呂場に足を入れる。
クリート・ウェルス・ジェインは長身で少し痩せた体系をした二十四歳の青年だ。
純粋な金髪は太陽の光に触れると綺麗な黄金色に変わる。
優しそうな目つきと柔らかい顔立ちも好青年の印象を与え、現在大学院生である彼は日々勉学に勤しんでいるところだ。
分野は経済学。
今は家を離れ、学生寮に暮らしている。
昨晩は研究レポートの作成に時間を取られ、夜明け前までレポートの執筆に追われていた。
残るは仕上げだけだが、それは大学院の仲間たちと議論して仕上げるつもりだ。
つまり自分のするべき範囲のところまでは終わったということになる。
シャワーを浴び、意識が覚醒したところでクリートは窓から外を見る。
今日も分厚い雲が空を覆っているが、雨が降りそうな気配はない。
気温は少し肌寒く感じる。フロックコートを羽織ればちょうどいいぐらいか。
等間隔に並ぶレンガ造りの家の屋根には、カラスが数羽とまっていた。
思い思いに鳴き声を発している。仲間と意思疎通でもしているのだろうか。
灰都、イギリス。
廃都にかけてそう言われるようになったのはいつからだったか覚えていない。
産業革命期に大量に発生したスモッグが、いつしかイギリスの青空を奪っていった。
そして太陽の光もいつしか奪われていた。
そのため、イギリスの空は常に灰色の雲に覆われている。
青い空を見ることもなければ、太陽の光が降り注ぐこともない。
世界各地を天災が襲った「裁き」
イギリスでは轟雷が首都を襲い、主要な産業のほとんどを停止に追いやった。
首都機能の麻痺である。
イギリス各地では恐慌が続き、貴族と市民との間で諍い(いさか)が発生。
貴族側はこれに対して隔離政策と称して、貴族が治めている都市を巨大な壁で外部を遮断した。
実質的に国が分断したといえる。
そして、「裁き」から数年後に電力に変わる巻車が開発され、巻車文化が到来すると、景気も回復し、徐々にイギリスは活気を取り戻していった。
後に巻車革命とも言われる時代が到来し、イギリスは第三の産業革命を迎えたという者もいる。
しかし、その代償として、イギリスからは青空と太陽が消えた。
「裁き」が起こってから二十年、青空と太陽の存在は、人々から忘れ去られつつある。
灰色雲の存在は人々にとって当たり前になっていた。
かつての空を忘れてしまったとも言える。
クリートはライ麦パンを頬張りながら今朝のタイムズ紙を机に広げた。
一面記事には貴族側との巻車製品開発の動向が書かれていた。
その記事の隙間を埋めるように、最近出版された本の広告や、指名手配犯の写真、行方不明の少女の似顔絵などが書かれている。
現在、巻車文化を作り出した庶民側の歩み寄りに対し、貴族側はそれを受け入れない保守派と受け入れる革新派に分かれて対立している。
だが、やがてその対立も鎮まるだろうと誰もが考えていた。
今のイギリスでは、巻車を使わない生活などあり得ないに等しい。
大型製品から小型製品まで、ありとあらゆる巻車製のものが身近に置かれる時代なのだ。
巻車が開発され、庶民の手に行き届いた一昔前。貴族側は誇りのためなのか意地のせいかはわからないが、頑な(かたく)にその巻車を受け入れようとはしなかった。
それが今では、貴族内でも革新派が誕生し、徐々に勢力を伸ばしつつある。
貴族側の情報は、隔離政策の名残のせいか、タイムズ紙を通してしか入ってこない。
貴族側で現在どういった争いが繰り広げられているかは想像するしかないが、革新派の動向を読む限り、いずれ革新派の勝利で決着がつくであろうことは新聞を購読しているほぼすべての人が思っていることであった。
クリートはパンを食べ終わった後、紅茶をすすり、タイムズ紙を自分の膝に置いた。紅茶の入ったカップをテーブルに置き、テーブルに散らばっていた数枚の紙が目に入る。
手紙の入っていた封筒、ペーパーナイフ、中身の手紙。昨日だけで何度目を通したかわからない。
これまで届いた手紙をこれほど何度も繰り返し読んだことがあっただろうか。
クリートはため息をつき、手紙をまた手に取った。手紙の所々にはクリートの指紋が薄く残っていた。
親愛なるクリート・ウェルス・ジェイン
最近顔を見ていないが元気にしているだろうか。大学院生の生活を私はよく理解していないが、体調にだけは気を配って欲しい。
本題に入るが、仕事の都合でしばらく留守にする。時と場合によってはそちらを危険に巻き込む可能性もあるので、周囲に目を配り自分の身は自分で守って欲しい。窮屈な思いをさせるかもしれないが、よろしく頼む。
あなたの祖父 メキング・ウェルス・ジェイン
メキング・ウェルス・ジェイン。
巻車文化を大きく広げることに貢献した一人であり、巻車製品を製造する会社の代表取締役である。
それが青年、クリート・ウェルス・ジェインの祖父である。
そんな祖父から昨晩、このような手紙が届いたのだ。
しばらく留守にする程度なら何度も祖父はしている。
顔が広い人でもあるため、一ヶ月間家に帰らないこともよくある話であった。
しかし、手紙には、「巻き込まれる可能性」、「周囲に目を配れ」と書かれていた。
これを昨日読んでからというものの、一向に文字が頭から離れない。
いくら考えても、いくら頭をひねっても、祖父が今何をしているか、今何を考えているのかを理解することはできなかった。
研究レポートで気を紛らわそうとしたが、頭の隅にちらつく感覚が離れることはなかった。
「じじい……」
クリートはため息まじりに言葉を漏らす。
「いったい何に首を突っ込んでいるんだい?」
これから祖父、メキング・ウェルス・ジェインを探しに行こうと支度を整えていた時、クリートの部屋に軽いノックが聞こえた。
「入っていいよ」とクリートはドアの向こうに言う。
来る人が誰なのかはわかっていた。自分の専属メイドだ。
「失礼いたします」と声があってからドアが開き、
「おはようございます、ご主人様」
メイド服を着た眼鏡をかけた女が深々と頭を下げて部屋に入ってきた。
「うん、おはようネイト。といっても、もうおはようの時間帯じゃないね」
笑って答えるクリートに対し、ネイトと呼ばれたメイドが淡々と「そうかもしれません」と答えた。
ネイチェル・スパンティニョース。
クリートは愛称で「ネイト」と呼んでいる。クリートよりも少し背が低く、年齢はクリートよりも二つか三つほど下に見える顔立ちだ。
紺色のメイド服を着ており、眼鏡をかけている。
十年ほど前にクリートが息絶える寸前だったネイトに手を差し伸べて以来、ネイトはクリートの専属メイドとしてクリートを支えている。
以前の記憶を失っているようで、感情もその際に忘れてしまったのか、あまり話さず表情や言葉に感情が混じっていない。
以前はひどいものであったが、今では話の受け答えができるようになっている。
クリートの中ではそれが大きな進歩だと思っている。
「ご主人様の部屋を何度かノックはしたのですが、眠っておいでのようでしたので」
どうやら、自分が眠っている間に何度か来ていたらしい。
「あぁ、そうだったんだ。ごめんね、昨日遅くまでレポートをやっていたからさ」
「いえ、私も用事がありましたので、先にそちらへ行ってまいりました」
「あぁ、放浪医さんのところかい?」
ネイトは「はい」と答え、塗り薬の入った袋をクリートに見せた。
ネイトには多くの傷があり、それを今は治しているところだ。全身におびただしい数の傷をネイトは負っており、その治療をクリートが言う「放浪医」に治してもらっている。
それらの傷はクリートからネイトに手を差し伸べた時のころからあり、ネイト自身もなぜ傷を負っているか記憶にないようだ。
「放浪医様は七日後にイギリスを去るようです」
「そうなんだ……ん、待てよ、放浪医さんって確か……」
クリートが天井を見上げながら何かを考える。ネイトは首を少しかしげた。
「放浪医さんって僕の間違いじゃなければ放浪医ドクトルだよね、ネイト」
「その方で間違いないと思います」
「だったら……うん、知っているかもね」
放浪医ドクトル。彼の話を噂で聞いたことがある。
例えばあらゆる病を治す名医であるとか、老若男女問わず治療を施して(ほどこ)くれるとか、世界三大名医の一人であるとか、
そしてあのメキング・ウェルス・ジェインの親友であるとか。
「ネイト、診察時間はいつまでかわかるかい?」
「本日はロンドンにいるとおっしゃっていました」
「わかった、突然だけど放浪医さんのところに行こう。ネイトはもう一度行くことになるけど構わないかい?」
ネイトは「かまいません」と答えた。クリートはフロックコートを羽織り、出かける準備を始める。
黒のスラックスに白のワイシャツ、その上に茶色のフロックコートを羽織るのがクリートの外出姿だ。
フロックコートは祖父から譲り受けたもので、ところどころが薄く汚れている。
「そうだ、これ、ネイトには見せておくよ」
クリートはネイトにメキングからの手紙を渡した。
ネイトは一読した後、特に表情を変化させずに「なるほど」とつぶやいた。
「メキング様を探されるのですね」
「うん、手伝ってくれるかい、ネイト」
「はい、ご主人様」