間接キス
間接キス
回し飲み、という文化が嫌いだ。
思い返せば小学校高学年時に、仲の良かった男子の飲んでいたジュースを一口貰ったのが間違いだった。ほかの男子に「間接キスだぁ」なんてはやし立てられ、女子にはひそひそと陰口をたたかれた。その男子がまんざらでもなさそうに「やめろよぅ」なんて言うもんだから、全身にぞわぞわと鳥肌が立ったのを今でも覚えてる。
間接キス。疑似的にも好きでもない相手にファーストキスを奪われたという気持ち悪さがあった。
以来、回し飲みはしていない。中学生になった今も。
朝の教室の喧騒の中、登校したばかりの親友が左手に持っているコンビニの袋から見せつけるようにとある商品を取り出したらば、私はいやでも反応せざるを得なかった。
「それ新商品のマンゴーとパッションフルーツの炭酸?」
新商品と限定商品は日本人の多数が好きだというが、私も確かに日本人。それらは大好きだ。現に昨日、お母さんに頼まれて買い忘れたわさびと麦茶をおつかいに行った先の近所のスーパーで見つけた期間限定ロイヤルピーチティーをはしゃいで買ってきた。残念ながら親友の買ったきた炭酸は売っていなかった。
「そうそう。来る途中のコンビニで見つけてさあ、一口飲む? って、百井は回し飲み嫌なんだっけ?」
「うん。あとで自分で買うわ。あそこのコンビニな。完璧に理解した」
そう、味が知りたいなら買えばいい。例え売り切れてても、砂漠でもあるまいし飲まなきゃ死ぬということもない。親友が新商品を一気飲みする姿を少しうらやましく見つつ、私は昨日買ったロイヤルピーチティーを飲んで机に置いた。
「あれ? 百井さん、それ限定のピーチティー?」
背後から聞こえた鈴のように可憐でそれでいて凛とした声に、心臓が大きくどきんと音を立てた。
「甲野さん」
振り返るとその声にふさわしいショートカットのスポーツ系美少女が立っていた。
甲野さんが微笑む。思わず微笑み返すけれども、つい癖で困った眉毛の形かも。あ、これがもし漫画だったら絶対今私の左胸辺りにポップな感じでキュンという文字とハートが書かれていたに違いない。
私は机に置いたばかりのボトルの文字を確認した。確かにそうだ。
「それ気になってたの。ねぇ、一口飲ませて貰える?」
え、甲野さんと回し飲み?
戸惑う私より先に親友が断った。
「あー、ダメダメ。百井は回し飲みを母親の遺言で禁止されてるんだ。ほかをあたってくれ」
「勝手に人の母親を殺すな」
「そっかぁ」
私たちの漫才を全然気にせずに甲野さんは残念そうに言った。よっぽど気になってたんだろうな。甲野さんは回し飲み大丈夫なのか。もし、私も大丈夫だったら甲野さんと間接……! やばい、アホなこと考えてたらのどカラカラなんだけど。ていうか唇カサカサなんだけど。どんだけ緊張してんだ私。
制服のポケットに手を突っ込み、ゴソゴソとリップクリームを探す。
……あれ? ない。
鞄の中に入ってるネコちゃんポーチを探すも、それごと忘れて来てしまったみたいだ。オー、ジーザス。
「百井、どうした。探し物か?」
「リップ忘れてきたみたいで。あー、ダメだ。やっぱりないや」
諦めて困った笑顔で頭を上げると甲野さんがポケットからピンクのリップを取り出してキャップを外した。
「百井さん、こっち向いて。つけたげる」
頬に手を置かれ、顔が近付く。困り笑顔のまま固まる表情。ドキドキと高鳴る鼓動が聞かれそうで、思わず心臓よ止まれなどと念じてしまった。
柔らかいピーチの香りがすると、唇にリップの硬い感触がした。
左から右に動く感覚を感じつつ真剣な顔の甲野さんに見とれながら、これってもしかして間接キス? と思ったら甲野さんの綺麗でくりくりした瞳と目が合う。その瞬間いかにも私の心を読みとって、そうだよと肯定するようにニコッと微笑まれた。またも、どきんと心臓が音を立てる。ええい、静まれい静まれい。
唇からリップの感触が離れていく。でもピーチの香りは私の唇からもする。この香り、甲野さんとお揃いなのか。
なんてひたっていると、親友が甲野さんに話しかけやがった。
「甲野ってピーチ好きなのか?」
言われてみると確かに話しかけてきたのはピーチティーのことだし、リップの香りもそう。確か通学鞄に付けてるのも果物のピーチのマスコットだったはず。
「うん。私、桃好きなんだ」
そう言って嬉しそうに微笑む甲野さんを見ながら、私も百井って名字で『もも』って入ってるんだからワンチャン無いかなとぼんやり考えていると、さっきのリップを今度は甲野さんの柔らかそうな唇に付け始めた。
心なしか少し頬が赤くなっているように見えたけど、期待し過ぎ……だよね?
私は少し考えて甲野さんにボトルを渡した。
「苦手は克服しようと思って。甲野さん、一口いいよ」
「え、いいの?じゃあ」
受け取ってキャップを開け、口をつける。飲み込んでから、甲野さんはまたニコッと微笑んでキャップを締めて返してくれた。
「美味しかった。私もあとで見かけたら買うね」
「うん。そうしなよ」
軽く手が触れた。あたたかい。にやつきそうな表情筋を何とか引き締めて返事した。
まだ話をしていたかったのだけれど、甲野さんにくっついて行動している女子が登校したので迎えに来た。またね、と手を振って自分の席に去る甲野さんを見届けると、一気に紅茶を飲んだ。心なしかさっきよりずっと甘い。
ああ、案外いいもんだな間接キス。
なんてひたっていると親友がグイと炭酸のボトルを頬に押し付けてきた。
「飲め。私とも回し飲みしろ。それとも私の炭酸は飲めねぇって言うのか? あぁ?」
「まさかお前、炭酸で酔った!」
なんてぎゃーぎゃー騒ぐうちに予鈴が鳴った。
1時間目の数学。先生の板書する音だけが響く。
私はそっと気付かれないように少し、前の席に座る百井さんを見る。表情は分からないけど、右手とポニーテールが動いている。あれは黒板の文字を書き写してるのではない動き。そう、落書きしてる動き。
くすっと笑ってしまったあとで今朝のやり取りを思い出す。
露骨、だったかな?でも気付かれてないよね。
ちょっと寂しい気もするけど、回し飲みしないって言っていた百井さんが渡してくれて、そのあと飲んでたってことは期待して、いいのかな?
先生が振り向いて、問題を解く生徒を決める。落書きしていたのがバレて百井さんが解くことになっちゃった。
黒板に書かれる丸っこい可愛い字。そこも好きなんだよね。
でも一番好きなのは……
解き終わって席に戻ろうと振り向いた百井さんと目が合った。困ったように笑う。
それ。
私、百井さんのその表情にやられたの。
キュン、って心臓の締め付けられる音が教室中に響いちゃったかも。
今日はその表情いっぱいそばでも見れたし、間接キスまでしちゃったし、回し飲み様様。
あー、ホントもう、好き。大好き。
気のせいかもしれないけど、甲野さんも私のこと見てたのかな。
席に戻って落書きを見つめる。そこにはさっきまで描いていた桃と甲野さんのデフォルメ似顔絵がある。
私の席より後ろの方だから見えないけど、同じ教室にいるんだよな。来年はどうかわかんないけど、今年度いっぱいでなんとかお近付きになりたいな。なんて。
振り返られないので落書きの甲野さんを見つめる。
あー、ホントもう、好き。大好き。
2020/07/02