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※1580字でお送りします。
幼児が声を上げると、陽炎を振り向かせる。
とはいっても、透けた身体は振り向いたというより、2つの光が、揺らめく陽炎の中で少しばかり手前に移動したというべきか。
ビクターはこの時、陽炎に異変を見た。
先ほどよりも小さく、消えてしまうのではないか。
そう思うほどに足が落ち着かない。
今までに見てきた陽炎よりも圧倒的に違うのは、どうしようもない悲しみと、優しさを感じるところだ。
コアの赤い眼光とは違って穏やかで、鋭くなく、視線が合っている様な気がする。
陽炎がまた高く伸びると、幼児は両腕を伸ばした。
ぐんと背伸びをし、求めている。
だが陽炎は、抱き上げるのではなく、幼児の向きをあっさりと変えてしまった。
そして、その先に広がる眩い朝陽が射す方へ、ゆっくりと小さな背中を押し進めた。
ビクターは、朝陽に向かって不本意に進んで行く。
押す力は強いが、転ぶ様子は全くなかった。
ところで、そこに横たわる女性はどうするのかと振り返るも、背後は暗闇でしかない。
戻りたい。
その衝動が全身を叩き上げ、背後の闇の壁に体当たりする。
離れたくなかった。
置いてけぼりにしたくなかった。
そのままそこにずっといたかった。
自分は抱えられて守られていたというのに。
まだ、その人を抱き締め返していないのに。
(母さん!)
涙に濡れた叫びは、外から響き渡る鈴の音に柔らかく掻き消される。
サラサラと、リーンリーンと聞こえるにつれ、幼児の笑い声がコロコロと響いた。
その間、陽炎が小さな身体に優しく這って消えていく。
まるで、大気に溶けていく様だった。
ビクターは笑い声を聞きつけると、幼児が見る景色に縋る様に覗く。
ざわついてならない胸は、笑い声に包まれていった。
次第に擽ったくなり、笑いたくないのに、泣き顔に笑顔が滲みだす。
身体と心境の相違が気持ち悪い。
なのにまた、笑ってしまう。
陽炎に背中を押されているのが楽しく、嬉しかった。
そして、歌われる様に聞こえる鈴の音に合わせて、小さくコツコツと何かが胸を叩く感覚に陥る。
何もない胸に手を当てても、そこに落ちるのは涙だけだった。
どう状況を整理すればよいのかと、大きく顔を上げる。
そこに見たぼやけて揺れる世界は、あの日見た夢と全く同じものだった。
視界が左右に揺れ、倒れかかるのを背後から支えられているのが分かる。
それが心地いいから、自然と笑みが溢れてしまう。
違う。
自分は今、悲しくて腹立たしいのだと首を激しく振った。
幼児を振り向かせ、母の元へ引き返したい。
だが、人の声がし始めた。
「子どもよ! こっちに来る!」
幼児は瓦礫を踏みしめ、目の前の人だかりに向かって歩き続ける。
近付くにつれて騒ぎが増し、沢山の大きな手が伸びてきた。
その中から、1人の高齢者が迎え入れる様に両腕を広げた。
同じ様に怪我を負い、汚れた衣類を纏う彼は、青い目を見開いているのがやっとだった。
ビクターは長老だと声を上げ、自分に気付いてもらおうと壁を叩く。
だが、手足も喉も限界に達し、整わない気持ちに心が潰れそうだ。
先ほどから自分を押している陽炎を、皆によく見てほしい。
背後にいるだろうと訴え続けるのだが、その周りにいるマージェスもグレンも、カイルやレックスも、アリーすら、陽炎に反応を示さなかった。
幼児はやっと大人達の手が届くところにまで辿り着くと、足を滑らせたか――否、背中を大きく押されると同時に、ビクターは確かに聞いた。
“行け”
ビクターは、実に温かいその声に涙を拭われ、困惑する心が包まれていった。
そして、大きくて分厚い腕の中にすっぽりと落ちた感覚がした時、暗闇を振り返る。
と、幼児もそこを向いた。
世界の悍ましい姿が陽光に照らされるだけで、何もない。
陽炎はおらず、グリフィンやレオでもない、存在感がある別の誰かの声だけが、心の奥底に残った。
そしてそれは、最後、消えかかる声で追いかける様に“ビクター”と呼んだ。
代表作 第3弾(Vol.2/後編)
大海の冒険者~不死の伝説~
シリーズ最終作
2025年 2月上旬 完結予定
Instagram・本サイト活動報告にて
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インスタではプライベート投稿もしています
その他作品も含め
気が向きましたら是非