(12)
男性の朽ちた黒いトレンチコートには、砂埃が多く付着している。
ボートの縁に顔を突っ伏しており、深い呼吸を繰り返しているのが、背中の上下で分かる。
疼く足をそのままに、乱暴にボートのそこら中に感情をぶつけた痕があった。
そうせずにはいられないのか、或いはそうしなければ、幾分でも正気を取り戻す事ができないのか。
それだけ荒ぶった事で、共に乗る子どもが落ち着かなかった。
ボートの舳先の辺りに、砂埃に塗れた毛布の塊がある。
その中から、甲高い泣き声が溢れていた。
男性がそれに振り向く。
汗だくになった顔は、未だ獣の様な表情を浮かべているが、激しい血の巡りは治まった。
ジェドは、泣き声がする中で困惑しながら男性の顔を見上げる。
眼の色が淡い茶色に変わっていく様子から、彼が先ほどよりも落ち着いたのが分かった。
何故かその顔に触れてやりたい衝動に駆られ、手を伸ばそうとする。
頬に触れ、首に腕を回したくなる。
なのに両手は思う様に動かず、意識に反して小さく揺れるだけだ。
何故その様な動きが生じるのかと、疑問に眉間が寄る。
男性は震える腕で子どもを抱き上げると、痛みに顔を引き攣らせながら、もう片方の手で毛布を退け、小さな顔を露わにさせる。
自分の腕に余裕をもって収まるその子の身体は、生まれたばかりに違いない。
男性は惨事によって顔や頭にも傷を負っていた。
額の流血が細く肌に伝うと、力無く拭う。
その拍子に、目にかかる銀髪が先端から茶色く変わり始めた。
体温が下がり、トレンチコートの隙間に余裕ができていく。
変化していた体格が、みるみる元に戻っていった。
震える瞳が徐々に濡れていく。
視線は抱える子どもから、何もない大海原に向いた。
輝きを届ける太陽以外に何もない。
皮肉にもほどがある景色が告げるのは、無だ。
その時、大きく背後を振り返る。
何かが押し寄せる気配がした数秒後、余震がボートを揺らした。
離れた陸地が沈む音がする。
ジェドの顔は強張っていた。
気付けば子どもの泣き声は止み、忙しない鼓動の音が、どこだか分からない闇の空間に大きく鳴り響いている。
先程の両手の不自然な揺れも止まっていた。
そこへ、生臭さを嗅ぎつけた。
明らかにその男性からだと察すると、眉を寄せては再び状況を観察する。
虚ろな目を浮かべる男性は、子どもを胸に押し付けたまま呆然と水平線を眺めている。
そしてふと、トレンチコートのポケットに手を入れた。
徐に持ち上げられた手元から紙の音がする。
いつから手にしているのか、すっかり脆くなり、そこら中が破れていた。
数回振られて広がったそれは、数えきれないほどの折り目がついている。
くたびれたそこには“MISSING PERSON”とあった。
皺と染みに塗れ、もはや誰を探してほしいのかが分からない。
印字も崩れて穴だらけのそれは、目に捉えられないほどに細い繊維が運よく繋いでいるだけだ。
血痕らしきものに泥水の染みが覆い、惨事の留めを受けたのだろう。
代表作 第3弾(Vol.2/後編)
大海の冒険者~不死の伝説~
シリーズ最終作
2025年 2月上旬 完結予定
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その他作品も含め
気が向きましたら是非