魔女と王女
デイジーは早起きが得意だ。屋敷で暮らしている時はカーテン越しの日差しで目覚め、早朝から庭先に出ることもあるし、朝食用のパンを焼くこともあった。
しかし、今朝は目を開けるのが辛かった。上半身はなんとか起き上がったものの、ベッドから下りることが出来ずにぼんやりとしていた。登城してから悩み事がどんどん増えているような気がする。
そして、悩み事の一つである黒猫は枕の隣で丸くなっていた。デイジーは、人の気も知らず寝息を立てて眠っているジャックの顔を腹立たしい思いで覗き込んだ。てっきり、すやすやと眠っていると思っていたのに、何故か眉間にはシワが寄っている。
(悪い夢でも見てるのかな)
少し可哀想な気持ちになり、黒猫の眉間に人差し指を押し当ててシワを伸ばしてみた。すると、更に顔がしかめられて鼻の周りまでシワが寄ってしまった。
(かなりひどい夢?どうしよう、起こした方がいいのかな)
デイジーが迷っていると、黒猫の瞼がゆっくりと開いて金色の瞳が見えた。
「大丈夫?怖い夢でも見てた?」
ぼんやりとした瞳の焦点は徐々にしっかりと定まる。
「……デイジー」
小さな声で名前を呼ばれたため、デイジーは顔を近付けて背中を撫でてみた。
「……ごめん」
囁くような謝罪の言葉はあまりにも小さく、静かな朝でなければ聞こえなかったかもしれない。
「ん?何が?」
デイジーは首を傾げて聞き返したのだが、黒猫は温かな背中の感触に目を細め再び瞳を閉じてしまった。
(これは完全に寝ぼけてるわね)
どんな夢を見ていたのか気にはなったのだが、きっと後で聞いても忘れているだろう。
デイジーは、黒猫が寝息を立てるまで背中を撫でてから身支度を整え王女の私室に向かった。
「デイジーにお願いがありますの」
朝食を済ませた王女のために紅茶の用意をしていると、意を決した様子で声をかけられた。長い睫毛に縁取られた金茶色の瞳で見つめられ、デイジーは今日もロザンヌ様は美しいなと思いつつ返事をする。
「なんでしょうか?ロザンヌ様」
「今日のダンスレッスンでは魔法薬を使う予定でしょう?その薬を私にも試させてもらいたいの」
「えっ?」
デイジーは予想もしなかったその願いに一瞬言葉の意味を飲み込めず、ぽかんとした表情で王女を見た。
確かに舞踏会まで残り一週間となった今日、予行練習も兼ねて届いたばかりの厚底靴を履き、魔法薬を使って踊ることになっている。しかし、それは舞踏会に参加する自分のために行うことであり、王女様には比較対象になってくれれば十分なのだ。わさわざ魔法薬を飲む必要はない。いや、むしろ姿を変えられては似ているかどうか確認できなくなってしまい、とても困る。それに、そもそも誰の姿になろうというのか。
呆けるデイジーに畳み掛けるように王女は言った。
「魔力持ちであるならば、その魔法薬で姿を変えることが出来るのでしょう?それならば、わたくしも使用することは可能ですわよね?」
「…………えぇ、はい。もちろん可能ですが、あの、どうしてわざわざ魔法薬を使いたいのでしょうか?」
「デイジーがわたくしの代わりに舞踏会に参加しているならば、その間はデイジーがいなくなりますわよね?」
「はい。そうなります」
「そして逆にわたくしが城内に二人もいることになりますでしょう?」
「はい。確かに二人になりますが、ロザンヌ様はこちらのお部屋から出なければ問題ないかと思うのですが……」
「わたくし、デイジーになりたいと思いますの。どうかしら?お互いに姿を交換するというのは」
「ええぇ?」
令嬢らしさの欠片もない声がこぼれてしまい、デイジーは慌てて自分の口を手で塞いだ。そんな予想を上回る勢いで動揺する姿に、王女は声を立てて笑った。
「ふふふっ、実は最初からそのつもりでしたのよ」
「さっ、最初から?」
「ええ。お兄様が魔法薬を使おうとおっしゃった時からです」
「――――どうして」
「あの真っ黒い心の王子の前に立つことは出来ませんが、全てをデイジーに任せて自分だけが安全な自室に閉じ籠るのは卑怯でしょう?」
「そんな、卑怯だなんて。お願いですから、ぜひご自身の安全を優先して下さい」
「いいえ、私にも出来ることはあるはずです。まずは今日、魔法薬の力でデイジーになりきれるかどうか試させて下さいませ」
きっぱりと言い切られては断りづらい。どうしようかと逡巡した後、デイジーは条件付きで承諾することにした。
「とりあえず、一度試してみてから決めるということでもよろしいですか?」
「ええ、分かりました。ではお願いしますわね」
嬉しそうな王女の後ろでは、クロエがやれやれといった様子で立っていた。彼女はもちろん反対したのだろう。
(まあ、ただ単に【鏡】に興味があって使ってみたいだけかもしれないし、一度試せば満足するかもしれないわ)
見た目に惑わされてしまうが、実際はまだ十六歳になったばかりの少女だ。好奇心が旺盛なのも致し方ない。幸い魔法薬には副作用など無いのだから、試す分には問題はない。
そうして午後のダンスレッスンでは二人分の魔法薬を準備することとなった。




