王子と契約
魔法薬[鏡]には使用上の注意点がある。
その一、服用する者は魔力保持者のみとする。
その二、一日一瓶以上は服用しないこと。
その三、変身後は他者と接触しないこと。
王子がわざわざデイジーに会いに来たのは、魔法薬を使用するためには魔力保持が必須条件だからだ。もちろんこの国には魔術師団があり、信頼のおける者がいないわけではない。しかし、残念ながら男性ばかりで女性がいない。魔力を持つ女性、つまり魔女は稀少な存在なのだ。
王子はじっと幼い顔立ちのデイジーを見つめ、僅かに首を傾けた。
「君に頼もうと思っていたのだが…………難しそうだね。容姿は魔法薬で変えられるけれど、話し方や立ち居振舞いは妹のことをよく知ってもらわないと真似出来ないだろう?」
「ええ、そうですね」
「だから、代理をお願いする君には見合いの日までの二週間、王女付き侍女として城に滞在してもらおうと思っていたんだ。まさか未成年だとは思わなくてね。どうしようかな、予定が狂ってしまった」
「…………」
デイジーはすぐに言葉を返せなかった。
(ああ、やっぱり勘違いしているわ。私の見た目が幼いからとっくに成人してるとは思わないのね。王女様がしたくもない見合いをさせられるのはお気の毒だけど、私がお城に行って侍女になる?しかも舞踏会に参加して代理でお見合い?無理よ、無理。このまま未成年のふりをすれば、別の人に頼んでもらえるわよね。ごめんなさい、エドワード殿下)
デイジーは本当の年齢のことを告げず謝罪だけしようと口を開いたのだが、王子の次の句に態度を翻した。
「実は、オリバーが君のことを貴族のご令嬢だというのに堅実で責任感があり信頼出来る人柄だと褒め称えるから、てっきり大人の女性だと思い込んでしまったんだ。代理の者は他を当たるので、薬の使用法について幾つか教えてもら」
王子が話してる最中にも関わらず、デイジーは不敬という事柄を脳内から追い払って慌てて口を挟む。
「殿下、大丈夫です!私はこう見えても十八歳ですから問題ありません!王女様の代理は私が喜んでお引き受け致します!」
「えっ、十八?いや、どう見ても子供にしか―――――本当に?」
「ええ、もちろんです。殿下に嘘は申しません。オッ、オリバー様が私を信頼出来るとおっしゃったのですよね?」
「ああ、そうだ。そう言っていた」
デイジーは思わず頬が緩んだ。
(なんてこと!オリバー様がそんな風に私を評価してくれたなんて!嬉しすぎる!)
「では、当初の予定通りに事を進めて下さいませ」
「有難いが、本当に大丈夫だろうか?」
「私の見た目が幼い事で、何か不都合なことがございますか?」
「いや、たぶん大丈夫だろう。しかし、念のため事情を知っているオリバーを付けるから、困ったことがあれば何でも言ってくれ。もちろん私も出来るだけ様子を見に行くつもりだが」
(えっ!オリバー様を付ける?毎日会えるってこと?殿下は神!?)
「ありがとうございます!」
瞳を輝かせたデイジーは感謝の気持ちを言葉にする。
「ん?お礼を言うのは私の方なんだが」
戸惑う王子を前にデイジーは満面の笑みで筆記具を用意し、登城する際には何が必要なのか、両親へはどう話すべきか等打ち合わせを始めた。
彼女は魔法学園を卒業してから家業である魔法薬作りに専念していたため、二週間も家を離れたことなどない。王城に滞在することを不安に思って当然なのだが、この時はオリバーと一緒にいる時間が増えることだけに気を取られ、余計な心配は吹き飛んでいた。
嬉々としてメモを取るデイジーの顔を不思議そうに眺めていた王子はふと思い付いた疑問を口にした。
「デイジー嬢、一つお聞きしたいのだが、もしかして社交界デビューは済ませていないのかな?」
「えぇ、はい。社交界デビューはしておりません」
「その理由をお聞きしても?」
「……はい、たいした理由ではありません。私の小さな夢のためです。子供の頃からデビュタントのドレスには憧れがありまして、一生に一度のことなので自分史上最高の状態で参加したいのです」
「最高の状態とは?」
「………あの、つまり…………」
デイジーは恥ずかしさで視線を泳がせ耳を赤くするが、律儀に質問に対する答えを口にした。
「やはりドレスを美しく着こなすには、ある程度の身長が必要だと思うのです。ですから、私にはもう少し時間が必要かと思いまして一年、二年と先送りしてしまいました……………ええ、本当にくだらない理由ですよ」
「くだらなくなんてない」
王子の意外な反応にデイジーは顔を上げた。
絶対に笑われるだろうと思ったのに、真面目な表情で茶化す様子は微塵もない。
「ご令嬢達の多くは社交界デビューの日を楽しみにしている。真珠色のドレスに身を包み、緊張しながらも眩しいくらいの笑顔で参列しているんだ。デイジー嬢、きっと大丈夫だよ。私の身長は二十歳まで伸び続けていたんだ。君は成長のタイミングが皆より遅かっただけだろう。少なくともご両親の身長までは伸びるはずだよ」
王子は優しく微笑み、ポンっと手を叩くと驚きの提案をした。
「そうだ!今回のことで君に迷惑をかけてしまうのだから、社交界デビューが決まったら私に連絡してくれないか?お詫びになるか分からないが、私がエスコート役を引き受けよう」
「えっ!殿下がエスコート役を?そんな畏れ多いです!それに私が隣に並ぶなんて釣り合いませんし」
「遠慮はいらないよ、頼まれて何度かデビュタントのエスコートをしたことがあるんだ。もちろん、他に頼みたい相手がいれば話は別だけどね」
「他に頼みたい人…………」
思わずオリバーを思い浮かべたデイジーは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「おや?その様子だと頼みたい人がいるみたいだね」
照れながら「違います!いません!」と両手を左右に振って否定する様子は、王子の瞳に初々しく可愛らしく映った。
「そう?じゃあ、もしも頼める人が見つからなかった時には妥協して私にしたらいいよ」
「妥協って、エドワード殿下をそんな扱いする人はいませんよ………」
王子はクスクス笑い、胸元から封筒を取り出した。
中には艶のある上質な紙が一枚入っていた。
「では、デイジー嬢、早速だが私と契約を結ぼう。期間は見合いが行われる舞踏会までの二週間。仕事内容は侍女として働き、王女の代わりに見合い相手を上手くかわすことだ。社交界デビューをしていないなら君の年齢を偽ってもばれないだろう。余計なトラブルを防ぐためにも君は十五歳ということにしてもらいたい。そして最後に報酬だがこの額ではどうだろうか?」
王子はテーブルに置いてあった羽根ペンを取り、サラサラと魔力を帯びた用紙に文字を連ねる。
「二週間でこんなに!?多過ぎでは!?」
書かれた金額は我が家の二か月分の収入に相当する額だった。
「それだけの価値があるんだ」
王子は書き終えると用紙の向きを変え、羽根ペンをデイジーに差し出した。
「あの………代理でお見合いをすればいいんですよね?」
あまりにも高額な為、デイジーは何か裏があるのではと不安になった。
それに対し、王子は優しく笑って彼女の不安を払拭する。
「もちろん、それ以外は何も望んでいないよ。他に質問はある?」
「いえ、他にはあっ、――――お城に猫を連れていってもよろしいでしょうか?」
「猫?」
「使い魔の猫です。私にはもったいないくらい才能溢れる優秀な仔で、いつも私をサポートしてくれてるんです」
「そういうことであれば、ぜひ一緒に来てくれ。ちなみに今、紹介してもらうことは出来る?」
「はい、もちろんです」
デイジーは後ろを振り返り、「ジャック!」と大きな声で呼んだ。
するとドアが静かに開き、金色の目をした黒猫がゆったりとした歩みで部屋に入ってきた。
「魔力の匂いがするね。このキラキラした人は何者?」
黒猫はテーブルの上に置かれた用紙から漂う魔力の匂いに鼻をひくつかせ、向かい側に座る王子を見上げた。
「この国の王子様よ。ジャック、エドワード殿下にご挨拶をお願いね」
「……王子」
テーブルの上に飛び乗り、じっと何かを探るように王子を見つめる黒猫にデイジーは強い口調で再度指示を出す。
「ジャック!ご挨拶!」
「はい、はい。僕はジャックだ、よろしく」
ジャックは雑な挨拶と同時に尻尾をピシッと立たせて、前足を上げた。
「えーと、ジャック君はなんて?」
残念ながら魔力を持たない王子に使い魔ジャックの声は聞こえなかった。ただ「にゃー、にゃー」と猫の声が耳に伝わるのみである。
「よろしくお願いしますと言っています」
主であるデイジーが通訳すると、王子は小さく頷きテーブルに顔を近づけて黒猫に話しかけた。
「エドワード・グレイだ。よろしくね、ジャック君。出来ればご主人様と一緒に城に来てもらいたいんだが、どうかな?」
「いいよ、デイジーが行く場所ならどこへでも」
もちろん返事も通訳が必要となる。デイジーが承諾したことを伝えると王子は契約書に掌を添えた。
「では承諾のサインを貰えるかな」
「はい」
デイジーが名前を書き込むと契約書は青白い炎に包まれ、光の粒となって消えてしまった。
「これで契約成立だ」
王子の言葉にデイジーは頷いた。