それは、異常な愛の故
「優希、おじいちゃん死んじゃったって」
母の表情とは対照的に私の心は明るかった。
…性格悪くないよ。おじいちゃんが嫌いだった訳じゃない、親族の死はもちろん悲しい。
でも、おじいちゃんよりも好きな人がいる、ただそれだけだ。
あの人の顔が浮かんだ。
オレンジなっちゃん。…あぁ、好き。大好き。
駆け出した先は泣いている母の背中ではなく自室のベッド。
嬉しさを表すようにダイブした。ベッドが勢いよくきしむ音は、泣き声に消されたはずだ。
後で片付けるつもりだったプリント類が私の体重によってベッドから追い出され、床にハラリヒラリと落ちた時、多分デジャブをみた。
〜〜〜回想〜〜〜
「おばあちゃん!帰ってきたよ」
あの人との再会は中学生の時にちょっと遡る。
夏休みに祖父母の家を訪れた。
年季の入ったコルクの壁に掛かった新しそうな写真の中で5人立っている。左から笑顔のおじいちゃんとおばあちゃん、難しい顔をしているおばさんと酔っ払って赤いおじさん、その隣にもう1人細身で笑顔が爽やかな青年。じっと見ていても記憶の網に引っかからなかった。
「おばあちゃん、この人誰?」
オレオレ詐欺がイキっていた時代は終わったが、疑ってしまう。
おばあちゃんは濡れた手をエプロンで拭きながら隣にきた。
「あらあら、忘れちゃった?なっちゃんじゃない」
「………なっちゃん?」
うんうん、と嬉しそうにおばあちゃんが頷いた。
「かわいいオレンジなっちゃんだったのに、とんでもないイケメンになったもんねえ。孫がイケメンだとばあちゃん嬉しくて照れちゃうのよ」
顔を両手で挟んでシワを深くする姿は歳を経ているだけの、普通の乙女だ。私なんかより、よっぽど。
「あれ、おじいちゃん帰ってきたね」
外からエンジン音が聞こえてきた。言葉を聞き終わる前にスリッパを忙しく鳴らしながらおばあちゃんは迎えにいってしまった。
「オレンジなっちゃん」
声に出してみてその懐かしさにため息が出た。
『女みたいな名前で嫌だからなつきって呼ぶな』
だから皆なっちゃんって呼んでいた。
そしたら近所で1番デブっちょの洋が
「じゃあ、なっちゃんはオレンジなっちゃんだ」
って言い出して……すぐに広まった。
何で小学校低学年って人に無理にあだ名をつけるんだろう。それが流行っていた、というか今でもあるらしいからそういう習性なんだろう。忘れてるだけで、今考えると辛辣なあだ名を皆通過している。私もつけられた、けど肝心の名称は全く覚えていない。きっとつまらなすぎたに違いない。しっくりくるのがないとくだらないのを何個ももたされる。
「優希はばあちゃんより認知症が進んでるんじゃねえか」
大きな声の憎まれ口が聞こえて、去年より頭が少し薄くなったおじいちゃんがズカズカとリビングに入ってきた。おばあちゃんが喋ったんだろう。
「だって髪とか変わったじゃんか。前はサラサラキノコだったのに、なんかチャラくなった」
「でもばあちゃんは今の方が好きよ。じいちゃんの若いときによう似とる」
嬉しそうなおばあちゃんを見ていたらなんか目が湿ってきた。
おばあちゃんはずっと病気を持っている。いつかは忘れたけどずっとずっと前、「どちら様ですか」って言葉が自分に向けられていることにしばらく気づかなかった。でも翌年からは全くそんな質問はしなくなった。
治るはずはない。
じゃあなんでおばあちゃんは私達が遊びに来たとき症状がでないのか。
時々思う。私たちが遊びに来た時はがんばってるから思い出せる、んじゃなくて、もう思い出せないけど覚えてるフリをしてるんじゃないかって。そんな器用なこと、おばあちゃんにできるわけないって思う反面、おじいちゃんならやりかねないって考えてしまう。
「そうだ、優希ちゃん。なっちゃんには来年会えるよ。またこの村に帰ってきてくれるって」
頭の中で聖火ランナーが走り始めた。一定のリズムで吐かれる息で真っ白になりそうだった。…って、4年ぶりに会うわけではない。去年も会ったじゃないか。今年会えないだけだ。
ーー1年後ーー
「なっちゃんはこっち!沙頼の下!」
見えない。あんなの小学3年生じゃない。子供っぽい、行儀悪い、下品、…なんなんだ。
1年ぶりの祖父母の家には、知らない人がいた。それは冷たすぎか。
お父さんの弟にもう1人子供が産まれたのは知っていた。持病のために親族の集まりにすら行ける状態じゃなかったことも。
箸を落としただけで怒鳴ってくるおじいちゃんは、食事中に座布団を交換しだした紗頼を可愛くてしょうがないって目で見ている。
「紗頼ちゃん、おじいちゃんの膝の上でもいいんだよ」
「おじいちゃんの上はなっちゃんの次ね!」
「なっちゃんに負けちゃったか…。でもお父さんには勝ったな!」
なっちゃんは笑っている。
久しぶりに会った大好きな人は変わらず大好きな笑顔をもっていた。
…バタバタして、まだ2人で話せてないのに不満タラタラだけど。
ああ、どうしよう。紗頼見てるとすんごいイライラするわ。
「優希、どうした?箸が進んでないけど」
紗頼を視界に入れないことに人知れず頑張っていた私は答えるのに遅れた。
「優希ちゃんダイエットしてるんじゃない?顔がちょっとぷっくりしてるもんね」
……………………クソガキが。
「そりゃあ紗頼ちゃんが痩せすぎだからだよ。おじいちゃんはもっともっと食べて欲しいんだけどね」
紗頼が生意気なのはしょうがない。小学生なんてそんなもんだ。気に入らないのは誰も紗頼を叱らないってこと。ろくな大人にならない。
「ほら見てなっちゃん。紗頼のお腹ぺったんこ」
まだ、恥ずかしいという概念を持たない幼児は花柄のTシャツをたくしあげてお腹をひっこめてみせた。
そんな汚いもんをよく見せられるな。
紗頼のなっちゃんへの絡みは長かった。ずっとわがままを言って困らせている。
「なっちゃん、ごめんね紗頼うるさくて」
やっと大人が仕事をした。
「大丈夫ですよ。僕だってテンションあがってますもん。今日は花火大会に行くんだもんね」
…話し声もお皿とテーブルの摩擦も箸がぶつかる衝撃も、全てのものがその瞬間音を無くした。
花火大会はなっちゃんと2人だけで行く…。そう約束したじゃないか。2人でずっと前に決めたけど、それが毎年恒例だと信じてかかったのは1人だけだったのか。
だから話題になることを避けていたのに。目が熱くなってきた。なっちゃんはいとこの小さい女の子だったから私が好きだったんだ。
…ただのロリコンかよ。
今の私は…半ズボンから伸びる、長く日焼けした足を見つめた。でも昔はもう少し女の子っぽく…なかったか。正反対だ。
隣でされる会話が違う部屋から漏れる話し声のように聞こえてきた。
「来年の冬休みは1人でも泊まりに行くって言っちゃったけど、なっちゃんと一緒がいいなあ…」
「もちろんいいよ!じゃあ4人でらぶらぶしようね」
クソジジイが。
花火大会では村中央を流れるつづら川を中心に村全体に屋台が溢れる。花火が1番綺麗に見えるのはつづら川の土手だが、屋台の傍で見る人が多い。お年寄りが多くなって、家から出ないで花火を楽しむ人も増えている。ただでさえ寂しいのに。廃れてくこと間違いなし。
「お兄ちゃんと一緒に行けて、良かったねえ」
川の手前の役場前を通った時、なっちゃんと手を繋いだ紗頼に役場の桝添さんが話しかけた。
桝添さんは初めて祖父母の家を1人で尋ねた時から役場で事務の仕事をしている。いつもほぼすっぴんで誰か役場の前を通る人には必ず話しかけている。おおらかで、優しい。
「一緒に花火を見に行く人がいる、ってすっごく恵まれてるのよ」
白い顔とわざとはだけさせたシャツからのぞく肌の色が厚化粧を物語っている大沢さんは、3年前この町に引っ越してきた。大沢さんも、よく話しかけている姿を見かけるが本当は出会い目的なんだそうだ。もちろんこの村に出会いなんてないし、ましてや若い男なんかひっかける以前に見つけるのが至難の業。よく嘆いている。引っ越してきた理由は、桝添さんいわく聞いてはいけないらしい。
「なんであたしには花火をみる人が現れないの?」
「今年も私たちと一緒に見るんだからいいじゃない」
「あー、やだやだ。中年+じじばばと見てたら老いてくいっぽうよ。せっかくの花火も、夜空に咲く一瞬の花からこの村いい村自慢の痩せ我慢の材料になっちゃうわ」
…口は悪いけど、結局例年通り仲良く役場の前で空を仰ぐだろう。
今日初めて会った紗頼には話しかけて、毎年会ってる私には何にもないの?
また嫉妬しかけた時、2人がなっちゃん達の後ろにいた私をニヤニヤ見てきた。
私はなっちゃんと紗頼のカップルについてきてるお邪魔蟲ってことか。
…確かに3人で行くことにしてもらったんだけど。
目を逸らし、なっちゃんと紗頼を抜かして歩き出した。
しばらく歩いてから紗頼に呼び止められた。
「道ちがう!こっちだよ」
振り返ると紗頼が1人で草むらのほうを指さしている。
「あれ、なっちゃんは?」
うーん、と首をひねった。
「さっき紗頼になんか言ってきて、どこか行っちゃった」
こいつは、手を繋いでもらってたくせにどこに耳つけてんだ。
「ちょっと待とっか」
花火が始まった。
小さい子と2人っきりの状況になるのは、案外嫌じゃないかも。紗頼は勝手にお喋りしてくれる。
仲良いけど、2人になると辛い人って結構いるよね。会話が止まると、咳をしてみたり笑いを引き伸ばしておいたり、ため息をついたり、きまづい空気が生まれないように長引かないように皆会話っていう直線に何かを置いて、埋めていこうとする。それができないんだなあ。つまらなかったら、黙っちゃう。
でも、これから一生関わらないような他人と話す時は陽キャ並にすらすら言葉が出るのは何でなんだろ…。
「優希ちゃん彼氏いないの?」
今流行りの子供向けアニメのネタバレが終わったみたいだ。そう。こいつは花火見ながら日常会話ができるやつだった。
「いないねー…」
「優希ちゃんって待ってるだけでしょ。すんごく可愛いわけじゃないのに、自分からやってみないからダメなんじゃない?」
幼児に正論を言われる私って…。
こんな会話には「紗頼はどうなのよ?」と茶化して気を使うのが普通。でもショックがでかすぎた。紗頼の言葉がズドーンって背骨にめり込んだ気がする。
代わりにお腹からぐうっと音が出た。
「あ!なっちゃん屋台に行っちゃったんだ!」
あんなにお昼を食べたくせにお腹が鳴ったことが地味に恥ずかしかったが紗頼はなっちゃんのことしか気にしていないようだ。
「さっき今日は絶対たこ焼き食べるって言ってたじゃん!」
…聞いてない。紗頼に言っただけだ。
「優希ちゃん!行くよ!」
骨に皮が張り付いただけの様な手に腕を引っ張られた。
「ホタルさんと何してあそぼう」
「ホタル?何それ」
「おじいちゃんが教えてくれたの。花火の後の川にはホタルの神様がいて遊んでくれるって。これから会いに行くんだよ」
初耳もいいところだ。
花火が終わってから随分経った。まだ歩いている。紗頼の足が心配だ。下駄で来たのだからきっと靴擦れしてしまっている。言ってこないのは人に頼るのが下手なおばあちゃんのDNAのせいだろう。
「紗頼、足見せてごらん」
隠そうとする紗頼を持ち上げて傍の置き石に座らせ足首をみると、やっぱり皮がめくれていた。
「ほら、やっぱり靴擦れだ。ホタルの行進なんて見れる訳ないんだからこんなになるまでがんばらなくていいんだって」
ウインドブレーカーの内側のポケットに準備しておいた絆創膏を貼ろうとしたとき、紗頼が立ち上がった。
「いた!ホタルさん!」
脇目もふらずに川に裸足で駆けて行った。
…くっそお。紗頼を追って走った。
「優希ちゃん!見てよ!やっぱり紗頼があってた」
いつの間につづら川の近くまで来ていた。緩やかな流れの真ん中にホタルが一直線に並んでいる。
何かおかしい。祭りの夜は不思議なことが起きる、の一言で片付けてしまってはダメ、な気がする。
「紗頼!帰ろうよ」
「なんで?」
なんでと言われましても…。私にだってなんでかは分かんないよ。ましてやホタルを見ることを楽しみにしていた紗頼にとっては、本当に意味がわからないだろう。
紗頼がしゃがんで手を水に浸すとホタルが集まってきた。紗頼の手に光が集まる。
ホタルが小さい体を取り囲む。
異常な数のホタルに囲まれたとき、反射的に細い腕を掴んだ。紗頼の体が光で見えなくなってきた。
「紗頼!紗頼!」
呼んでも反応がない。むしろ数が増えてきた。
ヒトの手が水面から伸びて紗頼の頭を水に押し込もうとした。何これ…誰か!
「なっちゃん!」
紗頼に伸びた手が引っ込み代わりに大きな腕に包まれた。
名前を呼ばれたその人の目は見開かれていて、一瞬悲しそうな目に見えた。
草が体に貼り付いたなっちゃんがいた。
「優希がついてたのに、なんで紗頼怪我してんの」
頭を殴られた後のような熱さを全身に一瞬で感じた。横を見ると紗頼のすねから血が吹き出していた。
「って言われちゃうよ」
冷たい手が汗だらけの髪に密着して初めて顔を上げた。
「…なっちゃん」
顔についた汚れを拭られ頬に大きな手が触れた。
まっすぐ目が合う瞳は夜の光と闇に溶けあったホタルの蛍光色を映していた。
「大きくなったね」
じっとしていないとぶつかってしまうぐらいの距離に心臓は悲鳴をあげていた。
「うわあああああああん、うあああん」
紗頼の泣き声が川の水面の静寂をだいなしにした時、すぐ傍にいた体温は感じられなくなっていた。
「ほら、背中乗って」
泥に足を取られながら坂を登った。足を泥から離すテンポがずれて、上半身が反って背中から川に落ちそうになって叫ぶ…前にバランスが回復する。それを授業中に首がカクンってなる回数くらい繰り返していたらしだいに明るくなって、役場の前の街灯が目に入った。
沙頼をおぶったまま、なっちゃんは役場の人達に笑った。
「僕がついていながらすみません。もう大丈夫ですので」
なっちゃんがあやまるから、皆心配してるのかと思ったけど役場の人達は皆花火を見終わった感傷に閉じこもって紗頼のことなんてたいして心配していないようだ。
紗頼は寝ている。
もうだめだね。なっちゃんの背中は沙頼のためにあるんだ。
掴んでいたなっちゃんの浴衣の袖が手を離れた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
祖父母は家に残っていたらしい。
足を怪我した紗頼を見た途端、おじいちゃんが怒り出した。
嫌な予感が当たりそうだ。
なっちゃんのせいじゃないのに…。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
結局おじいちゃんがなっちゃんを部屋から解放したのは1時間後だった。おじいちゃんのまだ赤い顔と目があってしまった。…睨まれた。
「優希、ちょっとつきあってよ」
皆の視線が一気に来た。ここで赤くなったりすると気まづいから…意識したら突き放し気味になってしまった。
「いいけど」
「紗頼も行く!」
「ごめん、優希と2人がいい」
…なんかこのセリフ聞いたことある
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
転びそうで転ばない道を歩いている。
「なっちゃんもおかしいけど、おじいちゃんもっと変」
なっちゃんの足が止まった。
「記憶を消さないと、許してくれないんだよ」
振り返ったなっちゃんの悲しそうな微笑みが暗い中でもはっきり見えた。
なっちゃんの腕が空に突き出した瞬間。クリーム色で薄いプラスチックみたいな楕円形が何枚も宙に浮かんだ。多分これが、そうなんだろう。それはひらひら落ちてくる。落ちてくる速度は一定で遅いのに何枚も何枚も、とどまることを知らない。どんどん多くなる。川の水面に弾かれることなく水の中に空気があるように空中にいるときと同じそのまんまの形態を保ちながら川に吸い込まれる。
「私、これ見たことある…」
「僕と優希2人だけの儀式だからね。他の皆は一括なのに、なんで優希には僕の記憶がこんなに深く刻まれてるんだろ」
それは、私がなっちゃんのことを…
残された楕円形が少なくなってきた。
勢い変わることなく地面に降り立つように水に吸い込まれる。
ハラリヒラリ、という風に。
〜〜〜回想終了〜〜〜
「おばあちゃん!帰ってきたよ!」
おばあちゃんは1人でソファに座ってどこか一点を見つめている。
「来たよ、おばあちゃん」
「どちらさんかねえ」
手を重ねようと伸ばした手を避けるように
上体を仰け反らせた。
「怖い怖い怖い怖い…じいさん!助けて!」
それは優希に対しての言葉に違いないのに、決して目を合わせてくれない。
目やにのついた目に涙をためて私を拒否する姿に、我慢できなくなって家を飛び出そうとすると…玄関にいた。
「なっちゃん…」
どうしよう。もう恐怖なんだけど…。
なんで私はあんなことを忘れていたんだろう。
と同時にもう一つ疑問が生まれる。
なんで私は全部思い出したんだろう。
今日、何かが終わる
「あの川に行こうか」
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
「思い出した?」
なっちゃんは過去の記憶の姿と何にも変わっていないようだった。
「うん、急に思い出した。さすがに教えてくれるよね?なんでなの?」
少しためてから話しだした。
「ひとつ言えるのは君のおじいさんは支配者になった、ってことさ」
突然何をいいだすのこの人…
「…じゃあ何を支配したの?」
「第1におばあちゃん。第2に優希で最後が紗頼ちゃん。2人とも、失敗だけどね」
「おばあちゃんを支配したのは僕の予想では会えなかった期間のすぐ後。寂しくなって支配しちゃったんだろうね」
「会えない時間って?」
「戦争だよ」
「この街にも空襲はあった。今度そのスマホで調べてみなよ。少しは時間を有効に使えるんじゃない」
それぐらい知ってるのに…なっちゃんの決めつけて疑わない冷ややかな目が怖かった。
「次は僕だね。僕と優希のおじいちゃんはその空白の時間で会ったんだ。空襲で逃げてる時にあったんじゃない。駆り出されてたんだ。戦争に。どこでどんな敵と戦ってたかは言えない。優希が知る必要も無い。
おじいちゃんは変わったんだよ。想像出来ないと思うけど、戦争が与える影響は大きいんだ。僕はおじいちゃんの陣のトップとその奥さんの子供さ。2人とも死んだけどね。
おじいちゃんは僕を見捨てなかった。誰も僕に気づいてくれなかった。見て見ぬふりをした。けどおじいちゃんだけはそばにいて離れないと言ってくれた。だから2人でここに帰ってきたんだ。
でも困ったことが起きたんだよ。何だかわかる?そう、おばあちゃんが勘違いするんだ。おじいちゃんが子供つくって帰ってきたってね。
だから初めは嫌われてたんだけど誤解が解けてからはすぐ仲良くなった。おばあちゃんってば、僕を初めて見た時『海神』って言ったんだ。おじいちゃんと一緒に海の向こうから綺麗な神様が来たかと思ったって。
でも、おじいちゃんは変わってしまった。人が変わったように優しさを失った。おばあちゃんは変貌したおじいちゃんにショックを受けて病気になってしまった。何でも忘れる病気に。おじいちゃんとの記憶はもう2年間しか残って無いんだって。2年分の思い出をずっとおじいちゃん語るんだってさ。
おばあちゃんに依存し、また依存させた。自分がいないと何にもできない状態にした。そのせいでおばあちゃんは認知症の改善も全く見込めない。あの人が、"そうしている"ってことだよ。
次は…優希の考えてる通りだよ。とっくの昔におばあちゃんの記憶の容量は無くなった。
覚えてるフリするおばあちゃんは何度も見たよね。別にそれでおじいちゃんの何かがバレる、なんてことは無いのにおじいちゃんは支配した。ただ単純に支配したかった、だけじゃないかな。それぐらい、おばあちゃんの事が好きだったんだね…
意味が分からない?理解できない?
そりゃ当たり前だよ。優希に理解してもらおうと話してないもん。ただ伝えたいだけさ。
でもごめんね、その方法だけがどうしても分からない」
…情報量多すぎない?
「支配って何?自分が死んだ後も一生泣きながら名前を呼ばせること?」
それはいくらなんでもやりすぎだよ
「優希泣かないで」
「じゃあ本当のおじいちゃんはどこにいったの?」
「もう死んださ」
違う。そんなことを聞きたいんじゃないよ。
なんでこんなに大好きな人は意地悪になったの。
「だから質問の理由はおじいちゃんが死んだから。そして…」
見つめてきたなっちゃんの目から逃げた時
「優希が好きだから」
何ともないように微笑む。
「私の記憶を何度も奪ってたのに、なのになんで私が好きなの?」
声が裏返った。自分がヒステリックなおばさんになった気がして…嫌だ。なっちゃんは私の目を見据えたまま黙る。
「好きになるのに理由はいらないよ」
……絶対適当に言った。でも心臓の音がドクンドクン響くわけは…説明できない。
沈黙が長引く。破ったのは意外にも私だった。
「でも今日でもう会えないんでしょう」
「そうだね」
2人は抱き合って…強引に川に飛び込んだ。
なっちゃんを突き飛ばして急いで酸素を求める。
「何すんの?」
「だって、僕は君と会えないんならこの世界にいても意味が無い。君だって同じだろう」
今ここでなっちゃんを拒否したらなっちゃんの全ての記憶が私から無くなる。多分。
「支配なんて意味ないよ。記憶を無くしたら全部終わると思ってる?違うでしょ。無くしても思い出すんだよ」
水中の中でまた引き寄せられた。
「…なんでなっちゃんも協力したの?」
濡れた私の髪を撫でて悲しそうな顔をする。
「だってそれがおじいちゃんのためになるだろ」
なっちゃんは悪くない。きっとなっちゃんはその時その時に尽くしてるだけだ。おじいちゃんにお願いされたら全力で取り組んで私を好きなったら私を守ろうとした。でも、善意は悪意より恐ろしい。有名な言葉が急に頭に浮かんできた。
「僕は優希が思ってるよりも優希のことが好きなんだよ?」
つづら川の真ん中で善意の塊の胸に抱かれた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
…こんなロマンチックな終わり方?
なわけないだろ優希。気づいたでしょ。
おじいちゃんは壊れた
壊れておかしくなったことで心が悪意と善意に分裂してしまった。善意は精神を抜け出し、身体からも脱した。おじいちゃんは悪意と生きるしかなくなった。
でも善意はおじいちゃんは離れなかった。
抜け出した善意に周りの人が気づくわけない。だからなっちゃんは誰にも見つからなかった。
おじいちゃんは思い通りにならなかった思い出を塗り替えるために、支配したくなったんだろう。おじいちゃんの壊れた姿におばあちゃんは病み、支配された。
親族の集まりに毎年知らないヒトが紛れていた。なんて気持ち悪い集まり。
親族以外にはなっちゃんは見えていない。
小さい頃、私はよく"お兄ちゃん"と間違われていた。
冗談が通じない奴だと幻滅されたかも。からかっていただけだった。
ニヤニヤしたんじゃない。単に大きくなった私に微笑みかけていた。今まで花火はなっちゃんと2人だけで行ったんだ。役場前を通らずに。1人で勝手に駆け落ちみたい、って色めき立っていたのは誰だ
『海神』じゃないだろ。本当に言われたのは2文字の左側だけ。
そして…
あのデジャブを、私は何度も見ていたのか。楕円形が生まれる前、2人は何をしたんだろう。
生きていることに震えた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
二度と会うことはないだろう。
でも、また必ず思い出すだろう。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
「お兄ちゃん、だれ?」
お兄ちゃん、と呼ばれた男は目を逸らす
「どっちもインドが原産で中国を経由して日本に入ってきたのがみかん、ヨーロッパに広がったのがオレンジ。果汁が多いバレンシアオレンジを搾って作られるのが皆大好きな…」
不意に言葉を切り、また女の子と目を合わせた。
「ところで優希、大きくなったねえ」
女の子がにっこり笑った。
「オレンジなっちゃんだ」