ルンガ沖夜戦
ルンガ沖夜戦。昭和17年西暦1942年11月30日に起きた日本軍駆逐艦隊と米重巡洋艦隊との間に生起した海戦。圧倒的に不利な日本軍は夜戦の神様としか形容のしようのない第二水雷戦隊指揮官田中少将の巧みな夜戦指揮の元、重巡洋艦1隻を撃沈、3隻を大破させた。日本軍の損害は駆逐艦高波の沈没のみだった。
彼の判断に誤りと言えるものは無く、敵を引き付け、最良のタイミングで突撃命令を出し、その飽和雷撃攻撃によってアメリカ軍重巡洋艦部隊に大打撃を与えた。まさに夜戦の神様である。
しかし、この勝利は勝利とはみなされなかった。田中少将はあまりにも現実的過ぎた、彼は旗艦を艦隊の中央に置き、旗艦が戦闘中被弾し、指揮官が戦死する事を危惧した。特に絶えず敵航空攻撃の被弾に備えた為、極めて論理的である筈の旗艦の中央配置は批判の対象としかなりえなかった。彼は航空機に対する脅威を正確に理解しており、彼の行動は後日当たり前の行動となる。
しかし、現実よりも理想が、結果より過程を重視されるお勉強ができる日本海軍士官にとって彼は猛将でもなく、臆病者とされた。日本軍では指揮官が座上する旗艦は先頭でなくてはならなかったのだ。例え、装甲の無い駆逐艦に座上する駆逐艦隊であっても先頭艦であるべきと考えたのだ。全くもって夢と現実の区別ができない夢見がちな猛将達の為に世界に冠する夜戦の神様は船から降ろされた。そして、二度と海上勤務をする事はなかった。
が、一方、米軍からは敵にして不屈の猛将・田中と二つ名で呼ばれ、高く評価された。彼より優秀な日本軍水上戦闘艦指揮官は存在しない。それが米軍の評価である。
日本軍は第三次ソロモン海海戦で勝利したものの僅か3日でヘンダーソン飛行場の機能は回復し、日本軍は輸送船による援軍、補強を諦めざるをえなかった。代わりに採用された作戦が鼠輸送作戦。高速の駆逐艦による補強物資のドラム缶による揚陸作戦は田中少々率いる第二水雷戦隊によって行われた。これを察知した米軍は重巡洋艦4隻からなる第六十七任務部隊を迎撃に差し向けるが、田中少将はこれを駆逐艦のみにて撃破。大勝利となった。これがルンガ沖夜戦だった。
正しく日本海軍を象徴する戦いであったと言える。特に田中少将に対する日本軍の評価は、日本軍を象徴するものだ。もちろん悪い意味でだ。
僕は祥鳳艦上で、一人想いに耽った。田中少将…悲運の指揮官、彼は数少ない言葉を残した提督だ。彼は戦後、米国側からの高い評価に対して、報道の記者のインタビューに対し、こうコメントしている。『私は突撃命令を出しただけ。後は全部部下の功績』正しく武人の鑑だった。
日本軍は現実を忘れた。そもそも無様な敗戦を喫しても責任を取らされたと思われる将官は聞いた事がなかった。彼以外は…いや、彼は敗戦では無く大勝利を挙げたのだが…彼は結果より過程を重視する日本軍には向かない人材だったのだろう。しかし、逆説的に言えば、現実的な指揮官を容認できない、非現実的な軍隊が日本海軍だったとも言える。
僕は田中少将を擁護しなかった。一つに保身だ。笑うがいい。たかが中尉の僕にはそんな度胸はない。笑うものはそれこそ現実感覚がない人間だ。それに、この戦いにおいて重要な将は航空畑の将だ。彼の様な夜戦の神様ではない。そして、彼は戦後も生き伸びている。僕が彼を擁護するとしたら、戦後だろう。最も彼がそれを快く思うかどうかはわからない。大きなお世話なのかもしれない。僕はどちらかというと航空畑の人間で、彼は砲雷屋なのだから。
キュウが死に、そして二度と帰ってこなかったソロモン海での戦いはこうして幕を下ろした。
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