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毛利勅子の生涯(第六話)  作者: 木楽名優芽
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勅子の新婚生活と妾腹の子供の存在

だが宴の浮かれ気分はその日まで。宴の先に待っているのは次世代を担う領主の奥方としての現実である。勅子は長旅に続く結婚の儀で疲れている間はなかった。本当の意味での結婚の儀も果たさなくてはならなかった。何においても立ち向かうところ敵なしの巧者な勅子であったが、対する相手が男性となると少し勝手が違う。しかしながら戸惑う勅子に対しさすが公は八歳年上だけあって、その年齢差は女の扱いにも手馴れていて大したためらいもなく勅子は元美と夫婦に成れたのであった。勅子は会って間もない元美であったが、いい夫婦関係が築けそうな予感がした。元美公は二歳の時から領主としての心得を仕込まれてきたにもかかわらず、女卑の世にありながら決して安易に勅子を見下すことはなかった。勅子を正室として立てるべきところは立て人当たりのいい優しい人であった。父の大蔵は式が済むと妾の寿松との間の子の百合の助と宣次郎を連れ川添の別邸へと戻って行った。正室としての勅子の務めはその翌日から始まった。先ずは身支度を整え祖母の遊昌院や姑の瑶光院への挨拶から始められた。正室として理想的な嫁を迎えた婚家の姑達は総じて好意的で彼女等の指示を仰ぎながら勅子は四本松家の流儀を習得していくのである。一夜明けて翌日は五ッ紋付き正装の瑶光院に連れられ、勅子は勅子で既婚者としての晴れ着に身を包み、華燭の典に列席し若い二人の門出を祝ってくれた面々へ感謝の意を伝えるため一軒一軒挨拶に回った。延々とそのような結婚の儀に纏わる儀式をこなしていれば宴気分は容易には治まらないのであった。それに徳山と厚狭は同じ武家といっても流儀は微妙に食い違う、戸惑いながらもそれらを少しずつ受け入れていくしかないのだった。勅子は生れながらの優等生に加え神髄に四書五経の教えを擦り込まれて、目上を敬う気持ちにいささかの躊躇ためらいいもなかった。しかも姑の遊昌院と嫁の瑶光院の仲は上手くいっていて勅子はそれが微笑ましかった。勅子もその中の一員に早く馴染まねばと思う一方で、すんなりとけ込めそうな気もしていた。それは遊昌院の人柄である。決して声を荒げることのない安心感に加え周囲を暖かく包み込む包容力があった。だからといってただのお人好しではない。或る時勅子はそのおおらかさに油断してうっかり迂闊うかつなことを言ってしまったことがある。すると、

「思ったことをそのまま口にすれば、とかく角が立つ。言いたいことは、明日言え。喰いたいものは宵に食えと、昔から言ってね、・・・」とさりげなく遊昌院は諌めた。勅子は何故そう言われたか本題は忘れてしまったが、遊昌院の笑いを誘う物言いに腹も立てられず、しかしその例えだけは心に深く残った。若くて誇り高い勅子を傷付けないよう考慮した、遊昌院の思慮深い一面を垣間見た気がした。

そういえば随書ずいしょでは刺舌しぜつ、詩経では捫舌もんぜつ、論語でも子貢しこう駟不及舌しふきゅうぜつといって、一度口から出た言葉は四頭立ての馬車で追いかけても追いつくことは出来ないと戒めている。その知識が根底にあった上での言とも思えないが、遊昌院は無駄に年を重ねてはいない賢者であった。思い返せば徳山の継室・本源院は生れた実子が夭逝しその後子に恵まれることはなく、それが原因の屈折かどうかは定かでないが、発する言葉の一つ一つに棘があり、言われたことは生涯突き刺さって勅子を苦しめた。奉公人が少しでも怠けるとそれが気に食わないとばかり、午後の誰もが微睡まどろみたくなる時間帯になると決まって用事を言い付け休ませはしなかった。大体武家の結婚は政略的に結び付いた仲だから、室の身分は婚家に劣らず家格は高く夫たる領主でさえ軽視できない存在ではある。ゆえに正室は総じて気位が高く名門の出自を笠に着て居丈高である。勅子はそれにはいささか疑問を持っていた。内容も伴わないのに親の威光をかさに着るのは鼻持ちならなかった。だからそれを反面教師に、自分は決してそうはならないと固く心に誓ってきたし謙虚さを失わないよう心掛けてきた。その点勅子の姑に大姑は双方人間的に好感が持てた。瑶光院は遊昌院に比べると対外的にも奥向きのことに対しても長たる責任があるだけに人間性はまだ堅い。達観する境地には至らない緊張感がみなぎっていた。だが責任ある立場から身を退いた遊昌院は気楽だ。素のままに屈託なく生きていた。

一方若い働き盛りの元美は、期待されている分雑用が多く朝登城すると夜にならなければ帰らない。どこかで御馳走になり呑んでご帰館もたびたびであった。萩附近防御総奉行の元美は出張も多く、赤間が関始め天保六年十月九日に鍬入れした領有地の梶浦開作工事の進捗状況の見分にもたびたび出かけ、行けば大抵馬を休ませに厚狭の居館で夜を明かした。厚狭の居館には妾の寿賀と実の子の邦之助がいる。そんな夜は勅子は遊昌院や瑶光院と留守番である。秋の夜長を女三人側女中達を交えてよもやま談義に花咲かせることもあった。しかしそんな穏やかな日々はそう長くは続かなかった。嫁いで一年もした頃遊昌院は不調を訴えるようになり床に寝つくことが多くなって一八四二年家族が見守る中、静かに七八歳の生涯に幕を閉じたのであった。

丁度その頃、中国では阿片で膨大な利益を貪るイギリスが、中国が阿片を禁じているにも拘らず暴利を得られる旨味が捨てきれず、自国の戦争反対論者を押し切って中国に戦争を仕掛け、世に言う阿片戦争で圧勝していた。中国はすぐ隣の国で、何時その禍は日本に飛び火するか解らない状況にある。攻められれば真っ先直面する長州藩としては防備は喫緊の課題である。既に北浦海岸近くの広大な羽賀台に銃陣の演習場を築きはしたものの、あの大国中国が戦いに敗れて奴隷化しているのだ、敵の脅威は計り知れない。演習場の完成した一八四三年四月、総軍勢一万三九六三人、馬数五三四頭がそこに集結、大軍事演習を行った。勿論元美も第一陣を率いて閲兵に応じた。計画の段階で土地の見分にも立ち会った藩主敬親の馬上姿もそこにはあった。藩を挙げての一大イベントに藩主自らが立ち会えば士気も上がる。銃後の女達も手をこまねいてはいられなかった。勅子も遊昌院の葬儀に続いて法要にと明け暮れてはいたが、瑶光院の勧めもあって忙しい合間を縫って、愛用の長刀をたずさえ城で行われる合戦訓練には必ず参加した。或る時、敵と味方の二手に分かれての訓練中、勅子は詰め寄る相手を次々倒し、早々に敵を全滅させて下を見れば階下の味方は苦戦を強いられている。気が付けば何時の間にか勅子は逃げる敵を追って城の二階まで上がっていた。そこで二階の屋根伝いに飛び降りられる高さまで下ると、足袋裸足で苦戦する味方の加勢に転じた。長刀は勅子の得意。得意技を使ってのパフォーマンスは見るものを唖然とさせた。それ以来勅子の活躍を目の当たりにした連中の語り草となり、何時しか二階の窓から飛び降りて得意の長刀で勝利に導いたと話は誇張され伝説となった。勅子はここでも話題をさらい一躍スターとなった。

そうこうするうち瞬く間に日は経ち、一八四四年には舅の大蔵が帰らぬ人となった。あっけない逝去であった。だがこれで元美は名実ともに領主となった。遊昌院に続く大蔵の死去、大蔵を看取った妾・寿松も翌年後を追うように亡くなり、宣次郎を生んだ寿松の葬儀は縁者を二人ばかり呼んで内々で済ませた。

だが大蔵の方はそうはいかない。死者を丁重に弔う法要が慣習に則って執行され、それを滞りなくこなせばバタバタと忙しい日々は瞬く間に過ぎていく。しかし勅子には未だ子はなく懐妊の兆しもないのだった。それが一番の気掛かりではあるにはあるが忙しい瑶光院に付き従い右往左往していればそれどころではない。それには元美の襲職のお披露目も盛大に催されることになって、その準備に忙殺されますます子作りは遠のいた。

その頃、厚狭の居館では元美と妾寿賀との間に生まれた唯一の実子・邦之助が数えで一二歳・元服に達したので後継者としての教育を受けることになった。妾腹とはいえ勅子に子が出来なければ唯一の後継者である。その為の教育として小笠原礼法に入門、入門の儀式はお月番の毛利須譿に付き添われこれまでの習わし通りに行われたと言うことであった。当然の成り行きで勅子としては受け入れるしかない。師は先例を重んじ毛利家の礼法を司る緒方十郎左衛門。先ずは書院で師と対面して挨拶の口上を述べ血判書が渡されるのであるが邦之助はまだ幼いので印章で済ませ、次に座敷を後書院に移して師弟の縁を繋ぐかための盃を交わしすべて手筈通りに催行され、その後料理も振る舞われて滞りなく儀式は済んだとのことであった。元服を機に日を改めて邦之助は康之進と改名し正式な跡目となった。

これが嘉永二年のことであった。勅子に子が出来なければ康之進が次期後継者の有力候補である。教育は次期後継者としてのものであった。

とにかく勅子には毎日が目まぐるしかった。一つ片付けばまた問題が待ち兼ねていたように起こる。幸い康之進のことに心を砕いている間はなかった。その頃から瑶光院が体調を崩して寝込むようになっていたのだ。大蔵を見届けて奥方としての役目を果たし安堵したか、長く患うこともなく一八五〇年静かに息を引き取り鬼籍に入ったのであった。あっけない末期であった。勅子の新婚時代はこうして次々先代を見送るうちに慌ただしく過ぎて行った。気が付けば勅子は奥向きのことを司る総責任者となっていた。これまでの慣例に従いはするものの、今後あらゆる決定権は勅子が取り仕切ることとなった。責任は重大である。正室の立ち位置は領主とは別格で分業、先祖の供養もそれぞれが香典を包み付き合いもそれぞれ、姑の監督からは解放されて自由になったが世間の矢面に立つこととなる。

しかしそれは非常事態の時のみに限られ、平素は至って穏やかである。同じ堀内の出屋敷には異腹ではあるが兄・元蕃もとみつ淡路守がいて本藩の家老職を務めており、その連れ合いである一〇代藩主斉煕の娘八重姫もいた。彼女は花のお江戸の斉煕のもとに長く在住していたこともあり、身に付いた洗練された素養が新鮮で勅子はそこをしばしば訪れた。彼女からは少なからぬ影響を受けそれは刺激になった。徳山の実家へも度々帰った。

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