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練習

作者: ホッチキス

「田中くん、昔はホントに酷かったんだよー?」


まるで今は酷くないかのような口ぶりで村上課長が話しかけそこてくる。


時刻は22時15分。

本来退勤していてるはずの時刻から既に5時間が経過している。


両目に入っているコンタクトがパシパシと乾き、視界も少しぼやけて来た。


そう言えば眼科で先生が「極力12時間以上は装着しないようにしてくださいね」と言っていた気がする。

眼科的にも内科的にも悪いことをやっているのだと思うと益々気が重くなってくる。

精神科的にも悪そうだ。


課長のデスクの上には書類が山積みになっている。

部下全員の書類に目を通して決済をしなければならないのだから管理職というやつは大変そうである。

そして俺のデスクの上にも課長程ではないが、テンションを下げるには十分な量の書類が積み重なっている。



(はぁ、もう試合終わってるだろうな)


こんな時間まで残っているというのは今日が特別珍しいという訳ではなく、ここのところは毎日こんな状態である。


俺は学生の頃からプロ野球が好きで、社会人になったと同時に思い切って“プロ野球中継視聴セット”なるものを契約していた。

これで充実したアフター5を過ごしてやろうと楽しみにしていたのだが、残念なことに試合終了までに家に帰れたことはほとんどない。

実際のところ、中継を観る事ができるのは土曜日、日曜日のデーゲームぐらいである。


こんな状態で一ヶ月に4000円近く支払っているというのはどうも割りに合わない。

放送局も社畜割みたいなのを導入してくれないだろうか。

きっと需要はあると思うのだけれども。



野球が観れないというだけでも十分ウンザリしているのに、更に追い討ちをかけてくるのは、うちの会社は残業代が月に10時間までしか出ないという事実である。


つまり俺の場合、6月2日の時点で既に今月この先何時間残業しようがずっとタダ働きになるのだ。

うちのような中小企業では珍しいことではないのかもしれないが、やはり自分のやってることが1円にもなっていないというのはなんとも悲しく虚しいものである。


今こうやって課長がダラダラと話しかけてくるのも、一切お金が発生していない作業時間だからということもあるのだろう。



「そうだったんですねー」


(またその話かよ)と思いながらも、(またその話かよ)と思っていることを悟られないように普段よりトーンを上げた声で返事をする。


「あの時は流石に俺も辞めようと思ったね。会社の上の人たちに全部不満をブチ撒けて辞表届けを叩きつけてやろうかと思ってたからね」



今現在辞表を叩きつけたいと思っている俺にとっては全く笑えない話である。


この初老のおじさんはそれを部下に聞かせて何の意味があると思っているのだろうか。


(先輩も昔は苦労されたんだなぁ、今は昔と比べたら恵まれてるんだなぁ)


と前向きに頑張れるとでも思っているのだろうか。



そんな訳がない。



どんなに不満を感じていて腹を立てていたとしても、最終的に黙って耐えて抜いてしまったのであれば、何も感じずに仕事を続けていた人と結果は同じである。


とどのつまり、課長を含め、今この会社に残っている社員達は、理不尽も不条理も耐え抜いてしまった人達なのだ。


もし、これまでのやり方で上手くいかなかったのであれば他の手段をとるはずである。


しかし、結果としてそのやり方でなんとかなってしまったのであれば、「このやり方は正しかった」ということになってしまう。


……たとえその過程にどれだけの犠牲が含まれていたとしても。


もちろん、これまでこの会社で汗を流して来た先輩達の努力や苦労に対して敬意を持っているつもりだ。


しかし、その先輩達の努力や苦労が


「前任者ができたのだから、お前らもできるはずだろう」


を手伝っているのだと思うと恨んでしまいそうになる。



以前、飲み会で課長が「娘も嫁も口を聞いてくれない」と愚痴を漏らしていたことがある。


その話を隣で聞いていた俺は、少し同情しながらも(そりゃあろくに家に帰りもせず、おまけにそのほとんどの時間がタダ働きだったのだとしたらむしろ当然のことではないだろうか)とぼんやり感じた覚えがある。


しかし、本格的に仕事を任せられるようになった今、俺自身も職場と寝床を往復するだけのような毎日を過ごしていると、課長の悲しい自虐話も他人事ではない気がして来た。



仕事ってこういうものなのだろうか。


人生ってこういうものなのだろうか。


俺にはまだよく分からないが、よく分かるまで待っていたら手遅れになってしまいそうな気がする。


今度の土曜日は野球中継を観ることを我慢して外に出てみることにした。


それに何の意味があるのかは分からないが、同じ日を続けるということが無性に怖いと感じたからである。



「でさー、あの時はさー」


相変わらず同じ内容ばかり再放送している課長の話が、さっきまでと少しだけ違って聞こえた。

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