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最終夜

「ったく、インターフォンかけておいてとんずらするから、言い訳するの大変だったのよ。いくらずぼらなサングエの警官だって、足跡の数とか見ればすぐにわかるんだから」

「い、いて! もっと優しく!」

 腹いせに、ぎゅうっと力任せに血を拭ってやると、アレッシオが珍しく悲鳴を上げた。 自分で適当に縫ったらしい腹の傷二箇所は、重要な箇所をはずれているとはいえ、じくじくと出血し、本来なら病院で手当を受けるべき状態だった。

 対して私は、きちんと病院で手当を受けた後だ。

 かけつけた警官たちに、しどろもどろな説明をして、なんとか病院を引き上げてみればすでに夕刻。茜色の空を背に、レオの待つ教会に戻ってきたのだった。すると、すでに先回りしていたアレッシオが、実に鷹揚な態度で出迎えてくれた。心配顔で出迎えてくれたレオとは大違いだ。

 警官たちがドナトーニ神父の遺体を発見するまで、お式は延期になる。といっても、警官たちがその任務を全うできるとはとうてい思えなかった。

 クラウディオは、背に大きな裂傷を負っていて、八針縫った。今は一人で奥の部屋にいるが——心配だった。体調だけではない。彼の精神も。

 親族を失ったばかりの彼には、これはあまりにも酷い仕打ちだ。

 ドナトーニ神父の遺体を弄ぶ、あの金色の異形。私は、怖れ半分、怒り半分で唇を噛みしめる。

「だから痛いって!」

 悲鳴が聞こえて、ようやく自分が包帯をがちがちに巻いていたことに気づいた。仕方がないので、緩めてあげる。

 鬱血気味の患部をさすって、アレッシオが口をとがらせた。清潔なソファに、泥が跳ぶのもかまわずどっかりあぐらをかいている。

「せっかく助けてやったのに、この仕打ちはないだろ」

「勝手に行方不明になって、やっかいごと運んできて。こっちだって、迷惑被っているわ」

 調達してきた替えのシャツを思い切り投げつけてやった。薄ら笑いのまま、アレッシオはシャツを身につける。怪我の状態はあまりよくないようで、減らず口をたたくのも本当はやっとのように見えた。

 私は無意識にさすっていた脚をひっこめた。くるぶしは包帯を巻いてもらい、血はすでに止まっている。金の触手は太い血管や筋を傷つけなかったため、抗生物質と痛み止めをもらい、明後日また経過を報告にいくことになった。今は杖をついて歩いている。

「そんなことより。たくさん説明してもらいたいことがあるのよ」

「なんだよ、面倒だな。俺はお疲れなの。ちょっと眠らせてちょーだい」

「だめよ。そうやってまたはぐらかして、どこかへ行っちゃうでしょ」

 肩をすくめはぐらかそうとするあたり、図星のようだ。

 睨みつけてとりあえず座らせて、私はアレッシオと向き直った。

「あのえげつない金色のが、あなたの対の者ってことはわかったわ。対の者同士は似るのかしらね、自己主張激しくて。それで、あなた一人で狭間の者を引き受けていたって、どういう風の吹き回しよ」

「どうって。俺、心優しいだろ。放っておけないからなあ、弱い者いじめは」

「誰が心優しいっていうの? ねえ、どの口が? あなたに攫われた日に受けた仕打ちは、忘れていないわ」

 半眼になって睨みつける。

「人の頭のなかひっかきまわして……」

 言葉半ばに、私ははっとしてアレッシオに向けて目を眇めた。

「律儀」

「うん? なんのことだ?」

 わざとらしく小首を傾げて、アレッシオは銃の点検に入った。その姿は、会話を拒絶するようにも見えた。

 私は、その背に向けて思い切りため息をついた。

 まさかこのちゃらんぽらんな男が、「狭間の者の情報をくれたら同化を防いでやる」という口約束を、地味に守っているだなんて思いも寄らなかった。そんなの、日本の議員の発言並に拘束力の無い契約だと思う。

「それで? 一昨日から今日まで、あなたいったいどうしていたの。すっかり姿を見せないから、死んだかと思ったわ」

「あいつらを追いかけ回して遊んでいたんだよ」

 嘘だ。きっと逆だ。追いつめられていただろうことは、服装一つとっても明白だった。

「ところで、あの金ぴかがどこに行くかって知っているの?」

「さあ……。さすがの俺も、それは月任せだな。ただ、今晩は新月だから、絶対しかけてくるぞ」

 彼は難しい顔をして、外の風景を眺めていた。夜まであまり時間がない。決戦は目前だった。

「お願い、アレッシオ、神父様を連れ戻して」

「……ええ?」

 頭を下げると、アレッシオの戸惑った声が聞こえた。

「神父様を取り戻して。クラウディオのもとに、戻して。お願いします。クラウディオにとってはたった一人の家族だったの。こんなの、あまりにひどいわ」

「うーん。尽力はするけど、腕の二、三本は諦めろよ。傀儡を止めるのは、骨が折れる」

 落ち着かない様子で頬をかいて、視線を逸らしている。こういう態度をとられるのは苦手なのかもしれない。

「無傷が難しいのは、私にもわかるわ。できる限りでいいの」

 万全の体調で臨むならともかく、重傷ともいえる状態では厳しい。百も承知だった。けれど、私ができるのはこれだけなのだ。アレッシオに、ただただお願いするほかにない。

「お願いします。それができたら、いくらでもあなたの研究に協力するから」

 アレッシオは、ヘーゼルの瞳を細くして、しばらく私を見つめていた。私も、誠意をこめて必死に見返す。

 やがて、ショットガンを膝に置くと、アレッシオはおもむろに手を伸ばした。肩をたたかれるか、腹をこづかれるか、はたまた握手か。私は緊張して体を強張らせていたが、

「ふがっ」

 伸びた手は私の頬をつまみひねった。痛い。

「なんかあったのか。なんだか変だぞ。大人みたいなこと言って。ガキはただ大人に甘えてりゃいいんだよ。ま、大人になることは悪いこっちゃないけどな。違う世界が見えることもある」

 そういうと、彼はごろりとソファに仰向けになって、頭の後ろで手を組んだ。本当に疲れているのだろう。すでに目蓋が重そうだった。けれど私は話しを止められなかった。

「ねえ、アレッシオは違う世界を——求める世界をみつけたの」

 彼は片目だけを面倒そうに開いて、聞くそぶりをみせた。

「神を……みつけたの?」

「お前はどうだ。宿題はできたのか?」

「わからない。私はクリスチャンじゃないし、頭も良くないから難しいことはさっぱりよ。でも、夢を見たの」

 夢に登場する男は苦しんでいた。手に入れ喜んでいた地位は、信仰心が認められてあてがわれたものではなかったから。自分が、皇帝と教皇の政争の道具に成り下がっていることを嘆き、形だけになった信仰を嘆いた。

 神はなぜ、この汚れたしくみを許すのか。そもそも神は——存在するのか。

 不可侵の域に、彼は踏み込んだ。神の存在を証明するために。

 召還の儀を経て、彼はさらに混迷におちいった。求めた超自然的な現象の代価に、彼自身が説明できない存在になり果てていた。老いぬ体に、追ってくる異形の者。

 彼は神だけではなく、己が何者かすらわからなくなってしまった。苦悩の日々は流れ、疲れ果てていた。

 彼を彼たらしめていたのは、神と己の存在証明という強い野心だけ。妄執にも近いそれが、百年に余って彼を支え続けてきた。やがて時が流れ、世に変革が訪れた。

 彼の世界は一変しただろう。

「なぜ?」

 問いかけるアレッシオは、口元に笑みをうかべていた。

「それまで、神は形式だったから。内の信仰ではなく、信仰しているという外形だけが必要だった。それさえあれば、救われるはずだった」

「そう。当時の教会は、うまく政治と組合わさっていた。信者というだけで教会の保護があり、異端者や破門されたものはそれがない。コミュニティから追い出された個人に待っていたのは、社会的な死だ。それは生物としての死にも直結していく。統治者にこれほど都合のよいものはない。恐怖や血統だけで王が民を従えるのはリスクが大きい。必ず反発が起きるからだ。その反発を押さえるのに、教会は非常に役立った。教会も布教に政治を絡ませていき、非常な親和性を持って、両者は密接に結びついていった。相手を批判し自らの正当性を説くことすら、共存の形でしかなかった。やがて教会は堕落していく。政治の道具として、金や血筋やコネで選ばれた聖職者たちは、腐敗していく。財産や地位に執着して、信仰は省みられなくなった。ときが流れ、糾弾の声があがるまで、それは続いた」

 歌うように語るアレッシオの言葉を私が継いだ。

「転機が訪れて、認識がかわった。きっとみんなの世界がかわったのよ」

 アレッシオの笑みが深くなり、身を起こして私のほうを見た。ヘーゼルの瞳が、先を促している。

「神とは、信仰心の内に存在する。けっして奇跡を起こして世界を救っては浄化していく外的な存在だけにとどまらない。内と、外の分離が始まったの」

「客観と主観だ」

「それによって、彼は見つけたんだわ。神を。そして自分自身を。目に見えなくても、どんな形をしていても関係ない。自分の内に存在する。そう認識することで、存在するもの。違う?」

 西日が、矢のように差し込んでアレッシオの顔に陰を作っていた。金色の髪が王冠のようにきらめいて、素直に美しいと思えた。

 やがて、静かな独白が始まった。

「……そいつは許せなかったんだ。ちっぽけな人間の手に負えないすべての現象は神の思し召しで、それはつまり神性がこの世界に満ちている、すべては神の創造物だと頭から信じ込んでいたから。だからこそ腐敗した社会が許せなかった。神はいないのではないかと疑った。狭間の者となってからは、神と己と狭間の者の区別に苦しんだ。なんてことはない。名前一つ、認識一つの違いだったんだ。絶対的な神こそ、己の中にあるべきだと気づくまで、長い時間を要した——」

 沈黙が降りた。アレッシオは懐古するように目蓋を閉じている。

 思いついたことがある。夢の男の顔が見えないのは、それが主観だったから——彼こそ記憶の主だったからに違いない。

「なあ、イズミ。人はなぜ神を求めるんだと思う」

「知らないわよ。私はクリスチャンじゃないもん。正月には神社に初詣して、お葬式の時はお寺だもん。クリスマスはケーキを食べて楽しむし、端午の節句にちまきも食べたわ。何か困ったときは、神頼み」

 おそらく、日本人があまりにもいろんな宗教になじみすぎているのだろう。言っている内に自分の節操のなさにあきれてくる。

「でも、そうね。神を求めるときは、助けてほしいときかしら。どうしようもないとき、自分ではどうにもできないとき、救いを求めるの」

「そう、救いだ。救いを求めて、神を求める。本当に大切なのは、形式じゃなくて、救われたいと願うこと。それが神の存在そのもの」

「……見かけによらず、難しいこと考えているのね、アレッシオって」

「能ある鷹は爪を隠すってやつ?」

「でも、未練がましくない? もう望んだ答えは手に入ったんでしょ。さっさとあの金ぴか飲み込んで、余生を楽しんだらどうなの? あなたがふらふらしていると、レオもずーっとふらふらこの世をさまようわけでしょ」

 心外だと言わんばかりに鼻を膨らませて、アレッシオがそっぽを向いた。

「いいの。俺はまだまだ現役でやることもいっぱいあるんだ」

「まるで引退勧められたおじいちゃんね。そのやることとやらはなんなの」

 その言葉を聞いたとたん、急に彼は顔を輝かせた。

「お、聞きたい? 聞きたい?」

「別に……」

 冷たくあしらわれたくらいでは、めげる男じゃあない。

「年代記作っちゃってるんだよね、実は」

 どうだ、と言わんばかりに胸を張られた。

「じじむさいわ。なによそれ」

「何だとっ。おまえ、歴史小説好きなくせに、失敬だな」

「ああいうのって、もう伝説になりかけている過ぎた時代に思いを馳せるのがいいわけであって、あなたが書いたんじゃただの日記じゃない。おじいちゃんの日記読んでもね……」

「これでもなあ、高い評価をもらってんだぞ。リアリティ重視でよいって。まあ、自分が関わってない部分は苦手だけどな」

「誰かに読ませているわけ? しかもそれを永遠に続けるの? 根気あるわねー」

「はいはい。あんたにゃ読ませてやんないよ!」

「結構です。別にあなたの年代記以外にも、本はたくさんあるもの」

「まあ、真面目な話、何かこれといった執着するものがあるってのは大事だぞ」

「第二の人生とか健忘症の予防に?」

 揶揄してやると、思いの外真面目な表情で彼は言った。

「いや、俺たち狭間の者は、自己の認識が曖昧になると同化しやすくなる。つまり、生に執着しなくなったり、自我が不安定になるとふわっと精神世界に同化しちまうみたいなんだよ。実際、俺の同士の何人かはそれでいなくなっちまったからなあ」

「そんな長すぎる第二の人生なんてまだまだ私には関係ないわよ。花の十代だもの」

「あっという間にばあちゃんだよ。ったく、人をじいさん扱いするなよ。こんなに若くてぴちぴちしてんのに」

 ふん、と鼻息荒く手を頭の後ろに組んで横になると、彼は今度こそ目を閉じた。穏やかな寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。私は、そばにあったジャケットを彼に掛けて、部屋を出た。


 杖をついて苦労して歩いていると、リネン類を抱えたレオと遭遇した。

「どうした、メランドリは」

「寝ているわ。クラウディオは?」

 レオは肩をすくめ、リネンを降ろした。ちょっと待っているよう言い残して、ばたばた去って行きばたばた戻ってくる。手にしたお盆の上に軽食が載っていた。

「彼はずっとものを口にしてないだろう。私が行っても部屋をあけてくれないんだが、お前ならあるいはな。頼めるか?」

「うん。もちろん。……ところで、レオ、手の調子は?」

 包帯が巻かれた両手は、露出している皮膚が一面もない。良くないことだけはわかる。

「早めに病院行かないと……」

「ああ。今晩を乗り切ってからな」

 アンバーの瞳につられ、外を見ると、太陽はほぼ没していた。いよいよだ。

 自分を見る。借りた杖をつかないとまともに歩くこともできない。これじゃあ、足手まといだ。ドナトーニ神父を取り返すために、何かするどころか、足を引っ張らないように結界の奥にこもっているくらいしかできはしない状態だ。己のふがいなさが、悔しい。

 しかも、私一人じゃ隠れる為の結界一つ張れもしないときた。

 深々とため息をつくと、レオの持ってきたリネンが目に入った。白く脱色してあるそれは、洗濯されて糊付けもされ、ぱりっとしている。清潔感たっぷりだ。

 昔はこういうシーツをかぶって、幽霊ごっこをして遊んだものだけど、まさかその幽霊のような化け物とやり合う羽目になろうとは、夢にも思わなかった。

(そう、夢にも……)

「それじゃあ、食事、頼んだぞ」

 リネンを抱え直すと、レオは私の肩を叩いて去っていこうとした。

 その背に呼びかける。

「レオ、ちょっとその布を貸してくれない?」


 お盆を片手にノックしたが、返事がなかった。試しにノブをひねると、ドアは静かに開いた。

「クラウディオ?」

 部屋には窓から斜陽が差し込み、オレンジの暖かな色彩を添えている。

 窓際にたたずんで、クラウディオはその外をじっと見つめていた。灰色の目は遠くを見ている。怪我をした背中は、シャツに隠れて見えないが、頬がこけてその疲れを代弁していた。疲れているはずなのだ、精神的にも肉体的にも。それでも休みを許されない状況にある。せめて食事はとってもらわねばならない。

 肩を叩くと、違う世界をさまよっていたような灰色の瞳が、ふっと焦点を私にあわせた。その視線の先に、お盆を差し出すと呆けたように口を開けて凝視する。

「ご飯。ずっと食べてくれないってレオが」

「……すっかり忘れていた。もらおう」

 パニーノとカフェ・コルト。本当に軽食だけ。テーブルにそれを運ぶと、クラウディオは黙々と食べ始めた。私は向かいの席に座って、その様を眺める。

 咀嚼の合間に、ふとあがった灰色の視線が私に転じられた。

「浮かない顔をしている。なにを心配しているんだ?」

 心配なことだらけよ、と笑ってはぐらかそうと思った。けれど、口は別のことをしゃべっていた。

「クラウディオって、この後どう生きていくとか、決めているの?」

「また突然難しいはなしだな」

 パニーノに噛み付いて、彼は少し眉根を寄せた。数秒、そうして悩んだ後、カフェをすすって手を休めた。

「正直な話、今は目の前の壁が大きすぎて、それを乗り越えないことにはな。だがそれが済んだからと言って、劇的に何かがかわるということはないだろう。体を元に戻して、いつか土に還ろうとするだけだ」

 思ったより、しっかりした答えに私は安心した。こんなことになってしまって、クラウディオはもっと落ち込んでいるかと思っていたのだ。けれど、彼の灰色の目は今、息子の遺骸を取り戻すことに燃えている。怒りが悲しみを紛らわせることもあるのだろう。

 彼の考えは、堅実で、私にも理解しやすい予想図だった。おそらく私もそういう人生を歩むのだろう。アレッシオやレオのように、何か一つに向かって茫洋とした時の流れを生きていくことは難しい。

「おまえはどうしたいんだ?」

「どうかしら。先のことはわからないわ。なによりまずは今晩を乗り切らなきゃ」

 クラウディオは渋面を作った。

「おまえはどこかに隠れているんだ。怪我しているし、なにかあったら……」

「アイディアがあるの。これがうまく行けば、形勢逆転よ」

 胡乱な目を向けられた。心外だわ。私ってば、まるでアレッシオ並に信頼がないみたい。

 そのとき、控えめなノックの音がした。

「失礼。熱いラテ・マッキァートはいかが」

 おずおずと顔をのぞかせたのは、お盆を手にしたレオだった。気を利かせてくれたのだろう。湯気の立つカップを受け取って、ついでにレオにも中に入ってもらう。

「体調はどうだ。あまり顔色が優れないが」

「万全とはいえないが、まあそれなりに」

 クラウディオとそんな言葉を交わして、彼は椅子に腰掛けた。ところで、膝は閉じた方がいいと思うの、シスター。

 気を取り直して、私は戸棚から紙とペンを取り出すと、紙面に聖堂の見取り図を描き始めた。

「イズミ、これは?」

「聖堂の見取り図」

「……それにしては横に長すぎないか? このムンクの『叫び』のようなものは、もしや聖母像か?」

「いいの。見取り図なの」

 どうしてそんな細かいことがきになるのかしら。美術関係の仕事をしているから? どうせ私は、美術は苦手で、万年『二』だったわよ。

「これから、今晩の作戦を話すわ。レオに手伝ってもらいたいことがあるの。お願いできるかしら」

 レオはクラウディオと顔を見合わせ、視線で何か会話下後に肩をすくめた。

「場合によってはだな。お前が危険なものなら、引き受けられない。クラウディオはともかく、イズミ、お前は足を怪我しているから万が一何かあったとき、逃げられないだろう」

「それはわかっているわ。でも、危険を避けていちゃなにもできない。とりあえず、説明してもいい?」

 二人がうなずくのを確認して、私はペンで大きく丸を描いた。

「まず、入り口に——」


 


 この教会になれ親しんだ人なら、かつての日常風景を思い出したかもしれない。穏和な老神父が、そっと扉から現れ聖堂に足を踏み入れたのだ。これからミサが始まると錯覚させる光景だった。

 しかし、老人がまとっていたのはキャソックではないし、またミサの始まる時間でもない。なにより彼はすでに死んでおり、——扉から浮き出るようにして現れるなどとてもまともではなかった。

 老神父は、そのまま聖堂の真ん中まで進んだが、ふと動きを止めた。ぎこちなさなど微塵もない動きで、形の崩れた右手を差し出した。

 激しいスパークが、暗い聖堂を一瞬まばゆく照らしだした。

 老神父は炭化した右手をしげしげと眺め、次いで聖堂の奥にたたずむ私たちに視線を転じた。

「なるほど、結界か。しかし今宵の吾には児戯に等しいもの。そらそこにほころびもある」

 ついと老神父が指さしたのは、たたずむ私たちの目の前、先日シャンデリアが落下して床が痛んでいる場所だった。シャンデリアの残骸はあらかた除去されたが、まだ細かいガラス片や骨格をなしていた金属部分、それに天井に吊していた太い鎖とケーブルはつながったままだ。

 それは、間に合わせに敷いた聖堂中央の結界のど真ん中に位置して、ふき取ったとはいえドナトーニ神父から流れた血の痕がまだかすかに残っていた。

 結界を張るには骨が折れた。掃除も大変だったのだ。聖水の量も限られている為に、ある細工をして必死に結界を張った。

「それよりあやつはどうした。おおかたそのあたりに潜んでいるのだろうが……。まあよい、そなたらを小突けば姿を現すだろう」

 クラウディオが、私の肩を強く抱いた。灰色の瞳が揺るぎない光を灯して、ドナトーニ神父の遺体を見つめている。私も胸の前で手を握って、恐怖を押し殺した。

 あの遺体さえ取り戻せれば、アレッシオとレオが自由に動ける。そうなれば、きっとなんとかできる。

 ドナトーニ神父は、首を軽く折って準備を終えると、炭化した右手を無造作に結界内につっこんだ。激しい光と音が聖堂内に満ちる。腕をかざして、私は目をかばった。肉の焦げるいやな臭いがたちこめている。

 小柄な影がずいと動いた。ひときわ激しく結界が光って、火がついた爆竹のようにぱんぱんぱんと床で破裂音が鳴った。結界が破れたのだ。

 老神父はにいっと笑って、そのまま足を使わず前に進み、シャンデリアの後ろにいた私に向けて、骨がはみ出た右手を差し出した。

「今よ!」

 私は叫ぶと同時に胸の前で握っていた手を引いた。勢い余って尻餅をつく。

 キュン、っと高い擦過音がして、暗闇に小さなきらめきが生まれる。同時に白い影が大きく広がりながら落下し、濡れた音をたてて神父に絡みつくと、頭からつま先までをすっぽり覆った。間髪入れず、その布がぎゅっとしめあげられる。

 捕らえられた老神父は、大きくもがいて濡れたリネンを引きはがそうともがくが——

「主よ!」

 甲高いヒールの音が響いた。尼僧服を翻したレオが、髪をなびかせ跳びざまに大きく足を開き、着地と同時に布にくるまれた遺体をまたいだ。

「不浄の者を清めたまえ!」

 ロザリオが押しつけられると、布の固まりがまばゆく輝いた。それに巻き付いている凧糸にも光が駆け抜ける。先端を手に巻き付けていた私の手のひらで光ははじけた。

 布の固まりはふつりと動きを止めて、静かになった。すかさずクラウディオが駆け寄って遺体を抱き起こし、奥まで退避する。

 安堵の表情でため息をつくと、彼は布の固まりに額をこすりつけていた。

 布をかぶっている限り、境界にはばまれて金ぴか野郎は神父様に手出しできないはずだ。これで一つ課題のクリアになった。

『なるほど、聖水をしみこませた小道具で罠をこしらえていたのか』

 聖堂に、耳障りな声がこだました。

 私は立ち上がって杖にすがる。

『そなたの案であろう。このようなものを作るのはあれの趣味ではない』

 声の方向が私のほうへ向いていた。

 金ぴかがどこにいるかは知らないけれど、きっと見えているのだろうと、虚空へ向けてあかんべしてやった。

 そう、私の案だ。即席の、いたずらに毛が生えたようなものだけど、それでも成功したんだから文句は言わせない。

 おばけごっこの要領で天井にセットした聖水じこみのリネンを遺体にかぶせ、同じく聖水にひたした凧糸を聖堂の内周に張り巡らせておいて、目標が接近したらあやとりの要領で締めあげる。そこにひとりかくれんぼしていたレオが結界を発動させるわけだ。

 これでも一応、保険はかけていた。糸は切れにくい太いものにしたし、二重に張ってクラウディオがもう片方を持っている。リネンも二枚用意してあった。

 結界を先に張っておくことで、それらの仕掛けに気づきにくいようにしておいたし、壊れたシャンデリアを残しておくことでレオが共有状態で隠れる場所を確保した。

 それが奴の油断を誘うことになるとは思えなかったけれど、なるほどほかの狭間の者より人間に近いと言うだけあって、慢心もあったということか。

「これで一番の心配ごとは解消したというわけだ。イズミ、三人とも奥で伏せていろ」

 魅惑の太ももから双刃を引き出すと、レオがアンバーの瞳を鋭くして言った。

 クラウディオはうなずいて布の固まりを担いで踵を返す。私もそれに従いかけたが——

「くっ!」

 苦しげな声が聞こえて、思わず足を止める。振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。

 四方から延びた金色の槍が、レオの両腕両脚を貫いて、虫の標本のように空中につなぎ止めていた。双刃を手から離し、彼は必死に槍を引き抜こうとするが、びくともしない。

「来るな!」

「待て、イズミ!」

 制止の声を無視して、私はベルトにねじ込んでいたベレッタを引き抜き、ロックを外すと、金色の槍にゼロ距離から撃ち込んだ。二発の銃声が轟くと、残り二本の槍は虚空に消えた。その姿はあざ笑う蛇のようにも見えた。

 膝をついたレオに駆け寄り、出血をつづける患部にハンカチを当てる。レオは双刃を杖に立ち上がろうとしたが、しくじって床に手をついた。

『そなたはあやつの旧き友。あやつも見捨てられまい』

「友ではない!」

「どうしてそんなに人質に執着するわけっ」

 私とレオがめいめい怒鳴ると、返事のように、金の槍が虚空から飛来した。右上、左上、正面、頭上、それから左下。飽和攻撃に慄然とする。

「ぐっ!」

 視界が黒く染まったと同時に、短い悲鳴が頭上から降ってきた。私をかばって、レオが身を伏せたのだ。反射的に彼の背に回した手に、ぬるりとした感触がある。

 彼を貫いた金の槍は、するすると引いて再び消えた。

 単なる壁ぬけなら、こんなふうに多角的な攻撃はできない。まるで建物ひとつと同化し取り込んだよう。これが新月の力、境界が曖昧になる日なのか。それにしても、こいつの能力は他の狭間の者を超越している。アレッシオとの同化率の問題なのかしら。それとも、召喚されたときの基礎能力が違うとでもいうのかしら。

「いい加減にしなさいよ! そんなにアレッシオが好きならさっさとあいつに同化されちゃいなさい」

 強いことを言っても、声が震えていては様にならない。

 悪いことに、第三撃を予見させる槍の刃先が虚空に見えていた。上段、中段、下段にずらりと私たちをとりかこむ槍は、ねらいを定めて回っている。

 昔、樽の上から刺しまくったおもちゃの海賊の心中を察する思いだ。

 なんの予告もなく、槍が突き出された。私にできることといえば、レオをかばって身を伏せることだけだ。

「止めろっ」

 クラウディオの叫び声が、遠く聞こえた。

 背に、何本もの凶器が突き刺さる痛みが走った。

 金の槍は肉を穿ち骨に牙をたてる——しかしいつになってもその衝撃はこない。

 うっすら目を開くと、眼前に誰かの脚があった。

「ふう、ぎりぎりだったな」

「どこがよ! ちょっと刺さっているじゃない」

 アレッシオは、人の悪い笑みを浮かべると「ハリネズミみたいだ」と感想を述べた。

 彼の手にした古めかしいサーベルが弧を描くと、私の背に刺さっていた金色の槍の残骸はばらばらと床にたたき落とされ、消え去った。

 痛む背中をかばいながら身を起こす。

 突如、アレッシオが、私の下で青い顔をしているレオの美しい顔をつま先でこづいた。

「おいおい。スタミナ自慢がどうしたよ。お前刺されっぱなしだな。それとも女になると、そっちのがよくなるのかよ」

「そういう下品な冗談は嫌いだ」

 まるで地獄の門番のような声を絞り出し、レオが身を起こした。壮絶な顔色だ。失血が多すぎる。出血と痛みに強い女性体でなければ、体が先にだめになっていただろう。

「さて、真打ち登場だ。こいつを取りに行っていて遅くなっちまったが、まだメインディッシュには間に合うよな」

 くるりと手の内で回ったサーベルが、聖堂の虚空にかざされた。

「あなた、そんなの取りに行っていたの? 急にいなくなったと思ったらそれ? 信じられないわ。せめて、一言残しなさいよ。団体行動って言葉知らないの?」

 アレッシオは私の非難の声なんて取り合わないで、獲物を狙う狩人の顔つきで剣を構えている。その背に背をあわせ、レオも両手で双刃を構えた。

 確かに、点で衝いてくる槍を銃でどうにかするより、刃物で薙払うほうが易しいけれど、それでも達人の域だ。

 私の心配をよそに、背を預けあった二人に向けて金色の槍が殺到した。申し合わせたように同じタイミングで飛び出した二人はそれぞれの得物で迫る槍を払い落とす。

 本数が多い槍は、その分細くなり強度が低いようだ。叩き折られた金の槍が、二人の剣士の肌や衣服に触れるととたんに淡く発光して消える。

 華麗な剣舞の一幕のよう。しかし、実際は死闘だ。

 すぐに、限界のきたレオが膝をついてしまった。蒼白の顔に汗を流し、小刻みにふるえている。出血量が多すぎるのだ。

 彼の後頭部を狙って、金の槍が突き出される。

「レオ!」

 槍が半ばで折れ、アレッシオがそれを空中で握りこむ。槍は淡雪のように消えた。

 得物を水平に構えた、アレッシオが不適に笑って何かスラングを舌に乗せた。傷が開いたのか彼のシャツには血のシミがひろがり、やはりこちらも長くはもたない。

 何か、何か手がないか。私はせわしなく視線をさまよわせた。

 半壊した壁、穴のあいた天井、壊れたシャンデリア、御子の像……。

 背中のちりちりする痛みが集中を妨げ、余計に焦る。

「イズミ、こっちへ来るんだ」

 突然肩を強く引っ張られ耳元で声がし、私は身を震わせた。クラウディオだった。

 戦火を避けて、御子像のところまで神父様の遺体を運び終えたらしい。彼は有無を言わさず私を担ぎ上げようとした。

 クラウディオの手に、何か細長いものが巻き付けてあった。それを手放すことまで頭を回す余裕がなかったのだろう。

 それを見た瞬間、脳裏に電流が走った。

「クラウディオ!」

 説明するももどかしい。したところで止められる。万一止められることはなくても、この足では走れない。

 躊躇したのは一瞬だった。

 私はそのままクラウディオの頭をつかむと、ほとんど頭突きするように額をあわせた。グレイの瞳が驚きに見開かれているのが見えた。

 頭突きのせいか、それとも共有のせいか。

 激しいめまいと頭痛が走る。それに流されないよう、脳裏に強く描いた。一本の糸が聖堂内をかけめぐるビジョンを。

 頭を離したとき驚きに硬直していたグレイの瞳に光が宿ったように見えた。

 伝わった。そう確信した。

 クラウディオが走り出した。

 槍は、アレッシオとレオを嬲るのに夢中で、走る彼に気づかない。いや、興味がないのだろう。クラウディオが二人の前を横切ったときですら、攻撃は二人にしか向けられなかった。信じられない僥倖だった。まるで、ドナトーニ神父が守護してくれているように思えた。

 私は、手中のものの頼りない感触を見失わないように、ぎゅっと握りしめて、這って進んだ。目指す御子像にたどり着くと、その時まさにアレッシオとレオにめがけて、頭上から剣山のような針山が降る瞬間だった。そして、クラウディオがその手を細い命綱からはずす瞬間だった。

 私の指先——予備の凧糸をからめた血と埃にまみれたが布をかぶったドナトーニ神父の遺骸に触れた。

 激しい雷光が聖堂に満ちた。

 予備の凧糸を回路とし、すでに完成していた遺体の結界を電源として、新たに聖堂の内周に沿った結界を発生させたのだ。遺体を始点と終点にした円形の結界が発生している。

 今にもアレッシオとレオに触れようとしていた針山が、凧糸を回していた私の胸あたりの高さで寸断されて巨大な円錐となった。

 それは跳ね飛んで空中ではじけとぶか、二人の戦士に同化される……はずだった。

 まさか、アメーバのように体を広げて結界すら突き破り、アレッシオに被さるとは思わなかったのだ。

「アレッシオ!」

 一瞬で、アレッシオの上に降り注いだ金色のアメーバは二秒の後には、長身の彼を飲み込んでいた。

 目に見えてその大きさが縮小し、ひと抱えほどの玉になった。

 凧糸の結界は足下で弱々しく明滅しているだけだ。

「くっ」

 レオが大きく双刃を振り回すが、玉は空中をふわりと浮いて避けた。

 球体の表面がゆがんだかと思うと、見覚えのある疲れた中年男の顔が現れた。

『そなたに礼を言おう。娘よ。これで吾の目的は達した』

「うるさいっ」

 わざわざついっとこちらに寄ってきてよけいなことを言う。嫌みだ。アレッシオ並に腹が立つ。そのアレッシオが大人しく同化されたということが一番腹立たしかった。

(えらそうに、時代を俯瞰しているふりをして年代記なんかこさえているくせに!)

 そんな怒りに任せて、私は拾い上げた杖で球体になぐりかかった。怪我をした足がすべって前のめりになる。

「い、イズミ!」

 クラウディオが腕を伸ばすが間に合わない。私は勢いのまま球体に飲み込まれてしまった。


 

 ぬるい湯に浸かっているような気分だった。

 無重力空間というのはこんな感じかしら。極彩色の上も下もない空間に私は座っていた。

 はっとして自分の両手を見る。そして安堵した。大丈夫、ちゃんとまだ『私』だった。『私』の境界線は残っている。同化したりしてない。

 私はあの金ぴかに取り込まれてしまったのだろう。でもまだ完全には同化されていない。

 それにしても、気持ちの悪い場所。水に油膜が張っているように移り変わる色に目が回りそう。ここでうっかり自分を見失ったら、きっとこの流れに溶け込んでしまうのだろう。

 まわりを見回すと、窓のようにぽっかり開いた部分を見つけた。のぞき込んでみる。

「アレッシオっ」

 見覚えのある金色頭が見えた。身を乗り出すと、ぐいと引力が働いて、私はその窓の中に落ちた。

「きゃっ」

 尻をさすりながら立ち上がる。ぼんやりと立っているアレッシオがいた。

「なにをぼんやりとしているの! こんなところ、早く出ないと」

 しかし、アレッシオのヘーゼルの瞳は私を見ない。虚空を見つめている。焦燥に駆られて、その腕をつかんで揺すったが、

「なにっ?」

 ずぶずぶと、まるで境界を失ったように私の手がアレッシオの腕にめりこんだ。

 ぞっとして手を放そうとしたが、それより早く腕を伝って脳髄がしびれるほどの強烈な感情が流れ込んできた。


 ——怖い、怖い、怖い!

 何か大きな黒い影が迫ってくる。

 ——痛い、痛い、痛い!

 刺された脇腹、くるぶし、背中。

 ——寂しい、寂しい、寂しい……。

 両親の笑顔、老神父の優しい声、終わりの見えない未来。

 ——つらい、重たい、苦しい……!

 残された思い、命、自分という存在。


 そして残された、かすかな安寧。


 どっと押し寄せたとても受け止めきれない波は、ちかちかと幻像を見せる。あまりの重みに私は膝をついた。脳裏にコントラストの強い映像が広がる。


 くるくるまわる仮面の色の波。ドレス姿の少女が面を差し出して微笑む。私がそれを受け取ると突如現れた金色の人が、部屋中に烈風を巻き起こし、人がなぎ倒されていった。

 飛び散る血しぶきに目を背けると、その先にうつろな目をした老神父の姿があった。腹部に大穴を開けて、ただ淡々と祈りの言葉を口ずさんでいる。その横にずらりとならんだキャソックの群れは、飽き飽きした顔で高説を聞く振りをしている。降ってくる声は、爆音に変わった。

 赤と黒の爆風が視界を占領する。肌に熱が叩きつけられ、体が宙を舞う。次々と降って来る雨のような爆弾の動きが、妙にゆっくりになった。黒光りする爆弾にまぎれて軍服を纏った女が、ふわりと空から降りてくる。それは故郷に残してきた妻だ。息子とともに自分の帰りを待っているはずの妻がなぜここにいるのか。わからないが、彼は手を伸ばす。遺体だらけの戦場に、女神が舞い降りる。

 豪奢で厳かな宗教画に囲まれた部屋の床に何人もの影が伸びている。それは中心の彼らを囲む聖職者らの円陣だ。彼はキャソックの群れの視線を意識しながら、向かい合った男に問う。お前は悪魔と契約したのか、と。男はおびえた様子で、いいえ違います女神にめぐり合いました、と答えた。素朴な顔立ちの男は、ただの農夫だ。しかし疑いがあった。魔女と通じ合ったという疑いが。彼は再び問う。その女は何か怪しい技を使わなかったか。男は答える。女神様は俺に祝福をくださいました。周りのキャソックの群れが、十字を切る。彼もそれに倣った。引っ立てられた男は怯えた悲鳴をあげて彼のキャソックにすがった。屠殺される前の子牛に似ている。彼の胸に小さな痛みが走る。それこそ悪魔に付け入られる隙だと、心を戒めた。キャソックの端が破れる音がした。悲鳴と絡んで音が響く。


 目を開けると私の手の輪郭が揺らいでアレッシオの腕にとけ込んでいた。荒い息のリズムを無理やり深呼吸で整えて、強く自分の腕を意識する。

 私の手はこんな形。私の手はこんな色。爪の形。爪の色。小さなころ鉛筆を刺してしまって、残ってしまった傷跡の位置。

 すると、私の手は彼の腕からぐっと押し出された。額に浮いた汗を手の甲でぬぐって、彼から一歩離れる。アレッシオは依然としてその場に立ち竦んでいる。

 今のは、アレッシオの心中? 記憶と感情の波? それにしては一貫性のない映像だったし、流れ込んでくる彼の感情は、これがあの自信家のものかと思うほど不安定でおびえていた。

 入り乱れた映像には、気になる部分があった。明らかに戦場、しかも近代の戦場とわかる映像と、まるで裁判のような映像。あれは、クラウディオとレオの記憶なのではないだろうか。クラウディオは刻印を受けたのは戦場だったと言っていたし、レオは異端審問を行っていた。それがまるでアレッシオ自身が体験したように主観で鮮明だったのは、彼が二人と記憶を共有したからに違いない。

 アレッシオのヘーゼルの瞳を見つめる。焦点があっていないそれはいつになく頼りなく、まるで彼がただの人であるかのように錯覚させる。途方も無い時間と記憶、それから処理しきれない感情に飲み込まれて茫然と立ちすくんでいる迷子。

 いや、アレッシオもやはり、人なのだろう。

 何年生きようが、何年神を追及しようが、体が狭間の者だったとしても彼は人だ。

 痛みに、未来に、自分に。口には出さずとも、彼も怖いのだ。いつか自分が揺らいで、精神世界に溶けていってしまうことが。己を失うことが。それを必死にほかのことで押し込めて、余裕のある振りをしてきた。それはあまりに人間らしくないか。己をよく知るレオを、わざと泳がせているのもそのせいに違いない。

 自分を見失うこと——同化してしまうこと。

 それを恐れているくせに、なぜ今彼は同化しつつあるのかしら。

 心地よいから。痛みすら、同化してしまえば己だけの苦しみではなくなる。薄まった自我には、痛みはなんの意味もない。

(でも、そんなのらしくない)

 高いところにあるヘーゼルの宝石をにらみつけた。ぼやっとしている宝石は、美しいと思えなかった。あの生気がみなぎった強さこそ、この目にふさわしい。それを取り戻すために、私ができることが一つだけあった。

 腕を回して、強く抱きしめる。

 めりこみ始めた皮膚に向けて、強く、強く強く念じた。

「私、あなたなんかと同化したくない。私の歴史は私のもの。あなたの歴史はあなたのものよ。ちゃんと死んでピリオドが打たれるまで、絶対に放棄しちゃいけないわ」

 またあの映像が頭の中に広がる。共有部分を強く意識する。

 共有できるのは体と記憶だけじゃない。感情だって共有できるはずだ。

「それともあの金ぴかに全部譲っていいと思うの」

 ぴくりと、解け合った部分が脈動した気がした。

「今まで積み上げてきたものを簡単に放棄しちゃうような男なの、あなた」

 そうじゃないだろう。アレッシオは誰よりもそんな人間じゃない。

 私の思いを否定するように、共有部分が押し返される。私はとにかくその力に逆らった。反対にアレッシオを取り込むイメージ。私の気持ちが伝わるように。

 しかしそれは共有状態を維持することより難しかった。レオが言っていたことの意味が今ならわかる。同化によって自分が相手を取り込みながら戦うのは難しい。体中で、異物が暴れまわるのは、身体的な痛みではない苦痛が伴った。血管中を砂が流れているみたい。

 強制的に思考が散漫となる。ばらばらになりそうな意識をやっとの思いで繋ぎとめて、私は叫んだ。

「年代記も完成させないで、レオとの決着もつけないで、私のこと守るって言ったのも忘れて、神様探しすら捨てちゃうの? そんなダサい男なの、アレッシオ・メランドリっ」

 だめかもしれない。

 アレッシオはぴくりともしない。

 私の意識は限界だ。体もぐずぐずになって、自分の——自分がよく思い出せない。

 私の中のアレッシオが、叫んでいる。長い長い苦しみから解放されることを喜んでいる。泣きながら喜んでいる。嬉しいのに悲しい。私は彼に問いかける。ようやく終わることが嬉しいのね。それなら何が悲しいの。神様に会いたかったの? 会えないから、悲しいの?

 彼が、……頷いたような気がした。


 ——救われたいと願うこと。それが神の存在そのもの——

(かみさま、ちゃんとみつけていたくせにそれもわすれちゃうの……)


 意識が、白い粒となって弾ける瞬間、ヘーゼルの残像を見た。


 蝶は羽化するとき、こんな気持ちなのだろうか。背筋が歓喜でふるえるような解放感。それはすぐ背筋がぞわっとする浮遊感に変わった。そして硬いものに叩きつけられた衝撃。

 驚愕の表情のレオとクラウディオが目に入った。

 私は埃まみれの床に這いつくばっていた。全身の感覚が鈍い。同じ体勢のアレッシオが隣にいる。彼の両目はしっかり開かれ、いつになく輝いていた。そこに、金色のすさまじい光が差し込んだ。ヘーゼルの目が黄金に染まる。

 金色の蛹が浮いていた。それがあの金ぴかの姿だとすぐにわかった。

『おおおおぉぉおおおぉっ』

 その金ぴかの蛹は、背中が裂けていた。身悶えする体の内は、共有のときに見られるあの極彩色の色の洪水だ。体液は一滴もこぼれないが、あふれる光によって、そいつの力が傷口から流れ出しているのがわかった。

 ここで、こいつとの決着をつけなければ。確信を持って、四つん這いで床に転がっていたベレッタに手を伸ばす。金色の針が邪魔をするように、私の手の甲めがけて伸びる。だが目に見えてそれは遅くなっていた。

 横合いから投げられたレオの剣の片割れが、旋回しながらそれを切りとばす。しかし、切り口から木の枝のようにもう一本の槍が生まれ、ベレッタを弾き飛ばした。

「イズミ! 受け取れ!」

 全力で駆け込んだクラウディオが、スライディングをしながら私に向かって拳銃を滑らせる。ベレッタを弾いた槍が彼の頬をかすめ、空中に小さな血の珠を飛散させた。

 私はいつになく落ち着いた気持ちで、手の内の銃を金ぴかに向けていた。

 トリガーは、あの日、あのアレッシオに攫われた夜ほど重くない。

 弾丸が、吐き出される。

 音が耳に届くたび、金色のさなぎの表面にひびが入った。硝子に小石をぶつけたように。

『おのれ、おのれっ……!』

 耳が痛くなるような怨嗟の声。

 トリガーが軽くなる。弾切れだ。渾身の力で、銃本体を金ぴかに投げつけてやる。

「おう、さっきまでの勢いはどうしたよ、半身様。それともやっぱり昼間じゃ、俺達には敵わねえか?」

 ゆらり、とアレッシオが立ち上がっていた。その手には、なぜか、私の杖。

「ちょ、それ、私の」

『吾の、われの、はん、しんっ』

 再び彼を取り込もうというのか。蛹の口ががばりと開いた。

「残念。次の新月まで、お預けだ!」

 どこの野球選手だろう。ジャケットの袖を肘までたくしあげたアレッシオは、思いっきり杖を振りかぶると、迫っていた金色のアメーバを打ち据えた。

 固いものが砕ける音が聖堂内に響く。

『ああああああああああああああああああああああああああああああ』

 耳が痛くなるような絶叫を残して、金色のさなぎは虚空に霧散した。

 その欠片は、黎明の陽光を浴びると、まるでダイヤモンドのようにきらきらと輝いた。そしてすうっと透明になり、消えた。

 その様を、私は這い蹲ったまま眺めていた。

 陽光が、どんどん強くなっていく。

 長い新月の夜が明けようとしていた。

「どーにか、退けたな」

「そのようね」

 アレッシオは、どさりと腰を下ろした。うつぶせの私に向けて、杖を放ってくる。小汚いといいたくなるほど、満身創痍だ。私も、彼も。そして、他の二人も。

「イズミ! 無事だったのか。よかった……!」

「メランドリ、相変わらずしぶといな。そのまま召されてしまえばよかったのだ」

 駆け寄ってきた二人に、温かな言葉をもらい、もみくちゃにされた。……痛い。

 アレッシオと顔を見合わせると、笑みと安堵の息が同時に漏れた。

「焦ったわ、とても。だって、あなた、存外簡単に同化されそうになっているんだもの」

「いやいやいやいや。俺は抵抗してたぞ、激しく。そりゃもう全力で」

「ふうん……。否定はしないけれど……。アレッシオって、意外とナイーブだったのね」

 いつもからかわれているので、意趣返しだ。これが思いのほか効果が大きかった。

「俺がナイーブ? 違うね、イズミがガサツなんだ。おい、クラウディオ、信じられるか? こいつ、俺がダサいから同化したくないとか酷いこと言うんだぜ」

 両手をついて脱力して座っていたクラウディオだが、アレッシオに話かけられると片方の眉をつりあげた。

「あたりまえだ。なぜ、お前とイズミが同化しなければならない」

「あーあーあーあー! 俺、知ってる。これ、中国じゃあ『四面楚歌』って言うんだぜ」

「よく知っているじゃない」

 くすりと笑うと、アレッシオは憮然とした顔で肩をすくめ、首を振った。血を吸った髪がぱさぱさと音をたてる。

「そういえば。私達、どうして出てこられたの? もう、駄目かと思ったのに」

 問うと、彼は驚いた顔をした。

「覚えてねえのか、あんた」

「何を?」

「……はあ。ま、そんなもんかな。俺としては、結構感動の瞬間だったんだけど」

 少し落胆したような、安堵したような顔でアレッシオは、聖母のステンドグラスをながめた。こぼれる色とりどりの光が美しい。

「神は、いるもんだぞ、イズミ。少なくとも、今回は助けに来てくれた」

「意味不明……。大丈夫? やっぱり具合悪い? 頭も打った?」

 すると、アレッシオは流石にかちんときたのか、口元に意地悪な笑みを浮かべて私の額を指で弾いた。ばちんとものすごい音がした。衝撃も十分。

「い、痛い! 何するの!」

「これから何年経ってもあんたと同化するのは勘弁だな。あんな朝寝坊の子供をたたき起こすような、ロマンのない助け方、あんまりだ」

「それはこっちのせりふよ。ふつう、こういうのって、ピンチに陥ったプリンセスをヒーローが格好よく助けるものでしょう。逆じゃない!」

「恋愛小説の読みすぎじゃねえの」

「歴史小説ばかり読むなって言ったの、誰」

「おおっと、そうだった。せいぜい俺の本を熟読して、勉強してればいいさ」

「なんであなたの本なのよ。言っとくけれどね、私の敬愛するチャンはね、あなたみたいなちゃらんぽらんじゃなくて、奥深い歴史観と見てきたようなリアリティ溢れる描写の、……見てきたような……、……え、うそ、まさか?」

「やっぱり、お前ってばっかだよなー。今頃気づいてやんのー」

 せせら笑うその横腹に蹴りをかましてやる。

 痛がるアレッシオは見ものだが、自分も怪我に響いてうずくまるはめになった。

 なみだ目でにらみ合い、同時にそっぽをむく。

「……ところで、そろそろ救急車を呼ばないと、彼、死ぬぞ」

 クラウディオの言葉に振り返ると、大の字で倒れたレオがいた。完全に意識がない。

 さっきから静かだと思ったら……!

「アレッシオ、携帯電話!」

「放っとけ、そんなの」

「いいから、寄越しなさいよ! そうじゃないと、あなたがチャンだって触れ回ってやるんだから!」

「あーもうわかったよ! 絶対言うなよ!」

「イズミ、ほら、ハンカチだ。変な菌がついていたら困るから、包みなさい」

「おいおいおいおいそれ、酷くない?」

「ああもう、うるさい! とにかく、レオっ、しっかり!」


 そして、日が昇り、慌しく一日が始まった。



「あらそう。それじゃあクラウディオが仕事している間、一人なの? もしなんだったらうちに来る?」

「いえ、一人で大丈夫です。出張といっても一月ですから」

 私は磨きあげたグラスを、棚に戻した。マスターはバックヤードからお酒を卸している最中だ。

 最近、常連になったこのオクタヴィアは潔いベリーショートの黒髪がよく似合う、フリーのジャーナリストだ。クラウディオが仕事帰りに〈ルーチェ〉に連れてきて、以来たびたび遊びに来てくれる。

 彼女は、グラスに残ったチェリーを口に放り込んで、言った。

「しっかし、不幸続きよね。南区でたった一つの教会が半壊して、神父様が亡くなったでしょ? その神父様を含めて遺体泥棒に遭った人たちはたくさんいるけど、結局犯人は捕まらないし。遺体だって神父様だけじゃない戻ってきたのは。やっぱり普段の行いって大切なのかしら。神父様の後を引き継いだ美人シスターもそう言っていたし……」

 相次いだ遺体泥棒に関する記事を書いていた彼女は、小首を傾げた。

 私は、心の中で彼女に話しかける。

(大丈夫、新月になればまた出てくるから。嫌でも)

「ところでさ、遺体安置所で遺体泥棒が出たとき、あなたケータリングに行っていたんでしょ? もしかして、現場を見たりしてない?」

 シャツの胸ポケットからさっとペンを取りだして、あっと言う間に聞き込みの体勢に入る。

 さてどう言い逃れよう。グラス片手に困っていると、ドアベルが新客の入場を告げた。

「いらっしゃいませ。お席はカウンターでよろしいですね」

 客は唇の端をつり上げると、オクタヴィアの隣に座った。

 派手な出で立ちの新客を見て、オクタヴィアは顔をしかめた。私に視線で「危ない客よ」と忠告してくれる。きっと、新客のジャケットの内側から凶器の柄も見えているのだろう。

 けれど私はなに食わぬ顔で尋ねた。

「お飲物はなにがよろしいでしょう」

「飲み物より先に飯」

「メニューはいかがいたします? パスタにピッツァ……、それとも、いつもの?」

 ケチャップがハートを描いたオムレツを指さすと、シャンパンゴールドのシャツに黒のダウンジャケットを着込んだ客は、

「もちろん、いつもの」

 赤黒く汚れたユーロ硬貨をぶちまけて、笑った。

(了)

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