第7夜
古いフィルムを再生しているように、ノイズが走り、全ての像が色褪せて見える。
男が、うずくまっていた。一人だった。
がらんとした部屋は聖堂だろうか。御子が十字を背負っている像が壁にかかり、床にはそれを照らし出すように無数の蝋燭が立てられている。
彼は目深にかぶったフードの下で、ぶつぶつつぶやいている。ラテン語のバイブルだ。彼の主を求める心が、たどり着いた最後の砦だった。
(どうして、こうなった)
答えは既に出ていた。皇帝より授かった聖なる職務。単純に誇らしく思えた期間は過ぎた。裏にある、汚れた因果から目を背けることはもうできない。つまり彼は傀儡だった。
血筋と、金。その二つが司教という位への必要条件で、信仰はなくてもよかったのだ。
妻帯する者、己の落胤を甥や姪と偽って養い財産を継がせる者、権威と金との執着。皇帝に任命された司教たちの醜さはもはや目を逸らせぬところまできている。
そして彼にも、そういった輩とのしがらみがついてまわった。
(私の祈りが届きましたら、不浄のこの身を堕としたまえ)
(主よ、おわしましたら、光を……)
(主よ! ……いらっしゃらないのですか)
血を吐くような祈りは、彼に一つの決意を与えた。
(主の、存在をたしかめなければ)
仮説を立証する科学者とよく似た、冷静で整然とした思考だった。主に呼びかけても答えがないなら、逆説でその存在を主張できないだろうか。
召還するのだ、——悪魔を。
思い立ったら早かった。それが許されぬことだと、禁忌だということはわかっていた。だが、そんなことは些事である。存在が証明できれば、それでいい。
——そして、彼は石造りの部屋の扉を開いた。
逃亡は何年及んだろう。疲れきって、彼は教会の門を叩いた。旅人風の彼を、神父は快く出迎え、一晩の宿を与えた。彼が教会に追われる身だとも知らず。
人の捌けた聖堂で、祈るでもなく懺悔するでもなく、彼は聖母の像と向き合っていた。迷子のように、物言わぬ聖母に問いかける。
(神は、己は何者なのだ)
あの日から、何度も襲ってきた異形の者たちを定義づけようとすればするほど、その二つの形が曖昧になっていく。
己が人というカテゴリからはずれてしまったことには、気付き始めていた。既に二度、物質を透過している。それを意識的にしたり、どうやったか説明したりはできないが、己に起きた異変を認めるには十分だ。それにあれから二十余年が過ぎたが、驚いたことに心身の衰えが感じられない。本当ならば、既に五十に手が届くだろう年齢なのに。
己と、異形と、神。それらが混在する状態をどう理解すればいいのだろう。そのすべてに共通項があり、しかし完全に同一ではなかった。どれも人とは違うものであるが、己は神たりえぬし、また異形とも少し違う。あの異形が神であるわけもない。なにせ神というのは、この世界に遍く存在していて、決して召還の儀に応じたりしない。魔術などをもってして、人間が顕現させるなんて、貶めるようなことができるような領域にはそもそも存在してないのだ。
三つのうち一つを取り出してカテゴライズすると、ほか二つの説明ができなくなる。
思考の袋小路に追いつめられながらも、考えることを放棄できないのは彼の性質がひたすらに真実を求めるものだからかもしれない。悲痛な顔で聖母像の前に額衝いても、いらえはあるはずもなかった。
彼は、また部屋に閉じこもっていた。壁には聖なる言葉を記した護符を張り、結界を作っている。これがある限り、安全である。月の盈虧にあわせて襲ってくる、あの不気味な者たちは聖域には進入できない。長年の経験から学んだことだった。果たして、その結界の威力が一向に答えをくれない主の御稜威かどうかはわからないが。
目蓋の裏に、忘れ得ぬ美しい金色の姿がよみがえる。何度か、あれとも再会している。その度に、危険で恐ろしい目にあった。負傷することもあったが、それよりも痛く恐ろしいのは、触れられることだった。あの金色のものに触れられると、その部分にぽっかり穴が開いたようになる。食われているのだ。だが、不思議なことに、触れられてもそうならないときがある。「嫌だ」と強い拒絶の心を持ったときにそれは起こるようだった。不意を衝かれて食われたときはだめなのだ。
面白いことに、あの金色の者に体の一部を持っていかれるごとに、あの美しい彫刻のような顔が老いた男の顔になっていく。引き換えに、彼の容貌はまるで命を吹き込まれた彫像のように変化してきた。
彼は仮説を立てた。これは食われているのではないのかもしれない。自分と相手は、肉体の一部を同化しているのではないだろうか。共有し、奪い取り、自分のものにする。能力の高い方が勝ち取れる。その能力とは——。もうすぐその結論が出そうである。
あれから何年が経過したろう。正確な年数はわからない。もはや自分という男が、この部屋に隠れるように住み着いている理由を知っている者はいまい。それは都合がよかった。時間はいくらでもある。彼は、自分が自分に与えた最大の疑問に立ち向かうために、そのためだけに生きていた。
神は、存在するのだろうか。今までは疑うことすら禁じられてきた。
しかし、時の流れによって、禁忌は揺らぎつつある。
彼は本を閉じた。その本の下敷きになっている紙切れに、最近密かに話をした男の名前が記載されている。その対話は、彼に大きな転機をもたらした。再度の対談の予定をここに書き留めてある。
顔を上げると、埃がこびりつき曇ってしまった窓のむこうに、激しく口論しあう男たちがいる。片方は、服装から聖職者であることがわかった。
教会前での大騒ぎに、野次馬の垣は何重にもなっている。男らはたかだか紙切れの存在について争っているのだった。
彼はその様を、目を細めて見やり、手元にあった紙切れを指先で弄んでいた。
——神の存在の有無がわかるとき、あの金色の者に勝つための秘密もわかるだろう。
目蓋を少し開くと、白っぽい天井に明かりが灯っていた。喉がからからで、体が重たい。頭痛と目眩がひどくて、まだ夢の中を彷徨っているのかと思うほどだった。
「ああ、起きたのか」
まどろんでいるとドアが開いて、聞き覚えのある声がした。レオの声だ。
上半身を起こそうとすると、彼が手伝ってくれた。
見覚えのない、小さな部屋だ。古いタンスと、机と椅子、装飾品のたぐいは出窓におかれた小さな花瓶とそのなかの野花だけ。
「ここは?」
「女子寄宿舎だ」
レースのカーテンの向こうに、ほとんど糸のような月が見えた。まだ、夜だ。私の視線に気づいたのだろう。水を注いだコップをレオがくれた。
「お前、丸一日眠っていたぞ。何度か便所には行ったんだが、覚えてないか」
「覚えてない……」
長い夢を見ていた気がする。古くて、映画のような現実感がない夢。なのに、「彼」に自分がよく同調する夢。
そこで私は気づいた。夢のストーリーは全て覚えているというのに、なぜか彼の顔が思い出せない。
「私は今から行くところがある。ここには結界もあるし、お前はゆっくり休め」
「どこへ? 昨日、あれからどうなったの?」
レオが視線を逸らした。
いまいち記憶がはっきりしない。天井から床に落ちたときまではぼんやり覚えているのだが。
はっとして、手で自分の腹をまさぐった。無傷だった。たしかに、あの金色のやつに刺されたはずなのに。二箇所も。
「メランドリだ。お前の怪我の箇所を共有して、それを引き受けたんだろう」
「そんなテクニックもあるの。……ということは、お腹の一部がアレッシオのものなの? ちょっとぞっとしないわ」
見た目には、とくに変化はない。アレッシオは、あのときとっさに私と共有状態になっていたのか。そして、彼の一部が体内にある。だからあの夢を——?
「どうした、難しい顔して」
「レオ、紙とペンはない?」
差し出されたメモ帳に、ボールペンで文字を書きつづった。
「これ、誰か知っている?」
「Luther? 九十五箇条の抗議書のか? 彼がどうしたんだ?」
「ううん、ちょっと」
ルター。授業でちょっとだけその名前を聞いていた。堕落した教会に抗議書をたたきつけた人。大学の教授だったかしら。
ロレンツォの著書にも幾度か出てきた。彼のおかげで客観的な信仰から主観的な信仰への民衆意識の移行がなされた。堕落した教会を捨て、内なる確かな信仰こそが求められる時代を切り開いたのだ。
夢の中の「彼」は、ルターとの対談を心待ちにしていた。長年煩悶していた心中の影との戦いに、光明をもたらしてくれると信じて。
「……レオってさ、アレッシオを倒したらどうするの?」
着替えているレオに問いかけると、彼は虚を突かれたようにぽかんとした。
「どうって……。あまり考えたことはなかったな。どうした、イズミ」
「永遠に生きていたいとか思う?」
「いや。そう積極的な執着はないな」
「じゃあ、狭間の者と同化しちゃう?」
「それはごめんだな。できれば、この体をマリアとして土に還してやりたい」
「……そっか」
「イズミ? どうした」
レオは心配そうに私の顔を覗き込んできた。何を言い出すのだという顔だ。無理もない。私自身、何故こんなことを口走っているのか、よくわからない。けれど、口は止まらない。
「私、狭間の者と同化して、自分の存在がなくなっちゃうって聞いて、すごくそれが嫌だった。きちんと自分として死にたいって。でも、それって死にたいっていうんじゃなくて、存在がなくなることが嫌だっていう意味で——存在しなくなるって、どういうことだろうって思って」
「……すまん、よくわからないのだが」
レオは生真面目な顔で首をかしげている。
一方私は、パズルのピースがはまっていく手ごたえを感じていた。あの夢はヒントだ。私は話しながら、答えを整理している。
「生きているから、ただこの物質界にあるから、存在しているってことになるのかな。誰も知らない、誰にも関わらずに生きていたら、存在しないと同じなんじゃないかな」
「お前、まだ具合悪いようだ。少し休め」
掛け布団を引き上げようとするレオの腕を手で止めて、私は床に降りた。
「大丈夫。アレッシオの宿題が終わったのよ。それだけ。それで、アレッシオはどこへ?」
「知らん。おそらくどこかへ潜伏しているのだろう。あいつらが今日は静かだ」
明日は新月だというのに、たしかに静かだった。
着替えながら昨日の顛末を聞くと、事故は死亡したドライバーの余所見が原因ということにされそうだとか。他に説明しようがないだろう。怪物を見たなんて言えば、医者を薦められる。遺体安置所の方は、遺体泥棒の犯人グループと警官が激しく争い、警官側に死人が出たが犯人は依然逃走中とのこと。
そんな話がまかり通るとはにわかに信じがたいが、ここはサングエなのだ。
ここらやアパートのあたりはまだましだけど、酷い所では路地裏に死体が転がっていることだってあると聞く。
「そういえば、クラウディオは?」
何気なく問うと、ジャケットに袖を通していたレオの肩が揺れた。
「レオ?」
彼は沈鬱な顔で、私に上着を放ると言った。
「彼は——」
集中治療室の前の椅子に、クラウディオがうなだれて座っていた。膝の上に肘を置いて、組んだ手に額を預けている。私がそっとそばに行くと彼は顔を上げて、なんとも複雑な笑みを浮かべた。困ったような、泣き出しそうな顔だ。
「……イズミ。よかった。元気そうで」
「クラウディオ、ごめんなさい」
泣きそうなのは、私の方だ。絞り出した声が震えていた。
「お前は悪くないよ。イズミ。そんな悲しい顔をするな」
意識が薄れる直前に見た光景がようやく切れ切れに思い出せた。金色の触手に貫かれ、ドナトーニ神父の体から、生温かい血が流れ——。あれは雨なんかじゃない。
顔を覆って、涙を隠すと不意に優しく抱きすくめられた。嗅ぎ慣れたクラウディオの匂いがする。それでも体を強ばらせていると、ゆっくり椅子に座らされた。
涙で歪んだ視界には、ガラスの向こうに広がる透明なカーテンと、その中でたくさんの機器につながれたドナトーニ神父の姿が映っていた。同じリズムで繰り返す電子音が、彼の命の灯。それは今にも途絶えそうな弱々しさで、懸命に繰り返している。あんな大けが、八十をすぎた老人には致命傷だ。事実、医者には今夜が峠だと言われている。そのことをレオから聞いて、私は途方に暮れた。
(私、……どうしたらいいの?)
あの優しい老神父が亡くなる。しかも、彼はクラウディオの息子だ。
なんて謝ればいいんだろう。ドナトーニ神父本人にも、クラウディオにも。
レオは、仕方のないことだと、ハイヤーの中で何度も噛んで含めるように繰り返していたが、私にはそう思えなかった。悪夢は繰り返すのだ。そう、二月の悪夢の再来だ、これは。親しい人の命が、指の狭間からこぼれて行くのを、ただ見ているしかない無力な自分。善意の人たちを食らって、浅ましく生き残る自分。
「ごめんなさい、クラウディオ、ごめんなさい。ごめんなさい」
謝っても、どうにもならない。わかっていても、謝らずにはいられなかった。優しいリズムで背をさすってくれる、その手の温もりが辛い。こんなところで泣きじゃくっていたら迷惑だってわかっているのに、涙腺は壊れてしまったまま治らない。
見かねたように、レオが私の腕を支えてこの場を離れようとしたが、それをクラウディオが手で制止した。私の手は、レオからクラウディオにゆだねられた。
レオにその場を任せ、クラウディオは私を中三階に位置するテラスへ連れ出した。飛び降り対策済みの高い手すりの向こうには、墨汁を思わせる暗い夜空が広がっている。磨り減って、消えかけている月はいよいよ明日が新月だと示唆している。夜風は澄んでいて、涙で濡れた私の頬をふわりとなでては過ぎ去っていった。
クラウディオは手すりに背を預けると、手招きした。おずおずとそれに従う。手すりの向こうにひろがる夜景は、宝石箱のようだ。サングエの、ゴミにまみれた街並みが美しく見えるなんて。
「こうして話すのは久しぶりだな。なんだかんだ言ってどたばたしていたからな」
私は首肯した。ローマから帰ってきてから、クラウディオは仕事ででかけていたし、私も仕事や他のことで動き回っていたから、二人だけで時間を過ごした記憶がない。互いに寝るために帰ってきては、翌日出かけるを繰り返してきた。
以前はどうだったろう。アレッシオに遭遇する前は——よく、こうしてクラウディオと話をしていた気がする。話題は何気ないものばかりで、食事のこと、仕事のこと、街のおいしい店の噂や、新しく買った本のことなど。お茶をすすってお菓子を食べて、のんびりと過ごした。心地よい怠惰な時間。
時には家族の話もでたけど、お互いその話題は避けていた。クラウディオはドナトーニ神父との間に、壁があるように感じていたみたいだし、私は私で亡き人たちの話をするのは苦痛以外のなんでもなかった。お互いが傷を服の下に隠して、時間が流れるにまかせていたのだ。
クラウディオが静かに話し始めた。
「なあイズミ。お前は自分のせいだと思っているようだけれど、あいつはそうは思っていないはずだよ。あいつは、根っからのお人好しだからな。どうせ死ぬなら、誰かの役に立ちたいと思っているはずだ。それは俺が保証する」
「私のせいなのはかわらないわ」
瞬きすると、あの日の光景が目蓋の裏によみがえってくる。飛び散る血潮、湿った音と色の洪水。両親の、最期の顔。
家族を失う苦しみは、私だってよく知っているのに、その苦しみを私はクラウディオに与えてしまった。
(私、なんてことをしてしまったのだろう……)
うつむいていると、肩を掴まれた。強い力だ。そして、強い光を宿す灰色の目が私を正面から見つめていた。
「イズミ、そうやって目を逸らさないでくれ。あいつがお前を助けたいと身を呈したことから。それがあいつの遺志なのだから。お前のせいだなんて消極的な理由じゃないんだ」
静かな言葉なのに、横面をひっぱたかれたような衝撃が走った。
「落ち着いたか?」
頷けば、優しい笑顔が返ってきた。
クラウディオは、懐から煙草を取り出すと、ライターで火をつけて口にくわえた。
蛍のように小さな明かりを闇夜にともして、しばらくすると紫煙を吐き出した。
「あいつとは最近、よく電話していたんだよ。話すことはつきない。何せ、六十年もまともに話してなかった。そばにいて、顔を合わせているのに俺は自分から話そうとしなかった。きっと、年をとらない化け物のような親とは話したくないだろうと思っていた」
静かな述懐が、夜風に流れて消えていく。
「けれどな、言われたよ。あの誕生日会のあとに。ずっと話しかけてもらえるのを待っていた、と。俺は歪めていたんだ。あいつの意志を、勝手な思いこみで。それがどれだけ残酷なことか、わかるだろう、お前なら」
「クラウディオ……」
いつになく、饒舌だが、そんな彼が嫌ではなかった。
「イズミ、俺は感謝している。お前のおかげでドナトーニと話す勇気がもてた。お前があの日誘ってくれなければ、口実をもらえなければ、俺は今もまだ立ちすくんでいただろう。あの子も、常々お前に感謝していたよ」
「神父様が?」
「ああ。お前が俺たち親子の絆を復活させてくれた天使だって」
「て、天使?」
大仰すぎる。頬が熱くなった。
「本当に、そう思ったんだろう。あいつは子もなく孤独だ。だがお前が居着くようになって、教会には人が集まるようになった。口には出さないが、お前を孫のように思っていたんだろう。……少なくても、とっさに庇うほど大事に考えていたんだよ」
クラウディオは短くなった煙草を、そばにあった吸い殻入れに投げ捨てた。
「あいつはそういう子なんだ。長年苦労かけたことを謝れば、俺は悪くないとなだめてくれた。兵役を終えて帰ってきたときもそうだ。一人で母親を看取って、食料も満足に手に入らない生活を送っていたのに、俺のことを気遣って、なんのわがままも言わなかった。神学校に送り出されたときも、なにも聞かなかった。とても——優しい子なんだ」
クラウディオの声が少し震えていた。
「だから、せめて死に水くらい俺がとってやりたい」
彼が泣き出すのかと思って、私は息をつめた。果たして、そうはならなかったけれど。
「……病室、戻ろう」
手を伸ばして、彼のシャツをつかむと、頭上から「また泣いて」と苦笑が降ってきた。
きっと、クラウディオが泣かない分私が泣くのだ。
クラウディオには、しなきゃいけないことがある。泣いていられない。
日付が変わる頃、老神父は静かに息を引き取った。眠るように、安らかな表情だった。
翌日、朝六時。
私はレオとともにアパートに戻っていた。この後、教会にも寄って、病院に戻る予定だ。クラウディオが必要なものもあるし、教会のほうも放ってはおけない。
レオを待たせて、必要なものをかき集める。朝日が昇りかけている今、街は静かなもので、夜の喧噪は嘘のようになりを潜めている。部屋の前の通りは、ときおり通過する車以外、動くものはない。
「イズミ、本当に大丈夫か」
「もちろんよ」
幾分不安げなレオに、力いっぱい返事した。嘘ではない。自分でわかるほどに、落ち着いていた。
きちんとドナトーニ神父にお別れしたいし、そのときにみっともない様子を見せることだけは絶対にしてはいけないとわかっている。それに今は、こんな風にすべきことも沢山ある。それが返って気持ちを整理するのに良いのだ。
「そういえば、アレッシオから連絡は?」
クラウディオの服をクローゼットの奥から引っ張りだして、ダイニングにいるレオに問いかける。
「ない。そもそも私が何故奴の連絡先を知っているんだ」
すっかり、二人が仲良しでないことを忘れていた。
「それもそうよね……。大丈夫かしら」
「潜伏の能力にかけては奴の右に出る者はいないさ。必要とあらば、壁抜けなりすればいい。きっとどこかに潜んで難を逃れているはずだ。心配なのは、奴の対の者の出方だ」
金色の人形が脳裏によぎって、私は顔をしかめた。
「あいつなんなのかしら。見た目もそうだけど、考え方がすごく狡猾で人間みたいだった。アレッシオ、また集団リンチされてなきゃいいけど」
私の分の怪我を負っているだけあって、心配だった。
「あれは、ほとんどメランドリと変わりない存在だ」
レオの、さらっとした重大発言に、私は片方の眉を跳ね上げた。
「メランドリの半身といってもいいほど、あいつらはほとんど同化している。メランドリは、意図的にそうしている」
「なんで? そんな、一歩間違えれば取り込まれちゃうじゃない」
「それが奴の求める道だ。奴は己の仮説を証明する為に、ぎりぎりの綱渡りを繰り返している。今に始まったことじゃない。きっとあれは、己を失うまで止まらないだろう。なぜ完全に、対の者と同化したり、対の者を食いつぶして障害を取り除こうとしないかわかるか。完全に相手を食いつぶしてしまえば、肉体の時間が動き出してしまうかもしれない。つまり、その先にあるのは死だ。それでは困るんだ。まだ奴は目的を達成していない」
「仮説って……?」
「以前は神が存在するかというものだったようだが、時を追うごとにその範囲は増しているようだな。森羅万象すべてを網羅した百科事典でも作るつもりなのか」
「レオ、なんだかんだ言ってアレッシオのことよく知っているのね」
おちょくると、レオが花顔をゆがめて唾棄するように言った。
「奴との戦いに共有は欠かせない。共有を駆使するうちに、不本意ながら互いの意志が伝わりあうことがある。本当に、不本意なのだからな」
「ふぅん。……私が宗教にあまり詳しくないせいか、切実さがわからないんだけど、そんなに神様がいるかいないかって大事なことなの? 信じるも信じないも人の勝手じゃないって思っちゃうけど」
「この時代に生まれたお前には、理解しがたいことだろう。かつて教会が絶対的な権力を持つ時代に生まれ、神が形骸化した時期を知っている私たちには、身近な問題だったんだよ。その神の可能性を、狭間の者に見たあいつは、自分が限りなくやつらに近い存在になることで、答えを追い求めている。あるいは、対の者と同化することで、見えるのかもしれないな、あちらの世界が……」
神を追い求める男——。精神世界の波が、物質界に及ぼす影響を人は神と名付けた。そう仮説を立てていたのは、他ならぬアレッシオだ。
それはある意味、絶対神の存在を限定する、つまり不存在の証明のように思える。
彼は、そのことを証明したくて、危険に身をさらし、気の遠くなるような年月を過ごしてきたのだろうか。富と名声に満ちた未来を投げ出して。
なんて執念だろう。薄ら寒さすら覚えた。
引っ張りだした荷物を、鞄に押し込んでいると、レオがふらふら私の部屋に入っていくところだった。
「そっちは私の部屋よ」
「きれいにしているんだな」
そうだろうか。ブラインドの降りた窓と、青と白のストライプ模様の寝具。スチール製のラックには本やちょっとした小物が並び、引き出しのない机の上に、ノートパソコンと写真立てが乗っている。同年代の女の子達の部屋に比べたら、飾り気が無さ過ぎる気がする。
レオはアンバーの瞳を細くして、写真立てに長い指で触れた。
「家族か」
「え、ああ、うん」
少し色が褪せた写真には、両親に囲まれた去年の私が笑顔で映っている。ローマで住んでいた家の居間だ。たしか久々に家族三人がそろって、記念で撮ったものだ。
「そういえば、イズミ、ご両親はどうしたんだ? 日本にいるのか?」
「あれ? レオには話していなかった? 死んじゃったのよ、ふたりとも」
「えっ」
レオがぎょっとした。対して、私は妙に気持ちが落ち着いていた。口にしてしまえば、なんてことはなかった。
——イズミ、目を逸らさないでくれ。
クラウディオの言葉が、確かな重みをもって、胸に沈んでいた。
「私のことをかばって、死んじゃったの。ヴェネチアで。カーニバルの日だったわ。母がね、仕事の都合で八年前からずっと日本にいて、私も一緒に日本に行っていたの。でも、仕事を辞めて——祖母が亡くなって、家族のそばにいることを重視するようになったみたい——イタリアに戻ることになったの。去年の十月のことよ」
語りだした私を、止めることもなく急かすこともなく、レオは静かに見つめている。
私は、吸い込まれるように過去を思い出していた。父の煙草のにおい、母の声、二人のいる部屋の温度。
「父は単身、ローマに残って大学で教鞭を執っていて、私たちの帰国をとても喜んでくれたの。何年も離ればなれだったから、今度はなんでも一緒にやろうってはりきっていた。謝肉祭もそう。仮装までして臨んだのよ。でもまさか、そんな場所に狭間の者がいるなんて、誰も思いもよらないでしょう?」
レオが頭をなでてくれた。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、……父の手を思い出した。不覚にも、こぼすまいとしていた涙がこぼれてしまった。
「二人は、私を庇ってひどい死に方をしたの。本当に、ひどい、死に方を。でも、母は死に際に言ったわ。”幸せになって”って」
そんなの無理だと思っていた。二人を殺して、のうのうと生き延びるなんて許されるはずがないと。勇気がなかったのだ。死者の、遺志を受け止めるだけの勇気が。だって、それはとても重いものだから。今だって重みに怯む。けれど、いつか立ち向かわなければいけないとわかっている。いつまでも立ち止まってはいられない。時間も、狭間の者たちも、待ってはくれない。
手を引いてくれる人たちに、身を委ねることもある。踏み出したその先に、なにがあるかもわからないけれど。すべてを飲み込んだ先に私があり、それは死ぬまでかわらない。いや、死んでも私は「白石意澄」であるべきだ。今の私を築いてくれた人たちに報いるためにも、私は私の生を全うしたい。
決して、投げ出したりしない。ましてや、譲る——同化を許す気なんてない。
我ながらあきれた独占欲だけど、アレッシオやレオの執念に比べたらかわいいものだと思う。……たぶん。
今までなら微塵も気にしていなかった自分の死生観が、急に克明になった気がする。
いつからだろう。こんなことを考えるようになったのは。
両親の死後では昔過ぎる。昨日、……では直近すぎる。アレッシオと出会い、狭間の者と対峙するようになってから。それが一番しっくり来る。そのことに別に、いやな気はしなかった。妙に納得する自分がいた。
だって、彼に出会ってからの毎日は、濃い。とにかく濃い。
(生きている気がする)
「イズミ、お前はしっかりした子だ。ご両親も安心しているよ」
レオは私の頬の涙を、長い指で拭ったあとに、勇気を与えるように肩を叩いた。
「だけど、無理はするな。疲れたなら、休め」
「大丈夫。行こう、レオ。クラウディオが……、神父様が待っている」
荷物をかかえ、アパートを背にしたときだった。携帯電話が鳴った。ディスプレイを確認すると、クラウディオだった。
「もしもし?」
『イズミ、悪いんだが、俺の部屋のチェストに書類が入っている。二段目だ。仕事関係のものなんだが、キャンセルしなきゃならないから……そうだな、先に持ってきてもらえるか、手間をかけてすまないな』
「ううん。じゃあ、荷物もそろったから、いったんそっちに戻るね」
電話を切ると、ハイヤーを呼んで待っていたレオのところへむかった。
「それじゃあ、病院へ一足先に戻るんだな」
「ええ。なるべく早くそっちに行くから」
「いや、クラウディオについていてやれ。……家族だろう」
「うん」
レオに手を振って、踵を返した。ここからなら、公共交通機関を使っても病院に行けるはずだ。
さっき出てきたばかりのアパートの中は、しんとして、ずっと誰もいなかったような空気だった。冷たいテーブルに、指をはわせる。ここに初めて座った時を思い出す。
母とは仕事でよく知った仲だったと、一生懸命に説明して、手料理を振る舞ってくれたクラウディオ。彼が、どうして私なんかを拾う気になったのかわからない。気まぐれか、孤独を嫌ってか、それとも狭間の者としての仲間意識か。いつか聞いてみよう。
あの日彼はとにかくたどたどしい態度で、私を慰め勇気づけてくれた。今度は、私の番だ。
物思いにふけるのを中断して、私はクラウディオの部屋に向かった。
使い込まれたチェストには、言われたとおりに書類が収まっていた。折れないように封筒にいれて、荷物のなかにしまい込んだ。
病院に着くと、看護士にクラウディオの居場所を聞いた。柱に貼られた地図で確認し、エレベーターに乗り込む。同乗者たちは、皆地下一階の検査室で降り、最後まで降りようとしない私に同情的な視線を送ってきた。
薄暗い地下二階に降り立つと、最奥の部屋名プレートがない扉があった。そっと扉を開くと、既に死化粧が施された老神父が横たわっており、かたわらに、疲れた顔のクラウディオが待っていた。自然に両手をあわせたあと、十字を切るべきだったか、少し悩んだ。
なるべく、物音をたてないように荷物から封筒を取り出し、手渡す。
「ありがとう。葬儀社があと一時間で到着するんだ。悪いんだが、……少し任せてもいいか」
「もちろんよ」
クラウディオは書類と携帯電話を手に部屋を出ていった。椅子を寄せて、静かに眠っているドナトーニ神父の顔を見つめる。安らかな、本当に眠っているような顔だ。神聖なものを見ているような気すらわいてくる。その手に触れたらまだ温かいのではないだろうかと錯覚させるよう。
無意識に伸ばしかけていた手に気付いて、私は誰にともなく苦笑した。
「あれ……?」
一瞬、ドナトーニ神父の胸の上で組んだ手が動いたように見えた。
疲れからくる錯覚だろう。ごしごしと目をこすって、再度視線を転じるが——。
「し、神父様っ?」
(動いている!)
半ば腰を浮かせて、部屋を出たクラウディオを呼び戻そうとした。しかし腕をものすごい力でひっぱられ、椅子から転げ落ちる。倒れたパイプ椅子が、けたたましい音を立てた。
うちつけた膝が焼けるように痛む。さすりながら顔を上げると、信じ難い光景があった。
さっきまで、ぴくりともしなかったドナトーニ神父が、糸で吊られた人形のように、ふわりと上半身を起こした。しわ深い顔はまだ眠っているというのに、その手は祈りの形を崩して、だらりと体の両脇に垂れた。
「イズミ、どうした?」
物音に気づいたクラウディオが、ドアから顔をのぞかせて硬直した。切れ長の目が、見開かれる。狼狽する私たちの前で、亡骸はゆっくり立ち上がるとそのまま一歩踏み出した。
狭い台に、その先はないのに、遺体が床に倒れることはなかった。見えない地面があるようにその場に直立している。いや、立っているというよりは、浮いている。
「なんだ、これは……。ドナトーニ、お前、いったい……?」
「クラウディオ、だめ!」
私が飛びついて止めていなければ、クラウディオの腕は無くなっていただろう。
目標物を失って大きく空振りした老神父の手が、そばにあった木製の棚に大穴をあけた。
みるみるうちに、自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。
老神父は、ぎこちない動きでこちらを振り返ると、床で呆然としている私たちに顔をむけた。また、腕が振りかぶられる。先ほど棚にぶつかった右手が、かろうじて手首とつながっているとわかるほどにつぶれているのに気づく。
非常事態だ。
ばくばく心臓が鳴るのと裏腹に、頭のどこか冷静な部分では原因をつきとめていた。ギャロップさながらの心臓を抱えたまま、さらに目を凝らし、目的のものを見つける。遺体のぼんのくぼから延びる、細い細い糸のようなもの。薄暗い明かりの中でも角度によってはきらめいて見える。金糸と思われるそれは、ついと延びて壁の中に奥の壁につながっていた。
「随分と、卑怯な真似をしてくれるのね」
怯えを振り払うためにわざと大声を出すと、それまで眠るようだった老神父の顔が動いた。半月のような不気味な口に、細くなった両の目。ご丁寧に笑い声までついている。
奴は、ドナトーニ神父の声で言った。
「卑怯とは、おもしろい概念だ。普遍的な価値観の基盤がなければ生まれない。ふむ、そなたはこうして死者を使うことを卑怯と言うか。なぜ、他者を利用すると卑怯と呼ばれるか、是非知りたい」
「仲むつまじく哲学者ごっこするつもりはないわ。神父様を返して」
「神父? これはもう、ただの肉の塊だろう」
この間にも、けたけた笑う遺骸の後ろの壁から、迫り出すようにして金色の禍々しい人形が顕現していた。顔の位置に病んだ中年男の面をつけたような格好は変わらないが、そいつの指先から細く延びた糸が、老神父の遺骸に繋がっている。
やつは、古代ギリシア風のドレープが寄った衣装を翻すと、指をくいっと動かした。
「イズミ!」
一秒前まで私の頭があったところを、うなりをあげた遺体の腕が過ぎ去っていった。数本、逃げ遅れた髪の毛が宙に舞う。クラウディオが腕を引っ張ってくれなければ、私の頭はあの棚のようにグシャグシャになっていただろう。
背筋に冷たい汗が流れる。
「さてどうしたものか」
ドナトーニ神父は、小首を傾げた。人情の機微なんてこれっぽっちも理解してないだろうに、変に芸が細かいのに腹が立つ。
「どうしたもこうしたもない、神父様を返せ!」
「ここに来て、そなたたちを嬲っていれば、あやつも姿を見せると踏んでいたのだが。思いの外、そなたらの価値は低いようだ」
(あいつって?)
問い返す必要もない。アレッシオのことに決まっている。ということは、彼はなんとか逃げおおせているということだ。
考えている間に再び迫った鉤爪をしゃがんでよける。今度は腕にかすってしまい、鋭い痛みを感じた。老神父の体が、ぎしぎしと嫌な音を立てて旋舞する。
(全部私を狙っている!)
猫に転がされるネズミはきっとこんな気分なのだろう。頭を抱えて転げ回れば、そこここからこぼれた赤い血が、リノリウム張りの床にかすれた模様を描き出した。
「息子を返せ!」
クラウディオが隙をついて、暴れる遺体を羽交い締めにした。しかし。
「ぐぅっ!」
とても力ではかなわず、派手な音をたてて、壁に激突した。ずるずると床に座り込む。壁には、引きずったような血のあとが残った。
「クラウディオ!」
叫んだ私の喉元に、しゅっと老人の貫手が添えられた。触れるか触れないか、きわどいところで制止している。私は、身を起こしかけた不自然な体制で、硬直していた。こめかみの汗が、顎を伝って落ちる。
「ふむ。あやつのしぶとさに慣れているからか、もの足りぬな。もう少し、時間をかければあやつも駆けつけるか?」
「どれだけ待ってもアレッシオは来ないわよ。来る理由がないもの」
「それはおかしな話よのう。月が欠けるころになると、わざわざ我らを引き受けて、そなたらから遠ざけるような手間をかけていたのに」
「なんですって……?」
「なにも知らぬか。あやつの気まぐれやもしれぬな。ならばここで遊んでいる必要もないということ」
「っ……!」
ずっ、と貫手が差し出され、私は自分の喉が切り裂かれるのを覚悟して目をつぶった。
刹那、轟音が鼓膜を穿った。同時に、貫手がふつりと力を失った。
重たい何かが覆いかぶさってきて、思わず目を開く。糸を失った老神父の体が、だらりと私の上にのしかかっていた。
視界がかげった。せきこみつつ、顔をあげる。
視界の端から突き出された硝煙のくゆる銃口が、金色の人影にぴったりむいている。
金色の人は、わずかに弾んだ声で言った。
『ようやく来たな、吾が半身』
「なーにが半身だ。未確認生物(UMA)もどきが」
歯をむき出しにした獰猛な笑みを浮かべて、アレッシオがうなるように言った。
「アレッシオ!」
「おう、イズミ。二日ぶり。相変わらず陰気そうで、安心したぜ」
「うるさいわね、いったい今までどこに潜伏して……ちょっと!」
「い、いて! 馬鹿、そこ触んなって!」
血のシミが浮き出たわき腹をシャツの上から触れると、アレッシオがべちんとその手を払い落とした。彼は声こそしっかりしているが、額にはじっとり汗をかいている。
よく観察してみれば顔色は悪いし、いつも気遣っているはずの服装にも乱れがある。垢じみたシャツに、穴のあいたジャケット、泥の跳ねたスラックスといずれも二日前に見たときと同じものばかりだ。着替えてないのだ。本当に、ほかの敵を引きつけて孤軍奮闘していたのか。
(なんて無茶したの)
感謝すべきであって腹を立てる場面ではないとわかっているのに、目つきがきつくなるのを止められなかった。
「ったく、今日はずいぶん攻め手が緩やかだと思ったら、こんなところで道草とは、いいご身分だな。鬼ごっこの鬼が勝手にリタイアすんなよ」
私を押し退けて、アレッシオはずいっと金色の人形との間合いを一歩つめた。
話しながら、目を眇めて、動かないクラウディオと、老神父の冒涜された遺体を見やる。
わずかに、彼の口角がこわばったのを、私は見逃さなかった。
「それで。俺の半身様よお。このままリタイアする? それとも——」
赤い舌が、ぬるりと唇をなめあげた。挑発的に、ヘーゼルの瞳が細まる。
「続きを?」
合図は銃声だった。アレッシオが放った散弾は、着弾直前に体を揺らがせ半透明になった金色の人影を通り抜け、後ろの壁に穴をあけた。
二発目が発射されたときには、金色の触手がアレッシオに向かって突き出されている。
やはりよけられた散弾が壁を穿つと同時に、アレッシオも左に身をかわして、第三の弾をうちこんでいた。
よけられて目標を失った金の触手は、壁に触れる直前に一度大きくしなると三本に分かれた。風を切る音を立てて、一本がアレッシオの顔面に迫る。だが、アレッシオは焦ったふうもなく、大口を開けると、迷わず触手に噛みついた。食いちぎられた触手は、床に吐き出されるなり四散した。
「きゃあ!」
わかれたもう一本の触手が、私の頭上を横薙ぎにして過ぎ去っていった。とっさに身をかがめてやり過ごすが、追ってはらはらと数本の髪の毛が落ちてくる。
三本目の触手は、さらに二本に枝分かれして、直角に折れ曲がると、アレッシオの頭と腹に迫った。一メートルに及ばない二本の槍の間に、彼は身を投げ出して着地する。ライオンの火の輪くぐりを見ている気分だ。
「イズミ! クラウディオを連れて逃げろ!」
アレッシオが曲芸めいた動きで、金色の触手たちを翻弄している。だがその顔色が優れないのは、傍目にもわかった。横腹の出血がますます増えている。このままでは不利だ。私たちを庇って戦うなんて、とても無理。
私は一瞬の逡巡のあと、大きくうなずいて、行動を開始した。自分の上に乗っているドナトーニ神父に心中で謝りながらその体を床にどかすと、身を屈めたままでクラウディオのもとに駆け寄る。彼の脇の下に腕を通しながら、容態を確認し、できるだけ身を低くしたままでドアのほうへ向かった。クラウディオは、意識はないが呼吸はしている。派手な出血は背中の一部が裂けたみたいだ。
クラウディオの体を引きずるのは、かなりの重労働だ。それでもなんとかドアにたどり着き、ノブに手を伸ばしたとき、
「あっ」
視界が赤く染まるほどの激痛がおそってきた。痛みが強すぎて、その瞬間には体のどこが傷ついたのかわからなかった。
痛みの源泉はくるぶしだった。床に投げ出されている右のくるぶしに、針のように細く長いきらめきがあった。足首を床に縫い止めるように、貫通している。球になった血液が、つっと触手を伝って床に小さな水たまりをつくった。
声にならない悲鳴をあげて、私はもがいた。それでも、先日横腹に穴をあけられたときよりは余裕があって、苦し紛れに金色の人形を睨むくらいはできた。誘うように、仰向けた左の手のひらの指を順にしならせて、金色の人は自慢げに私を振り向いた。
疲れた中年男の顔が、ザクロのように罅ぜた。厳しい顔をしたアレッシオが、不服そうに言った。
「おいおい、ゲーム中に余所見とは随分じゃねえか。そんなに退屈だったら、止めてもいいんだぜ。ただしプレイ料金は返金しないがな」
轟音に轟音が重なった。初弾を左肩、第二弾を胸部に受けた人形は、左腕をどさりと床に落とした。落ちた金の腕は、私を貫く触手ごとかき消える。
栓を失って、くるぶしから本格的な出血が始まった。歯を食いしばって耐え、気絶しなかった自分を褒めてやりたい。
できの悪い喜劇のように、金の人影は失った顔のあたりを残った右手でなでた。
『おや、少し遊びがすぎたか』
くるりとその手が返ったかと思うと、長く延びた中指が誰も守るもののいなかった老神父の遺体に刺さっていた。アレッシオが容赦なく発砲するが、弾は遺体を通り抜けて床に着弾した。遺体が、淡い光を放って半透明になっている。
『まあ良い。今宵は我らがもっとも力を得る新月。すぐに元にもどろう……』
語尾がかすんで、敵本体諸とも遺体が虚空に消えた。アレッシオは、無言でショットガンを構えていたが、やがてそれをおろし、ジャケットの内側からベルトにねじ込んだ。
「おー、イズミ。派手に出血してんな、大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でもそれより、あなたの方がひどいでしょ」
アレッシオは、「まあね」と肩をすくめると、青白い顔のまま少し考えるそぶりを見せた。
ややあって、大きく手を打つと、
「ここに来たのは、銃で武装した、覆面の男たち。そいつらは一通り暴れたあと、遺体を盗んで消えた……。ちまたを騒がす遺体泥棒に遭った、哀れな被害者ってことでよろしく」
彼は、言うが早いか、壁のインターフォンをつかみあげていた。




