第6夜
十月七日 二十二時三十分。
〈ルーチェ〉の前に強面の用心棒が並び、提げ看板が「営業中」に翻った。
オーダーに従って、グラスを運んでいくと常連の男客が、客をあさりにきたお姉さんの腰に手を絡ませて鼻の下をのばしていた。お姉さんの黒いドレスからのぞく、胸の谷間をちらちら盗み見ている。
もちろんそれに気づかぬお姉さんではない。ちょろい客だと心中では手をたたいているだろう。
彼に戦闘機の名を冠したカクテルを、お姉さんには甘いストロベリーのカクテルを渡す。
私が空になったグラスを下げている最中も、二人は上機嫌にさえずりあっていた。
「……らしいぜ。なんでも、根こそぎ持っていかれちまって、棺だけが売れ残りよ」
「やだあ。あたし、怪談のたぐいはだめなのよ! そういう話はよそでやってよ」
「そういうなよ。俺たち葬儀屋の間じゃこの話題で持ちきりなんだぜ。何度も遺体全部が安置所から盗み出されるなんて、異常だろ。きっと遅れた世界の終末の前触れだぜ」
(どれだけのんびり屋よ、神様は。もう新世紀に入ってだいぶたっているじゃない)
思わず言いたくなるのをぐっとこらえ、私は二人に背を向けた。
「でも怪談って言えば、先月に南区の教会前に悪魔が出たって言うじゃない。東洋系の女の子が追いかけられたって。雨の日で、巻き込まれて怪我した人もいるっていうわよ」
「そっちこそ映画かなんかだろ? いいなあ、俺も見てみたかったな」
なにもないところで転倒するところだった。
(危ない危ない)
心臓をばくばくさせて、厨房に引っ込むと小難しい顔をしたマスターがいた。
「どうかしました?」
「いや、なに、ケータリングの注文があってね。軽食なんだけど量は結構ある」
「あ、それじゃあ私、行きますよ」
「そうして欲しいところだけど、今、足がないからね。バイクがあればいいけど、あいにく修理中だし」
店の出前用のバイクは、マスターの息子さんがすっ転んだとかで現在手元にない。
「場所はどこです。近場なら走っていきますよ」
「……それが、……遺体安置所なんだよ。西区。歩くと三十分くらいかかっちゃうからなあ。料理も冷めるし」
「うーわー……タイムリーですね……。行けなくはない場所ですけど」
正確な場所は地図で確かめるからいいとして、徒歩で三十分は結構な距離だ。
悩んでいると、ドアが開いてベルが鳴った。
濃紺のスーツに光沢のあるアイボリーのシャツ。足下は汚れなのか元の色なのかわからない鈍色のハイカットシューズ。
ベルトにねじ込まれた拳銃の尻を見れば、顔など見ずとも誰かわかった。
マスターの顔が明るくなる。
「いいところに! アレッシオ、一つ頼まれちゃくれないか。今日はおごりにするから。いつもの二皿でどうだ」
「よしきた、用件はなんだ」
おごりという言葉がアレッシオの顔を輝かせた。
(金持ちのくせに、せこい奴……)
数分後、私はアレッシオの車の助手席に収まっていた。膝の上には高々と軽食のケースが積まれている。
車のライトが照らし出す道の先は濃い闇が凝っていて、いつも我が物顔で夜空を席巻している月が細っているのを知らせた。三日もすれば新月だ。
「行き先は遺体安置所ね。いいご趣味だな。しかも話題のスポットときた」
「噂、知っているの」
「もちろん。遺体が消えるとか、女の子が化け物に追いかけ回されるとか」
「……楽しんでいるでしょう」
「まあな。おまえも楽しめよ」
できたらとっくにしている。アレッシオにまともな神経を期待するほうが間違いなのだろう。
まもなく、車は目的地周辺に到着した。
コンクリートで整備された広い敷地の中に、同じく四面の壁をコンクリートでコーティングされた直方体の建物がぽつんと建っている。味気ない建物は地上二階建てのようだが、肝心の遺体収容部は地下のはずだ。
安っぽい鉄パイプをつないだような門扉は開け放たれ、守衛室で男が一人寝こけている。
(これじゃ遺体泥棒が来ても気づかないわね……)
守衛室の横を通り過ぎると、車は建物の側に停車した。
街に出ればたむろしている荒んだ目の人たちが、ここにはいない。人気がないのだ。
きれかけた街灯が、明滅している。そこに蛾やら羽虫やらが集まっていた。
アレッシオに荷を押しつけて、私は建物の入り口をくぐった。
入り口横のカウンターには壮年の男性が、気むずかしそうな顔で座っていた。用向きを伝えると、彼は内線を手に取った。
「今から、受けとりに来るとさ」
「ありがとうございます」
しばらくすると、エレベーターから男の人二人が出てきた。中年の、ちょっとお腹が出てきた人と、細身だけど神経質そうな人。二人は地味な服装——地味すぎるといってもよい格好をしている。
——あいつら警官だぜ。
アレッシオがこっそり耳打ちしてきた。
なんでこんなところに警察が? ちらりと、ローマで警察のお世話になっていた奴の顔を盗み見たが涼しいもの。彼はせっせと商品と代金を交換すると、善良な一市民を装って問いかけた。
「夜遅くご苦労さんです。しっかしこの辺も物騒ですね。遺体泥棒でしたっけ」
「配達ご苦労。……夜は何かと物騒だからはやく帰った方がいい」
言葉少なに、男たちはエレベーターに引き返していった。
車まで戻ると、アレッシオは一服をはじめた。私の知らない銘柄の煙草だ。
紫煙をくゆらせ、彼は遺体安置所を見やる。
「あいつら、夜明けまで張り込んでいるつもりらしいぜ。こんな時間に夜食だなんて、体に悪いな」
「あなたが健康に興味を持っているだなんて、知らなかったわ」
「まあ、人並みに。健康なほうが、人生楽しめる。そうだろ」
その言葉尻が、絶叫にかき消された。
私は振り返った。
声は断続的に聞こえてくる。ぱらぱらと小さな破裂音も混じっていた。建物二階、ブラインドの向こうに映し出された影絵の人々が、右往左往しているのが見えた。
無意識に後ずさっていたのだろう。気づけば背が、車のボンネットに座るアレッシオの腕に当たっていた。
「ところで例の宿題は?」
「しゅ、宿題?」
恐怖で声が裏がえる。
「そう、宿題。その様子じゃまだって感じか?」
もし相手がアレッシオじゃなければ、恥も外聞もなくすがりついていただろう。
この、なんともいいがたい空気の圧迫感。
密度というのだろうか。微弱な電流が流れているような、粘り気を感じさせる違和感。
「な、なんか気持ち悪い。お腹のあたりがそわそわする」
「お。少しは感覚が研ぎすまされてきたみたいだな。いずれは臭いもわかるようになるさ」
「まさか、奴らが?」
「そうだ。すぐ近く、……ほら」
じゃこっとアレッシオが得物を鳴らした。月光を反射する黒い銃。拳銃だと思っていたら、それは銃身を短くカスタマイズしたショットガンだった。
そちらに気を取られているうちに、眼前のアスファルトがぐらぐら沸き立っていた。
かすかな外灯の下で詳細は不明瞭だが、かえってそれが私の助けになった。こんなもの、はっきり見えたら卒倒していた。
泡立つアスファルトが吐き出していたのは気泡ではなく、つるりとした——目玉だ。
泡のようにぽろぽろとあふれ出て小山をつくった無数の目玉は、どんよりにごり焦点が定まっていない。
いくら丼という料理を思い出すが、もちろん食欲はいっこうにそそられない。むしろ吐き気がこみあげて、一歩後退した。
靴の踵が、アスファルトとぶつかって小さな音を立てた。
一斉だった。目玉は焦点を私にそろえた。
『あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ!』
「ひっ」
息を飲んでさらに下がろうとすると、ぐいとアレッシオに押しやられ、彼の背後にまわる。
「新月が近くなると退屈しない。光のない夜は、闇があまねく広がって、世界の境界は取り払われる!」
火花が夜に咲いた。
それより一瞬早く、目玉の集合体が夜空に飛び出していた。後を追うようにアスファルトの中から、異物が数珠つなぎになって全体を現した。
さきっぽが目玉づくしの蓮根だ。一抱えもある胴体と三っつのくびれに目をつぶれば、ミミズに似てないこともない。全体に被ったてらてらした粘液から鼻を突く異臭がする。
筋繊維の束にも見える胴体の表皮は、よく見れば人体の肩から腿の付け根の部分だった。男も女も混じっている。
「出たな、遺体泥棒! おとなしくお縄につけ! ところでイズミ、こいつを捕獲したら懸賞金出るって話はないのか」
「知りません! ていうか、こっちに来るわ!」
私は突き飛ばされて地面に転がった。その三十センチ先に、巨大ミミズが、水に潜るようなスムーズさでアスファルトに溶けていく。
淡い光の粒がはじけて消える。同化の光だ。
「新月の夜、こいつらは力の全盛を迎える。そこらの死体を集めてかりそめの肉体を得て、襲ってくる」
「どうして死体なのよ!」
及び腰になって叫んだ。
早く車に乗ってこの場を逃げたいのに、キーを持つ運転手がそのそぶりをみせないんじゃどうしようもない。
「死体は存在した証し。けれど既に空っぽのただの器だ。奴らが巣くうのには都合がいいんだろ」
「最初に見たときは、あんなんじゃなかったわ!」
そう。はじめに遭遇したときはこんな化け物じみていなかった。
ドレスを着た、ビスクドールのような少女のかたちをしていた。あの場にふさわしい、少し倒錯的な少女のかたちを。そして、笑顔で手をさしのべてきたのだ、私に。
「みんなそう言うな。それが、やつらがこの世に引っ張り出されたときのとるべき形だったんだろう。器がなければ、いずれは崩れちまう姿だ」
アレッシオの声に哀れみの色が混じっていたように思うのは、私の錯覚だったのかしら。
サイレンが聞こえてきた。警察の車だ。遺体安置所から増援の要請でもでたのだろう。
アレッシオが赤い舌で唇をなめた。
「ミミズらしく、地面の中を這いずり回るのは得意みたいだな」
銃身が獲物を探してうろつき、そして——私を向いた。
「伏せろ!」
頭を抱えて再度アスファルトに転がった。
私の背後でシルバーのオープンカーのボンネットがゆがみ、みるみるうちに一抱えもあるこぶができあがる。発光するこぶを割ってでてきたのは化け物ミミズだ。
頭上で火花が散った。私は耳を押さえる。悲鳴を上げたが、かきけされる。
苦しげに悲鳴を上げてのたうちながら、ミミズが飛び出す。散弾にえぐりとられた遺体の破片が、地面にふれる前に握り込まれた。アレッシオは、手のひらにとらえた破片を、より強い光を放って消し去った。淡雪のごとく、ぐずぐずと遺体の欠片が溶けていく。
手のひらからこぼれた欠片は、やはり赤黒い血になって形を失っていく。
空に舞ったミミズが、長く太い尻尾をうならせた。轟音をたてて、車が宙に浮く。一拍置いて、それはアレッシオの顔に陰をつくった。
すかさずアレッシオは跳び退る。牽制に放った二発が、それぞれミミズの胴体に着弾し、肉と血の破片をふりまいた。
その時、駐車場に、三台の車が横滑りして入ってきた。その天井には明滅するランプが乗っている。
「ちっ、面倒なときに!」
初めてアレッシオが余裕無く舌打ちした。
ミミズが重い音を立ててアスファルトに転がったかと思うと、目にも留まらぬ早さで地面を這う。
(こっちに来る!)
あわてて横に逃げる。
アスファルトを粉砕してミミズの尾が地を打った。飛び散る破片で私の頬が傷つく。
ミミズは方向転換すると、目玉だらけの顔を持ち上げて吠えた。
『お・お・お・お・お・お・お・おっ』
女の声に似た耳障りな絶叫が夜空にこだます。
ばすばすばすと、響かない音を立て、ミミズの背が逆剥けた。
「なんだこいつは! 化け物!」
「撃て、撃て!」
車から降りてきた警官たちが次々に発砲したのだ。彼らの弾では、ミミズの体に小さな傷を創るだけで、力を削ぐまで至らない。ミミズがうるさそうに、鎌首をもたげる。
「下がれ、殺されるぞ!」
アレッシオが叫んで、自らミミズに駆け寄った。そのときには、体を撓めたミミズは宙を舞っている。
警官たちが悲鳴をあげて銃を撃ちまくる。アレッシオが着地点をずらすためにショットガンを乱射した。ミミズの軌道はかわらない。
警官たちの顔が絶望に染まった。
私は手で顔を覆おうとした。
一瞬、なにが起こったかわからなかった。
警官たちの後ろで彼らの車が吹き飛んだ。あっけにとられて、振り返った彼らを横薙ぎの一撃がさらった。
立ちこめた血煙の向こうに、巨大な赤ん坊がいた。邪魔な車を下から跳ね除け、地面から這い出ようとしている。母親の腹を食い破って生まれてくる悪魔の子のように見えた。顔はきれいな球形だがよく見ればいろいろな人間の頭の集合体だ。短い手足で這う姿が特に赤ん坊に酷似している。
赤ん坊が地面から引きずり出したもう片方の手には、人間の胴体がぶら下がっていた。血にまみれているが、それは先ほど軽食を渡した私服警官たちの服に違いなかった。
口の中に酸っぱい液体がせり上がってきて、私は口元を押さえた。
「どうしてこんなに集まるのっ? あいつらは私の対の者じゃないように見えるけれど!」
私を何度も襲ってきたのは、逆さまのイソギンチャクのような奴だ。イソギンチャクの触手が腐った指で、それを下にして這いずってくる。アレッシオに攫われた夜襲ってきたのもあいつだろう。
「言っただろう、新月が近くなると奴らが騒ぐって! 近くにいる印持ちなら、奴ら、だれかれ構わないらしいぜ。ん? てことは、レオやクラウディオの対の者の可能性もあるわけだ。潰しちゃまずいか? 俺としてはこの騒ぎをもう少し楽しみたいんだがな」
「それにしたって……騒ぎすぎよ!」
後退してきたアレッシオが、銃身を化け物に向けてせせら笑った。
「身に覚えあるだろ。祭りの日に歯止めがきかなくなって騒いで後悔する」
だが、横顔にいつもの余裕はなかった。ヘーゼルの瞳は、何かを探してさまよっている。
「そういうときは後始末を人に押しつけて、逃げちまえ!」
銃声が耳を穿つ。腕を強く引かれて、もつれる脚でアレッシオについていく。
地鳴りがする。あの二体の狭間の者が追ってきているのだ。
「いいか、自分の名前を繰り返せ! 自分を強く意識しろ」
耳元でがなられ、意味を理解する前に、赤い乗用車の助手席の窓に顔面を叩きつけられていた。衝撃はなかった。頭にぬるりと何かが入り込む悪寒と、顎からぬるい湯に浸かる感覚。湯は顎を伝って上半身を飲み込み、下半身に到達する。耐えがたいめまいと吐き気、頭痛が私を襲う。極彩色の波紋が視界を占拠した。
わけがわからない。方向感覚が失われ、五感が曖昧になる。混乱の極み、必死に自分の名前を繰り返す。
(白石意澄、白石意澄、しらいしいずみ……!)
ふっと、体を縛っていたすべての苦痛が消えた。横面を強かにぶつけて、新たな痛みが生まれ、それで一気に正気に戻る。
狭い空間に押し込められていた。革張りのシート、よくわからないメーター類、持ち主の趣味らしいかわいらしいぬいぐるみがちょこんと飾られたフロントウィンドウ。
車内だ。ドアをあけて乗った記憶はない。つまり。
「まさか壁抜けした?」
荒い息で問う。運転席に座ったアレッシオは気ぜわしい動きで両手をメーターの下に潜り込ませていた。間をおかず、エンジンがかかった。
車体が揺れた。大波に揺られた小舟のように。慌てて手近なところにつかまる。派手な音を立てて、フロントガラスが粉砕した。
見通しのよくなった窓枠の向こうに、顔のない赤ん坊が待っていた。お尻を掴み上げられた車の、後輪の空転する音がむなしく響く。
「イズミ、舌噛むなよ!」
アレッシオの手が流れるように動いてショットガンをつかむと、光を纏わせ硝子を通過し、車をもてあそぶ赤子の横腹めがけて散弾を吐き出した。一瞬だけ自由になった隙を逃さず、乗用車が急発進する。あちこちに頭をぶつけ、なんとか私は座席に這い上がった。
ひしゃげたバックミラーに、猛追してくる赤子とミミズの姿。おぞけが走る。
「やつら、造形美って言葉を知らないらしいな。このまま教会まで逃げるぞ。さすがの俺も、二体同時は無理だ!」
アレッシオがタイヤを鳴らして、ドリフトを決めた。守衛室で目をむいているおじさんと、視線が合った。きっと私も同じ顔をしているはずだ。
教会のある南区への大通りに、車輪の跡を残しながら滑り込んで、私たちはしばし呆然とした。
道が燃えているのだ。赤々とした炎が、夜空を焦がして金色の火の粉を巻き上げている。
燎原の火の前に、何台もの救急車や消防車が集まってきている。消防車が放水しているが、火の勢いはなかなか弱まらない。
「なにがあった?」
アレッシオが窓を開けて、通行人に問いかけた。呼び止められたおばさんは、私たちが乗ったぼろぼろの車をじろじろ見ながら答えた。
「教会の前で事故よ。玉突きよ。怪我人もいっぱいいるって話よ」
教会の前。どきりとした。なんでその場所で。考える前にアレッシオに倣って、地面に飛び降りる。熱気が肌をなでていく。人混みを避け、一本奥に入った道を駆ける。それでも野次馬や通行人にぶつかった。転びそうになる私の腕を、アレッシオがきつくつかんで誘導する。すぐに手先がしびれはじめた。
教会前は阿鼻叫喚だった。
一台のバンの後ろにワンボックスカーが食らいつき、その上でセダンがオットセイのように天を仰いでいる。腹を見せたセダン二台の横を取り囲むようにして大型トラックと積み荷がバリケードを作っていた。
「こら、入っちゃいかん!」
消防士が飛び出した私たちを押し返そうとしたが、教会の関係者だと言ってアレッシオがその手を払いのけ、聖堂に踏み込んだ。
いつもなら寂しげな照明と沈黙に支配されている夜の聖堂。それが今夜は騒がしい。血と煙の臭いが立ちこめている。一時避難場所になっているのだ。床に布を敷いただけで、応急処置を施された怪我人たちが床でうめいている。数にして六人。誰のかわからないが、点々とした血の痕がドアの向こうから続いている。
「どいてくれ!」
ストレッチャーを引っ張って、救命士たちが扉を蹴りあけた。顔一面にガーゼをかけられうめいている重傷者を見事な連携で運び出していく。残りの五人も、間もなく運び出されていった。
「イズミ! どうしたんだ、こんなときに」
頬に煤をつけて、レオが駆け寄ってきた。アレッシオを見るなり、顔をこわばらせる。
「襲われた。遺体安置所で二体だ。今夜は騒ぐぞ」
「騒ぐも何も、既に一体を歓迎、送還済みだ。イズミ、怪我は無いか」
覗きこむアンバーの瞳より、私は彼の両手に目を奪われた。
「レオこそ! なにこの火傷!」
レオの両手はひどい火傷で、皮膚がめくれ桃色の肉が顔をのぞかせていた。
「負傷者を運び出すとき、ちょっとな」
表の事故現場を視線で示した。
「レオ、病院に行かないと!」
「それどころじゃない。夜が明けるまでは籠城戦だぞ、イズミ」
レオの言葉を肯定するように、地鳴りがした。敵の接近にとっくに気づいていたのだろう。アレッシオとレオは、鋭い視線で辺りを警戒している。
外の事故現場で悲鳴が上がった。火はようやく消し止められたところだ。
「外の人たちが心配だ。だが、聖堂の結界も破られている。張りなおさねば」
アンバーの瞳は、外から点々と垂れていた血痕にむいていた。
「お前は引っ込んでな。役にたちゃしない、そんな手じゃ」
むっとしたレオが、負傷した手でアレッシオに掴みかかろうとしたとき、
「俺でも何か手伝えるか」
奥からクラウディオが出てきた。ドナトーニ神父が心配で見に来たのだろう。一緒にやって来た老神父は疲れた顔を緊張の色に染めて、立ちすくんでいた私の手を取った。
「イズミさん、危険ですから奥に避難していなさい」
アレッシオは首を振った。
「あんたらはそれより、この場を清めて結界を張っておけ。血と煙に結界が侵されている。これじゃあたやすく侵入される。避難するには結界が必要だろ」
ひときわ大きな地震がきて、クラウディオが神父を、レオが私をかかえて伏せた。私は悲鳴を上げて頭をかかえた。轟音がして、天井からばらばら音をたて粉塵が降ってくる。
夜風が頬を撫でる。顔を上げると、教会の壁に大穴があいていた。
獲物を求めて彷徨う巨大な手が、見えない壁に触れたように慎重にあたりを探っている。穴の向こうに、白っぽい赤ん坊の巨躯が見えた。頭上で、レオが舌打ちした。
「ごちゃごちゃ言っている暇はなさそうだ。イズミ、二人と下がっていろ」
私を押しやって、レオは尼僧服を翻し駆けだした。走りながら、右の太股にベルトで固定されていた二振りの刃を取り出す。先に走っていたアレッシオと並んで、二人は穴の向こうへ消えた。外から悲鳴とも怒声ともつかない騒々しい声が聞こえてくる。ギャラリーが被害者にかわっていく声だ。クラウディオが立ち上がった。
「外の人間を避難させないと」
「結界の修復をしましょう。この中を清めるのです」
ドナトーニ神父は、粉塵舞う中に飛び込んでいこうとするクラウディオの腕をつかんで放さない。老人の灰色の瞳に、わずかに怯えの色が潜んでいた。
「だめだ。あの二人は今、手一杯だ。誰かが野次馬を誘導しないと」
枯れ木のような手を振り払い、クラウディオが駆け出す。老神父は、がっくりと膝を落とすと大穴の向こうに消えた父親を視線だけで追った。
ドナトーニ神父の気持ちは、痛いほど良くわかった。目の前で、肉親が危険に飛び込んでいけば、心配になるのが当たり前だ。
打ちひしがれたその頼りない肩を抱き起こし、私はできるだけ平静を装って言った。
「とにかく、三人が待避できるように場を整えないと。急ぎましょう、神父様。私は何をすればよろしいですか。神父さまの手足となって働きます」
ドナトーニ神父は、数秒悲痛な顔をしていたものの、すぐに落ち着きを取り戻し、年に似合わぬ颯爽とした身のこなしで、ひざに付いた埃を払うと、言った。
「汚れを落として、清めます」
彼の視線は、聖堂の裏手にある納戸——掃除道具をはじめとする雑多な用具入れ——に向いていた。
「こちらは大丈夫です」
手を振って合図すると、聖水の入った器を手に、ドナトーニ神父がやってくる。
私が必死で血痕をこそぎ落とした入り口の部分に、金の古い器に入った水をまき、私の知らない言葉で祝詞を唱えた。すると、不思議なことに聖水がまかれた部分がきらきら光り、それが連なって入り口を横断する線を成した。とおせんぼするように。
驚嘆する。これが、結界なのだろう。
「きれい……。魔法みたい」
ドナトーニ神父はいぶかしげに首をひねっただけだった。聖なる詔を魔法扱いされたことが不服だったというよりは、私が見た奇跡がまるで見えていないような顔だった。
私は超自然的な存在に近くなったせいで、本来人間が見えてはいけないものまで見えるようになっているのかもしれない。アレッシオが安置所で、感覚が研ぎ澄まされると言ったのもそれなら納得できる。
怪訝な顔の老神父をせかして、そのまま聖堂内に散らばった血痕があった場所を一巡すると、残りは赤ん坊に突き破られた大穴の横だった。
だが。
「きゃあ!」
悲鳴を上げて、傍にある長椅子に手をつく。眩暈を覚えるほどの地震によって、天井の古ぼけたシャンデリアがぎしぎしきしみ、埃が落ちてくる。
外から人ならぬものの絶叫と、パトカーのサイレンが聞こえてくる。打ちつけて痛む右肘をかばいながら立ち上がる。やはり転んでしまった老人を助け起こしながら、ぼやいた。
「なんで今日に限ってこんなに激しく攻めてくるのかしら」
とにかく、仕事はまだ残っている。モップを掲げて、可能な限りの早さで穴のまわりに散らばった埃や土を除去した。
「神父様!」
あとは聖水だけだ。そう思って、注意をドナトーニ神父に向けたのがいけなかった。
穴の上に位置する、採光窓が粉々に砕け散った。そこから延びた長い触手が、悲鳴を上げる暇も与えずに私の体を持ち上げて外に引きずり出した。
窓枠にしたたか後頭部をぶつけ、しばし声を失って頭を抱える。
「イズミさん!」
ドナトーニ神父の枯れた声が小さく下の方で聞こえた。乱暴に振り回され、方向感覚が狂う。目を回す私の耳に、声が飛び込んできた。
「イズミ!? くそ、どうにかしろメランドリ!」
「どうにかできたらしてるって!」
声を打ち消すように銃火が上がり、悲鳴という名の不協和音が上がる。
半ばまで切り落とされていた首と胴の繋ぎ目を完全に吹き飛ばされ、巨大な赤ん坊は重たげな音を立てて頭を地面に転がした。
ぼろぼろに裂けた黒いスカートの下からのばされた長い脚が、その巨大なボールを踏んづけて止める。膜一枚向こうに閉じこめられていた無数の人間の顔は、すぐに溶け腐った血と泥になってアスファルトに染みを作った。
赤ん坊の体は頭を失っては敵わぬと悟ったか、じりじりと後退し地面にとけ込み姿を消した。
アレッシオとレオの二人は事故で焼け跡のついた道路に立っていた。
集まろうとする野次馬を、必死に押しとどめようとしているクラウディオの後ろ姿が、建物の陰にちらっと見える。
私は遙か上方で、それを見下ろしていた。浮いているのだ。夜空が服の裾を煽る。恐怖に声がでない。腹に巻き付いている金色の触手に、思わずすがりつきそうになる。
周囲の二階建ての建物の屋根より、人一人分くらい高い位置に私はいた。後ろを振り返って、さらに絶望的な気分になった。
羽のある、金色の大きな天使がいた。その腹から生えた触手が私を拘束している。天使は、まるで彫刻のように均整のとれた美しい姿態を持っているにもかかわらず、顔だけは疲れた中年の男だった。写真をコラージュしたみたい。他の狭間の者のように巨体ではない。人とほぼ変わらない大きさでありながら、背に感じるプレッシャーは彼らをしのぐ。
私はこの背後のものによく似たものを知っていた。寒々しい石の部屋の光景が、フラッシュバックする。
「イズミ、無事かっ?」
レオが屋根に登り得物を構えた。教会の裏手に備え付けの、錆が浮いた金属の梯子がある。それを利用したのだろう。
アレッシオは壁の凸や窓枠を利用してロッククライミングの要領で屋根まで到達すると、私たちをレオと挟み込む位置どりで立ちふさがった。ショットガンを孫の手のように弄びながら、レオと目で示しあって私たちのまわりをゆっくりと円を描いて歩いていく。
「よう、いい加減にしな。お前がそいつと同化したところで、千年の悲願は達成しないぜ?」
挑発的に笑ったアレッシオは、凶悪だが、手負いの獣のように余裕を欠いていた。
『吾に時間の概念など無い。それを欲すが故にそなたを欲す』
黒板に爪を立てたような耳障りな音が、背後から聞こえた。後ろの奴の声だと気づくに少し時間が要った。
「それにしても、どういう心変わりだ? 仲間を率いてパーティーなんてやる柄じゃなかったろうに」
『そなたを観察して、思いついた。数をそろえればそなたをとらえられる可能性があがるのだと。心変わりというなら、そなたの方がそうだ。なぜ同族を囲う気になった』
「囲うって、愛人みたいだな。あいにくどいつも色気が足りないぜ、貢ぐには。勝手に集まっちまったんだよ」
『そなたたちの言葉で、運命というものか』
「嫌な運命だな、そりゃ」
『運命と言えば、大抵の者は何事にもあきらめがつくようだな。そなたも運命を受け入れて、吾と一体になれば、ありもせぬものを求めて永遠にさまようこともない』
ありもせぬもの? いったい、何の話だろう。口を挟むこともできず、言葉を反芻する。
アレッシオの表情は変わらない。
「ご心配ありがたいが、答えは自力で見つけるタイプでね。学者肌っていうのか」
『それならその研究に結論を呈しよう』
「いらんってば」
『結論を待つもよいが、いささか飽いた。そなたとの鬼事も。そろそろ終わりにせぬか。きっかけが必要ならこれでどうだ』
左の腹部に灼熱感が走った。視界が一瞬白く染まる。悲鳴は出なかった。
震える手でなんとか痛む場所に触れると、そこにないはずのものがあった。狭窄した視野に、カットソーをつらぬいて蠢く金色の触手が映る。
地面から浮いた脚がバカみたいに震える。呼吸が荒くなって、体に力が入らなくなった。
「おいおい、そんなちっぽけな小娘のために、千年守った大事な命と研究を投げ出すとでも思うのか」
『そうか』
次は衝撃だけだった。脳髄が焼き切られるような。たぶん、またどこか貫通しているのだ。それを確かめる余力はない。
「はあー。こうも同化が進むと、悪知恵まで共有されるようになっちまうのかね。なあ、レオ。お前、その体をくれたかわいこちゃんとはどうなのよ」
「知るか。……イズミをどうする気だ」
「心配しなくても、俺、女には優しいんだ」
「どのツラ下げてそんな寝言を」
「あ、もちろんお前は女にカウントしないけど」
レオたちの軽口が少し遠くから聞こえる気がした。続いて、軽快な足音が耳に届いた。
「しゃあない。そいつ返してくれたらせめて一騎打ちくらいしてやるよ。満足だろ。それとも、精神世界でも従順であれってご命令かな」
しばらく沈黙があって、急に体が楽になった。痛みが和らぎ、視界がひらける。
目の前にあったのは、アレッシオの肉食獣のような笑みだった。解放されたのだ。そして、今、私は彼の腕の中にいる。恐怖から解放されて、誰でもいいから縋りつきたい気分なのに、指いっぽん動かす力がなかった。
『さあ、吾とひとつに。その器を吾に』
「お前はまだまだ勉強が足りないぜ。譲歩した時点で、交渉は負けだ!」
轟音と、衝撃と、浮遊感。私は空中に放りだされていた。
アレッシオを包むように展開した金色の触手が、空振りして後退する。金色の人形の腹が散弾にえぐりとられていた。アレッシオは自分の腹二カ所に穴があいているのに、まだ銃火をまきちらしている。その足下で、空振りした触手の一撃を受け屋根が瓦解する。放り出された私は古びたシャンデリアごと、石床に向けて落下する。レオが手を伸ばすが、わずかに私には届かず宙をつかむ。その全てが同時で、一瞬だった。
建材が崩れる音にかき消されそうになりながら、私の耳はレオの言葉をとらえていた。
「イズミ、共有をっ!」
どうやったのか、説明できない。
だが、車のドアを通り抜けたときのように、一瞬極彩色の波紋が広がり、全ての感覚が遠のいて——。
戻ってきた。
うわんと耳鳴りがする。体全体が音叉になったよう。
煙幕がおさまって、ようやく自分の状態がわかった。教会の床に、大の字で倒れている。
まわりには砕けたシャンデリアのガラスや金属の基盤が転がっている。それらがいっさい刺さらず、なおかつ内蔵が破裂した様子もないことから、私は共有に成功したのだろう。シャンデリアと、床に溶けて衝撃を受け流したのだ。
咳込みながら起きあがろうとしたけれど、やはり動けなかった。目蓋まで重く感じる。仰向けで見上げた天井には大穴があって、夜空が見渡せた。じんわり、視界が端から白に染まっていく。
「イズミさん! 大丈夫ですか!」
ドナトーニ神父が狼狽した様子で私を揺すった。だが返事もできなかった。
いつの間にか、大穴の向こうから、金色の人がこちらを見下ろしている。
かつん、と硬い音を立てて落ちてきたものがある。レオの武器だった。柄に、血がこびりついている。
金色の光が、天井から降ってきた。
一条の金色の光。月の光かと思ったけれど、そういえば今夜の月は弱々しくて、光なんぞここまで届くはずもなかった。
金の光がさえぎられた。視界一杯に、真っ黒なものが広がっている。夜空ではない。ふわりと頬を撫でるその黒いものは布だった。ぽた、と顎に何か生温かいものが落ちてきた。
(あ、雨……?)
そこで私の視界は閉じた。




