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第3夜

「サイコーのデートコースだったろ?」

「忘れられないバッドトリップをどうもありがとう。次からは遠慮させてもらうわうええ」

 アレッシオはうずくまって嘔吐する私を、愉快そうに見下ろしている。

 壁やら屋根やらボーダレスに走り回りやがって。道交法とか、サングエにはないわけ? と的外れな苦情が喉元まで出かかる。代わりに出たのは反吐だけ。

 彼はきっと手首から糸を出したり、目玉で飛んでくる弾丸をキャッチするスーパーヒーローをご親戚にお持ちなのだろう。振り回されている間にたどり着いた結論だった。店で抱いたファーストインプレッションはやはり間違いでないのだ。

 他のちんぴらなんか軽く抜き去ってやばい、この男は。

 吐き気が収まらなくて悶えていると、すっと何かが差し出された。水のボトルだった。

「飲めよ、楽になる」

 どういう風の吹き回しか、化け物はにんまり笑うと、ボトルキャップを開けてくれる。

 受け取って喉をうるおす。胃液で焼かれた喉が、少し楽になったような気がした。

 大きく息を吐いて、やっと人心地がつく。

「何なのよ、一体……」

 日本語でつぶやいたのに、雰囲気でそのニュアンスを読み取ったのか、金髪の化け物は親指で道の向こうに見える一軒の店を指し示して言った。

「説明は、あっちでしようか」

 〈Plenilunio(プレニルーニオ)〉と、赤いネオンが自己主張する店は、日本なら未成年入店禁止だろうという雰囲気だ。ドアの前でたむろっている男達のおっかない顔だけで十八禁。今にもあれをぽろりしそうなお姉さん方は二十禁。

 そんな住人達から熱視線を貰いながら、私はアレッシオに従って店へ踏み込んだ。

 店内は広く静かだ。赤い照明に、ゴシック調の内装が照らし出されている。

 アクセサリーがやや過剰なお客たちは、アレッシオを見ると軽く目で合図したり手を挙げたりして親しんだ様子を見せた。

 アレッシオが向ったのは、店の奥の小さなドア。スタッフオンリーのマークが描かれているが、迷わず中へ入る。

 金属製の粗末な階段を登りきると、分厚い防火扉があった。三段階に鍵が掛かっている。

 アレッシオは、徐に手でドアに触れ、三つの鍵を撫でおろした。

 がちゃがちゃがちゃっと連続して金属音が響いた。

 眉根を寄せた私の前で、重たい軋みを上げて防火扉が開いた。

「今の、何?」

「ぼんやりしていると閉まるぞ」

 慌てて部屋に駆け込む。

 アレッシオが手探りで電気のスイッチを入れ、フラットな作りの部屋が明らかになる。

 間取りで言うならワンルームなのだろうけど、面積なら2LDKのクラウディオのアパートより広いだろう。うちっ放しの無機質な壁に窓はなく、天井の通気口とクラシックな大型ファンが空気を動かしている。

 奥に出張っている壁の向こうがバスルームだろう。小さな備え付けのキッチンはコンロもなく、乱雑に汚れた食器が積み重なっている。冷蔵庫は何処にあるかも不明だ。というか、あるのか。

 部屋のどまんなかにキングサイズのベッドがあるが、寝具はない。

 床一面に服やらごみやらが転がって、足の踏み場もない状態だ。

 目を引くのは、玄関から一番離れた奥の壁の辺り。アンティーク調の木の机がどかりとおかれ、その上には堆く書類や本が積まれている。ノートパソコンが一台置かれ、汚れたマグカップが出しっぱなしになっている。

 気をつけて見ると、床に散乱している荷物の下にかなりの本が埋没しているようだ。

 ちらりと見えた、一番近くに転がっているもののタイトルは『フォイエルバッハ論』。

 立ちすくんでいたら、ごみを掻き分けてベッドまでたどりついたアレッシオが、ベッドの上のごみを蹴落として手招きした。

「何飲む? つってもワインとウィスキーと、紹興酒くらいしかないけどな。あ、ラクもあったか」

「……遠慮します」

「あっそ」

 アレッシオはシンク下の収納から琥珀色の酒が入った瓶を取り出すと、口をつけてあおった。観音開きの収納の中に、備え付けの冷蔵庫があるようだ。

 机とそろいのデザインの革張りの椅子にどっかり腰を下ろして、彼は脚を組んだ。

「……ここに住んでいるの?」

「ここは仕事部屋の一つ。本籍はベルリンらへん」

「らへんって適当な……」

「俺のことより、イズミ、あんたのことを聞かせろよ」

 スーツの上着を放って、アレッシオは背もたれに体重を掛ける。

 放り出されたジャケットを拾ってたたんで、私はしばし沈黙を続けた。

「そう警戒すんなよ! 別にとって食いやしないぜ。あんた肉付き悪いし。なんか陰気な感じで、食ったら腹壊しそうだし」

「うるさい。むしろ、こっちが説明して欲しいわね。私、もう何がなんだかわからないわ。廊下にいたあいつはどうしたの?」

「あいつ?」

「とぼけないで。あの化け物よ! あれを見て、なんとも思わないの?」

 腕を抱いて身を震わせる私の前で、アレッシオは肩をすくめた。

「ま、慣れているしな」

「慣れている?」

「ああ。逆に、俺があいつらを探しているくらいだぜ。あんたからはあいつらのにおいがしたから、マークしていたんだよ」

 思わず首筋を手で押さえた。

「あんたを見張っていれば、きっとやつらと遭遇すると思っていた。案の定、そうなった」

「あいつらの正体を知っているの?」

「俺は奴らを狭間(はざま)の者たちと呼んでいる」

 狭間の者。初めて耳にする言葉。

 悪魔、魔物、怪物。そんな言葉を予想していただけに、曖昧な印象だった。

「教えて、あいつらはなんなの? ずっと知りたかったの。あいつらの正体を」

 ときおり、思い出したように襲ってきては私の心に恐怖を植えつけていくあの化け物たち。正体がわかれば、常に抱え続けてきた不安を和らげる事ができる気がする。撃退する方法も考え付くかもしれない。そんな小さな希望が生まれて、私は身を乗り出した。

「いいぜ、教えてやる」

「本当に? ありがとう!」

「有料でだけど」

「……あんまり、お金はないのだけど」

 顔を曇らせると、アレッシオは犬歯をむき出しにした。

「金はいらない。売るほどあるからな。うん? 金って売れるのか? ……まあいい。それよりあんたがやつらに襲われるようになったきっかけを聞かせてくれよ。あるんだろ、これが」

 アレッシオがつるりと目蓋を手でぬぐった。どういう手品だろう。ヘーゼルの瞳にくっきりと、赤い輪が浮いていた。

 息を呑む。だって、その輪を持つ人に出会うのは、クラウディオ以外初めてだったから。




 ——狭間の者について述べよう。

 姿は確かに悪魔的だが、彼らに善悪の価値観はない。ただただ自らの存在意義に従って行動している。そうすることだけが存在する理由であり、それ自体が存在。

 悪魔や怪物という名前を避けたのは、先入観を捨て去るためである。彼らのただ在るがために在る状態に反するものは必要ない

 彼らは本来、肉体を持たない。個を区別するための器や境界を持たないエネルギー体だ。本来ならこの物質世界に姿を現すこともない、不可視のもの。だが無とは違う。物質界と無との間に存在する。だから狭間なのだ。

 説明しやすいよう、便宜上世界の層を定義づけるとする。

 まず我々の存する物質界。固体が存在し、異物同士が溶け合うことなくアイデンティティを主張しあう世界だ。内と外という構造を持つ事で、存在する事を許された世界である。

 もう一つ、こちらは通常、不可視・不可触である。精神世界と言っていい。存在するかどうかは確かめようがなく、その判断は個々人のイマジネイションに依存するが、これも便宜的に存在すると仮定する。

 ここにあるのは、満遍なくたゆたう液体のようなものだ。気体でもいい。エネルギー体が一番ちかいだろう。濃度や内容物に偏りはなく、故に存在しない。どこにもない。

 けれどこの世界にも波が起こる。物質界に向けて個を作ろうとする波だ。その波が彼らを『存在させる』のだ。

 きっかけは物質界からの働きかけだ。物質界で本来存在し得ないものを作り出そうとするとき(たとえばそう、儀式などで)、精神世界ではエネルギーの溶液に濃度のむらが生じ、その部分が限りなく存在する状態に近くなる。その濃い部分が、物質界にあらゆる影響を与える。

 もともと物質界にない超自然的なエネルギーは、なににでも姿を変える。

 たとえば神や天使などの人間を超越したもの。たとえば不自然なほどに一方向に流れる世論などの気運。たとえば抗い難い自然の恵みと脅威。

 それらは物質界に引きずり出され、名前と役割を与えられたエネルギーの固まり。存在することを許されたものたちだ。

 繰り返すがそれ自体に価値はなく、影響を受けた者たちによってそれを決められるのだ。精霊、悪魔、天使。呼び名や状況、自ら及ぼした影響によって本質を決められる。名を与えられると同時に、精神世界から独立し個を確立した事になる。

 問題は物質界の求めに応じたのではなく、条件が偶然に揃ってしまったために作り上げられ、名も与えられずに徘徊しているモノたちがいるということだ。

 それを狭間の者と呼ぶ。

 かれらは存在する為に生まれ、しかし存在する為の個を与えられなかった。

 その存在意義を得るために存在しようとする。個を得ようとする——端的に言えば既に存するものの個を奪おうとする。

 己と波長の合う者を選り中てて、肉体を奪いとろうとする——



 レポートはそこで途切れている。

 私は何度か最後の一文を読み返し、アレッシオを見つめた。

「それじゃあ、私はその狭間の者に狙われているの」

「その目の輪はやつらのマーキングだよ。波長が合った獲物に、最初に仕掛けていく」

「私、死ぬの?」

 赤い血潮の残像が脳裏に過ぎって、遮断するように目を瞑った。

 あの悪夢の日は、私の波長があったために……。そう思うと、やるせなさがこみ上げる。

 しばらく、アレッシオは沈黙していたが、瓶を机に置くと、背もたれに体重を預けて変わらぬ笑みを浮かべた。

「イズミ、死ぬってどういうことかわかるか? 簡単な言葉でいい」

「それは……、生きてない状態」

「生きているっていうのは、どんな状態」

 簡単な問いのはず、当たり前のことなのにわからなかった。

 息をしていること? 心臓が動いていること? 思考していること?

「よく言われるが生と死の定義は曖昧だ。科学者すら決めかねている。どっちも同一直線上にある相対的なものだ。区切りをつけるのは容易じゃない。てか、どうでもいい」

「じゃあ聞かないでよ、そんなこと」

 半眼になって睨む。こっちは本気で怒っているのに、この男はにやりと「元気になったじゃねえか」と言いやがった。

「だけど。存在していないものを生きていると言うことは出来ない。そだろ」

「そりゃあねえ。生きている幽霊とかそんなものでしょう? 矛盾しているわ」

「そうそう。逆に、生きていないものが死ぬ事もできない」

「幽霊は死なないわね」

「ところで、俺、ざっと千年生きてんだけど、何でだと思う」

「は……? 何あなた危ない薬でもキメてるの?」

 思わず口を突いて出た言葉は、アレッシオの哄笑を誘った。

 狭間の者なんて超常的なものを目にしていても、ギネス記録保持者はだしの長寿記録、信じられようもない。これぞ荒唐無稽だ。

「ま、信じるか信じないかはあんたに任せるとして。とにかく俺は普通には死なないらしい。なんででしょう? ここ重要」

 たっぷり三分考えたがわからない。

 アレッシオに目で訴えると、呆れたようにため息を疲れた。これは、かなり傷つく……。彼に馬鹿扱いされるなんて、将来不安だわ。

 アレッシオは指で自分の目を示した。びっしり金色の睫が生え揃った目蓋の下に、赤い輪の浮いたヘーゼルの瞳がある。輪さえなければ、宝石のよう。輪さえなければだけど。

(……輪さえ?)

「まさか、印があるから?」

「おっ前ほんっとばっかなー。印がって気付いたら、普通狭間の者と接触したからって大きな要因を挙げるもんだろ」

「驚けばいいのか怒ればいいのか分からなくなるから、ネタばらしとけなすの同時は禁止」

「はいはい。ま、泣かれちゃ始末に終えないから、とりあえず怒っとけ。要するに、狭間の者に接触して、この印を受けた者は死ねない——生きていないけど、死んでもいない、存在しているけどしていない、まさしく狭間の者と同質になるんだ」

 頭を殴られたようなショックだった。私が、狭間の者?

「個を奪うってのはそういうことだ。死ぬんじゃない。存在しなくなる。物質世界に影響を及ぼせなくなる。あいつらと性質が入れ替わるんだよ。あいつらは存在していないけれど、している状態に限りなく近い。俺達の状態は、存在しているけれどしていない状態に近い」

 コインの表裏のように紙一重の、ただし決して交わらない存在ということか。

「じゃあ、肉体を奪われたら……」

「俺は同化するって言っている」

「同化したら、私は消えてなくなるの」

「ちょっと違う。個を確立できなくなる。アイデンティティが消える。どこにでも存在して、しかしそのために認識できないものだ。プールに一つまみ落とされた砂糖のような」

「そっちのが嫌ね……」

 ただ死ぬなら白石(しらいし)意澄(いずみ)として死ねる。でも同化したら、待っているのは大いなるうつろ。

 死の痛みの方が好ましい。だって、死なないってことはつまり、生きてもいなかったことになっちゃう。

「さて、適当に落ち込んだところで一つ提案だ。お前、同化はしたくないだろ。なら、俺にその日のことをを話せよ。お前に印を残した対の者がどういうきっかけで生じたかが分かれば、対策が練れるかもしれない」

「本当に?」

「約束はできない。何しろ、俺の長い人生で、同士に出会ったのがまだ十三人。しかも、十二人は同化しちまった。残る一人はちょっと理由ありでね」

 本当は藁にもすがる思いだった。死にたくない。消えたくない。

 でもあの日のことを言葉にするのは、まだ辛い。

 漸く過呼吸の発作を抜け出たばかり。未だ夢で私の心を痛めつけていく嵐の記憶。

 ——それを、今?

 恐怖がよみがえり、私の右手が震え始めた。

「今はまだ思い出したくないの」

「手遅れになるぞ?」

「こ、心の準備が要るのよ。わかるでしょう」

 この肉食獣のような男の前で弱みを見せるのは怖かった。

 しかし、アレッシオは鼻で笑う。その笑顔がどこか怖い。

「俺も連中も待つのは嫌いだ。連中は年中無休だし、俺も貴重な資料を連中にこれ以上持っていかれちゃ困る」

「資料ですって」

 あまりの言い草に、私は眉をひそめた。

 悪びれたふうもなく、アレッシオは脚を組み替える。

「資料だ。俺の趣味、レポート書きなのよ」

 彼は古ぼけたレポートの束をばさりと鳴らす。

 この男が机に向っていそいそと文字書きしている様を想像してみる。……似合わない。

 毒気を抜かれかけるものの、かわりにむちゃくちゃな言い分への怒りが沸いてくる。

「今日はどうもありがとう。助かったわ。でも、私は貴方の資料にはならない」

 立ち上がった私を、アレッシオが引き止めた。

「まあまあ、待てよ」

 アレッシオはがさがさとごみ溜めをあさると、よれた新聞を引っ張り出した。

 今年の二月の新聞だ。

 踊る文字を見て、私はぎくりとした。

 『ローマ大講師夫妻不審死! カーニバル中に殺害か』

 下品なゴシック体の下に、ドス黒く染まった煉瓦敷きの路地の写真がある。見覚えのある店の看板が、小さく映っていた。

 アレッシオが得意げに諳んじる。

「ローマ大学で教鞭を執っていた日本人講師ヨシノブ・シライシ氏、その妻タエコ夫人がヴェネチアで、カーニバルの最中、遺体となって発見された。現場は隘路で、人通りは祭りの最中とはいえ比較的少なかったためか、目撃者は同行していた娘一人のみ。遺体の損傷は激しく、内部から切れ味の悪い刃物で——」

「やめて!」

 金切り声が喉から溢れた。自分の声とは思えないほど攻撃的だった。

 怒りを込めて目の前のサディストを睨みつける。視線で人が殺せるなら、私はアレッシオを百回は殺しているだろう。

 頭は血が上ってくらくらするのに、手足の先は氷のよう。感情が高ぶりすぎて上手く処理しきれず、涙が浮いた。

「そうよ、それは私の両親よ。どう、これで満足した?」

「知りたいのはそんなことじゃねえよ。あんた、この場にいたんだろ」

 獲物を見つけた捕食者の目だ。

「なあ、何を見た? お前に印を与えた対の者はどんな姿だった」

 アレッシオは私の殺意の篭った視線なんて何処吹く風で酒をあおっている。

「私、帰る」

 恐怖に背を押されてドアに走った。三重の鍵に飛びつく。

 三つ目の鍵を開けたとき、背後に気配を感じた。焦って、肩からぶつかるようにノブを回した。だが、ドアは開かない。

 頭上に腕があった。

 アレッシオが背後から覆いかぶさるように手をドアについているのだ。

 彼はそのまま、腕を下へ動かして、部屋に戻ってきたとき同様、鍵を閉めていった。

 鍵自体には直接手を触れずに。手を鋼鉄製の扉にめり込ませて。

 ううん、めり込ませるというのも正確じゃあない。

 彼の手首から先は水に突っ込んだようにするりと溶け込んでいるのだ。金属と同化している。手首と扉の境目が、淡く発光している。

 内部で直接ピンをいじって鍵を閉めているのだ。そう気付いて、総毛立つ。

 最初に鍵を開けたのを見たときは、一瞬だったから見間違いかと思った。

 説明できない現象を前に、私の膝が震えた。

 化け物——そんな言葉が喉まででかかる。

 首筋に、生ぬるい息がかかる。かすかにムスクの香りが鼻腔をくすぐる。

「そう簡単に逃がすかよ。久々の同士だ。つっても、あんたみたいな新米、同士というには頼りないけどな」

 すっと降りてきた腕は、抵抗もなく私の右肩にめり込んだ。ぬるいお湯に浸かるときの感覚に似ている。痛みも衝撃もないのに、異物感と圧迫感がある。腕が自分の体のどこを通っているのか、はっきりわかる。

 荒く呼吸を繰り返す肺を通って、空っぽになった胃をかすめ、喉をくすぐる。最終的に、扁平な胸の中で落ち着いた。

 指を開閉する感覚が伝わってきた。不思議な事に、自分の手指を握ったり開いたりしているような錯覚がある。

「俺はこうやって体の一部だけを同化させることを、『共有』と呼んでいる。今、共有を解いてみようか。どんなふうになるかな」

 そんなの、説明されなくてもわかっていた。

「……目的は何」

「研究に付き合ってもらう。それだけ。ま、難しいことは無しよ。答えはオーケイ、だな」

 胸の中にあった腕がぐっと上に上がってきた。息苦くて私は振り返る。

 アレッシオが白々しい蛍光灯の逆光の中で、犬歯を見せびらかせた。

(天使の皮をかぶった悪魔め)

 罵りの言葉が口から飛び出るより早く、息がつまった。

 彼の手は、私の額を貫いていた。

 吐き気がする。天地がひっくり返る。

 何が起こっているの?

 視界は真っ白な光に満ちて、私の意識は拡散していった。


 

 

 正方形の広い石造りの部屋に、彼は一人立っていた。灰色の床には、三重の同心円の魔法陣がある。円の中に描きこまれた複雑な図形と文字の合間に、獣脂蝋燭の皿があり、ゆらゆらと橙色の明りを灯していた。

 部屋中に不思議なにおいが立ち込めていた。四隅に置かれた香の皿が発生源だ。思考力を奪い、感覚を高ぶらせる特別製の薬草。

 彼はローブの裾を払って、魔法陣の周りを歩き回る。途切れることなく呪文が口ずさまれて音楽のようにも聞こえた。歩くたびに、手にした鈴がしゃんしゃんとなり、がらんとした部屋にこだます。

 鈴の音が止み、彼は立ち止まる。

 最後の仕上げだ。

 薬で正体をなくした娘——彼の妻と成るはずの乙女——の手首を浅く銀のナイフで切り裂いて、鮮血を採取した。本来なら、心臓を捧げるべきだが、それはこのやり方で上手くいかなかったときにしよう。彼はそう冷静に考えていた。

 ナイフを伝う血を、魔法陣の中心にある星のまんなかに垂らした。

 いよいよである。

 これで、教会と彼と、どちらが正しいかの結論が出る。

 彼は最後の一句を唱えようと口を開きかけた。

 断りもなく、扉が開いた。

『アレッシオ・メランドリ! 悪魔崇拝の罪で逮捕する!』

 武装した男達がなだれ込んできて、魔法陣を踏みにじった。

 男達は彼を荒縄で縛り上げ、手ひどく蹴り飛ばした。

 しかし、彼はそれを他人事のようにかまわない。虚空を凝視している。

 いぶかしげに、戎装の兵士がそちらを見遣る。そして、言葉を失った。

 美しい者がいた。肌は淡く光る金色で、髪は太陽の光を縒ったよう。古代ギリシアの衣装のような薄布をまとい、双眸は固く閉じられている。

『儀式は阻止したはずだ! 不完全なはずなのに、何故!』

 兵士達が動揺したと同時だった。すさまじい烈風が逆巻いた。肌を切り裂かれて、兵士達がなぎ倒されていく。

 縛り上げられた彼だけが無事だった。彼のまわりを風がよけて通る。

 あたりの惨状など無視して、美しい者はそっと彼に歩み寄る。

 閉じられていた目蓋があがった。金の瞳に、真っ赤な輪が浮いている。

『お前の名前はなんだ? 呼び出したからには、俺の魂を所望するだろう』

 美しいものは、無言のまま、そっと彼の額に触れた。しびれるような快感が、彼の脳髄を駆ける。

『消え失せろ、悪魔め!』

 空気を裂いて、矢が続けざまに三本飛んでくる。烈風に叩き伏せられてなお、気丈に起き上がった者がいたのだ。

 だが、標的は虚空に溶ける様にして姿を消していた。


 大音量の、壮大なファンファーレが、頭蓋を打ち砕かんと鳴り響いた。


「なななな、何っ!」

 飛び起きると、強烈な頭痛に襲われた。

 こめかみを揉み解しながらゆっくりまわりを見回すと、ごみに埋もれた自分がいた。スプリングが壊れたベッドが軋む。

「お目覚めか。何か飲みたい物は? エスプレッソ? オレンジジュース? 水?」

「いらないわ……。今は?」

 窓の無い部屋では、時間はおろか昼か夜かも分からない。

「日付変わって朝八時」

 アレッシオが、ごみに埋もれた年代もののコンポをいじっていた。シャワーを浴びたのだろう、腰にタオルを一枚巻いただけの格好で、金の髪から雫が垂れている。しなやかな筋肉が鎧のようだ。

 私は身構えて、すぐにやめた。何かするなら寝ているうちにされているはずだ。

「この曲止めてくれないかしら……。酷い気分なの」

 悠々と歌い上げられるオペラは、こんな気分では楽しめない。

「なんだよ。嫌いか、プッチーニの『トスカ』」

「そうじゃなくて。頭の中が引っ掻き回されたみたいに痛むのよ」

 すると、アレッシオは残念そうに音楽を止めた。部屋に静寂が訪れる。低音で途切れなく聞こえる天井のファンの音が、こんなにも心地よいとは。

「引っ掻き回されたって言うのは、あながち間違いじゃないな。見せてもらったから」

 彼は両の手を軽く開閉させる。

「記憶も五感も共有できるんだぜ。慣れれば、インターネットを使うように、相手の頭の中から必要な記憶だけ抜き出すこともできる」

「そんなやり方あるなら、最初からそうすれば良かったのに。押し問答の手間が省けるじゃない」

 アレッシオはロイヤルブルーのシャツに袖を通した。

「そうしても良かったが、慣れてない奴にはダメージがでかいからな。狭間の者同士は境界が曖昧だから比較的共有し易いが、その分同化もし易い。元の二つに戻れなくなる。自分の顔貌を強くイメージするとか、確固たる自分ってものを持っていないと、溶け合っちまう。共有しているときは、境界は取り払われるんだ。便利だぞー、鍵開け壁抜けなんでも有りだ」

「うえ。じゃああの時私達、細胞レベルでミックスされていたってわけ?」

「もっとずっと細かい単位でだな。なんかやらしいだろー」

「自分が汚された気分よ」

 毒づき、思い至る。

 共有している間は、境界がない。ならあの奇妙な夢は……?

「さてそろそろお姫様を保護者のもとに送り届けないとな」

 着替え終えて、アレッシオは腕時計をはめる。自動巻きのなんか高そうなやつだ。

「安心しろ。保護者にはちゃんと連絡がいっているはずだ。朝十時に南区の教会な」

「いつどうやって連絡とったの? 連絡先なんて知っていたの? そもそも私に保護者がいるなんて……」

「マスターの情報だよ。『あの子のこと、何でも知っておきたいんだ』とか言ったら、丁寧に住所も同居人の存在も教えてくれた」

 マスターのおしゃべり。少し恨みがましい気持ちになる。

「じゃあ、まさかクラウディオの携帯電話の番号まで聞いたの?」

「まさか。野郎の番号なんていらないしな。書置きだよ、書置き」

「書置き? そんなのしている暇があった?」

「玄関前でぶっ倒した奴の血反吐で、壁に。あれなら目立つから見逃しは無いだろうしな」

 胸を張るアレッシオの横で、私はざっと血の気が引いてしまった。

「ばっ……! あなたね、近所の目とかあんのよ、あんな場所でも! ごめんクラウディオ、こいつ馬鹿でほんとごめん!」

「なんだよ人の親切心を」

「善意ならなおさら悪質よ!」

「そうそう。そのクラウディオって奴も狭間の者だってな。驚いたな。こんなに近くにもう一人潜んでいるとは。しかも、それなりに奴らからの防衛方法を見つけている。てことは、結構年輪を重ねてるんだろうな、あんたの保護者は。一体どういう経緯で狭間の者になったのやら」

「知らないわよ。クラウディオに手を出したら、承知しないわよ」

 睨み付けるが、アレッシオは肩をすくめてにやにやする。

「そんなこと、お前に言われてもな」

 かっとなって、そこらにあった服をまとめて投げつけたが、アレッシオは涼しい顔。じゃあ、とばかりに手近にあった本を投げつけようとして、はたと手を止めた。

「これって、ロレンツォ・チャンじゃない! しかも『彼岸の呼び声』! 幻の絶版本がなんでここに?」

 端っこが、ちょっと汚れているけれど、紛れもなくチャンの『彼岸の呼び声』だった。

 もともと発行部数数が少なかった上に、出版社がつぶれ、ファンの間では高値で取引されている希少本である。歴史ミステリー巨編と銘打たれている。

 チャンは、コアなファンの多い作家で、大々的に売り出される新進気鋭の作家とは違うが、出せば必ず一定数は売れるというタイプだ。

 実は私も彼の作品をこよなく愛する者の一人。

 あの先の読めない展開にはまり込み、抜け出せないでいる。

 作品もさることながら、作者のチャン自身もミステリアスな人物で、その人となりは殆ど不明だ。ペンネームは男性名だが、実際に男性なのかも不明。

 ちなみに一九八〇年に出版されたこの本、私は未読である。

「なんだイズミ、チャンなんて読むわけ? 歴史なんてやめて恋愛小説でも読めよ。少しは色気がつくんじゃないか」

「……お父さんが好きだったのよ、この人。私もはまっちゃって。時代校正しっかりしているし、とくにキリスト教関連の記述がすごいの、緻密で。小説としてのスパイスも効いている。テンプル騎士団とか、バビロン捕囚、あとはボルジア家関連の話とか。ただ世界大戦をテーマにした二作はいまいちだったかな。リアリティが売りなのにすっかりそれが潰れていて」

「出兵しなかったんじゃないのか」

 持ち主のくせに、アレッシオの反応は淡白だ。もしかすると、チャンのことがあまり好きじゃないのかもしれない。

「欲しけりゃその本持って行け」

 思わぬ申し出に、私は息を飲んだ。

「いいの? 希少本なのよ?」

「その辺に転がっているのは全部用済み。本宅に来ればもっといろいろあるしな」

 それってどんな宝の山かしら。

「あ、ありがとう」

 突然、頭をわしわし撫でられた。

「あんた根暗っぽくて目つき悪いし血色悪いし猫背だし肉付きもいまいちだから、そうやって笑っていた方がいいぜ」

「なんでそしりの方が褒め言葉より多いの」

「自覚しておけば、直せるだろ」

「少なくても根暗と目つきは無理よ」

「違いない」

 大笑いされる。……なんだか、釈然としないんだけれど。

「さあ、そろそろ出発するぞ。店で朝飯を食おう」

「——お金持ってきてないから、貸して」

「あのなあ、そのくらいおごってやるよ」

 本の件もあるけれど、悪い奴じゃないのかも。

 ……私、餌付けされてる? もしかして。

 仏頂面で、本を小脇に抱えて立ち上がった。

 


 教会は、私がまだ立ち入った事のない地区の一画にあった。建物自体はかなり古そう。

 元は白かったろう漆喰の外壁はところどころ剥げて、中の建材を覗かせている。大きさは平均的な民家とさほど変わらない。質素な門扉の横には、剪定された木が整列している。

 教会の前には、刺青を誇らしげにしているマッチョや白目を濁らせた老人など、見慣れたサングエの住人たちがうろついていた。

 大音量の『トロヴァトーレ』を流すシルバーのオープンカーが突っ込んでくると、かれらは怒声と罵声を上げてばらばら散った。

「おー。ボウリングみたいだな。さて、イズミ、着いたぞ」

「……あなたの辞書に、安全って言う言葉はないわけ?」

 肩で息をして、私は助手席から転げ降りた。動かない地面にキスしたい気分。

 タイヤ痕の残る速度で普通道をジグザグ走行されちゃたまんない。

 なんど人や車に衝突しそうになったことか。そのたび、驚きのハンドル捌きでこの男は障害物を回避してきたけれど、私の心臓は破裂寸前だった。

 よろめきながら、改めて教会を見上げる。

 こんなところに教会があったなんて。

 鳩が飛び行く晴天を背景に、そこだけ平和的に見えないこともないけれど……。果たしてこの町の住民が、生活に教会を必要とするかはちょっと謎。

 現時刻は九時二十分まだ指定の時間まで余裕がある。

 アレッシオにくっついて教会の扉をくぐった。

 教会は内装も質素だった。くたびれた椅子と祭壇。天井から吊るされた古びたシャンデリアにも蜘蛛の巣がカーテンのように連なっている。

 参拝者の姿はなく、朝方の少し冷えた空気と静謐とが空間を支配している。

 朝日が差し込むステンドグラスが、光彩陸離としていて、私は目を細めた。単純化されてなお優しい聖母の微笑が床に大きく投影されている。

 ステンドグラスの前に小さな人影があった。

 その人は振り返って、皺深い顔をさらにしわくちゃにした。老い屈った体にキャソックを纏っている。

「これはこれは。朝早くからすばらしい事ですね、アレッシオさん」

「悪いがここで人と落ち合う約束をしているんだ。しばらくここにいても?」

「もちろんですよ。ところで、こちらは?」

「イズミ・シライシです」

「初めまして。神父のドナトーニです」

 握った手は皮膚が厚く、かさついていた。

 アレッシオは無遠慮に椅子に腰掛けると、ジャケットのポケットに入れていたポータブルオーディオプレーヤーをいじり始めた。首の後にかけていたヘッドフォンを耳にあて、ご機嫌で首を上下させ始めたはいいが、音漏れが激しくて迷惑きわまる。

 漏れ聞こえるメロディはなぜか『ランメルモールのルチア』だ。そんなにのれる曲じゃない。悲劇だし。オペラだし。

「失礼ですが、日本の方ですか」

「あ、ええ」

 神父は灰色の目を細くした。

「イタリアには留学で?」

「ええと、両親の仕事で……」

 言葉を濁すと、ドナトーニ神父は素早く察して話題を変えた。

「本をお読みになるのですか」

 私が脇に抱えた本に視線が向いている。柔らかい灰色の双眸に、ステンドグラスの色が映りこんで綺麗。

「ちょっとだけ。好きな作家だけですけれど」

「好いことです。本は人生を豊かにしてくれます。おや、……これはチャンの作品ですね。御存知ですか、彼、イタリア人らしいですよ」

 いたずらっ子のように目をきらめかせ、老神父が口の端を上げた。

 チャンの素性は謎だらけ。ファンとしてはその言葉を聞き逃せない。

「名前からして中国系ですが?」

「ペンネームですからいかようにも。しかし、彼の物語はイタリアが中心のものが多い。原書は英語のようですが、ドイツ語とイタリア語もいけるようですよ。ラテン語も解読できるようです。聖書を引用するところがあるでしょう、ラテン語で。年齢は、最初の著作から計算して若くて五十前後と推測できますね。一九七〇年に処女作が刊行されている」

「まるでシェイクスピアみたいです、謎だらけ。神父様もチャンがお好きなのですか」

「コレクションをご覧になります? 彼の考えに興味があって、総ての著作をそろえていますよ」

「総ての! すばらしいですね!」

 思わず興奮気味に胸の前で手を組むと、老神父はさらに笑みを深めた。

「作品の冒頭に必ず添えられている一文があるでしょう」

「これですね」

 私は、ぱらぱらと本のページを繰った。

 『認識せよ、区別せよ。意識され初めて世界は存在を許される』。常にチャンの作品に挿入されている一文だ。

「そう。この文です。必ず彼の作品に挿入される一文。私は彼のこの歴史観が気に入っています。認識され分析される事で、初めて歴史は実際の出来事だったとわかるのです」

 和やかに言う老人の横で私は別のことを考えていた。

 この一文、どこかで——。

 その時、両開きの扉がばたんと騒々しい音をたてて開いた。

 肩で息をして駆け寄って来るのは、見まごう事なくクラウディオだ。

 私が笑顔で駆け寄ると、言葉をかけるよりさきに、全身をくまなく探られた。ちょっと、過剰なほどに。いや、クラウディオだから許すけど。他の男がやったら大声出すか、奥歯の二、三本は覚悟してもらう程度。

 最後に口の中まで覗きこまれ、入念なボディチェックは終った。

「……無事だったか……」

 長大息。……私も同じくため息ひとつ。

「今朝早くに帰ってみたら、部屋の前に悪趣味な書置きがあったんだ。誘拐かと思って肝が冷えた」

「ごめんなさい。不可抗力だったの。でも、クラウディオこそ、何処行っていたの? 昨日は大変だったんだから」

「急な仕事が入って、夜景を撮りに行っていた。テーブルにメモを置いていっただろう」

「生憎、電球が切れていて気付けなかったの」

「そうか。……あの様子だと、奴らが来たな。大丈夫か? 怪我はないようだが」

 元気付けるように肩を叩かれた。その力強さに心底安堵し、同時に涙が浮いた。

 あのときの恐怖がぶり返す。クラウディオにしがみついて泣きたい気分だった。

 慰めるようにクラウディオが腕を広げたが、

「俺を無視して盛り上がるの止めてくんない。寂しくて死んじゃうわ」

 ヘッドフォンを外して、ひらひら手を振るアレッシオ。クラウディオは腕を引っ込めて、厳しい表情を作った。

「彼女を拉致したのは君か」

「そんなことはどうでもいい。保護者さんよ、あんたにもこれあるんだろ」

 アレッシオは、よっ、と言いながら脚を振った反動で起き上がり、自分の目を指差した。

 ヘーゼルの瞳に浮いている赤い輪。

 クラウディオは起伏に富んだ顔をさらに険しくして、目を角立たせた。対するアレッシオは飄々としたもの。

「俺はアレッシオ。昨晩、あんたの可愛い姫君を救ってやった善意溢れる市民だ」

「……彼女を救ってくれたこと、感謝する。それでは」

「おーいおいおいおいおい! 待てよ、なんだってお前ら揃いも揃って俺の話を聞かずに逃げようとするわけ?」

「必要ないからだ」

「まあまあ、お話でしたら、落ち着いてゆっくり穏便に。椅子でどうぞ」

 老神父の勧めるままに、私たちは腰を下ろした。

「私は席をはずしましょう」

「ドナトーニ神父、心遣い有難いがすぐ帰る」

「まあそうおっしゃらずに」

「……二人とも、知り合いなの?」

 慣れたように話すクラウディオとドナトーニ神父の二人が気になった。

 問うと、神父は笑みを深め「子供のころからの知り合いですよ」と言った。

「クラウディオだっけ。あんた……、いや、説明するのは面倒だな。あんたは男だから遠慮はなしだ。ちょっと頭借りるぞ」

 まさか、あれをする気なのか。あんな疲れるものを?

「だ、駄目!」

 アレッシオが手を伸ばすのと、私がそれに飛びつくのは同時で、けれど私の力じゃアレッシオの動きを止めることはできなかった。

 ずぶりとクラウディオの額に、アレッシオの手指が埋まる。

「う、ぐあっ!」

「クラウディオ!」

 クラウディオが悲鳴をあげて仰け反った。その弾みに、アレッシオの手が外れる。

 私はクラウディオの頭を抱え込んだ。

 アレッシオは一度深呼吸したに過ぎないが、クラウディオは苦しげに胸を上下させ、額に珠の汗を浮かべている。

「ふうん。なるほど。奴らが『境界』を越えられないという性質があることは発見している。部屋に護符による結界を張って、外と断絶することで進入を防いでいた。けれど、それ以外は殆ど知らないみたいだな。何故、あいつらが出現するかとか」

 境界。つまり、外と内を完全に分け隔てられた空間の境目のことだろう。たとえば、私たちの住むアパートも、護符で境界を作っている。

「今、一体、何を?」

「聞かなくてもわかるだろ。共有ってことは、あんたも俺の記憶をぶち込まれている。総量が違うから、全部じゃないだろうがね。それでも俺が今まで蓄積してきた狭間の者の知識はそこそこ得られたはずだぜ」

 クラウディオの無言はすなわち肯定だった。

「そう怖い顔すんなって。俺は奴らに関する情報が欲しい。あんたらは同化を免れたい。利害は一致するだろう? お互い協力し合わないか?」

「断る」

 クラウディオは間髪いれずきっぱり言った。アレッシオが唇を尖らせて彼を指差し私を睨む。聞いたか今の、とでも言いたそうだ。残念ながら、私もクラウディオに同意。両の掌を仰向けてやると、アレッシオが舌打ちした。

「あーあーそうかい。わかったよ、好きにしろ。ただ一つ、心優しい俺が忠告してやるよ」

「いらん。いくぞ、イズミ」

 腕を掴まれ立たされて、抗うことなくそれに従う。背後でアレッシオが声を張り上げた。

「何かあったらここを頼れ。教会は外界と区切られた結界(サンクチュアリだ」

「お気をつけて」

 手を振る老人に会釈を返して扉をくぐった。思い出して振り返るとアレッシオのふくれ面があった。

「あなた、どうして召喚の術なんてやろうとしたの」

 今度はアレッシオが掌を上にして見せる番だった。扉が閉まる。

 クラウディオがバイクのエンジンを吹かした。手渡されたヘルメットを被り、後に座る。

「神父様の前で、散々、狭間の者の話ししちゃったけれど、大丈夫かしら」

「……構わないさ。彼は俺がそういうものだと知っている」

「え?」

「きっとあのいかれた奴がそうだってことも知っていたさ」

 クラウディオもヘルメットを被る。

「子供のころからの知人だと言ったろう。彼は、狭間の者……だったか? それではないが、力になってくれる。あの男の言葉じゃないが、何かあればここを頼るといい」

 頭をぽんと叩かれた後、バイクがゆっくりすべり出した。

 なんとなく、私はそれ以上のことを訊けなかった。クラウディオの表情が硬かったからかもしれない。


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