第2夜
眠りを妨げたのは小さく控えめなノックの音だった。
この辺りでは気味悪い絶叫や轟音は当たり前。そんな中では全く目立たないような音だ。
なのにそのこんこんこんこんと一定のリズムで聞こえてくる音で私は目が覚めた。
用事があるならドアチャイムを鳴らせばいい。どこかの酔っぱらいのイタズラだろう。
ノックというには長すぎる断続的な音は、うっすら覚醒した私の意識にじんわりしみこんでくる。
(ノックが好きだなんて、世の中奇特な趣味をお持ちの方もいるものね——)
覚醒しきらない頭の中でそんなひねくれた言葉が浮かんでくる。今日は休みだし、もう少し眠っていたい。再び意識を手放そうとしたのだけど。意に反して頭が冴えてきた。
「……最悪」
これ以上目をつぶっていてももう眠れないだろう。ため息をついて上体を起こす。
相変わらず爽快感はない。
蛍光塗料でぼんやり光る時計を見れば、今はPM十時十分。私は実に十二時間、半日も眠っていた計算になる。
(いくらなんでも、寝過ぎよ私)
ベッドを降りて、習慣で枕の下に置いていたベレッタを手にとる。習慣といっても、これはそんなに長く続いている習慣ではないけれど。
部屋は墨を流したような闇に包まれていた。ブラインドを少し開いて外を見れば、黒いクレヨンで塗りつぶしたような夜空が広がっている。新月だ。
明りをつけるのも面倒で、暗いままの廊下に出る。
クラウディオは外出したみたいだ。部屋のドアが開け放たれているが、真っ暗だ。
——ノックの音はまだ続いている。
もしかして、ドアの向こうの誰かは、私の留守中もこうやってドアを叩き続けていたことがあったのではないだろうか。もしそうだったら嫌だ。
うんざりした気分で、ダイニングルームの電気のスイッチをオンにした。この部屋と玄関の間にドアはなく、家にはいると直接ダイニングルームに入れるつくりになっている。
「あれ?」
電気が点かない。もう一度スイッチをオンに直す。かちりとたしかにスイッチが入る音はしたのだが、一向に点灯しない。ブレーカーを確認したが、ちゃんと上がっている。電球が切れたのだろうか。
ちょっとした不都合にいらだつ。ノックの音はそれを助長した。
この時間なら、まだ近所の雑貨屋がやっているかもしれない。でも夜歩きは危険だ。治安が悪すぎる。しかし、一晩真っ暗というわけにもいかない。
頭をがしがしと掻いて、唸る。ノックの音が耳障りだ。考えがまとまらない。
そこでようやく、電球を買いに行くのなら、ドアを開けなければならないということに気づいた。どこのどなたかは知らないが、とりあえずあまりまともでない人物が外にいるわけで。そうなるとそもそもこの部屋を出ること自体不可能じゃない?
一体、どこのどいつがこんな気持ち悪いイタズラをしているのか。
とりあえず確かめるだけ確かめて、もし本気でやばそうな相手だったら、役に立たないと思うけど警察を呼ぼう。思い立って、静かにドアに近づいた。
ドアの前にそっと立って、はめ込まれた覗きレンズに顔を寄せる。外は真っ暗だった。
不思議に思った。玄関のドアの上には、外灯があるはず。光がドアの下の隙間から漏れ込んでいるのだから、外灯はしっかり点いているわけだ。でも覗き穴の向こうは真っ暗。
「なんで?」
もう一度レンズをのぞき込んだ。
背筋が凍った。
誰かが、のぞき込んでいる。
くるりと動いたその黒と茶は、瞳孔。ここまでぴったり眼球が見えるということは目玉をレンズに押し付けているのか。それなら光源はどうなっているんだ。もろもろの問いかけは恐怖の暴風によって、頭の端っこに吹き飛んで、私は悲鳴を上げてしりもちをついた。
心臓が爆発し、冷たい汗が背筋に浮く。
ノックの音が、唐突に止んだ。
そのままじっとドアとにらめっこをしていたが、ノックの音が聞こえてくることはない。
極度の緊張に胸が苦しくなり、唇の隙間からひゅっと音をたてて息がこぼれた。
そのとき。
『あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ』
か細い女声が壊れたレコードのように、同じ高さ同じ強さで繰り返しはじめた。
それを追うように、ドアの向こうから衣擦れのような音が聞こえだす。
なにか粘度の高いものが触れるような、べちゃべちゃと耳障りな水音がまじる。
どの音も大きくはないのに、妙に頭に響く。
そしてまたひとつ音が増えた。
カリカリ硬いものをひっかくような音。
唯一まともに動かせる目だけで、音源を捜す。捜さなければいいのに、捜してしまう。
部屋に漏れ込んでこんでいる外灯の光が不自然に途切れている。ドアの下、蝶番のある側の隙間、板を打ち付け開かなくしたポストの隙間。そこから棒状の何かが蠢動して、音を立てながら部屋の中へと潜り込もうとしている。
闇に目が慣れてきたことを、心底悔やんだ。
隙間という隙間から進入しようとしてくるそれら、棒のようなものは……腐り、ところどころ肉のそげ落ちた、人の指だ。
ずるっと、一本の指が長く伸びて侵入してくる。
壁にかけられている幾何学模様の額が、青白くスパークした。額同士を結ぶ紐状の稲光が部屋をぐるりと包囲する。雷が落ちたように、一瞬だけ室内が明るくなる。
その紐に弾かれ切断された指が眼前に転がった。
毟り取られたように爪のない指は、無念そうにもがくと悪臭を振りまいて、形を崩した。
残ったのは、腐臭を放つ赤黒い血だまりだけ。
その間、私は悲鳴を上げ、狂ったように後ずさっていた。背には壁の感触。
「やだ……!」
声が震えた。情けない事この上ないが、泣きそうだった。
この化け物をなんと呼べばいいのか、私は知らない。今まで何度襲われたことだろう。何度か遭遇したから恐怖にも慣れるだろうと思ったのに、そうはいかないみたい。
今までこいつらが襲ってきたときは、クラウディオがいてくれた。今は、いない。
(やめてよ、やめてよ、やめてよ! 思い出したくないの! もう、放っておいて……!)
指先が冷たく、背筋には嫌な汗が流れる。目がちかちかする。気が遠くなりそうだ。
震える手で、必死にベレッタの安全装置を外し、ドアに向けて構える。一度も撃ったことのない銃は、やけに重たく冷たい。
歯の根があわない。照準も定まらない。背中にじっとり脂汗をかいている。
(クラウディオ、助けて!)
彼がここにいないことはわかっている。それでも願わずにいられない。
「来ないで!」
声の末尾に覆い被さって轟音が耳を穿った。家屋解体のとき、モンケーンをぶつけたような振動まで襲ってくる。音にあわせて、ぼろアパートの天井がぱらぱら細かな塵を落とした。
音は二度、三度と続いた。そしてはたりと鳴り止んだ。あの、不気味な三重奏も同じく鳴り止んでいる。
無音だった。
極限の緊張に心臓が痛い。荒い自分の呼吸音がひどく耳障りだ。
ごくり、と唾を飲み込む。
その刹那、荒々しい音と共にドアが吹き飛んだ。
額の幾何学模様——クラウディオは結界のかなめだと言っていた——が破裂音を上げて粉砕する。小さな火花が散った。
私は反射的に引き金を引いていた。破裂音とともに鉛玉が弾き出され、腕が抜けそうな衝撃が走る。目を開けていられない。連続で、とにかく必死に引き金を引き続けた。
四発目の引き金を引こうとしたとき、がっちりと手を何かにホールドされた。
(ああ、私、死ぬのね)
お母さんやお父さんみたいにあいつらに殺される。諦念が心を満たしたとき。
「歓迎の挨拶にゃ、激しすぎやしないか?」
聞き覚えのある声がした。恐る恐る目を開く。
開け放たれたドアの向こうから、安外灯のオレンジの光が差し込んで、その人の髪の毛を明るく照らし出していた。
暖かな色に染まった金髪、今は少し不機嫌そうに細められたヘーゼルの双眸。
私の手をがっちり掴んでいたのは、アレッシオだった。どういう心境の変化か、まともでシックな暗い色のスーツを着こんで、嫌みったらしい笑顔を浮かべている。右手には硝煙を燻らせたでかい拳銃が握られている。左手には、何故かピンクのガーベラの花束。
「十時に十二番通りだろ? あんまり焦れたからマスターに住所聞いて迎えに来たぜ」
「十時……って」
時計が示すのは十時四十分。PM。
「十時って、今もう夜中よ」
「ここはサングエだぜ。これからがお楽しみだろ」
嘲笑された。いろいろ聞きたいことがあるのに、言葉にならない。
何かを問いかける前に、強引に腕を引かれ、立たされた。
「話は後だ。新月の晩は奴らが騒ぐ。まずはここを出るぞ。次のが来たらこのぼろ屋じゃ全壊しちまう」
ひょいと小脇に抱え上げられた。小包かなんかのように、無造作に。ムスクの香りが鼻腔をくすぐるが、酔いしれている場合じゃない。
「ちょっと! 一体なんなの!?」
慌てて手足をばたつかせても、まるで効果無し。
「お、やっと普通に話したな。言っちゃあ悪いが、あんたのかしこまった態度インギンブレイって感じであんまり気分良くないぜ。……っと、デートはまずは夜景を見ながらのドライブに限るよな」
「え……? ちょ、何しているの!」
ひょいっとベッド脇の窓枠に手を掛けた彼は、当然のように窓枠をたたき落とした。
数拍おいて、下からガラスが割れる派手な音が聞こえた。通行人がいたら、大惨事だ。
いや、そんないるかもわからない通行人より、まずは我が身だ。なんだってこの男はこんなに窓枠から身を乗り出しているのだろう。
まるで。
そう、まるで今から飛び降りるように。
「ちょっと待ってよここ五階だってひああっ!」
後ろ向きにひょいっと床を蹴って。彼は私を抱えたまま紐無しバンジージャンプを決行した。投げ捨てられたガーベラたちが、ばらばらと宙に舞う。
「ぎゃあぁあぁぁぁああああああああ!」
胃の腑を浮遊感が襲う。空気抵抗で体中がびりびりする。必死にアレッシオの腕にしがみつくと、頭上から上機嫌な笑声が降ってきた。
「吐くなよ!」
ほぼ同時に、全身に衝撃が走った。
だん、と派手な音を立ててアレッシオが着地した。お腹を締め付けられ、私は「ぐえっ」と踏まれたカエルみたいに呻く。
くらくらする頭を必死に動かして、現状を確認し眩暈がした。
街灯の支柱の上だ。アレッシオは私を抱えて、街灯の上に仁王立ちしている。
どうやって。そう問いただす前に、ぐるりと視界が回った。
支柱に触れた足裏を支点に、アレッシオが百八十度回転したのだ。頭を下に、足を空に。
膝を引っ掛けたりしていない。まるで忍者のように、革靴の底が支柱に張り付いている。
靴底が淡く発光しているように見えるのは、貧血を起こしかけているからかしら。
下を行く車の運転手たちが、信じられないものを見たという顔で私たちを見ていく。
「さて、リムジンのお出迎えだ!」
やってきたのは高級車……ではなく、コンテナを積んだ長距離輸送トラックだ。
くるりと一回転して難無くコンテナの上に着地すると、アレッシオは乱れてもいない髪を手で撫で付けて直した。口元には得意げな笑みが浮いている。
風が強い。身を起こしたら振り落とされそう。それでも文句の一つくらい言ってやろうと強風の中なんとか顔を上げて、ざっと血の気が引いた。
「ちょ、ば、危なっ……!」
道に張り出して作られた、毒々しい紫のネオンの看板が迫っていた。
アレッシオは身を伏せるでもなく、にっと笑い——顔面から突っ込んだ。
飛び散る血しぶきと肉片を想像して、私はさっと顔を背けたが、
「さあ、楽しいおデートの始まりだ」
ご機嫌な声が聞こえてきて目を開ければ、犬歯をむき出しにして笑うアレッシオがいた。




