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第1夜

 どんとカウンターにユーロ硬貨が積み上げられた。その小山の横に、どっかり泥まみれのブーツの踵が降ってくる。

 カウンター席を軋ませた新客は大層珍妙な格好で、ど派手なピンクのスーツを着込み、懐からどでかい拳銃の尻を覗かせていた。

 この辺は治安が悪い事で有名だけど、今さらに局所的に悪化しているのじゃないかしら。

 そんな考えをおくびにも出さず、私はすっとメニューを差し出した。日本とは違って、この街では笑顔のサービスは別料金だ。

「いらっしゃいませ」 

「いつもの」

 硝煙の匂いを纏うその男は鷹揚に言って、前髪をかきあげた。頬のラインに沿って伸ばされた金色の髪。ヘーゼルの双眸はきれいなアーモンド形をしている。ただのごろつきには似つかわしくない彫刻のような顔立ちだ。格好のせいで神聖さなんてかけらもないけれど、全身に石膏を塗って博物館に飾ったら、それなりに見られるのじゃないかしら。要するに、美形だ。顔立ちからして、二十代半ばから二十代後半かしら。

 不躾な考えと手にしたメニューを引っ込めると、私は目で素早くマスターを探した。この場末のオステリアに稼ぎにくるようになって三日。私にはおそらく常連であろうこの客の「いつもの」が何か分からない。

「新入り?」

 その客は無遠慮に私のことを上から下まで観察し、にやりと嫌な笑顔を作った。

「俺のいつものは、これ。あんた、名前は?」

 彼が示したのは、トマトケチャップで真っ赤なハートを描いたオムレツの写真だった。

 呆けそうになったが、ぐっとこらえて笑顔を保つ。

「俺はアレッシオ。いつからここに? 歳いくつ? 東洋系だよな、出身は? 彼氏は? 趣味とかあんの?」

 東洋人が珍しいのだろうか。それとも新人をからかってやろうという魂胆か。矢継ぎ早に質問が飛んでくる。もちろん、答えたくない。

 そのときちょうど、他のテーブルでコールがあった。

「大変申し訳ありません、仕事中ですので失礼します」

 注文票を手にその場を後にする。背に視線を感じたが、知らないふり。

(何よあの拳銃は。今からドンパチやらかしに行くつもり?)

 他のちんぴらから頭一つ飛び出していかれている。彼に関する感想はその一言に尽きた。


 朝日が昇り、ようやく店じまい。

 酔いつぶれて寝込んだ客を、屈強な用心棒たちが襟首を掴んで路地に捨てていく。最初にこれを見たときは「客にすごいことするなあ」と驚いたけれど、三度目ともなると慣れてしまった。帰宅時間になると、飲み屋の前や横道には放り出された客がごろごろしているので、歩きづらいほどだ。

 私はモップで床を磨きあげていく。

「イズミ、お疲れさん。大分慣れたみたいだね」

 少し嗄れた声がして振り返ると、椅子を片付けているマスターがいた。マスターは太鼓腹が見事な四十年配だ。毎日、客と話しながら飲むからか、声が酒で焼けているのだ。

「お疲れ様です。そうですね、メニューも大体、頭に入りました。お客さんの中には、名前を覚えてくれた方もいて」

「あ、そうそうお客といえば! アレッシオが君のこと気に入ったみたいだよ。いろいろ聞かれたんだ、君のこと。きっとそのうち誘われるだろうから、デートしてみれば? 悪い奴じゃない、ちょっといかれているけれど」

 マスターが煙草を吹かしながらにやにやしている。『アレッシオ』が誰かわからなかったが、ややあってあの危険な臭いのする男の顔をぼんやり思い出した。そんな名を名乗っていたような気がする。

 私は苦笑して、取り合わなかった。なぜかマスターはちょっと残念そうだったけれど。

 あんなでかい拳銃をちらつかせて、我が物顔でこんな物騒な町を闊歩している奴と、どうやってつきあえって言うのだろう。こっそりため息をつく。

 マナーの悪い客のおかげでカウンターは汚れ放題だった。消毒液に浸したフキンで端から拭いていくと、あの客が放っていった硬貨がまだ積まれたままだった。

「その金はレジスターに放り込んでおいていいよ。アレッシオのことだから、多いことはあっても少ないことはないだろうし」

(羽振りの良いことで)

 硬貨を鷲掴みして、変な触感に首を傾げた。濡れている?

 一枚つまんでみた。なんだか赤黒い液体でぬめっている。しかもなんか臭い。

「……うっわぁ……」

 ブラッディマリーだ。そうだ、それしかない。

 それ以上のことは考えないようにして、私はレジスターに硬貨を放り込んだ。

 やっぱりこの街はちょっとぶっ飛んでいる。もちろんその住人がぶっ飛んでいるからだ。


 以前私が両親と住んでいたローマとは随分趣を異にするこの街は、イタリアはパレルモの隣にあるサングエ。

 その街のひなびたオステリア〈ルーチェ〉に就職して三日目になる。〈ルーチェ〉はオステリアと自称しているが実際はただの安料理屋で、日本で言えばちょうど居酒屋のような感じだ。営業時間帯は深夜。つまり、そういうこと。

 就職三日目とまだ日が浅いが、今のところ、大きなトラブルも無くなんとかやれている。

 時給はちょっと安いけれどそれは仕方がない。私はまだ十七だ。日本でならこんな店では雇ってもらえない。それに、店員を募集してもいないところにツテとコネで無理やり入れてもらったのだ。これ以上を望んだら、罰が当たる。ところでサングエには労基法なんてないのかしら。……ないだろうなあ。

 街の治安は下の下。変な叫び声や歌声、銃声、爆音だけならまだしも、アパートの上の階から何か重たい者を引きずる音が聞こえたり、何時間もドアを一定のリズムで淡々とノックされたり。薄いドア一枚で区切られた空間の安全を疑問視させてくれる、非常にエキサイティングな街である。私はこの街に来てから、ドアの外の出来事は異世界のことだと思い切ることを学んだ。

 私の勤務時間帯はお店の開店時間にあわせて深夜から早朝にかけて。夜のお仕事は、そりゃ体に悪いけれど、この街で、一人で夜を越す危険に比べたら安いもの。

 バーには専属の用心棒もいるし、諸般の事情に詳しいマスターもいる。〈ルーチェ〉は安い給料のほかに、そういった保身に必要なものも提供してくれるのだ。


 護身用のベレッタ(もちろん本物。撃ったことはないけれど)をベルトにねじ込んで、ジャケットをはおって、制服をつっこんだ袋を抱えてバーを出た。

 時刻は朝七時。世間様では一日の始まりだが、私の一日はようやく終わる。

 夜勤明けの疲れ切った体には、朝日は凶器だ。網膜を焼く光に思わず下を見た。

 瞬きしていると石畳を映す視界に、黒い靴の爪先がにゅっと出てきた。

 恐る恐る顔を上げると、目に痛いド派手なピンクのスーツ。

 そこには、金髪のあの男が立っていた。

 腕組みをして私を見下ろしている。捕食者の笑みを浮かべて。

 反射的に、後ずさる。背中が壁に当たった。いや、これは店の裏口だ。たった今、私が出てきた出入り口だ。狭い通路は通せんぼ。となれば、逃げ道は一つしかない。

 というのに。

 唯一の逃げ道である背後の店のドアに、男はけだるげな仕草で手をついた。

 後ろ手でドアノブをまわすが、開く方向が外向きなので、無意味だ。

 制服の入った袋を抱きしめて、私はできるだけ小さくなった。ドアにへばりつくようにして、強ばった笑顔を作るのが精一杯だ。

 思わず、ベレッタを後ろ手で探ってしまう。

「仕事終わったんだろ。これからデートしようぜ」

 頬をなでられた。カウンター越しにも薫った硝煙の匂いが鼻腔をくすぐる。

 このお顔でにっこり微笑まれれば大抵の女はくらっとするだろう。

 私もくらっとした。しかし、別の意味で。

 恐怖でぶっ倒れそうだ。

「おさそいありがとうございますけれどきょうこれからようじがありますので」

 断ったら殺されちゃうんじゃないかしら。声が裏返ってしまう。

 彼は一瞬つまらなさそうに顔を崩すと、大きく肩をすくめてみせた。苦笑付きで。

「そうなの? ふうん……。まあいいや、また今度誘いに来る」

 その苦笑はなんだか妙に人好きのするもので、……昔うちで飼っていたゴールデンレトリバーを思い出した。

 彼は手をひらひら振ると、踵を返して狭い路地を歩き去った——ように思えたのだが。

「あんた、なんかいい匂いするんだよな」

 急に振り返ると、私の首筋に鼻先をくっつけて、すん、と匂いをかいで、

「それじゃ。俺この先の〈プレニルーニオ〉っていう店にいるから。何かあったら遠慮無く来いよ。奢るから」

 ムスクとトマトソースと硝煙とがごっちゃになった悪臭と、ウィンク一つ残して今度こそ去っていった。

 残された私は首筋を押さえて、その場にへたり込んだ。心臓が早鐘のように鳴っている。

(か、噛み殺されるのかと……)

 魂すらも吐き出しそうな勢いで、息が漏れた。


 とてつもない疲労感を抱えたまま、四ブロック先の住宅街に辿りついた。

 立ち並ぶ安普請の建物のうち、ココア色の外壁のアパートの一室が私の住処だ。

 古いエレベーターはついているけれど、他人と密室になるなんて怖いこと出来ない。五階まで、地道に階段を登る。途中、階段で寝そべっているおじさんがいたが、目を合わせずに足早に横をすり抜けた。彼の饐えた体臭が鼻につく。

 五階最奥の部屋の前で脚を止めて、鍵を外した。

 しかし、ドアのチェーンががつんと音を立てて私の行く手を阻んだ。

 顔がほころぶのが自分でわかった。

「クラウディオ、ただいま」

 ドアの隙間から声をかけると、室内で気配が動いて、やがて見知った顔が現れた。

「お帰り、イズミ」

 笑顔で出迎えてくれたのは、同居人のクラウディオだ。

 玄関先でハグすると、短く刈り込んである彼の茶髪が頬をくすぐった。大きな手が私の頬を包み込み、額にもキスが振ってくる。間近で見つめる灰色の目は切れ長で鋭いけれど、今は親しげに細められているので怖くはない。

 彼はシンプルなVネックのニットとダークブルーのデニムを身につけている。いつもこんなラフな格好をしている。仕事柄だろうか。

 唯一、こだわりを垣間見せるのが、いつも胸元に光るシルバーのリング。亡くなった奥さんとの結婚指輪だそうだ。

 玄関には、いろいろな機材の収まったバッグやら箱やらが無造作に置かれている。中には、クラウディオの仕事道具である大きなカメラが納まっている。

「いつ帰ってきたの」

「さっきだ。朝食はもう済ませたか? ペスカトーレを作るんだが、食べるか?」

「まだ食べてないよ。ペスカトーレ、いいね。私も手伝う」

「じゃあ、イズミは皿と水を出しておいてくれ。それから、何か適当にスープでも」

 荷物を片付けて、肩先まで伸びた髪を適当に結んで手を洗い、エプロンを身に着けると食器棚からお皿を出した。この家のお皿はほとんどが白磁。クラウディオのこだわりで、一番お料理がおいしく見えるという。その中からスープ皿と角皿を二人分取り出してテーブルに並べる。

 たまねぎをバスケットから一つ選び、にんじんとハムを冷蔵庫から取り出すと、私はクラウディオの横に並んで、野菜の皮をむき始める。

 クラウディオは手際よく材料を切り終え、既に火にかけている。白ワインがフライパンに注がれていく。隣ではスパゲッティの鍋がふつふついいだした。

 お互いに無言だけど、代わりに野菜を刻む音や換気扇の音、油が跳ねる音がする。それが不思議と心地よい。しばらくすると、クラウディオの方からいい香りがしだす。私の方もたまねぎとにんじんに火が通ったので後は簡単。沸かしておいたお湯を鍋に注いで材料を入れて、香辛料で味を調えて完了。

 程なくして、クラウディオの方も火が消えた。

 手分けしてテーブルに配膳していく。立ち上る香りと湯気が私の食欲を大いに刺激する。

 エプロンをして向かい合って座る。クラウディオは小さく十字を切って、祈る。それが終わると、食事の始まり。

 私は自分で作ったスープそっちのけで、さっさとペスカトーレを口に運んだ。思わず、口角が上がってしまう。

「やっぱり美味しい。クラウディオ、レシピ本とか出版したらいいのに」

「まさか。そんな腕はないし、何より写真以外で本は出さないよ」

 困ったように笑う。強面に分類されるだろう顔立ちも、これでは迫力がない。

「それより、留守中何か変わったことは? ……やつらは来なかったようだが」

 灰色の目が、ぐるりと壁を見回した。

 ペールグリーンの壁には、一定間隔を置いて幾何学模様の描かれた額が掛けられている。インテリアに馴染んでいるが、改めて見ると独特のオーラがある。

 部屋の一番奥の壁には、机が寄せてある。

 白い布をかぶせた机には、磔刑に処されたキリストの像が置かれ、周りにはごちゃごちゃした小物と、太さも色も様々なキャンドルが置かれている。

 クリスチャンじゃない私には、異様な威圧感を覚える小さな祭壇だ。

「大丈夫。なんともなかったよ」

「仕事の方も順調か?」

「……うん。じゅんちょお」

 声が裏返った。記憶の中で、あのド派手な金髪男が笑顔で手を振っているんだもの。

「イズミ?」

 クラウディオの表情が一気に険しくなった。

「何があった?」

「別に、大したことは」

「何があった? 大したことじゃなくても話しなさい。何かあってからじゃ遅い。俺はお前のご両親に誓って、お前を守らなければならないのだから、隠し事はやめてくれ」

「いや、本当に大したことではなくて……ほら、街中にも結構変わった人がいるでしょう? お店にそんな人が来て、ちょっとびっくりしてしまって」

「……びっくりするほど、変な男が出入りしているのか、あの店は」

 言外に「サングエの変な住民たちと比較しても更に変な男」が、と言っている。

「ええと……、その、こう、顔はすごくきれいなのに、ピンクのスーツなの。それでオムレツを食べていて」

「変態だな」

「ええっ? だ、断定しちゃうの?」

「紛れも無い変態だ。仕方ない。良くしてくれたマスターには悪いが、仕事は止めだ」

 過保護にもほどがある。まだ拳銃の話も、血塗れた硬貨の話もしていないのに!

「大丈夫よ! あんな奴、この街にはいっぱいいるじゃない。それに、今のお仕事辞めちゃったら、簡単に新しい仕事なんて見つからない」

「お前を養うだけの金はある」

「駄目。そこまでしてもらうわけにはいかないもの」

「なら引っ越そう。この街は危険だ」

「息子さんが住んでいるからここにいるって言っていたじゃない」

 鋭い視線に負けるものかと、精一杯厳しい顔を作る。にらみ合うこと数十秒。

「……悪い。気を使わせているな」

 先に口を開いたのは、クラウディオだった。

「謝られることなんて何一つないよ。だって、クラウディオのおかげで私は今こうして生きていられるんだもの」

 偽りない本音を告げると、彼は大きな手をテーブル越しに伸ばして、私の頬にキスした。

 その顔にはやはり、困ったような笑み。

 彼には私よりも大きな息子さんがいるらしい。多く見積もっても三十代半ばにしか見えないのに驚きだ。クラウディオはあまり自分のことを話したがらないので、私はなるべく深くつっこまないことにしている。年齢まで訊かないというのはいささか徹底しすぎているかもしれないけれど、私はかまわない。わけありなのは彼だけじゃない、私もだ。だから、お互い暗黙の了解で不可侵領域を決めている。

 息子さんとは、事情があって一緒には暮らせない。けれどせめて近くにいたいとこの街に留まっているとクラウディオは言っていた。

 時々思う。クラウディオは、息子さんへの愛情を私にくれているのじゃないかと。たまにみせる偏執的ともいえる過保護さは、私と息子さんを重ねているからじゃないか。

「疲れているだろう。食べたらゆっくり休め」

「次の仕事はどこ? いつ出発するの?」

「まだ決まってない。……そうだ、イズミ、今度の休みはローマに行こう」

 突然の申し出に、びっくりした。

「でもそんな旅費が」

「会いたい人がいる。例の件で。旅費は心配しなくていい」

 灰色の目が細くなって、真剣な表情になった。私は唾を飲み込んで、小さく顎を引いた。

「炭酸水飲むか?」

 そう言って瓶を差し出し小首を傾げたクラウディオは、いつもの穏やかな雰囲気に戻っていた。




 色の洪水だ。

 赤、黄色、青、緑、茶色、金に黒に白に紫。

 めまぐるしく入り乱れ、押し寄せる色の洪水。

 私は水面に映ったその様子をじっと見つめていた。

 とてもいい気分だ。自然と笑顔になる。

 両手を繋いだ両親もにこにこしている。

 でも鼻から上が見えないのはなぜだろう。なぜだろう。

 ——ああ、なぜかわかった。

 仮面を被っているのだ。

 母は左の目元に緑色の羽根がついた仮面を。

 父は銀色のラインが波のように揺らめく仮面を。

 私たちの周りをくるくる回る色の洪水は、きっと色とりどりの仮面なのだ。

 男も女も老いも若きも皆、仮面被って踊り狂っている。

 私も混ざりたいのに、あいにく仮面を持っていなかった。

 困って佇んでいると、ふいに袖を引かれた。

 女の子が立っていた。

 御伽噺に出てくるような、桃色のドレスを着た小学生くらいの女の子だ。ふわふわの茶色の髪を高く結い上げて、赤と金色が半々の、顔をすっぽり覆う仮面をつけている。

 彼女が手を差し出すと、そこに魔法のように仮面が現れた。

 黒地に紫色の鳥が踊り、金の塗料が波を描く。縁取りは銀色に染められた鳥の羽だ。

 とても綺麗。とても、とても。

 それだけで嬉しくなった。

 私はその仮面を受け取って、そして——。



「う……」

 じりじりと身を焦がす熱さに意識が覚醒する。半開きのブラインドから、夕方の強烈な西日が差し込んでいる。じっとりと背中と脇に汗をかいていた。ひどく不快だ。こめかみにも汗が流れ、髪の毛が額に張り付いている。

 起きあがると、軽い眩暈。疲れている。きっとまたあの夢を見たのだろう。今日は覚えていないが、目覚めが悪い日は大抵あの夢を見ているから。

 自分を落ち着かせるため、深呼吸した。

 時計を見れば、あと一時間で出勤時刻だった。

 のろのろと着替えを掴んでシャワールームにむかう。

 クラウディオの部屋の前を通ると、ドアは閉まっていて、物音一つ聞こえてこなかった。彼も寝ているのかもしれない。

 青いタイルのシャワールームは、ひんやりしたタイルの踏み心地がいい。

 家賃に見合ったシャワーは、ときどき水しか出なかったり水も出なかったりするが、居候の身で贅沢は言えない。

 肌に張り付く下着を脱ぎ捨てて、熱いシャワーを浴びると、頭がすっとした気がした。

 シャンプーに手を伸ばす。鏡に自分の顔が映っている。

 確かめるように額を冷たい鏡面に擦り付けた。蒼白な顔と両目がくっきり鏡に映りこむ。

 寝付く前にカラーコンタクトを外したために、見たくもない自分の双眼がぎょろりと鏡の中からねめつけてくる。

 茶褐色の虹彩に血の色の輪がかかっている。

 数ヶ月前まではなかった、刻印。

 自分の体の一部ではないようなグロテスクな彩りを拒絶して、私は堅く目を瞑った。

(大丈夫、……大丈夫。クラウディオもいるし、結界も張ってある。あいつらは来ない)

 自分に言い聞かせて、震える手でシャンプーのボトルを掴んだ。




 実は結構マメなのだろうか。

 午後十一時。昨晩の金髪の客が、開店と同時にやってきて、カウンターでにやにやしながら煙草をふかしていた。

 今日のお召し物は白地にゴールドのピンストライプが入ったスーツの上下。中にカナリアイエローのパーカーを着こんでいる。パーカーの腹のポケットから、例の武器がちらり。

 赤黒い液体を被った硬貨を今日もばらまいて、どっかりカウンター前に陣取って、私の一挙手一投足を眺めているのだ。至極機嫌の良さそうな顔で。

(なんだか妙なプレッシャーを感じる……)

「若い者同士、仲良く遊んできたら?」

 マスターが悪乗りして、グラスを拭きながらからかってくる。苦笑いしかでてこない。

 私のどこが彼の気に入ったのか。不思議でたまらない。

 東洋人にありがちの扁平な顔立ちは、十人並みだし、目を引くようなスタイルでもない。日本に帰ればそれこそ没個性的なのだ。もしかして変なフェロモンでも出ているのかしら。集合フェロモンの類の。

「イズミ、ため息なんかついてどうしたんだ? 悩み事なら相談にのるぜ?」

 わっかの煙を吐き出した後、ウィンクをされた。様にはなっているが、私にとっては嫌がらせ以外の何でもない。

 奥のテーブル席にいる脂粉の気ぷんぷんのお姉様方が、さっきから私をきつく睨んでいる。この珍客目当てでこの店に通っているお姉様もいらっしゃるとは、この場においては最高の精度を誇るマスター発の情報である。私をからかうより、あっちの綺麗なお姉さんと遊んでいた方がいいと思う。というか是非そうしていただきたい。

 私がグラスを洗って、他の客の相手をして、極力あの男を見ないようにしている間に、マスターが彼の話し相手をしていたようだ。

 目が合うと、マスターに手招きされて、嫌々ながらそれに従う。

「明日、明後日は棚卸で店も休みだし、休んでいいよ。彼とデートでもしてきたらどう?」

 こんなぶっ飛んだ男とデートをしろだなんて、死刑宣告じゃない。着いていった先でバラされて、内蔵を売り払われるのは必至だ。

 私は出来るだけ婉曲に断る術を探した。

「いえ、出勤しますよ、手も必要でしょうし」

「十分足りるよ。まだ働き慣れなくて気疲れもするだろ。リフレッシュも必要だよ」

「決まりだな! イズミ、楽しみにしてろよ」

 ばちこーんとウィンクをされて、私は本気で泣き出しそうになった。

 楽しみってどんな。考えるだけで震えが走る。というか、私名乗ってない気がするけど、なんで名前知っているの。

 非難をこめてマスターをじっと見ると、心底善意ですといわんばかりの笑顔を返された。

 「じゃあ十時に十二番通りで」

 良い笑顔で言い残し、男は私の返事なんか聞かずにカウンターを離れた。

「あ、あの!」

 呼び止めても、彼は振り返りもしなかった。伸ばした手の行き場が無いことがどれだけ空しいことか。……私、何か天罰が下るような悪いことしたかしら……。涙が出そう。




 まぶしい朝日を浴びながら部屋にたどり着く。クラウディオはまだ寝ているようだった。

 彼が作り置きしておいてくれたピッツァをお腹に入れ、シャワーを浴びてベッドに入った。だがなかなか寝付けない。

 ……明日の十時が来るのが怖い。一瞬、すっぽかすという選択肢がちらつくが、そんなことしたら、翌々日の〈ルーチェ〉で東洋人少女虐殺事件が起きかねない。

 従順にしていたら、マスターのいうとおりそんなに酷いことはされないかも。手足の一本や二本なら、安いものかしら。ああでもでもまだ私は人生を謳歌したい。

 考えていると、頭が痛くなってきた。

「いや、もしかすると本当にいい人かも知れないんだから……」

 自分を励ますためにもそんな万が一にもないことを一人ごちて、羊を数えること七十三匹。案外簡単に、睡魔は私の意識を攫ってくれた。


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