全部つながったね
全部つながったね
一話 馬鹿な男
1
仲村勇樹は等身大の大きな鏡をみていた。今日の服装はおかしくないかと確認する。
自分の独特のおかっぱ頭が目に入った。耳の下まで髪の毛が綺麗に覆いかぶさって、ヘルメットを被っているようだ。
お笑い芸人じゃあるまいし、とからかわれる事が多かったが、小学四年生からずっとこの髪型だ。いまさら変える気もないし、からかわれる事にはなれていた。むしろ、今は、からかわれる事に喜びを感じていた。
テレビの上の置き時計は午後の五時を指している。こんなに遅く起きるのも珍しかった。仲村の仕事は休日も平日も関係ない。また昼か夜かも関係なかった。徹夜はしょっちゅうだった。
(久々にゆっくり寝るとすがすがしいもんだ)
ベットの横の窓から外を見ると日が落ちかけていた。もう十一月だ。日が落ちるのも、ずいぶん早くなっている。
犬のロクが足元をぐるぐる回って、ハァハァと息を荒げている。ロクはマルチーズとプードルの雑種で二年前に友達から譲り受けたものだ。
最初は犬など育てられないだろうと思っていたが、今ではすっかり生活の一部になっている。帰ってからロクの「おかえり」を聞くのが楽しみで仕方ない。
餌のトレイの近くで「ワンッ、ワンッ」とロクが吼えた。仲村は頭の中で「餌をくれ」と翻訳し、ドックフードの袋を棚の上から取り出した。
(あと三回分程しか残っていない。帰りに買ってこなくちゃ)
トレイにドックフードを満タンに入れる。入れる際、ドックフード一粒一粒が主張するようにガラガラと音がなった。
ロクは「待ってました」と小さく吼え、目の前の餌にがっついた。
仲村はロクを軽く撫でると、リビングの机の上に無造作に置かれた招待状を取った。
(東京世田谷小学校。同窓会。仲村勇樹様)
仲村は親の都合で、世田谷小は四年生の時に転校してしまったが、律儀なもので招待状を送ってくれた。きっと幹事の江頭だろう。
江頭は世田谷小にいた間、何かと共に行動していた仲だ。といっても江頭は小学生にしては体が大きく、いわゆる不良と言う奴だったが。
あるときは学校に盗んだ原付バイクで登校してきた事もある。とにかくはちゃめちゃな奴だ。僕はそんな江頭の悪友という事はなく。完全な腰ぎんちゃく、パシリだった。
江頭の顔はどんな感じだったろうか?何せ十年も前のことだ。あまり記憶になかった。
しかし、その分、今日が楽しみでもある。
みんな、どんな風に変化しているのか。今どんな仕事をしているのか。もしかしたら、禿げてる奴がいるかもしれない。
仲村はみんなの顔を見るのが楽しみだった。
それに、仲村には会いたい人がいた。
(もう十年前か)
その事が仲村が同窓会に行こうと決めた大きな理由だった。そいつと話してあの時のことをきっちりと詫びたいと思っていたのだ。
ロクがトレイのドックフードを三分一程食べた所で、「ワフッ」っと控えめに声を上げる。どうやら「水が入ってないよ」と言っているらしい。
ドックフード横の別のトレイに半分ぐらい水を入れた。
「こぼんすんじゃないよ」仲村は微笑みながらロクをなでる。
ふと時計を見ると、もう出る時間が迫っていた。
今出ないと間に合わないと思ったが、少しくらい遅れた方がいいかもと思い直す。
(ヒーローは遅れて参上)
という言葉が頭に浮かぶ。頭を掻くとヘルメットのようなおかっぱ頭がサラサラとなびいた。
(おかっぱブラック)
という言葉が浮かび笑いがこみ上げた。綺麗になった女の子たちにからかって貰えるんじゃないか、と仲村はあらぬ妄想をする。
結局、予定より三十分程遅れて家を出た。出るときにロクが二回ほど吼えたが、僕には「いってらっしゃい」よりも「おい、勇樹。餌買うの忘れるなよ」に聞こえた。
2
部屋のドアを出ると、真っ黒な服装の男が、隣の部屋から出て来る所だった。
「鳴海さん、こんにちわ」仲村が男に声をかける。
「おぉ、おかっぱくんか」鳴海が仲村の方を向く
「その呼び方は辞めてくださいよ」仲村が頭を触りながら微笑む。
「やめてくださいという言葉はそういう時に使ってはいけないよ」鳴海がにやりと笑った。深いしわで顔がくしゃくしゃになる。
鳴海は部屋のドアにカギを締め、仲村の前に立った。
「やめてくださいって言葉はね。本当にやめて欲しい時にとっておくんだ。本当にそうして欲しい時に信じてくれないかもしれないだろ?」鳴海が仲村を見る。
「はぁ、確かに」仲村は真剣に悩むふりをした。
何を言いたいのか仲村には意味が分からなかった。
「今からお出かけかい?」察した鳴海が気を取り直して質問する。
「えぇ、小学校の同窓会があるんですよ」仲村が頷く。「久しぶりに会うんで、ちょっと緊張してますよ」
「小学校か、それはまた古い友人たちだね。友人は古いほど良いというが、長く会っていない友人にはそれに該当しない。話が噛み合わないし、下手に知っている分、初対面よりタチがわるい」鳴海は不敵な笑みを浮かべている。
「そうですねぇ」仲村が頭を掻いた。
「なので、君は呑みすぎに注意しなさい。緊張すると酒の力を借りたくなるもんだ。君はだらしない所があるから、特に注意した方がいいよ」鳴海は仲村に釘をさす。
仲村は部屋の前で泥酔して寝ていた所を、一度、鳴海に介抱してもらった事を思い出した。後日、鳴海に会った時に「運ぶときに腰が痛いので、もう呑みすぎないでくれ」と注意され、必死で謝ったんだった。
「はぁ、今度は注意しておきますよ……。だらしないと言えば鳴海さんもですよ。いい結んだらどうですか?靴紐」仲村は鳴海の靴紐を見ている。
この人には、「怪しい人」という形容詞が良く似合う。
黒のシャツ、黒いジーパン、黒い靴。靴紐はいつも結ばず、だらんとしている。白髪混じりのぼさぼさ頭に、無精ひげというだらしなさだったが、どことなく上品な顔つきをしていた。
「君が結んでいる方がおかしいのさ」鳴海は微笑んだ。
「あぁ、あはは」仲村はまったく意味が分からず、困った顔をした。
鳴海が腕時計を見る。
「私も急ぎの用事があるんだ。ロクによろしくね」鳴海は早足で歩いていった。よく転ばないものだと仲村は感心ながら後姿を見ていた。
(本当に不思議な人だ)
仲村も自分の部屋にカギを締め、マンションを出た。
3
会場まで、歩いて十分ほどの距離だったので、電車は使わず徒歩で行くことにした。
コンクリートで舗装された歩道を歩く。横には、店やアパートなどがぎゅうぎゅうに詰まっていたが、あまり人は歩いておらず、車の方が多かった。
会場まで行く間、世田谷小で同級生だった景浦の事を思い出していた。
今日どうしても会いたい人、それが景浦だった。
おかしな事に、仲村の記憶の中の景浦の顔は、顔が無く、真っ白なのだ。
注意深く記憶を探って、思い出そうとしても、全く顔が思い出せなかった。
性格は引っ込み事案で無口な奴だった。国語の朗読の時間に自分の番が回ると、ぼそぼそと小さな声でしゃべっていたのを覚えている。
同級生の江頭はそんな景浦に目をつけ、執拗にいじめた。
きっかけは何だったのか。そんなことは誰も覚えていなかった。
江頭は景浦をパシリに使ったり、お金を巻き上げたり、機嫌が悪いときなど人間サンドバックと称して、景浦の腹を思いっきり殴る事もあった。
いつも仲村は、江頭の横でそれを見ていた。
ただ無言で。
景浦に触れてしまうと、自分が壊されてしまう様な気がして、何も優しい言葉をかけることもできなかった。今でも後悔する。もし、僕が行動を起こしていたら。もしかしたらと。
そした、あの日、事件がおこった。まるで、そうなる運命のように。
その当時、江頭はピアスの穴を開けるのに凝っていた。
家庭科室の冷凍庫で固めた氷と、図工室から持ってきた錐を使って、放課後の教室で一週間に一個のペースで、江頭が耳にピアスの穴を開けるのだ。
仲村はいつも、その手伝いをやらされていた。
仲村が氷を江頭の耳たぶにあて、麻痺した所で、江頭自身が錐を目的の場所に押し当て、一気に力を入れ穴を開ける。
あけた穴に、すぐピアスを入れて、穴が閉じてしまわない様にしていた。
江頭は、一連の作業を慣れた手つきでこなした。
不衛生な道具で開けているせいか、「あけて数日は膿がだらだらと垂れるんだぜ」と江頭は自慢気に語っていた。仲村はそれを聞いて怖がる振りをする。実際はどうでもいい事だった。
その日も、江頭がピアスを開けようといいだした。
仲村はいつもの様に、道具を取ってきて教室に戻ると、なぜか景浦が居た。景浦は、自分の机でノートに何か書いてる。
江頭がそれに気づいた。景浦は必死に抵抗していたが、あっさりとノートを取られてしまった。
「この野郎!」江頭はノートを読み終わると大声で叫んだ。
そして、あの瞬間の記憶に繋がる。。
振り上げられた錐。
江頭の冷静な目。
にやりと微笑んだ口もと。
教室のドアの開く音。
江頭の目が一瞬そちらを向く。
ザクッという音。
左耳の穴のすぐ横に突き刺さっている錐。
「ワァァーーッ!」という悲痛な叫び声。
そこで、プッツリと記憶の録画は止まる。今思い出しても寒気がする光景だ。
あの時、左耳の穴の真横を貫通し、錐が机に突き刺さった。
景浦はあまりの痛さにもがいたが、貫通した穴が広がり、さらに痛さが増しているようだった。
この事は学校内で大きな事件となった。
仲村は、両親の都合ですぐに転校したので、その後、景浦がどうなったのか全く知らない。
(あの時、僕が止めていれば……)
今でもその贖罪を感じている。
今の仕事に就いたのも、もしかしたらこの事が大きく関わっているのかもしれない。
(絶対に、あの時の事を謝らなければ)
仲村は決心した。
4
そうこう考えている内に、約束の居酒屋の前に到着していた。
腕時計を見る。約束より三十分程遅れていた。すこし後悔する。
二階建ての居酒屋チェーン店のようだ。玄関の自動ドアを入ると、店員がにこりと笑って寄って来る。
「お客様何名でしょうか?」店員がいう。
「あの、多分、江頭と言う名前で予約が入ってるはずなんですが」仲村はきょろきょろ周りを見渡した。
「江頭様ですね。お二階になります」店員が階段を見る。
(二階に、敬語を使うのはおかしいと思うんだけど)
いつもは気が付かないような、小さいことに目をつけた。緊張しているからだろうか。
仲村は言われた通り、お二階に上がった。
二階は真ん中の通路を境目に、宴会用の大きな部屋が二つあり、入り口がふすまになっている。
入り口の前には段差があり、靴がならんでいたので、きっと和室なのだろうと思った。
仲村は靴が並べてあった方の入り口の前にたった。反対側には靴が並んでいなかったので、こっちの部屋に間違いないと思った。
(第一声は何て言おうかな。遅れてすいませんかな、やっぱり)
心臓の鼓動が早くなる。
ガラガラと入り口のふすまを開けた。長机に座っている二十名程が一気に仲村の顔を見た。
「すいませーん、遅れちゃいました」仲村が自慢のおかっぱ頭をさらっとなびかせた。
中は意外とこじんまりとしていて、大きな長机が、一つ真ん中に置いてあったので、ぎゅうぎゅうに二十人程が座布団の上に座っていた。
仲村は朝シュミレーションしてきたシーンを想像する。想像通りだと盛大につっこまれるはずだ。
しかし、仲村の予想とは違い、エアコンの音が聞こえるほど静かになった。隣のものと目を合わせて、こそこそと話しているものも居る。
(そうだよな。俺、転校しちゃったし)
そういえば、四年間しか一緒に居なかった仲だ。十年以上、誰とも連絡を取ったことなど無かった。僕が誰なのかすら分からない、というものも多いのだろう。
「わはは!お前、何だよその頭!」大きな声がこの静寂を破った。
声の主を見ると真っ黒に日焼けした、ガテン系のにいちゃんがいた。一目で分かる、江頭だ。
顔が驚くほど変わっていなかった。
「わはは。なんだそれー」みんなが積を切ったように一斉に笑い出した。
(どうだ。これがおかっぱパワーだ)
仲村は自慢げだ。
「まぁまぁ、突っ立てないで、ここに座れよ」と江頭が、横の誰も座っていない座布団をぽんと叩く。
「それじゃあ、失礼して」仲村は数人の後ろを通してもらい、その座布団に座った。
「生でいいよな」と江頭が店員を呼ぶボタンを押した。
「うん、生で」仲村がおしぼりで顔を拭く。
「久しぶりだなぁ。本当に。十年ぶりくらいか?」江頭が仲村の顔を覗き込む。
「そうだね。もう、それくらいになるね」仲村は照れながらおしぼりを置いた。
しばらくすると、店員が注文を取りに来た。江頭がすかさず生ビールを頼む。
それから、生ビールが来るまでの間、仲村は誰とも会話をしなかった。酔わないと話しかけづらいような雰囲気だった。
(生ビールぐらい注ぐだけじゃないか。早く、もって来てくれよ)
仲村は店員の顔を思い浮かべて、少しイライラした。
5分程すると、仲村の生ビールが運ばれて来た。目の前にどんとジョッキが置かれる。ギンギンに冷えたジョッキだ。
「じゃあ、みんな揃った所で乾杯をやり直そうか」江頭が自分のグラスを持って大声で言った。やっぱり、仲村が一番最後に来たようだ。
みんながグラスを持った。
「では、世田谷小のみんなの前途を祝して。かんぱーい」江頭が大声で言うと、「かんぱーい」とみんながグラスを合わせ始めた。
「お疲れー」と江頭とグラスを合わせた。江頭は焼酎を飲んでいるようだ。
歩いてきたせいか生ビールに口をつけると、異常にうまかった。ゴクゴクとジョッキの半分ほどまで飲んだ。
(そういえば、景浦は来ているんだろうか)
緊張して、景浦の事を忘れてしまっていた自分を少し反省した。
二十名程いる、世田谷小OBの顔を見渡すと、見覚えのある顔が並んでいる。
景浦の顔は覚えていなかったが、左耳を注意深く見れば分かるはずだった。左の耳の穴の横には、もう塞がったであろう傷があるはずだ。
この場に居る正確な人数を数えてみると、十八人だった。その中で男は六人。江頭と仲村を除くと四人だ。だが、その中の一人として、左耳に傷があるものはいなかった。
さっき江頭が「みんな揃った所で」と言っていたので、景浦はここに来ていないのだろう。
(それはそうだよな。あんな事があったんだから……)
それをよそに、世田谷小同窓会は、大盛り上がりだった。あの当時、好きだった人の暴露とか、小学校時代の先生の話の悪口、ものまねなどでみんな楽しそうだった。
仲村が驚いたのは、その話の中心に常に江頭が居た事だ。それにこの会の幹事も江頭だ。仲村の知っている江頭は問題児だったが、クラスのリーダータイプではなかった。世田谷小は世田谷中までほぼ同じクラスで上がっていくので、その中で江頭も変わったのだろう。
仲村はビールから焼酎へシフトしていた。ビールは腹に溜まるから、最初の一杯が終われば、必ず焼酎を呑むようにしていた。仲村は、盛り上がるみんなに、ちょくちょく参加しながら、目の前の焼酎を少しずつ呑んだ。一時間くらいたっただろうか。そういえば、みんなの顔はもう真っ赤だ。
「ごめん、ちょっとトイレ」仲村は江頭の後ろを通る。壁を背もたれ代わりにしていた江頭は、頭をテーブルの方に下げて通路を作った。
「もう、ダウンかー」江頭がにっこりと微笑んだ。
「なにいってんだー。トイレ言ってからが本気だ!」仲村は片腕を突き上げた。その反動でふらふらと壁に寄りかかる。仲村は、自分の思った以上に酔っ払っているのだという事に始めて気づいた。
部屋から出て、置いてあったサンダルに、なんとかつま先を通す。
仲村は呑み始めると、まめにトイレに行くタイプだ。その度に、なんで酒を呑むとトイレが近くなるんだろうかとと不思議がった。
だが、次の日起きるとそんな疑問はどこかにいってしまう。まったく都合のいい性格だと自分で思う。
(このまま、あの上司の事も、きれいさっぱり忘れたいもんだ)
仲村は、あのおっかない女上司の事を思い出した。真っ赤な顔をして怒る顔が浮かぶ。少しだけ酔いがさめた。我ながら間抜け。気分よく投げたブーメランが戻ってきて、後頭部に当たったようなもんだ。
苦労してサンダルを履き、よろよろと歩きながら、真ん中の通路の先のトイレに向う。
(すいません。今のは嘘ですよ)
仲村は心の中で上司に謝った。
5
仲村は用を足して、洗面台に向かった。男子トイレにしてはゆったりとした、広いトイレだ。小便器が5つ並んでいる。
仲村は石鹸水を手に出して、念入りに洗う。
(バイ・菌・撲・滅!バイ・菌・撲・滅!)
手を洗うリズムに合わせて、心の中で唱えた。
仲村の持論では、トイレで手洗いしない人が一割、水で濡らすだけの人が八割、石鹸で念入りに洗う人が一割だった。男に限った話だが、あながち間違ってはないはずだ。
今でこそ、念入りに手洗いを行う仲村だったが、小さい頃は手洗をしない一割に属していた。
仲村が改心したのは、幼稚園の頃。バイ菌の絵本を読んだときだ。
その絵本では、ある少年がいて、その少年はいつも手洗いをしない。泥遊びをしても手洗いをしない。トイレに行っても手洗いをしなかった。
絵本の中に、黒いバイ菌が、その子の手にいっぱい乗っている絵があった。バイ菌たちは喜んでいた。
(こんなやつが居るから俺たちは生きれるんだぜ)
という台詞が確かあったはずだ。
その少年が食事をすると、そのバイ菌たちが一斉に、口に入っていく。それに気づかず、ずーっと手洗いをしない少年。
ある日の朝、ふと少年が手を見ると、手の色が黒一色にそまっていた。
続けて足を見る。やっぱり真っ黒だ。
そして、少年は鏡の前にたつ。
鏡には黒いバイ菌だけが映っていた。
ついに少年自信がバイ菌になってしまったのだ。
少年は後悔してうぇーんと大泣きした。
この絵本を読んだ後、まだ幼い仲村は、自分の手をまじまじと見て、「この手にも黒いバイ菌が乗っているんだ」と思うと、もう手洗いせずにいられなくなった。手洗いしないと、あの少年のようになってしまうと本気で考えていた。
(あの絵本の通りなら、世の男性の一割がバイ菌になるな)
仲村は、自分の子供にも、この絵本を話して聞かせようと思っていた。うがい版もあるともっといい。風邪も引きにくくなる。
自分の手を見る。十分に綺麗だ。仄かに石鹸水の香りがする。
そのとき、「ガチャッ」ドアの開く音がした。正面の鏡を覗くと入ってくる人の顔が見えた。スーツ姿の男だ。
同窓会に来ているメンバーではなさそうだった。
だが、どこかで見たことのある顔だ。
それに、この光景。確かにどこかで見たことがある。
開く引き戸。
じっと見ている人。
この男は一体誰なのだろうか。肩まである長い髪。薄い眉。一重のきりっとした目。
頭の良い、優等生タイプの顔だ。
(絶対にどこかで見たことがある)
仲村はおもいきって声を掛けてみることにした。
「あの、すいません」仲村は振り向いて男に声をかけた。
「どこかでお会いしたことありませんか?」仲村は男の顔を見つめて尋ねる。
ぼそぼそと男がつぶやく。
(よく聞こえない。今、何ていったんだ?)
「え、すいません。聞こえないんですが」仲村は少し男に近づいた。
今度は、はっきりと聞こえた。
(そうだ、なんで気づかなかったんだろう)
「僕だよ。景浦だよ」景浦はぼそぼそと答えた。
6
仲村は固まり、できの悪い石像になった。
いきなりの出来事に思考が完全に停止し、何も言葉が出てこなかった。
「一応、僕も呼ばれたんだけどさ。部屋の前でみんなの笑い声を聞いたら、中に入れなくて。僕がいちゃ悪いような雰囲気だろ」景浦は俯いている。「それで、部屋の横で固まってた所に、仲村くんが出てきた。トイレに行ったから。それで。僕。君と話をしようと思って」
「あ、あぁ、来てたんだ。遠慮しないで入れよ」仲村はやっと言葉が出せた。酔いは覚め、頭は完全に冴えていたが、酔っている自分を装う。
「い…。いや。やめておくよ」景浦は顔を上げ、仲村の目を見た。。
(そうだ、あの時の事をちゃんと謝らないといけない。二人きりってのは、むしろ好都合じゃないか)
仲村は景浦の怯えた目を見ると、妙に冷静になることができた。
今日の同窓会で、仲村は景浦を呼び出して、二人きりになってから謝ろうと思っていた。同窓会の、場の雰囲気まで壊すことはないし、景浦自身が他の人に聞かれたくないだろうと思ったからだ。
「そうだ、僕も君に、言わなくちゃならない事があるんだ」仲村は真剣な目で景浦を見た。
「あの時の事だね」景浦はまた俯いた。やはり嫌な記憶なのだろう。当然だ。
「悪かった。あの時は何もしてやることが出来なくて」仲村は頭を下げる。
「ちょっと、止めてくれよ。僕は仲村くんの事なんて恨んでなんかないよ」景浦が言う。
仲村はほっとしていた。この許しの言葉待っていたのだ。あの日からずっと。
「いや、僕も悪いんだ。僕は止める事ができたのに、それをやろうともしなかった」仲村は顔を上げた。
「この耳の事はもういいよ。傷も塞がったしさ。それに、クラスの誰もが止める事ができたんだ。仲村くんだけが罪を感じる必要はないよ」景浦は微笑んでいるようだ。
仲村は景浦の耳を見ようとしたが、髪の毛ですっぽりと隠れており、全く見えなかった。耳の傷は景浦のコンプレックスになっていて、長い髪の毛は、それを隠しているように見えた。
「ありがとう」仲村は言った。
「謝ってくれたのは、仲村くんだけだよ。僕もあの事件の後、すぐに転校してしまったからね」景浦の表情は変わらない。喜怒哀楽の分かりにくい表情だ。
「そうだったんだ。それで今はどこに住んでいるの?」仲村が尋ねる。
「アメリカに住んでるんだ。今回は、他の用事があって来日したんだけど、やっぱり同窓会にも寄ろうと思ってね」景浦が答えた。
「そうなんだ。それは意外だなぁ」仲村は深くうなずいた。
仲村の想像の景浦は気の弱い少年だったので、とても外国でやっていけそうには見えなかった。それに、外国まで江頭が招待状を出した、という事にも驚いていた。
それから、ここがトイレという事も忘れて、十年のわだかまりを溶かすように話し込んだ。
転校してからのこと、仕事のこと、彼女はいるか、趣味はなんだ、だとか他愛も無い話をした。
景浦も、あの事件の後すぐ、両親の都合でアメリカの叔父夫婦に引き取られたそうだ。叔父夫婦は相当な資産家らしい。
景浦の仕事は、家でインターネットを使い、デイトレードをして生計たてているそうだ。仲村は、狙っている銘柄をこっそり教えてもらおうと思ったが、すぐに思い直した。
彼女はいないらしい、もちろん奥さんもいないとの事だ。
趣味はコンピュータだそうだ。プログラミングの話を熱く話しだしたが、仲村が困った顔をすると、すぐに話を切り替えた。
仲村は景浦の趣味だけが、自分の想像した景浦像と一致していると思った。
十五分はたっただろうか。いくらなんでもトイレに居すぎだ。誰も入ってこないのが不思議だった。
「もう、結構時間がたったな。どうする。僕は戻るけど、景浦も一緒にこないか?」仲村は景浦を誘った。
「いや、今日は遠慮しておくよ。君と話せただけで十分だった」笑いながら景浦は答えた。今は、はっきりした笑顔だ。
「そうか。まぁ、残念だけど。ここで無理する必要もないか」仲村も笑顔で答える。
景浦がスーツのポケットから、一枚の紙を取り出し、仲村に渡した。
「そこに数日は滞在する予定だからさ。暇だったら遊びに来てよ」景浦が言う。
紙には住所が一つだけ書いてあった。ここは確か、相当な田舎のはずだ。
「わかったよ。休みが入ったら必ず尋ねにいくよ」仲村が手を差し出した。
景浦は嫌そうな顔をする。
「大丈夫、ちゃんと手は洗ったよ」仲村は笑った。景浦も声を出して笑う。
仲村は、景浦と固く握手をした。今までのわだかまりは、すっかり無くなったようだ。
景浦は「それじゃ」と手を上げると、ドアを開け出て行った。
仲村も戻ろうかと思ったが、それは思いとどまった。
(あぁ、どうして、呑んでもないのにトイレが近くなるのか)
また、仲村は小便器の方に向かった。
7
(バイ・菌・撲・滅!バイ・菌・撲・滅!)
いつもの呪文を唱えながら、手を洗っていると、後ろのドアが開き、江頭が入ってきた。
「お前、遅いと思ったらずっと手を洗ってたのか」大きな声で江頭は笑った。
「いやいや、違うよ、違う」仲村は顔だけ上げ、鏡越しに首を振った。
江頭は大声で笑いながら小便器へ向かった。トイレの狭い壁で反響しあって、時間がずれるような変な感覚がした。
「なぁ」江頭が小便器の方から、仲村に声をかける。
「どうした?」仲村は指の間を洗い終え、手首を洗い始める。
「いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」江頭はさっき大声で笑っていたとは思えないほど真剣な声だった。
(なんでもないという言葉は、そういう時に使ってはいけない。本当に何かあるときは、誰も信じてくれなくなる)
仲村は自然と心の中でつぶやく。朝の鳴海の言葉の意味がようやく分かったような気がした。
それからは、気まずい無言の時間が続いた。仲村が手を水ですすぎ始めた頃、江頭も洗面台にやってきた。
江頭は水を流し、指先にちょんとつけると、すぐに水を止めた。これは一般的な八割の男だ。
「その、さっきの話だけどな」江頭は真剣な表情だ。「あの時のこと。あやまりたくて」
仲村はピンと来た。きっと景浦の事だ。江頭にもやはり罪悪感があったのだ。
「実はさっき会ったんだよ」仲村はすこし迷ったが、やはり言うことにした。
江頭の事もきっと許してくれるんじゃないか。そう言おうと思った。
「会ったって、誰に?」江頭は真剣な顔で尋ねる。
これは少し予想外だった。この状況で会ったといえば、一人しかいないじゃないか。
「景浦だよ。景浦に謝りたいんじゃないの?」仲村は質問を返した。
「景浦……」江頭は真剣な顔をして黙り込んだ。
「悪いけど、思い出せない。景浦?それ誰だ?」江頭が顔を上げ答えた。
(え?)
江頭の予想外の返答に、仲村は固まった。
江頭がさらに続ける。
「俺が謝りたいと思ってるのは、お前にだよ」江頭が真剣な顔でこちらを見ている。
仲村は江頭が何を言っているのか、もう理解できなかった。
何故僕にあやまりたいのか、理解できない。
いや、理解したくなかった。
「あの時は、本当にすまなかった。俺、実は家で虐待を受けていて。それで、みんなにつらく当たっていたんだ」江頭が仲村の顔を見つめている。
仲村はその言葉の半分も聞き取ることが出来なかった。
完全に混乱していた。
視界がグルグルと回った。
頭の中ではあの時の記憶が鮮明に蘇りつつあった。
人間サンドバックの、あの時の痛み。
親の財布からお金をくすねる、あの時の罪悪感。
確実に。
少しずつ。
思い出していた。
「特にお前には酷い事をしたと思っている。転校してしまってから、ずっと後悔していた。すまん。この通りだ」江頭が頭を下げている。
仲村の目は、江頭に焦点が合っていない。
あの瞬間の映像を思い出していた。
放課後に書いていたノート。
あれは担任に書いた、いじめ告白の手紙だ。
江頭に見つかる。
机に押さえつける江頭。
狂喜に満ちた目。
開くドア。
突き刺さる錐。
(そうか)
(そうだった)
仲村は鏡を見た。
おかっぱ頭の自分が見える。
小学校四年生から、ずっとこの髪型だ。
耳がすっぽり隠れたこの髪型だ。
仲村は左耳が見えるように、おかっぱ頭を掻き分けた。
触らなくても分かる。
傷なんてふさがっちゃいない。
左の耳に一センチほどの穴がぽっかり開いてる。
景浦のコンプレックス。
本当は景浦なんていないのだ。
僕が景浦なんだ。
仲村が景浦だった。
「おお、おい。大丈夫か。も、もう俺、行くからな」江頭がトイレを出ようとする。
仲村は前面の鏡でそれを見ていた。
それは、江頭ではなかった。
真っ黒い何かだ。
仲村は心の中で唱える。
(バイ・菌・撲・滅!バイ・菌・撲・滅!)
二話 密室の男
1
小野寺は激しい頭痛とともに目が覚めた。視界にはぼんやりと天井が映る。電灯の眩しさでまたズキッと頭痛がした。
喋れる程度まで頭が覚醒してくると、小野寺は自分のおかれた不思議な状況にようやく気づいた。
「一体、ここは……。どこなんだ」小野寺がつぶやく。
周りを見渡す。まったく見覚えの無い場所だった。
パイプで作られた安物のベットに白い布団。そこに小野寺は寝ている。真っ白の壁紙がやけに眩しい。壁に窓はなく、鉄のドアと木のドアが一つずつあるだけだ。貧乏大学生の一人暮らし程の、狭い部屋だ。
斜め前には木の小さな机があった。ブラウン管タイプの古いデスクトップPCが一台置かれている。電源は入っているようで黒い画面に緑のカーソルが点滅し、存在を主張していた。
机の横に、自分の身長位の大きな冷蔵庫がある。死体でも入りそうなサイズだ。
小野寺はベットから降りる。
周りを見渡したが履くものは無さそうだ。しかたなく、裸足で歩き出した。
六歩程歩いて、鉄のドアの前まで行った。左手には木のドアがある。
小野寺は木のドアを開け、中を覗く。古い洋式便器があった。水洗ではなく、汲み取り式のものだ。棚の上には予備のトイレットペーパが何個かあり、その横には油性ペンがある。小野寺にはトイレに油性ペンを置くセンスが理解できなかった。
木のドアを閉めると、次は鉄のドアに手をかけた。鉄のドアには取っ手として、コの字型の鉄のパイプが嵌っていた。こっちは開きそうにないと思っていたが、力を込めても予想通り開かない。思いっきり引いたり押したりしたが駄目だ。
カギ穴は見当たらなかったが、ドアのすぐ横の壁に電卓のようなものが付いていた。1から9までボタンがあり、数字を押すと、小さな液晶に押した数字が並んだ。OKというボタンを押すと液晶の文字が消え代わりにという文字が出た。
「これは、電子ロックかな」
小野寺は、自分で言って意味が分からなくなった。
こんなものが内側に付いている部屋に、なぜ自分はいるのだろうか。
(そうだ。携帯)
携帯をいつも入れているスーツの内ポケットを探る。
(ん?何かあるぞ)
指先に、何か固いものが当たる感触がある。だが、それは携帯ではなさそうだった。もっと何か細長いものだ。
「なんだ、これは」
内ポケットから出したそれは、革のケース入った刃渡り10cm程のナイフだった。
不思議なのは、小野寺がそのナイフに全く見覚えがないという事だ。つまり、誰かが故意に入れた事になる。
ケースからナイフを抜くと、そこにいつもの自分の顔が映った。
いつもはビッチリと決めている七三も、今はボサボサに崩れていた。外人が思い描く典型的な日本人の顔立ちで、無精ひげが目立ったがこれはいつものことだ。
小野寺はナイフを内ポケットに入れなおすと、他のポケットも手で探った。
しかし、携帯はおろか、小野寺の持ち物は何一つ見つからなかった。
「ちくしょう!何だよ!」小野寺は大きな声で言った。
「おーい!誰か居ないのか!」鉄のドアの方に向けて叫んだ。少し反応を待ったが何も起きない。
(これは何だ。何がどうなっている)
小野寺は机にあった椅子を引き腰掛けた。胸ポケットからナイフを取り出し、机の上に置く。スーツの上着を脱ぎ、床に乱暴に放った。
まだ、すこし頭痛がするが、小野寺は冷静になって考えようとしていた。胸ポケットに手を突っ込みタバコを探したが、すぐに無い事に気づく。強制的な禁煙らしかった。小野寺は顔をしかめて軽く舌打ちをする。
そして、上を向いて、腕を組み。自分の思考の体勢を整えた。
(俺は何でここに居る?)
2
「いや、だから、このスケジュールでは厳しいでしょうといっているんです」男が大きな声を上げる。
「そう言われても。うちもね。このスケジュールでやれって上から言われてるんですよ」机の向かいに座っているスーツ姿の男が丁寧に答えた。
「小野寺さんは、どう思います?」横の男が小野寺のほうを向く。
「このスケジュールでは実際無理があります。ですが、中途半端な製品であれば、この納期で収めることができるでしょう。それじゃ困るでしょう?」小野寺が答えた。
的確な小野寺の発言で、みんなが押し黙ってしまった。結局、この打ち合わせでは、再度打ち合わせをする事で話がついた。まさに底なし打ち合わせだ。
小野寺宗一は大手IT企業のN社に勤めるSEだ。
くだらない打ち合わせとは、早くおさらばしたかった。
(辞めたい)
自分デスクで呟く。
そもそもシステムエンジニア(SE)という言葉が胡散臭くて嫌いだった。アメリカではこんな言葉は存在しない。年功序列の日本のシステムが作り出した無意味なポストだ。
小野寺は大学時代、プログラミングにどっぷりはまり、夢に胸を膨らませてこの業界に入った。もう十年以上も居る事になる。
最初こそプログラミングが楽しく、嬉々として仕事をしたが、今のSEという立場になってからはめっきりプログラムに触る機会が無くなった。SEはExcelやWordでいかに無難に書類を書くかという事を求められるポストだからだ。
そんな仕事には不満を感じていたが、この業界以外に自分にできることもなく、給与もいい。完全に惰性で働いる事を認識している分、自分はまだましだと思っている。
「ふぁぁぁあ」小野寺は大きなあくびをした。
打ち合わせから帰って来てからは、プログラムの設計図をひたすらWordで書いていった。ふと外に目をやると、もう日が落ちて真っ暗になっていた。時計に目をやと、夜の八時を過ぎていた。
「ふぅ、帰るか」小野寺が自分に言い聞かせるように言った。
その後、すぐにしまったと思う。この職場で「帰る」は禁止ワードなのだ。
案の定、後輩の地獄耳に拾われてしまった。
「先輩。暇っすか?」後ろから後輩の声がした。
(暇だから帰るんだろうが)
と言ってやりたかったが、ぐっと我慢した。前の小野寺だったら、そんなものは無視して帰っていたかもしれないが、今は上司なのだ。そう簡単じゃない。
結局会社を出たのは、深夜一時を回る頃だった。
当然電車も無いので、タクシーに乗り込んで、家に向かった。
(今日は近くの牛丼屋で飯でも食おう)
小野寺はいつもの牛丼の味を思い浮かべてげんなりした。
「遅い時間ですね。今まで仕事ですか?」タクシーの運転手が話しかけてきた。
「まったく、困ったもんだよ。後輩から仕事押し付けられちゃってね」そう言って、小野寺があくびをする。
「それだけ信用されてるって事じゃないですか」
「余計な信用って奴さ」
「そうですか」
いつの間にかタクシーは都会の喧騒を抜け、田舎道を走っている。
「俺も、こんな所で自由に暮らしたいよ」小野寺は窓から流れる景色を見ていた。
「自由が欲しいですか?」運転手が意味ありげに尋ねた。
「欲しいね」
「どんな犠牲を払っても?」
「あぁ、まぁ、そうだなぁ。仕事しなくていいなら」小野寺が答えた。
(変な運転手だ)
小野寺はそう思った。
しばらく無言で田舎道を走り続ける。小野寺は飽きもせず流れる景色を見ていた。疲れから、大きなあくびをする。
「寝ていて貰って結構ですよ」運転手のこもった声が聞こえた。
「悪いね」
小野寺はそう言うと、窓の景色から目を離し、前を向く。
バックミラー越しに運転手の顔を見ると、お面のようなものを被っているのが見えた。
(な…んだ?)
小野寺が良く見ようとするが、まったく頭が働かない。
なぜか体も思い通り動かなかった。
次第に小野寺の周りに鈍い世界が広がる。朦朧とする意識の中、運転手の声が聞こえた。
「大分、お疲れのようだ」
3
「くそっ!あの時のタクシーだ!」小野寺は机を思いっきり叩いた。机の上のPCがガタガタゆれる。
普通自分が狙われるなんて思いもしない。
まさか、帰りのタクシーでそのまま監禁されるなんて想像もできない。
今更、後悔してもまったくの無駄だった。
(それよりも、ここから出ることを考えなくてはいけない)
小野寺は冷静になって思考のベクトルを切り替えた。
時計が無いので正確な時間は分からなかったが、もう三時間以上は経過したはずだ。
それなのに誰も来ない。
小野寺は椅子から立ち上がり、再度、部屋の中を調べ始めた。
大きな冷蔵庫を開けると、パンや缶詰、飲料水がぎっしり詰まっている。これだけで2ヶ月以上は持つだろう。小野寺は少し安心した。
今度はPCを調べた。PCにはLANケーブルが刺さっており、ケーブルの先は壁の中に消えていた。
(ネットワークがつながるかもしれない)
小野寺はキーボードのEnterキーをバチッと乱暴に押した。
そうすると画面に変化があった。
>
という文字が表示され、矢印の先に緑のカーソルが点滅している。
(Linuxか何か入っているのか?)
小野寺がEnterキーを続けて押すと、同じ表示が続けて下に表示されるだけで何も変化が無かった。
次に、「ls」というコマンドを入れ、Enterキーを押した。
だが、小野寺の予期していた表示は現れず、何も入力されていないのと同じ動きをした。
その後も、小野寺は色んなコマンドを打ち込んで試したが、何も反応せず、ただ「>」の表示が何行も続くだけだった。
もしかしたらと思い、一度PCの主電源を落とし、もう一度電源を入れたが、状況は何も変わらなかった。
(あぁ!駄目だ)
たぶん自作されたOSが常に起動されているのだろうが、コマンドが分からない事には何も操作しようが無い。ただの箱だ。
はぁと深くため息をつき、机に突っ伏した。
その時、PCから「ピッ」という鋭い電子音がなった。驚いて顔を上げる。
K>こんにちは
とPCのディスプレイにと表示されていた。
これは小野寺が打ったものではない。
確かに外部の誰ががネットワークを経由して、文章を打ち込んだのだ。
小野寺は急いで
>君はだれだ?
と打ち込んだ。
K>私はKだ
と返答が表示される。
>ここはどこだ?
K>ここは君
小野寺は少し嫌な予感がした。
>私は小野寺だ
K>小野寺はチャットに登録されました
(そうか!これはチャットソフトだったんだ!)
小野寺の顔が緩んだ。
O>私は?
K>あなたは小野寺
O>君はどこに住んでいる?
K>私は小野寺に住んでいる
O>君は?
K>私はK
(やはり…。会話がなりたたない…。)
小野寺はある考えが浮かび、すぐに試してみる事にした。
O>2478*29350
K>72729300
(今までと同じ返答のスピードだ)
小野寺はそこでキーボードを打つのを止めた。
無意味だと気づいたからだ。
これは人工無能と呼ばれるジョークプログラムで、小野寺は一度大学の研究室で同じようなものを作ったことがあった。
人工無能とは、チャットでの相手の言葉を保持しておいて、意味のないの無い言葉を、意味のあるように組み合わせて、発言することが出来る玩具のプログラムだった。
簡単な計算も出来る様にプログラミングしたのだろう。
三桁以上の掛け算を、あのスピードで返してくる人間はそういない。
今、小野寺がチャットしている相手は人間などではなく、ただの感情を持たぬ機械という事だ。
小野寺は、椅子から立ち上がると、はぁとため息を付き、ベットに倒れこむ。
精神的にもうヘトヘトだった。
チャット用の端末…。
人工無能…。
鉄のドア…。
ドアのパスワード…。
(くそっ、この部屋は意味の分からないものだらけだ)
4
小野寺は、ベットの上で冷蔵庫に入っていたパンを食べていた。
何の味付けも無い、ただの食パンだ。
窓が無く、外の光が入ってこないので、今が何時なのか、朝なのか夜なのかも分からなかった。ただ、長い間寝ていた感じがあったので、きっと寝てから九時間以上は経過しているだろうと考えた。
食パンを口に突っ込み、水で胃袋に流し込んだ。
小野寺は腹が一杯になった所で、この常軌を逸した状況について改めて考えてみる事にした。
(まず、犯人の目的が不明だ)
ここに監禁されてから、二日程経過しているはずだ。なのに、犯人にこちらに姿を見せていない。
こんなことがあるんだろうか?
身代金目的にしても、小野寺の親しい親族と呼べる人は一人もいなかった。みな、死んだか連絡を絶ったものばかりだ。会社に脅しをかけても絶対に払わないだろう。そういう会社だ。
(それに、ドアのロック)
ドアの横にはキーロックを入力する機器が設置されていた。マンションのオートロックのようなものだ。
もしかしたら、正しい番号を入力しても開かないという可能性もある。
だがその場合、その機器をつけていること自体が不自然だ。
(胸ポケットに入っていたナイフ)
机の上においているナイフに目をやる。
なぜ、ナイフを故意に持たせる必要があったのだろうか。犯人にとって、人質に凶器を持たれるというのは決して嬉しいことじゃないだろう。
(なぜか拘束されていない、そして大量の食料)
小野寺が拘束されていなかったのも謎だ。キーロックをあける可能性があるし、犯人がこの部屋に入れなくなる。ナイフをもった人質がうろうろしている部屋に、入る犯人はいないだろう。
それに、大量の食料がこの部屋の中にはある。一人で3ヶ月はもつだろう。
やはり、この事からも犯人がこの部屋に入る意思がない事が推測できた。
(あぁ、さっぱり分からない)
小野寺はまたベットに横になり、ため息をついた。
ご飯を食べたので眠気が襲ってくる。これは昼寝なのか夜寝なのか。
意識もおぼろげで、現実とイメージの狭間を漂い始めた。
その時、「ピッ!」という機械的な音で一気に現実に引き戻される。
また、机の上のPCが鳴ったのだ。
小野寺は飛び起き、椅子に座った。
K>おはよう
また、新しいメッセージがPCには表示されていた。
O>最悪の目覚めだよ
K>そうかい?
O>そうだ
K>この部屋は気に入って貰えたかな
(明らかに昨日と違う…。喋り方が非常に人間に近い。もしかしたら、今度は人間が喋っているのか?)
小野寺はカマをかけてみる事にした。
O>9345*564230
K>私は機械ではないよ。人間だ。そして、君をここに連れて来たものだ
(何!)
小野寺のキーボードを打つ手が震える。
O>お前は何者だ?
K>私が誰かは問題ではない。今、君が本当に聞きたいのは、なぜここにいるか?の理由だろう
O>なぜだ?
K>君はこういったね。自由になりたいと。そして、今、君は自由である
小野寺は無性に腹が立った。
(こいつは何を言ってるんだ!)
O>ふざけるな!ここの部屋に閉じ込められて、どこが自由だって言うんだ!
K>では、自由とは何だ?
自由とは何か。小野寺はあらためて言われると、すぐには答えられなかった。
K>私が思う自由とは自分の心の中にしかない。決して他者の心には存在しない。
K>人間は他者に踊らされ、知らずに自分を拘束しているでは無いか。なぜそれに気がつかない。
K>君が今居る場所は、他者から断絶された自由の楽園なのだ
小野寺は怒りでどうにかなりそうだった。
O>ふざけるな!お前の自由論など聞きたくない!ここから今すぐ出しやがれ!
そこで、チャットの返信は途切れた。
小野寺は頭を抱えた。
(完全に犯人は狂っている。目的はそんなことか!)
小野寺は大声で叫んでしまいたかったが、それをする事で何かが壊れてしまいそうだったので、ぐっと我慢した。
また、「ピッ!」というするどい機械音がなる。
小野寺はゆっくりと顔を上げ、PCのディスプレイを睨んだ。
K>非常に残念だが、君の自由はここではないようだ
K>君の自由はさっきの掛け算の答えだ
(私の自由?)
その言葉を考えている内に、「ブーン」という鈍い音をさせてPCの電源が落ちた。
小野寺はあわてて電源ボタンを押したが、PCはもう起動しないようだった。コンセントを確認したがちゃんと刺さっている。
PC自体がクラッシュして壊れてしまったのだと小野寺は確信した。クラッシュさせるプログラムを向こうから起動させたのだろう。
小野寺はため息をつき、鉄のドアの方を向いた。
(私の自由…。掛け算の答え…………。)
小野寺は鉄のドアの横についている電子ロックに目をやった。
(そうか!)
小野寺は焦りながら、必死に問題を思い出した。
確か、だったはずだ。
小野寺は立ち上がり書くものを探して、部屋中をうろうろした。
確かトイレに油性ペンがあったのを思い出し。トイレのドアを開け、棚の上を探った。
(よし!あった)
小野寺は鉄のドアの横の壁に油性ペンで問題文を書きなぐった。
小野寺は掛け算ができないほど焦っていた。
二十秒程して落ち着いた所で掛け算を始めた。
その答えをドアの横の機器に打ち込む。
5…。2…。7…。2…。7…。2…。9…。3…。5…。0…。
番号の上の小さな液晶にと表示された。
OKボタンを押す。
と表示され、「ガチャッ」というドアのロックが外れる音がした。
(よし!)小野寺は腰の辺りで小さくガッツポーズをする。
急いで、机の上においていたナイフを手に持った。
ナイフの革のカバーを床に投げ捨て、小野寺は鉄のドアを音がしないようにゆっくりと開けた。
5
ドアを開けると、部屋の中の光が外に漏れて小さな通路が浮かび上がった。人が二人がやっと通れるほどの小さな廊下だ。照明器具はあるようだったが、明かりはついていない。
小野寺が外に出て、鉄のドアを閉めると、明かり一つない暗闇になった。しばらくその場で待つと、徐々に暗闇に目になじんでいった。廊下の先に目を凝らすと、階段のようなものが見えた。
小野寺は音を鳴らさないように、そっと足に体重をかけながら、一歩一歩移動していった。
その階段前まで来ると、階段の上で「ガタ」という物音が聞こえた。
手に持ったナイフをぎゅっと強く握り締め、階段を一歩ずつ進んでいった。
十段位の階段を上ると、木のドアがあり、ドアの隙間から光が漏れていた。
小野寺は音がしないように、ゆっくりとドアノブを回し、二センチほどドアを開けた。
中を覗くと、男の後姿が見えた。特徴的なシルエットだ。
こちらには気づいていないようで、小さなボロボロの机の上にある何かを見ているようだった。
ここは外に繋がっている部屋のようだった。壁紙が剥がれ落ちて、木がむき出しの壁に、天井は半分無く、太陽の光がそのまま差していた。
息を整え、決心する。
(このナイフであいつを後ろから押さえ込もう)
ゆっくりとドアを自分の肩幅程まであけると、物音がしないようにそっとドアを抜けた。心臓の鼓動が大きな音でなっていたが、それが聞こえているのは自分だけのようだ。
一歩一歩その男に近づいていく。足音を鳴らさないようにそっと歩いた。
手を伸ばせば届く距離まで、近づく。
ナイフを握り締め、自分の胸の高さまであげた。
(よし、今だ!)
小野寺が動き出そうとしたその時、右側のドアが大きな音をして開いた。
「危ない!」その方向に目をやると女が立っている。ドアは外に繋がっていた。
男がこちらを一瞬にして振り向く。小野寺はナイフを腰の辺りでぐっと固定させると、男に全力で突進した。
男はそれを闘牛士のようにひらりとかわし、小野寺の視界から消え去った。
「やめなさい!」女が叫ぶ。
小野寺が後ろを振り向くと、男が独特のポーズを取りながら構えている。
「うぉぉぉぉー!」小野寺が叫びながら突進した。もはや、半狂乱だった。
男は左に避けながら、私のナイフを持っている手を掴むと、突進した勢いを利用して、簡単に投げ飛ばした。小野寺は合気道というものは信じていなかったが、実際に投げられてみるとこんなに合理的なものはないと思った。
ミシッという床の木が折れる音がした。小野寺は、床に叩きつけられた衝撃で息ができなかった。それに、首の少し下がビリビリして焼けるように熱かった。
小野寺が少し首を上げ、自分の足のほうに目を向けると、ナイフが胸に突き刺さっているのが見えた。
それは、勇者だけが抜くことができる、聖なる剣のように深く刺さっている。
「ごふっ」小野寺は咳をしたつもりだったが、中から赤い液体が込み上げてきた。
女が何か叫んでいたが、夢の中の出来事の様に遠くに聞こえる。
小野寺のすぐ横に、男が立っている。
(この、おかっぱ野郎が。なんで泣いてやがる)
喋ったつもりだったが、それは声になっていないようだった。
小野寺の世界は、白の絵の具が大量に混じるように濁り、そして次第に真っ白になった。
三話 偉才の少年
1
コーヒーを一口飲むと、口の中に程よい酸味と甘味が広がった。
(ここのコーヒーはやっぱり世界一おいしい)
流川は白い口ひげを触りながら喫茶店を見渡す。
怪しい光沢を放つ木のカウンターには、八個ほどの椅子が並び、後ろを振り向くと土塗りの茶色い壁が目の前に迫った。天井近くの窓にはステンドガラスがはまっており、太陽の光で店内を不思議に包んでいる。
マスターはいつもの服を来て、食器をピカピカになるまで拭いている。
まるでここだけ時間が流れないように、あの時と何も変わらなかった。流川だけが歳をとったような感覚になる。
(もうあれから、十年か)
コーヒーを覗き込むと、すっかりしわの増えた自分の顔が映った。顔色も悪いように見えるが、それはコーヒーの色によるものかもしれないと思い直す。
コーヒーの横には古いノートを三冊並べて置いていた。ノートにはそれぞれの表紙にペンでと書いており、それは八歳、九歳、十歳の順でキッチリと並べている。
胸ポケットから、古い懐中時計を取り出して時間を見る。まだ三十分以上猶予がありそうだ。
流川が余裕を持ってこの場所に来たのは、二つ理由がある。
一つ目は、ここでゆっくりとコーヒーを飲みたかったということ。
二つ目は、この成長記録を十年ぶりに見返したかったから、だ。
(彼は時間にきっちりしていたから。まだこないだろう)
待ち合わせ相手の事を思い、すこし微笑んだ。彼は神経質なまでに時間にこだわるのだ。
流川は懐中時計を胸ポケットにしまうと、と表紙に書かれたノートを手に取り、表紙を捲った。
2
八月六日
坊ちゃんが八歳の誕生日をお迎えになられました。
八歳になられて、お顔立ちが大分旦那様に似てきたように思えます。
今年は、旦那様と坊ちゃん二人きりで過ごす、初めての誕生日でしたので、多少心配しておりましが、お二人とも楽しんでおられた様で、私も安心いたしました。
私がキッチンで料理の片付けをしていると、旦那様がいらっしゃっいました。
旦那様は「今日からあいつの成長記録をつけてくれないかな」と照れくさそうに仰れられました。
私は「奥様が亡くなられる時、坊ちゃんを立派に育てる、と旦那様は仰られました。私はその記録を喜んで取りましょう」と申しますと、旦那様は嬉しそうに戻っていかれました。
ですので、執事であります流川が、今日から坊ちゃんの成長記録を執筆いたします。
つたない文章ですが、どうぞご容赦を。
十月二日
旦那様は有名な国立大学の学長を勤めておられます。
「教鞭を振るわないものは教育者ではない」と言う立派なポリシーを持っておられ、学長になっても、自分の授業を受け持っておられました。
私も一度、旦那様の授業を拝見した事があります。
いままでに経験した事の無い興味深い授業でした。
旦那様が一つだけ数式を黒板に書くと「これについて話し合ってみなさい」と、これだけ仰って黒板の横の椅子にお掛けになり、学生達を見つているだけなのです。
学生達はその問題に対して、質問や解き方をみんなで話し合い、それぞれのアイデアを必死に旦那様にぶつけていました。
旦那様はその一つ一つを聞き、うんうんと頷いては「では、証明してみなさい」と仰るばかりです。
一度、旦那様に「生徒の評価はどうやって決めておられるのですか?」と尋ねたことがあります。
そうすると、旦那様は「突拍子も無いことを言った学生が、それを証明したものがだよ」と仰っられました。
その事を、前に坊ちゃんにお話した所、「その授業を見てみたい」と懇願されましたので、私と坊ちゃんで、今日、旦那様の授業の見学する事になりました。
この日も、私が前に見たときと変わらず、旦那様は黒板に一つだけ数式を書かれて、「話し合ってみなさい」と仰られました。
今日は特に難しい問題の様です。黒板には、私が一生見ることの無い様な記号が並んでいます。
学生もこれは困ったという表情をして、一様に押し黙っていましが、一番前に座っていた一人の学生だけが、嬉々として旦那様を質問攻めにしていたのが、非常に印象的でした。
坊ちゃんの顔を見ますとニコニコと笑っておられましたので、私が「お分かりになりますか?」と尋ねた所、小さな声で答えを教えてくださいました。
私は最初、ご冗談を言っておられるのかと思いましたが、証明まで詳しくご説明になられたので、びっくりしてしまいました。
このことを旦那様に報告すると、「その答えは、正解だ。証明も若干つたないが悪くない。そうだな。今度知能指数を計るテストを受けさせなさい」と仰られましたので、近いうちに知能指数を計るテストを取り寄せたいと思います。
十月二十日
この前、坊ちゃんが受けた知能指数の結果が返ってまいりました。
旦那様がお帰りになった折、その封筒をお渡しすると、その場でビリビリ封筒を破かれ、結果をご覧になられました。
「知能指数は二百を超えていて、あのテストではそれ以上計れないそうだ!」と旦那様は私に、嬉しそうに話してくださいました。
あの様に嬉しそうな旦那様は、長らく見ていなかったような気がいたします。
私も思わず「坊ちゃんには、知能指数が千くらいまで測れるテストが必要でございましたね」と微笑みました。
二月六日
坊ちゃんから電子部品を買ってくるように仰せつかりました。
私は根っからの機械音痴ですので、まったく何ができあがるのか想像がつきません。
最近は工作に凝っておられる様で、旦那様は坊ちゃんの為に、お庭に専用の工房を建てるそうです。
四月三十日
お庭に坊ちゃん専用工房が完成しました。
坊ちゃんは工房内の電子機器を、それは嬉しそうに眺めておいででした。
仮眠用のベットや、トイレなどがあり、人一人くらいなら快適に住めそうな広さです。
五月十五日
坊ちゃんに内線で呼ばれて、お庭の工房に向かいました。
工房に入りますと、坊ちゃんがこの工房ではじめて作った作品を、見せていただきました。
私はよく存じませんが、パソコンと呼ばれるもので、大分前に買って来たパーツはこれを作る為のものだったようです。
六月三日
私の部屋に坊ちゃんがパソコンを運んで来て下さいました。
自作パソコンの二号機だそうです。
坊ちゃんが、私に丁寧に使い方を教えて下さいました。チャットと呼ばれるもので、坊ちゃんの工房のパソコンと会話することができるそうです。
「内線を使う必要もなくなるので、気が楽になる」と坊ちゃんは満面の笑みでした。
私は両手の人差し指を使って、試しに一行打ち込んでみました。
>わたしはるかわ
K>るかわはチャットに登録されました
今日からは、坊ちゃんとこのパソコンで、連絡を取り合う事になりました。
3
八月六日
坊ちゃんの九歳になる誕生日でした。
今日は旦那様が綺麗なお嬢様をお連れになられましたので、坊ちゃんと三人でお食事されました。坊ちゃんは終始ご機嫌のようでございました。
旦那様は大変照れておられるようで、何度も同じジョークを仰っておられました。
九月十三日
坊ちゃんの誕生日にお見えになったお嬢様は、旦那様の新しい奥様になられるそうです。
旦那様はしきりに坊ちゃんの顔色を伺っておられましたが、坊ちゃんは終始ニコニコ笑ってらっしゃいました。
緊張した旦那様は、食事が中々口にうまく入らないようで、何度も食べ物を服に落とされていましたが、お嬢様がその都度さっと拭いておられました。
一度、落ちる瞬間にお嬢様がナプキンでキャッチされたので、私も思わず笑ってしまいました。
旦那様とお嬢様はきっと良い夫婦になられるのでは、と思います。
十二月一日
また坊ちゃんからお使いを頼まれました。
「女性用のカツラと口紅と香水」と書いてあります。
これは旦那様に報告すべきでしょうか……。
あらぬ方向に坊ちゃんが進まぬ事を祈るばかりでございます。
十二月十日
お使いの品を坊ちゃんに渡しました。
恐る恐る「何に使われるのですか?」と尋ねた所、「じきに分かるよ」とお答えになりました。
聞かなければよかった……。
三月二十一日
ご飯を坊ちゃんの工房までお届けしました。
香水が若干減っていたのが気になります。
口紅も開封してありましたし。
やっぱり、自分で使う以外に用途はないと思うのですが……。
五月八日
深夜、皆が寝静まった時間に廊下で物音がしました。
私はもしやと思い、ゴルフクラブを取り出して、ドアを少し開けて廊下を覗くと、坊ちゃんの後ろ姿が見えました。
お腹が空かれたのかと思い、私はドアを開けて、声をかけようとしました。
ですが、できませんでした。
振り返った坊ちゃんの顔。
闇の中にぼんやりと浮かんだその顔には、確かに口紅が塗られていました。
私に気づいた坊ちゃんは、「ケケッ」と笑って闇の中に消えてしまいました。
この事を、私は旦那様に相談すべきか悩んでいます……。
この成長記録も旦那様にお見せしていません。
八月六日
坊ちゃん十歳の誕生日です。もう小学四年生になられました。
本当に時間が流れるのは早いものでございます。
八月七日
お食事の際、旦那様と奥様の会話にぎこちなさが見られました。
そういえば、最近、以前ほど楽しくお喋りをしておられないように感じます。
この老いぼれの勘違いであればよいのですが。
八月十二日
食事中に旦那様と奥様が大きな声で口喧嘩されました。
私はお二人が喧嘩しているのを見たのは、これが初めてでございます。
坊ちゃんは俯かれて、ぼーっと床を見つめておられました。
八月二十日
今日は、坊ちゃんのご夕食を工房の方に持っていきました。
坊ちゃんはパソコンに向かっておられましたので、「何をしておいでですか?」と尋ねると、株のトレードをインターネットというものを介してやっておられるそうです。
料理を置いて戻ろうとすると、坊ちゃんは私に「流川の趣味は何かある?」と尋ねられました。
私は無類のコーヒー好きですので、「コーヒーを飲むことでしょうか」と答えました。
そして、「坊ちゃんの趣味はパソコンですか?」と逆に尋ねましたところ。
坊ちゃんは、カツラと口紅と香水のセットを指差され、「趣味はこれかな」とお笑いになりました。
八月二十一日
旦那様は今日から出張で、明日の夜戻られるそうです。
今日あの事を相談しようと思ったのですが……。
坊ちゃんがコーヒーに興味を持たれたようです。
明日喫茶店にお連れする事になりました。
あの様な趣味を辞めるきっかけになれば、と思います。
4
横では坊ちゃんが美味しそうにマスター特製のモカを飲んでいる。
この喫茶店ではカウンターしかない。人が五人入るのがやっとというカウンター席だ。
カウンターの椅子の高さ調整を最大にしたので、坊ちゃんはつま先すら地面に届かず、ぶらぶらと足を揺らしていた。
「おいしゅうございましょう?」流川が聞いた。
「うん、おいしい」坊ちゃんが頷く。
「そうでしょう。この喫茶店は世界一おいしいコーヒーを出す店ですので」流川は口もとをきゅっと上げた。
それから、無言でただ、コーヒーを飲んだ。
それが、このコーヒーへの決められた作法のように二人とも静かであった。
二人の間にゆっくりとした時間が流れる。
外はもう真っ暗である。
「坊ちゃん」流川が沈黙を破った。
「何?」坊ちゃんは流川の顔を見る。
「大変あつかましい質問なのですが」流川は口ごもった。
「君が言ってるのは女装セットのことか?」坊ちゃんはずばりと言ってみせた。
「あ、はい。そうでございます」流川は驚く。
「何に使ってるかって?」坊ちゃんは笑っている様に見えた。
「えぇ、もう。まったく、その通りでございます。坊ちゃんには私の考えなど。全て見抜かれているようですね」流川は上品な白い口ひげを触った。
「答えはじきに分かる……だ」
「じきに分かるですか……。ですが、その。その時になってはもう、遅いといいますか」流川は困った顔をする。
「そうだな。もしかすると今夜分かるかもしれない」坊ちゃんは笑った。
坊ちゃんが、座っていた椅子からぴょんと飛び降りた。
「帰ろう」坊ちゃんは、ただそれだけを言った。
帰りの車は、終始無言だった。流川は車の運転に集中している振りをする。
家の前の道に入り、正門ゲートがやっと見える頃、流川はいつもと違う光景に気づいた。
正門ゲートの前には、多くの人だかり。敷地内には赤い蛍の様に規則的に点滅する眩い光が見える。
流川はクラクションを鳴らしながら、モーゼの様に野次馬の海を真っ二つに割り、車を進めた。
敷地内に車を止めると、一人の警察官が窓をノックした。
「すいません。私、この家の執事なのですが、何事ですか?」流川が窓を開け尋ねた。
「殺しですよ」警官が言う。
「え」流川は息の仕方を忘れたように、喉を詰まらせた。
「ここの奥さんが、旦那を刺し殺しました」警官が言った。
「そんな!」流川は叫ぶ。
「フフッ」後部座席から、かすかだが笑い声が聞こえた。
流川はバックミラー越しに坊ちゃんの顔を覗いた。
暗闇の中に、笑顔がぼーっと浮かんでいた。
5
「はい、モカね」マスターから二杯目のコーヒーが目の前に置かれると、なんともいえない香りが脳を刺激した。
流川はと書かれたノートをそっと閉じる。
奥様が旦那様を刺し殺した動機は、旦那様の浮気によるものだそうだ。
奥様の証言によると、何度も旦那様のシャツに口紅が付いていた事があったそうだ。
この事にしびれを切らした奥様が、旦那様を問い詰めると、知らないと突っぱねたらしい。
その後も、旦那様のベットから長い髪が見つかったり、服からは香水の匂いがしたそうだ。
そして、あの夜、奥様は全てを清算するつもりで問い詰め、殺してしまった。
警察は、その証言を元に旦那様の浮気相手を捜したが、結局見つかることはなかった。
髪の毛や口紅などの証拠もまったく出てこなかった。
坊ちゃんはというと、両親が亡くなられた後、アメリカの叔父夫婦に引き取られたので、流川はこの成長記録を書くのを辞め、自分の家に持ち帰った。
なぜ、自分が持ち帰ったのか。警察にも提出しなかったのか。
その理由も薄々分かっていた。
流川はそれ以来、この日記を見ていない。
いや、見ないようにしてきたのかもしれない。
流川は自分が寿命を全うする前に、全てすっきりしておきたい気持ちだった。
自分のこの老いた体から疑問という鎖を解きたかった。
その為に、今日、あの男と会う約束をしたのだ。
「ギィ」という音を立て、喫茶店のドアが開いた。
流川は懐中時計を取り出して、時間を見た。
ちょうど、約束の一分前だ。
その男は流川の横に座り、コーヒーを頼んだ。
男の服装はコーヒーの様にブラックで、靴紐は結んでいない。
四話 強気な女
1
(慣れっておそろしい。何度も殺人現場を見るうち、死体をなんとも思わなくなってしまった)
姫島はそう思いながら、死体を眺めていた。刑事という、人間の悲運な最後を見る仕事に、絶対に慣れは来ないだろうと思っていたが、勤務一年程でそれはあっけなく訪れた。
事件が起こったのは昨夜、このトイレで男が撲殺されていた。
当時、この居酒屋では世田谷小の同窓会が行われていた。被害者は同窓会の幹事役であった、江頭丈。
トイレに行ったきり帰ってこない江頭を心配して、元クラスメイトがトイレを探した所、大便器に座ったまま息を引き取った江頭を見つけたそうだ。
便座の上に座っている江頭の顔を覗き込むと、もはや人間の顔の骨格を成していなかった。
(これは、きついかも)
死因は撲殺だという事は検視結果を聞かなくても分かるほどだ。
姫島は廊下に出て、携帯を取り出した。。
携帯をダイアル状態にして、耳にあてる。三十秒ほどするといつものお姉さんが出てきて、いつもの文句を並べた。
(あぁー!もう!)
姫島が電話を切った。ボタンを押す手は怒りに満ちていた。
一人の部下に連絡がつかなかったからだ。
「姫島さん!」部下の手島が姫島に声をかけてきた。
手島は茶髪にパーマをかけた今時の若者風だが、仕事に関しては非常に熱心にだった。仕事に関しては、だ。
「どうしたの?」姫島が尋ねる。
「実は、さっき江頭の元クラスメイトに話を聞いてきたんです」
「えぇ、それで。どうだった?」
「トイレから戻ってきてないのは、二人居るそうなんです」
「そうなの、あと一人はどこにいるの?」
「いえ、帰ってきてないそうです。トイレに行ったまま」
「怪しい奴ね。連絡はつかないの?」
「携帯に何度かけても出ないそうです」
(どこにでも同じ様な馬鹿はいるのね)
姫島はあいつの事を思い浮かべてイライラした。
「それで、そいつ、名前は?」
「えぇ、その。それが…。」手島が躊躇している。
「何?どうしたの?」姫島は何か悪い予感を感じていた。
「あと一人の名前は、仲村勇樹です」手島が意を決したようにはっきりと言った。
「な、仲村!」姫島は驚きのあまり携帯を床に落とした。「それ、本当なの!」
「えぇ、仲村も同じ世田谷小の出身らしくて。今日は仲村もここに来ていたそうなんです。同窓会が一時間くらいたった所で仲村がトイレに行き、その二十分後くらいに江頭がトイレに。そして、二人とも帰ってこなかったそうです」手島がメモ帳を見ながら報告する。
(そんな、仲村が…)
姫島は仲村の事をよく知っていたが、殺人をするようなやつではない。手島もその事をよく知っている。
「動機は?」姫島が尋ねた。
「え?」手島がいきなりの質問に驚いていた。
「人を殺す十分な動機があるの?」姫島は繰り返す。
手島はすぐにメモ帳をペラペラと捲った。どうやら回答のページを見つけたようだった。「江頭は小学生時代。かなりの悪だったみたいで、仲村を執拗にいじめていたようです。そして、ある日。仲村の左耳に大きな穴を開けたそうなんです。事故だったそうですが。」
「穴?」
「えぇ、ピアスをあけようとして、耳の穴のすぐ横のあたりに、錐が刺さってしまったそうなんです。当時はそれで学校が大騒ぎになり、すぐに仲村は転校したそうですね。その後、江頭は反省してすっかり丸くなったそうですが」
「動機としては十分って事ね」姫島が顎に手を当てた。
「残念ですが」手島が俯いた。仲村は彼の同期でもある。
姫島は携帯を取り上げて、ディスプレイを見つめた。
そこにはと表示されている。
仲村勇樹は警察官であり、姫島の部下だった。
2
容疑社宅は姫島の左に見えるアパートの三階の一番左の部屋だ。
外を見ると曇っていて今にも雨が降り出しそうだった。それに今日は湿気が凄い。
(もうっ、最低!)
姫島は張り込みが大の苦手だった。化粧は崩れるし、シャワーも好きなときに浴びれない。特に今日のような湿度が高い日は尚更だ。
まったく。覆面パトカーで容疑者宅に張り込むのはもう何度目だろうか。きっと一桁は超えているだろう。この部署は女の扱いをまったく知らない。
しかも、今回は新人刑事が一緒だった。これがまた使えない顔をしている。
おかっぱ頭で、名前は仲村勇樹という。見事に名は体を表さないやつだ。
「姫島さん、ブラックでよかったっすよね」仲村が質問しながら、もたもたと車に乗り込む。
「いぃから。早く乗ってよ」姫島がせかすと仲村は更に焦ってもたもたし始めた。
こういうタイプは、怒る、焦る、の悪循環が続くので、姫島は今度から何も言わないようにしようと決めた。
「何か、進展ありましたか?」仲村が姫島に缶コーヒーを渡す。
「いや、何も」姫島が容疑者宅を睨み付けながら缶コーヒー開けた。
「わぁー、僕やっぱり苦いの駄目なんです」仲村の方に目線を移すと缶コーヒーを苦そうに飲んでいる。
「ちょっと!何で私が牛乳入りなのよ!」姫島が改めて缶コーヒーを見た。牛乳五十パーセントと書いてあった。
「えぇー。いや、姫島さんが何も言わないから。嫌いなのかなって。それで僕が我慢して苦いのを飲んでいるのであります」仲村が渋い顔をする。
「あの…。あたしはね。コーヒーはブラックって決めてるの!」
「え、それじゃあ、最初から…。」仲村がぶつぶつと言った。
「何!」姫島が愚痴を一刀両断する。
「いえ、何でもありましぇん」仲村は肩を竦めた。
「僕、駄目な奴なんです」ぶつぶつと仲村が呟いた。
(まったく、だらしない男!もぉ)
姫島はこういう駄目なタイプの男が大の苦手だった。
姫島は一度大きくため息をして、容疑者宅のアパートに目線を移した。
アパートの前では、四、五歳くらいの可愛い女の子が幼稚園の制服を着て歩いていた。
自分のサイズに合わない大きな黄色い長靴を履いていて、アンバランスさがとてもキュートだった。
「可愛いっすねぇ」仲村が鼻息を荒くして行った。
「あんた、ロリコンなの?」姫島は仲村を睨んだ。
「え?」仲村の目が丸くなる。「いやいやいや、違いますよ!」何かの小動物の様に仲村は小刻みに首を横に振った。
「僕はただ子供好きなだけなんです」今度は手まで小刻みに横に振る。
あんまり首を横に振るのでおかっぱ頭が二倍くらいに膨らんで大きくなり、その浮力を利用して飛んでいきそうだった。
姫島は、一瞬その姿を想像すると、おもわず噴出してしまった。
「あ!」仲村が急に大声を上げて、姫島の顔を指差した。
一瞬ビックリしたが、それは自分の顔を指差したのではなく、窓の外を指差したのだと気づいた。
(まさか、容疑者が)
素早く振り向いて、容疑者宅を見ると何も変化は無かった。カーテンの開き方まで一緒だ。
「なんだ、脅かさないでよ」姫島はすこしほっとして仲村の方を向く。
しかし、助手席に座って居るはずの仲村は既に外に飛び出していた。ドンと車のドアがしまる音がして、仲村が容疑者のアパート前に向かって走っていく。
(え?)
姫島が状況が飲み込めず、仲村の後姿を目で追うと、向かった先には大泣ききしているさっきの幼稚園児がいた。
彼が言ったのはこの事だったのだ。
姫島は急いで、仲村に手で戻れのサインを送った。容疑者に気づかれたら今まで張り込んできたのが水の泡だからだ。
すると、仲村は何を勘違いしたのか、パトカーに一礼してどっかに走り去ってしまった。
さっきまでの曇りが急に機嫌を損ねて、どしゃぶりになった。
姫島はただぽかんと仲村が走る後姿を見つめるだけだった。
3
江頭が殺された現場から署に戻った。
姫島は自分のデスクに座ると、熱いブラックコーヒーを飲みながら仲村の事を考える。
(あのとき)
(あのどしゃぶりの中)
(転んだ女の子をおぶって全速力で病院まで連れて行った仲村)
(私が送った「戻って」のサインを「早く行って」のサインと勘違いした仲村)
(「容疑者にばれると思わなかったの?」と聞くと、「でも、ほっとけないでしょう」と答えた仲村)
やっぱり、姫島は仲村が殺人犯には思えなかった。
姫島が知っている仲村は、決して人を殴り殺すような奴ではない。
気の抜けていて、どこか憎めない、誠実な男だ。
姫島は俯いてため息を付いた。
(今でも信じられない。仲村が人を殺すなんて)
その時、携帯のディスプレイが淡い緑に光った。
姫島は危険を察知した時の猫のように、素早く携帯を掴んだ。
メールだ。
送信者は……。
仲村……勇樹。
姫島はメールの内容を読むと誰にも何も言わず、警察署を飛び出した。
外に出るともう夜が明けていて、その日は雲ひとつ無い晴天だった。
4
「ここだわ」姫島がパトカーの窓からその建物を見た。
そこには今にも崩壊しそうな、民家が一つだけぽつんとあった。隣の家まで何キロメートル離れているんだろう。
姫島は用心の為に、車は民家から少し離れた、舗装されていない道路に止めた。車一台がやっと通れる狭さだが、きっと車はこないだろう。
姫島は携帯を取り出して、あのメールをもう一度読んだ。
姫島さん、僕は大変な事をしてしまいました。
この事件の真相をすべてお話します。
必ず一人で、僕が指定する場所に来てください。
「来たわよ。一人で」姫島が携帯に向かって呟いた。
姫島は車から降りて建物に向かって歩き始めた。
一歩ずつ一歩ずつ。まるでニュートンの嫌がらせのように足が重い。
(きっと私にだけ話したいことがあるのだろう。それは悪い話だろうか)
ここに来るまでの間、嫌な考えがグルグルと頭の中を走り回った。
(なんとしても自首させたい。今はこのことだけに集中しよう)
姫島は気持ちをプラスに切り替えることにした。なぜなら、もう行くしかないのだ。
建物のそばまで来ると、それはご立派な廃墟だと言うことがよく分かった。
屋根は半分剥がれ落ち、一つだけ見える窓は割れていた。
廃墟の側面には草なのか木なのかも分からないような大きな植物が生えており、すっぽりと廃墟を覆い被していた。
姫島は足音を立てないようにそっと窓に近づき、唯一の窓から中の様子をそっと覗いた。
(いた!)
あの特徴的なおかっぱ頭。仲村の横顔がはっきりと見えた。仲村は、今にも崩れそうな机の上に乗っている紙を読んでいる。
建物の中は、半壊した屋根から太陽の光が直接照っていて、ぼろぼろのフローリングを照らしている。
仲村の立っている真後ろにはドアがあり、何処かに繋がっているようだった。廃墟の側面は草に覆われていて見えないが、もしかすると、もう一部屋あるのかもしれない。
(泣いているの?)
仲村の表情は一見無表情のようだが、姫島には泣いているように見えた。
読んでいる紙の内容はここからでは見えない。
姫島は一度、窓から視線をはずし、その場にうずくまった。
(仲村)
あんな表情の彼を姫島は見たことが無かった。
途端に胸が苦しくなる。
(この感情は何なんだろうか)
その分析は後回しにした方がいいと判断した。
バンと顔を叩いて、無理やりに気持ちを入れ替える。
(絶対に自首させる!)
姫島は決心を固めた。
ドアノブに手を伸ばす。
(一、二、三)
ドンッとドアを勢いよく開けた。
しかし、姫島の目の前には、さっきとは明らかに違う光景が広がっていた。
ナイフを持った男が仲村の背後に忍び寄っているのだ。
とっさに姫島は「危ない!」と大声で叫んだ。
一瞬で振りむく仲村。
男はナイフごと仲村に突っ込んでいく。
(駄目っ)
姫島は目を瞑った。
恐る恐る目を開けると、すでに仲村が男の背後に回っていた。
「やめなさい!」姫島は叫んだ。
その言葉は、仲村に言ったのか、その男に言ったのか自分でも分からなかった。
だが二人とも、まるで空調の音の様に、その叫びを聞き流した。
仲村は独特のポーズを取って、男を待ち構えている。
姫島は仲村が小さい頃から古武術を習っていて、相当な腕だと上司が言っていたのを思い出した。
「うぉぉぉぉ!」という雄叫びと同時に仲村めがけて男が突進していった。
仲村はそれを交わしながら、相手の手を掴む。
掴んだと思った瞬間。男は体はすでに宙を舞っていた。
男は床に叩きつけられた。ミシッという木のきしむ音がした。
そして、仲村は流れるような動きで、倒れた相手の握っているナイフをそのまま胸に突き刺した。
ゴツッという固い音がした。
突き刺さったナイフを見ると、柄の部分だけが見えて、刃はどこかに消えてしまったようだった。
「なんてことを…。」姫島が仲村に聞こえるような声で呟いた。
倒れた男の顔を覗き込むと、鬼の様な顔で仲村を睨みつけていた。だが男は口を何度が動かして、すっと目を閉じた。
「この人は誰なの?」姫島は冷静に振舞った。
(いつも見ている死体だ。冷静になれ)
姫島は自分に言い聞かせた。
「姫島さん、どうしてここへ」仲村が男の横に座り込んだ。
「あなたからメールが来たわ」
「……。僕は…ってない」仲村がぼそぼそと呟く。
「え?」姫島はよく聞き取れなかった
仲村が男から一気にナイフを引き抜いた。血塗られたナイフを握る仲村を見ると寒気がした。
「あなたは…。こんなことするような人じゃない!」姫島が大きな声で言った。
「どしゃぶりで女の子をおぶって走ったじゃない!」姫島の視界は次第に涙でぼんやりと滲んだ。
「なのに…。どうして」一粒の涙が頬を伝って床に落ちた。
姫島は泣くつもりなんて無かった。
涙なんか警察官になって流したことはなかった。
でも、流れる涙は痴話げんかの様に止まらない。
「姫島さん、僕は。本当は。こんなことを止める為に警察官になったんです。僕は弱い人を助ける為に警察官になったんです」仲村は立ち上がって、俯きながらこちらへ近づいてくる。
姫島は後ずさりした。二歩程行くと、背中が壁についた。
「そんな僕が、人を殺してしまった。二人も」仲村は近づいてくる。
「おねがい…。自首するのよ」姫島の一歩先には仲村が居た。
「全部、景浦に操られていたんだ!景浦は僕なんかじゃない!本当に居た!」仲村が顔を上げた。
その顔は、もはやいつもの仲村の顔ではなかった。
狂喜じみた殺人犯の顔だ。
(でも、絶対にあきらめたくない。絶対に)
「仲村」姫島が少し近づく。
「机の上の紙を読んで全て分かったんです!自分が書いたものなのにすっかり忘れてた!」一気に仲村がおびえている表情になった。
「やめて」姫島は握っているナイフに手を伸ばした。
仲村が俯いて黙った。
「一緒に行きましょう」姫島が仲村の手に触れる。
仲村が顔を上げた。
その顔はにっこりと微笑んでいた。いつもの、あのときの仲村だ。
「僕は、本当に駄目な奴なんです」
仲村は姫島の手を振り払って、くるっと後ろを向いた。
そして、血塗られたナイフを一気に自分の首に突き刺した。
それは本当に一瞬の出来事だった。
決まっていたことの様に、機械的に素早い動きだった。
数滴の血が姫島の顔にかかる。
目の前で仲村の髪の毛が不気味に揺れ、ガクンと頭が下がった。
横に倒れる仲村の首からは血のシャワーが不気味な音をたてて噴出している。
「きゃぁぁぁぁー!」姫島は絶叫した。
それはいつもの見慣れた死体だった。
でも、ついに踏んだ地雷のように感情は爆発した。
5
姫島はデスクでブラックコーヒーを飲んで書類に目を通していた。
仲村の事件の資料だ。
仲村勇樹。
死因は首の傷による出血多量。
仲村勇樹のポケットからはあの民家の住所が書いてある紙が発見された。
そして、机の上に置かれていた紙は、筆跡鑑定をした結果、仲村が書いたものに間違いなかった。
内容は仲村が小さい時に、先生に当てた手紙だった。
せんせい、ぼくは、えがしらくんに、いじめられています。こわいです。
お友達も、みんな見て見ないふりをします。こわいです。
でも、一人だけ、かげうらくんだけは、ぼくのお友達です。
かげうらくんは、ぼくがつらくならないように、いろいろと教えてくれました。
でも、せんせい。
ぼくは、もうきついです。
きつさでむねがいっぱいです。
たす
その手紙は途中で途切れていた。
姫島はため息をついて天井を見上げる。
(まだ、この事件は終わってない)
姫島は漠然とだったが、そう感じていた。
「姫島さーん」手島がいつもの調子で近づいてきた。
「なに」姫島が椅子を回転させて手島の方を向く。
「あの、姫島さんが調べろって言ってた件ですよ」
「何かわかったの?」姫島の顔がぐっと手島に近づいた。
「あ、え、えぇ」手島は照れているようだった。「仲村が言っていた、景浦って男なんですが、世田谷小に居た記録があります」
「やっぱり、同じ学校だったんだ!」姫島はおもわず声を出した。
「仲村違うクラスで同学年に確かに景浦マモルという男の子が確かに居た記録があります。そして、その子は仲村の事件があってからすぐに転校しています。」
「理由は?」
「母親が父親を刺したそうです。酷い事件だったそうで」
「母親が?」姫島は驚いた。
「えぇ、父親の浮気が原因らしいです」
「そう。何か引っかかるわね……。それで、その後は?」
「その後はアメリカの叔父夫婦に引き取られたとか」
「今はどこにいるの?」どんどん姫島の顔が手島に近づく。
「それが、まったくそこから記録がないんですよ。お手上げ状態です。」手島が残念そうに言った。
「ちょっと、それを探し出すのがあんたなの!」姫島は手島に力強いデコピンを見舞った。
「いでっ!」手島は本当に痛そうだ。
「何としても探し出して!」
「は、はい!」というと、手島は急いでどこかに言ってしまった。
姫島はまたデスクに向かった。
パソコンに景浦マモルと打ち込む。
(絶対にこいつが何か握ってる)
姫島はそう思った。
思考するうちにある男の顔が浮かび上がってくる。
こんなとき、とても頼りになる男だ。
思いついたように携帯電話で彼に電話をかける。
彼は一コールで電話を取った。彼に電話して三コール以上待ったことがない。
そして、姫島は開口一番こう言った。この男に前置きは不要だ。
「探して欲しい人がいるの。鳴海さん」
五話 盲目の男
1
(真っ暗だ)
自分が目を開けているのか、開けていないのか。それすら分からない。
外は明るいのか、暗いのか。相変わらず暗闇と言う部屋に閉じ込められた事実に、この覚めない悪夢に、男は絶望していた。
医師の話だと、胸に深く突き刺さったナイフは肺や心臓などの重要な臓器を交わし、奇跡的に一命を取り留めたらしい。
だが、その代わり失明という重い後遺症が男には残った。
男にとって、病院のベットの上には、真っ暗な無限の空間が広がっている。
病室の窓から、子供の遊ぶ声や、病院のアナウンスの声などが漏れて入ってきたので、まだ夕方くらいなのかもしれない。
(まだ、犯人は捕まっていません……か)
姫島と名乗った刑事の言葉を思い出していた。
この言葉を聞いたとき、怒りで頭中の血管が破裂しそうだった。
絶対に俺が見つけだして、ぐちゃぐちゃに殺してやると思った。
しかし、そんなものは幻想でしかないという現実が痛いほど男の目の前に広がっていた。
この真っ暗な世界で、何ができると言うんだろうか。
俺を刺したあいつが犯人だったら、どれだけ気が楽だっただろうか。
いや、あのまま俺が死ねていれば、どれだけ……。
男がけだるそうに上半身を起こすと、一つの足音が、自分の病室の前で止まった。
(誰か来たかな)
男の耳は敏感だった。
すぐに病室の引き戸が開く音がして、誰かが病室に入ってきた。
「誰ですか?」男はこれからは誰が来ても、そう言わなくてはならない事を知っていた。
「私は姫島さんの部下の手島と申します」手島と言う男はベットの横の椅子に座ったようだ。
姫島の部下という事は、彼も刑事なのだろう。
「もう、私が話せることは全てお話したつもりですが」
「今日は、私が調べたことをお伝えするつもりです。あなたには真相をすべて知る権利がありますので」手島がパラパラと何かを捲っている音が聞こえた。
「私がこうして盲目になった事実は変わらないでしょう」男は顔をしかめる。
もう十分だった。
何もかも。
この現実も。
暗闇も。
真相も。
全てはどうでもよくなっていた。
「小野寺さん……」手島が慰めるように言う。
「では、私が勝手に喋っていると思って、聞いていただければ」手島がゆっくりと喋り始めた。
小野寺は俯いて手島の言葉に耳を傾けた。
2
「この事件は最初は本当に小さなきっかけから始まったんです。それは景浦という男の話です。彼は天才的な頭脳を持っていました。それが故に、世の中のすべてが色あせ、つまらなくなってしまった。」手島の声が低く知的な声に変わった。
「景浦は同じ小学校に居たいじめられっこの仲村に、ある言葉をかけました。どうしても辛い時のおまじないです。別のを自分を作るんだ、と。そして、仲村は自分がいじめられているという感覚が日に日に薄れていきました。もう一個の自分を江頭にいじめさせる事で、本当の自分は傷つかずに済んだんです」手島の座っているパイプ椅子がぎぃと鳴った。前のめりになっているのだろうか。
「その事に景浦は歓喜します。そして、人間を観察する面白さに生きがいを感じました」手島のカタカタと言う貧乏ゆすりの音が聞こえる。
「景浦は仲村に手紙を書かせました。先生への告白の手紙です。自分が先生に渡しておくからと放課後に何度も何度も書かせた。景浦は江頭が来るのを待っていたんです。ついに江頭が入ってくると景浦は教室から出て事の成り行きを見ていました。それは楽しかったでしょう。人がやり合う様は。しかも自分が仕組んだものなら尚更です」手島の鼻息が荒くなった。
小野寺は顔を上げて、手島の方を見た。あいかわらず視界は真っ暗だったが、その方向に手島が居ることは感覚で分かる。
「あぁ、すいません。つい。…そこで更に景浦にとって面白いことが起こります。江頭が仲村を押さえつけてピアスを開けようとした。教室のドアから覗いていた景浦は興奮しました。と同時にある事を思いつきます。江頭が刺す瞬間に教室のドアを開けたらどうなるか、という事です。そして、あの仲村の左耳の傷が出来上がった」手島がゆっくりと丁寧に話した。
(左耳の傷?)
小野寺は仲村のそんな傷の事は知らなかった。
「左耳に傷があったのか?」小野寺が尋ねる。
「えぇ、髪で隠れていますが、大人になってもぽっかりと一センチ程の穴が開いてましたよ。決して塞がらない心の傷ようなもんだ」手島は少し笑っているようだった。
「そうか」小野寺は複雑な心境だった。
「その事件のせいで、仲村は転校しています。一方、景浦の方はというと、これもまた転校しています」
「何で?」
「母親がね、殺したんですよ。父親を。」手島が言った。
「母親が?」小野寺は驚いた。
「そうです」手島が答える。
「なぜ?」小野寺が尋ねた。
「父親の浮気と言うことになってますが、肝心の浮気相手が見つかっていない。結局の所、動機は分かっていません」手島が即答する。「ただ、タイミングが良すぎます。この時期に両親がいなくなり、まったく関係のないアメリカへ」
「偶然なのか」
「完全な偶然でしょう。どちらの事件もすべて偶然です。やつは人がいがみ合う環境を与えて、ただそれを観察していた。人は環境さえあれば争いあうものです。現にこの世界では多くの人が争いあい殺しあう。人は簡単に殺しあうんですよ」手島が恐ろしいことを平気で言った。
「話がそれましたね。実はここからが面白い。江頭は小学校の同窓会を開くことにしました。そして、仲村を呼びます。もちろん理由はあの時の事を謝りたいから。だが、だがですよ。大人になった仲村は江頭は一緒に居た仲間だと思い込んでいる。自分がいじめられている事を覚えていないんですよ。ただ、いじめがあったという事実は覚えています。被害者が景浦にすり替わった記憶なんですがね。人間の修正能力には本当に頭が下がります」手島が淡々と続ける。
「景浦はこの事を知り、その同窓会に行った。そして、仲村がトイレに行くと自分も後追いました。そして、必然の出会いが起こった。いじめられっ子の景浦と仲村の再会です。その後、仲村はなんとね。謝った江頭を撲殺てしまうんですよ。その後で、景浦に渡された紙を見て、あの場所に来た。そこからは小野寺さん。貴方のご存知の通りですよ」手島が言った。
「そうか…」小野寺は仲村に関して何も言葉は無かった。
しかし、またある感情が沸いて来る。それは抑えていた感情。
景浦への怒りだ。
「じゃあ!何で俺だったんだ。なんで俺が、その景浦ってのに閉じ込められなくちゃならないんだ!」小野寺は大声を出した。
「お、落ち着いてください」手島は慌てている。「それは、私たちにもなぜ貴方なのか。さっぱり、わかりません」
気がつくと、小野寺の呼吸は犬の様に短く、強かった。ゆっくりとした呼吸を意識することで、ようやく落ち着くことができた。
「誰でも良かった可能性はあります。景浦は完全な快楽者です。そして、奴は貴方を部屋に連れて行って何もせずに解放している。これは重犯罪ではないんです。景浦は自分の手で誰も殺していない」手島が冷静に言った。「つまり、今の法律だと景浦は捕まえられない可能性があります。捕まえたとしても軽犯罪だ」
「景浦は、あの状況でどうなるか。ただ観察したかっただけなんだ。その証拠に貴方が持っていたナイフの柄に盗聴器が仕込まれていました。電波は微弱なもので半径二キロメートル以内までしか届きません。やつは何処かで聞いていたんですよ」手島はそういうと少し間を置いて、「まるで野球のラジオ中継の様に。興奮してね」と悔しそうに言った。
(あぁ、そうか。すべてを聞いていたんだ。俺達が殺しあうとき、きっとあいつは狂おしい程歓喜したことだろう!)
小野寺は急に胸から色んな感情が込み上げてきた。
悔しさ。
惨めさ。
憎しみ。
その全てが、小野寺の真っ暗な世界で走り回る。
「もう、いい!帰ってくれ!」小野寺は叫んだ。
「でも、ですね」手島は狼狽した。
「いいから帰れ!」小野寺は手島に向かって手を振り回した。
「わわ、分かりました」手島は椅子から立ち上がった。
「それでは、失礼しますよ。お大事に」手島は病室のドアを素早く開けると、足早な足音を鳴らして何処かに消えた。
小野寺は布団に顔をうずめて思いっきり叫んだ。
そうする事で、暗闇の怨霊を吹き飛ばそうとしていた。
この覚めない悪夢をもう終わりにしたかった。
3
小野寺はどうにか冷静さを取り戻していた。
むしろ、全ての事を知って、すっきりした部分もあった。
(今日はゆっくり寝られそうだ)
小野寺は息を吐くと、上半身を倒して、仰向けになった。
枕の感触とベットの感触があったので、今は天井の方向を向いていることが分かった。
廊下はすっかり足音が少なくなったので、もう外は暗いのかも知れない。
と、その中の二つの足音が小野寺の病室の前で止まった。
(また、お客さんか)
小野寺は重い上半身を起こし、客人を迎える体勢を整えた。
病室のドアが開き、二人が入ってきた。一人はヒールで、もう一人は革靴だ。
「こんにちわ」女が喋った。
「姫島さん?」小野寺が言う。
姫島の声は普通の女性より少し低めだったので、覚えやすかった。
「まぁ、よく覚えて頂いていた様で」姫島が椅子に座った。男の方はそのまま立っているようだ。
「今日は警察の方が良く来ますね。もう二度目ですよ」小野寺が呟いた。
「二度目、というのは?」姫島が尋ねた。
「さっきもね、貴方の部下という人が来て、ペラペラとお喋りしましたよ」小野寺は精一杯の皮肉を言った。
「部下ですか……。すいません。その部下の名前覚えてらっしゃいますか?」姫島が尋ねる。声が若干大きくなった。
「名前って。手島って刑事ですよ」小野寺がイライラして言った。
「えっ」男の声がした。姫島と一緒に来た男の声だろう。
「そんな…」姫島が呟く。
「どうしたんですか?何かまずいことでも?」小野寺が言った。
「いや、僕が手島なんです。姫島さんの部下の」男が言った。
「え?」小野寺はまったく状況を掴むことが出来なかった。
「僕は今、初めて小野寺さんとお会いするんですが…」手島が言う。
まさか。
そんな。
小野寺の暗闇であの男の言葉が光の反射のように繰り返された。
(やつは何処かで聞いていたんですよ。まるで野球のラジオ中継の様に。興奮してね)
六話 不審な男
1
景浦がエレベータを降りると、病院のロビーではクラシックが流れていた。
置かれていた大きなグランドピアノに目をやると鍵盤だけがカタカタと動いている。
今まで見たことはなかったが、どうやらグランドピアノの自動伴奏マシンのようだ。
この程度の単純なプログラムで病院の富を象徴しているらしい。人間の愚を象徴するようなマシンである。
コツンコツンとリズムを取りながら、固い床をわざと鳴らすようにあるいた。
ベース音が足されて中々いいメロディになった。
病院のロビーには大勢の年寄りが規則性なく座っており、独特のにおいが充満していた。
死神はとってこの匂いは、まるで鰻の蒲焼の匂いの様に食欲をそそるのだろう。
もうすぐ、正面玄関を出ようかという所で急に頭が円周率を数え始めていた。
(3.1415……)
単調な作業の繰り返しは思考をフルに使う。ゆえに何も考える事ができないものだ。
こういう意味のない行為をするのは機嫌がよい証拠だと経験的に知っていた。
今は思考を放棄し、ただ人間的に感じたいのだ。優越感や圧倒的達成感に打ち震えたいのだ。この快楽を得るために私は存在しているのだから。
病院の正面玄関を抜けると大きな噴水が見えた。それを囲むように二人掛けのベンチがあり、小さな広場になっている。広場の奥には大きな道路があり、車がひっきりなしに行き来していた。
床には石の正四角形タイル敷き詰められており、ピンクと灰色が規則的に並んでいた。
外は日が落ち始め、空がぼんやりと赤く染まっていた。十一月という事もあって、多少肌寒さを感じる。
噴水の近くを通り過ぎようとしたとき、肩をたたかれた。一万桁近くまで数えた円周率だったが、渋々中断した。
振り返ると笑顔の男が立っている。
「すいませーん」
どこかで聞いたことあるような、のんきな声だ。
四十代くらいだろうか。
いやそれよりも男の格好が気になった。
変な男だ。
「何者だ?」景浦が言った。
この男に対する第一声はこれが正解だろう。
黒いTシャツに黒い長袖のシャツ、黒いジーパンに黒いスニーカー。
靴紐は結んでおらずだらんと地面にたれている。
白髪まじりのぼさぼさ頭だが、どこか気品のある顔立ちだ。
「あぁー、失礼失礼。私、こういうものなのですが」男がポケットをさぐる。
Gパンのポケットから出されたくしゃくしゃの名刺を受け取った。
(探偵。。。鳴海誠一。。。)
キーワードを頼りに、複数のタスクが並列的に記憶の倉庫を探り始める。
鳴海、Nの列、結ばない靴紐。。。
「まぁ立ち話もなんですから、ベンチにでも座りませんか?」鳴海が頭を掻きながら話す。
景浦は無言でうなずき、鳴海はにっこりと笑った。
格好に反して、中々にやけた男だ。
2
近くにあった二人がけのベンチに腰掛ける。目の前の噴水から水の粒子が散布され、ひんやりとしていた。太陽の光が分解され、噴水の水が虹色に光っている。
ベンチになど腰掛けたことは無かったが、これはこれで心地よいと素直に感じた。
「あのー、景浦マモルさんですよね?」鳴海はニコリと微笑む。深いしわで顔がくしゃくしゃになった。
「そうだ」景浦は目をあわさず言った。
顔を知っているものは今は流川だけなのだが、鳴海が覚えていても不思議はない。
「なぜ、靴紐を結ばない?」景浦は鳴海の靴を見ながら唐突に質問した。
「まぁ、その……。」鳴海は真剣な顔で黙り込んだ。
沈黙が続く、噴水の水の音が鮮明に聞こえた。
鳴海はいきなりの質問に驚いたようすもなく。何か正確な答えを吟味しているようだった。
「色々理由はあるんですが、面倒だからですかね。靴紐は物理的にいつかほどけてしまうものです。であれば最初から結んでおく必要なんてないでしょう?」鳴海は微笑む。
「おかしな話だ。靴紐の無い靴を最初から買えばいい」景浦は即答した。
「いやぁ、靴紐が無いと、靴じゃないでしょう?はは、まぁね。変なこだわりってやつですよ」鳴海は笑いながら頭をかく。
「では、服が黒いのは汚れても目立たないからか」景浦は服を見る。
「そうですね。白い服は汚れが目立ちますから、すぐ着れなくなってしまう。あとは色を決めておくと服装を決めるのに時間がかからないという事かな。まぁ、ようするに面倒くさがりなんですわ」鳴海はこっちを向き笑った。
黒い服、結ばない靴紐。
(間違いない。父に唯一を貰った学生だ。今は探偵になっていたとは……)
景浦がまだ小さかった頃、この男には一度だけ会ったことがあった。父はこの男の事がお気に入りだったようだ。
「それで、私に何か用なのか?」景浦は噴水を眺めて言った。
「覚えてらっしゃらないかも知れませんが、私はあなたのお父様の下で研究生として在籍しておりまして、貴方にも一度会ったことがあるんですよ」鳴海が言う。
「私の問いと違う回答だ」景浦は目を合わせずに言った。
「あぁ、これは失礼」鳴海はまた頭を掻いた。
「実はね。流川執事っていらっしゃいましたよね。学生時代に数度顔合わせた事はありましてね。面識はありましたから、私に依頼してくれまして。まぁ、変な依頼なんですが、貴方に会って話しをして欲しいと。そして話した感想を聞かせてくれとおっしゃるんですよ」鳴海は言う。
景浦は噴水を見たまま黙っていた。
「本当に変な依頼でしょう。でも、貴方のお父様には大変お世話になりましたし、可愛がってもらいましたから是非にと快諾しまして。すいませんが、五分だけ話をしていただけませんかね。」鳴海がアナログの腕時計を見た。ホームセンターに売ってあるような安物だ。
「なぜ、ここで待っていた?」景浦は質問する。
「動機は単純です。貴方が来ると思ったからです」鳴海はきっぱりと言う。
景浦は驚いた。この男の言葉には、果実入りジュースのような驚きと魅力がある。
「来ると思った。だと?私がこの病院来ることが分かっていたと?」景浦は鳴海の方を向く。
「えぇ、そうです」鳴海は頭を掻いた。
「私の隣人に、優しい青年がいましてね。おかっぱ頭で挙動不審なのですが、まぁ、実にいい奴でした。仲村勇樹という名前なんですが、ご存知ですか?」鳴海は微笑む。
景浦は黙っている。
「ふむ。まぁ、話には続きがありまして、そんな優しい青年が人を刺しましてね。その後に自殺してしまったんです。非常に残念なことです」鳴海はうつむく。
「他人の生き死にに興味はないな」景浦が言う。
鳴海は顔を上げて、
「あぁ、確かに。まぁ、そりゃそうですわな」と微笑んだ。
「それでね。その刺された方なんですが、奇跡的に生きてましてね。あの病院に入院されているんですよ」鳴海が言う。「それに、流川執事の書かれていたものも読みました。あなたの成長記録というやつなんですが」
「そんなものが」景浦は正直に驚いた。
「それできっと貴方が来ると私は思った。完全に私の想像ですけどね。そして、ここで会おうと私は決めた」鳴海は微笑んでいた。「貴方は人の行動や思考に大変興味を持っておられるようだ。近くで観察したいというのは研究者の性でしょう」
「研究者か。そうだな、そうかもしれない。研究者とは自分の研究に没頭し、生きていく。それは人の為でなく自分自身の欲求によるものだ。欲求に一番素直と言う点で、私は研究者だね」景浦は無表情で言う。
「それは羨ましい人生だ」鳴海は笑った。
「君は欲望のまま生きていないと?」景浦は質問する。
「私は、うーん、そうですね。色々と我慢して生きている。我慢した方が楽しい。それに、楽でもあります」鳴海は答えた。
「それじゃあ、君は人を殺すことはないと、我慢できると言い切れるのか?」景浦は続けて訊く。
「いえ、人は人を殺します」鳴海は首をふった。「それは、防衛本能に似ていますね。自分の欲求を満たし、守るためには何でもしたいと思うものです。それに、世界中で人は殺されています。この国では偶然にも人が殺され難いと言うだけだ。環境が違えば人を殺す事は正義になる」
「面白い考えだ」景浦の口角がきゅっと上がった。
「ただ、私は最後まで戦います。人が死ぬということは悲しいものだ。人の思考が一つ消えるという事は本当に大きな損失です」鳴海は笑顔を絶やさない。
「アイデンティティの喪失は悲しいものだが、人はそれを飲み込んで修復する力がある。人は換えのきく歯車に過ぎない」景浦は低い声でゆっくりと言った。
「まぁ、そうかもしれない」鳴海が腕時計を見た。「じゃあ、最後に質問よろしいですか」
「あぁ、いいよ」景浦はゆっくりと頷いた。
「神はいますかね?」鳴海は尋ねる。
景浦は声を出して笑った。
鳴海はニコニコと微笑んでいる。
「神はいる言えばいる。馬鹿な世界中の人間に、神が居ると信じ込ませたものが神だ」景浦は笑った。
「なるほど」鳴海も声を出して笑う。
鳴海がふと腕時計に目をやった。
「すいません、実は用事がありまして、私は遅刻というものが死ぬほど嫌いでね。それにもうお話は十分でしょう。依頼は完了しました」鳴海は微笑んですっと立ち上がる。
「もし、私がこなかったらどうするつもりだった?」景浦が立ち上がる鳴海に尋ねた。
「それはありえません。私はね。景浦さん。今まで約束を破ったことがない。私はあなたと勝手にここで会うと約束したんですよ。そうすれば、会えないはずはないでしょう」鳴海は言った。
景浦はきゅっと口角を上げ微笑むという動作をして見せた。
「それで、流川に何と報告する?」景浦が尋ねる。
鳴海は景浦のほうをゆっくりと振り向く。
「そうですねぇ」鳴海は黙り込んだ。下を向き、指をポーンポーンと額にあて、思考リズムを取っている。
「そうだ。こう伝えましょう。世間を知らないクソガキだったと」
鳴海はそう言うとにっこりとした笑顔になった。
景浦は大声で笑った。こんなに笑ったのは人生で初めての経験だ。
その時、景浦の後ろから黒い影がすーっと伸びた。
鳴海はその黒い影の主に軽く会釈した。目線は景浦の後ろを見ている。
「そんなにわざとらしくしなくてもいい、最初から分かっているって」景浦は笑っている。
景浦が後ろを振り向くと、そこにはよく知っている女刑事が立っていた。
「では、また会いましょう」鳴海は微笑んだ。
「あぁ。心配しなくて良いよ」景浦の笑いは一向に収まりそうにない。
鳴海は靴紐と地球を摩擦させながら歩いていった。途中途中で何度も靴紐を踏みそうになるが上手に交わしながら進でいく。
「景浦マモル、重要参考人として署までご同行願います」姫島が顔をしかめている。
空を見上げた。もう日が落ちてすっかり暗くなった。
ふぅと息を吐き、思考を整える。
(3.1415……)
景浦は興奮に震えながら、最初から円周率を数えはじめた。