イペカリオヤシ(はらぺこおばけ)
私はアイヌの狩人である。
燃えたつような紅や黄にいろどられた秋の山の奥深いところで私はいささか途方にくれていた。
いつもは従順な私の猟犬がなんの前触れもなく狂ったように駆けだして、どこかへ消えてしまったからだ。
必死で猟犬の背中を追ううちに方向感覚を失っていた。見なれぬ場所でわれにかえった私が頭上をふりあおぐと、木々のすきまからのぞく曇天が太陽の姿をおおいかくしていた。
日没の目安がつかぬ以上、あわてて下山するのは得策でない。消えた猟犬の安否も気にかかるため、あかるいうちに夜営地を確保することにした。なるべく傾斜のゆるやかなところがよい。
ときおり鳥のさえずりがひびくだけの静謐な山のなかを歩いていると、だれかが私の名をよんだ気がした。
私は息をひそめ、耳をそばだてた。
山でだれかに名をよばれたと思っても、すぐに返事をしてはならない。魔物の仕業かもしれないからだ。
すぐに返事をしてしまうと、魔物につけまわされて命を落とす危険がある。
魔物は1度しか人の名をよぶことができないと云う。しかし、私たち狩人の間では2度、名をよばれても用心のためやりすごし、3度目でようやく返事をしてよいとされている。
私は2度目の声を待ったが、いつまでたっても私の名をよぶ声はきかれなかった。やはり、魔物の悪戯であったらしい。猟犬は魔物の気配におびえて逃げたのかもしれない。
私は用心しながら、さらに山の奥深くへとわけいった。
いつの間にか日も暮れはてて、濃紫の空がぐるりを深い闇に染めていた。目が慣れぬうちに夜を迎えていた。
私は大きな木の根元に腰を下ろすと荷をほどき、弓を立てかけ、杖を立てかけ、夜営の準備をした。
熊の足の毛でできた小袋を指でまさぐり、火打石をさがすと、指がさぐりあてたのは欠けた砥石のかけらだった。
砥石のかけらを足元へ投げ捨てると、今度こそ火打石をとりだし、腐れ木の根元に火を熾した。
あかあかと燃える炎がかえって周囲の闇を色濃く映したものの、木の爆ぜる小さな音や炎のあたたかさが私をくつろがせた。
私はクワリ(しかけ弓)を張るのと、猟犬をさがすのに夢中で朝飯以来なにも食べていなかった。
弁当のつつみをといていると、突然、背後から白く長い手がのびてきた。
「食べものおくれ!」
どこからともなくひびいた声が木々の間をこだまする。
虚を衝かれ、髪の毛が一本立ちした。魔物につけられていたのだ。
私は闇からつきだされた白い手のひらへ、おかずの切れはしをおそるおそる箸でのせた。白い手はそれをひったくるように背後の闇へと消えた。
背後に魔物の気配を感じとることはなかった。大きな木の根元へ背中をもたれかけていたからだ。
魔物の腕は木の中、あるいは木のうしろからあらわれたらしい。
魔物と目があえば殺されてしまう。うしろをふりかえる勇気はなかった。
すぐに白く長い手がのびてきた。
「食べものおくれ!」
魔物はおかわりを催促した。
私は云われるがままに何度も闇からつきだされた白い手のひらへおかずの切れはしをのせた。
いつまで経ってもきりがなかった。このままでは弁当をすべて魔物に食べられてしまう。
ほとほと困りはてていると、足元の焚き火へ目がいった。焚き火のなかで先に投げ捨てた砥石のかけらが真っ赤に焼けていた。
「食べものおくれ!」
白い手がのびてきた。
私は真っ赤に焼けた砥石のかけらを箸でつまむと、白い手のひらへのせた。
砥石の熱さにおののいた白く長い手がムチのように大きくしなって背後の闇へ消えると、
「ないならないと、なぜ云ってくれんのですか!?」
恨みがましい声が轟いて、静寂が闇をつつみこんだ。
私はしばらくの間、息をひそめ、耳をそばだてていたが、白い手も魔物の声もあらわわれることはなかった。魔物は退散したらしい。
私は安堵の吐息をもらすと、魔物の最後の言葉を思いかえして苦笑した。
「もうないよ」
私が一言そう告げれば魔物はおとなしく去ったかもしれない。だとすれば、かえって気の毒なことをした。
弁当ののこりをゆっくり咀嚼していると、闇のなかから枯葉を踏みわけるあえかな跫音がした。
魔物か熊と警戒したが、焚き火にてらしだされたのは、もうしわけなさそうに頭をたれる私の猟犬だった。
「おいで」
私のかたわらへ座した猟犬へ弁当ののこりをやると、猟犬ははくはくと音をたてて、あっと云う間にたいらげた。とどのつまりは、こいつもイペカリオヤシ(はらぺこおばけ)か、と笑った。
私の腹にあごをのせ、しあわせそうに目をつむる猟犬の頭をなでていると、
(トロリンボー、トロリンボー)
どこかでフクロウが鳴いた。
〈おわり〉




