老いてなお愛しき君のために
なんで俺なのか、最初はわからなかった。それでも、死に際のじじいの頼みだ。断わるのはさすがの俺も気が引けた。それでも、多少なりとも抵抗はあった。病院ってところは辛気臭くて嫌なんだ。ましてや、もうじき死ぬって家族がみんな知ってるようなじじいに会うのも億劫だった。ただ、一つ興味があったのは、じじいが欲しがったアルバムの中の女だった。凛として涼しい笑顔ばかりの女の顔。どこかで見たような不思議な懐かしさも感じた。だから、俺はとりあえず届けてやることにしたんだ。
「悪いな」
「別に……」
じじいは弱り切ってるくせに、アルバムを受け取って薄汚れた表紙をなでる。懐かしそうに眼を細めてから、俺にジュースがあるから飲んで行けと言う。俺は簡易の冷蔵庫からコーラをとって、丸椅子に座る。
「なあ、それ誰?」
なんとなく気になってたことを聞いてみた。
「ああ、この人はお前のばあちゃんだ。綺麗だろう」
じじいはなんだか照れくさそうに笑う。俺の知ってるじじいは、お調子者だ。こんな風に静かに笑うようなやつじゃなかった。やっぱり、病気のせいか死にかけでよわってるんだと俺は思った。
(なんか、調子狂うな)
コーラを飲み切ったのに、なんでか俺は帰れなかった。じじいはアルバムを開いて、ゆっくりと息を吐く。
「やっと肩の荷がおりそうだ。あとはお前に史織さんの話をして、俺は仕舞だ」
「しおり?誰だよ。それ」
じじいは、とんとんと一枚の写真を指で叩いた。俺が気になっていた女だ。紋付っていうのか、黒い着物をきて真っ白なヒラヒラしたもんにくるまれた赤ん坊を抱いている。
「史織さんとこの赤ん坊がおまえだよ」
俺はあっと思った。俺のばあさんは俺がうまれて三つになる前に死んじまった。たしか、癌だったとか、親父がいっていたのを思い出す。
「お前が生まれてきてくれて、本当によかったよ」
「はぁ?なんだよ。わけわかんねぇ」
じじいはくくっとのどの奥で笑った。
「お前は本当にひねくれ方が俺に似ちまったなぁ」
俺は眉間に皺をよせ、じろりとじじいを睨んだ。じじいはすっとその眼をそらして話を続けた。
「俺はヤサグレの不良で、史織さんは優等生だった。高校の同級生でな。ま、俺が史織さんに憧れてたんだが、今のお前みたいにひねくれてたから、誰にも秘密にしてたんだ」
じじいはゆっくりゆっくりアルバムをめくる。俺は想像してみた。俺みたいにグレたじじいの姿を。けど、どうしてもお調子者のガキしか浮かんでこなかった。
「高校のときはあこがれで、偶然、史織さんは俺の務めてた会社に入社してきたんだ」
「同じ歳だろ?なんで時期がずれてんだよ?中途採用か?」
「違う違う。俺は高校卒業してすぐに就職したんだよ。史織さんは頭いいから大学に行ったのさ。才女が田舎にかえってきたって、同級の奴らは騒いでたなぁ」
じじいは、やっぱりいつもと違う静かな笑みを浮かべていた。
「同じ会社でも、部署がちがったから最初は会えなかったな。史織さんは営業事務で俺は企画開発の方にいたからな。ただ、一度企画部の課長のところに資料をとりに来てな。それが、もう綺麗でなぁ。男所帯の企画部に白百合登場って感じで、みんな呼吸が一瞬とまったんだよ。俺もな。それでその日からずっと史織さんのことが気になって気になって……俺は気が付いたら営業部に配置換えを頼んじまったんだ。この面で営業ってのはあんまり向いてないんだがなって言われたもんだ」
じじいは、確かに強面の部類だ。わらってりゃ別段怖くもねぇ。むしろ、面白い顔になる。
「運もよかったんだよ。景気がうなぎ上りでな、営業は人手不足になっちまってたからさ。それで、俺は営業部に転属したんだ。それから、まあ、一年もしないうちに先輩から史織さんを紹介されたんだ。合コンってほどのもんじゃなくてな。ちょっと事務方労うから付き合えって言われてついていったんだ。そしたら事務方の女の子の中に史織さんがいたんだよ。お前、どう思う。チャンスだって思わないか?」
じじいはガキみたいににやにや笑った。
「確かになぁ、狙ってる女がいりゃあ、そう思うのがふつうだろうな」
「だよな。なんだけどよ。俺は舞い上がりすぎて、仏頂面して黙々と呑むことしかできなくてなぁ。あとですげぇ後悔したよ。最初で最後のチャンス逃がしちまったってよ」
おかげで、そのあとしばらく業績がのびなやんだとぽつりとじじいがつぶやいた。
「成績よかったのか?」
「まあ、二番手だったな。なかなか一番になるのは難しくてな。それでもよく健闘してるってよ。上司や同僚には関心されてたな。そんな時に、先輩が結婚するってんで相手を紹介してやるって無理やり飯につきあわされたんだがな。これがまた何の偶然か、新婦になる女の子の隣にちょこんと史織さんがすわってたんだよ。だから、俺はああ史織さんは先輩と結婚するのかって一瞬思って、その場から逃げ出したい気分になっちまった」
じじいは、後頭部をかりかりと掻く。照れくさそうに、眉がさがって。そんなじじいは、俺の知ってるじじいじゃない気がして、なんだか俺まで気恥ずかしくなった。
「運命の神様なんざ、信じちゃいないがな。俺はその日をきっかけに史織さんと付き合うようになったんだ。映画見たり、公園で弁当たべたり……お前らからみたらガキみていなデートしてたよ。手をつなぐだけで心臓がばくばくいいやがってついつい仏頂面になっちまう」
「よくそんなんでフラれなかったな」
「ああ、不思議なもんでな。お前が生まれたときに言われたんだ。高校の時から、俺のこと好きだったんだと」
「はぁ?何それ、えれぇ遠回りしたもんだな?何、なんで、じいさんだったのか、聞いたのか」
「そりゃあ、聞いたさ。そしたらな。入学式のときに電車で痴漢にあったのを、俺が助けたんだと。俺はなんどかそういう場に居合わせて、女の子を助けた覚えはあったけどな。史織さんを助けたなんて覚えはなかったんだ。ただ、助けたときに制服の袖ボタンが外れたらしくてな。後生大事にもってやがった」
俺は運がいいんだろうとじいさんは、自慢げに笑う。
「そんでな。お前が生まれる大分前に景気が下がってな。リストラの嵐だ。鷹彦が大学生で史華が高校一年だったかな。俺にも部署移動命令がでてな。慣れないクレーム対応に追われる日々だった。家のことは全部史織さんまかせだったな。鷹彦も史華も俺の顔みるなり、すぐに部屋に消えるような関係だ。親父としては失格だ」
じじいはそう言うが、俺にはどうしても腑に落ちなかった。じじいは、俺んちに同居してる。親父とはしょっちゅうくだらねぇ話しながら、楽しくしてるし、ときどきそこに史華おばさんがまざって、お袋も従姉妹の愛実も混ざってた。俺は、なんとなく疎外感でつい夜遊びに出てた。
夜、街にでたってすることもない。たまにダチの家でエロビデオみたり、ゲームしたりするぐらいだ。今もそうだ。けど、それがちっとも楽しくなかった。
「それにしちゃあ、仲いいじゃねぇかよ」
俺は八つ当たりでもするようにじじいを睨む。じじいは遺言だからなと少し沈んだ声でつぶやいた。
「俺は結局、リストラされたんだよ。鷹彦が就職きまらねぇってときによ。そんで、恥ずかしくていいだせなくてな。しばらくは、スーツ着て家出て、街中彷徨って……あんときゃ心底なさけなかったな。素直にリストラされたから、仕事探すっていえりゃよかったのによ」
「結局、ばれたんだろう。かっこわりぃ」
俺はわざとらしく嫌な言い方をした。よくドラマなんかじゃそれで離婚とかするんだよ。現にダチの中にも父親が首切られてさくっと離婚して、母親に捨てられた奴もいるくらいだった。なのに、じじいは嬉しそうに笑ってやがった。
「ああ、その通りだ。ばれてたはずなんだがよ。史織さんがある晩、真剣な顔で仕事をやめてほしいって言ってきたんだ」
「なんだよ。ばあちゃん、知らなかったのか?」
「知ってたから、そう言ってきたのさ。俺の面子を守るためによ。俺はなんでだって聞いたよ。そしたらな、膵臓がんになってて手術できない場所に癌があるんだって言いやがってよ。俺は何の冗談だってきいたら、真面目に診断書みせてくれたんだよ。そんでな。半分泣きながら笑っていうんだ。いつどうなるかわからないから、側にいてほしいって。なぁ、そんなこと言われて意地なんかはってられんだろ。だから、俺は謝った。リストラされたって。だから、仕事さがしてがんばるから、死なんでくれって。泣いちまったよ。情けねぇよな。辛いのは史織さんだってのに……」
じじいの目が少し潤んでた。思い出して泣けてきたんだろう。俺もなんだかわからんが、胸がしめつけられるように痛んだ。
「だから、そのとき約束したんだ。鷹彦と史華には、会社を辞めたから新しい仕事を探すという。そして俺は毎日お前らを笑わせてやるって。まあ、鷹彦も史華も俺がリストラされたことは知ってたんだが、史織さんに言われてたんだと。お父さんがこれからすることに文句いわないでねってさ。鷹彦も史華も史織さんのいうことには意味があるってわかってたから、いわれたとおりにしたって、通夜のときいわれちまった。まったくいいとこなしの父親だったんだ。俺は」
「そうかよ。でも、よく親父も叔母さんもぐれなかったな」
「反面教師がここにいるからな。それに史織さんの教育はいつも前向きだったんだと。俺が働いてるうちは安心してしたいことしなさいってよ。普通、よくいうだろう。親父が働いてるから飯くえてんだ、我儘いうなってよ。史織さんはそんなこと一言もいわなかったんだぜ。本当に俺には過ぎた人だったんだ」
なんだか、俺は自分がグレてるのが恥ずかしくなってきた。ひどく、ガキ臭い真似をしてるようで。たぶん、だから家族の話の輪に入れなかったのかと思い知った。
「なあ、龍彦。お前は自由だからな。進学するのも就職するのもフラフラするのも、夢追っかけんのも……ただ、好きになった女だけは泣かすなよ。この後悔だけはなぁ、どうにもなんねぇ。俺が調子のいいことばっかり言ってんのはよ。大事な人が辛いときに甘えちまった罰なんだ。俺は冗談いうのも苦手だったんだけどよ。とにかく、死ぬまでは家族を笑わせて生きるんだって。そうしねぇと史織さんに逢えねない気がすんだよ」
だからなとじじいは俺を真剣な目で見て言った。
「笑って生きろ」
俺は何も言えなかった。ただ、うなずくしかできないくらいじじいの眼は真剣だった。そして、俺がうなずくとニヤリと笑った。
じじいは、疲れたから寝ると言って、アルバムを抱いたままベッドに横になった。そのまま、本当に寝息をたてて、俺はなんだか笑いたいのか、泣きたいのかわかんないまま、静かに部屋をでた。
「人間なんて、あっけないな」
そう親父が言う。
「そうね。でも、たのしかったわ。最初のころは冗談が下手で、それが逆におかしくて」
「ああ、本当にな。再就職先も私立保育園だからな。あの顔で」
「あら、それでもお義父さんは子どもたちに大人気だったのよ。体が大きいからよじのぼるのが楽しいみたいだったし、龍彦なんてしょっちゅう肩車ねだってたもの」
「あの顔なのに、笑うと面白い顔になるからね。父さん、ナマハゲなゆるきゃらとかいわれてたもん」
「お爺ちゃんは、可愛いよ。あたしもあんな人のお嫁さんになりたいなぁ」
「あらら、愛実ってばお爺ちゃん子全開ね」
じじいの通夜でここまで盛り上がる家族ってのが、さすがに笑えた。俺はまだひねくれたまんま、棺桶のじじいにそっと聞いた。
「逢えたかよ」
そうつぶやいたら、じじいがにやりと笑った気がした。
【終わり】