金印幻想
金印幻想
篆書で漢委奴国王という文字の彫られた金印が出土したことでその名を知られることになった福岡市東区にある周囲十キロ程の小さな島『志賀島』の北部に勝馬という集落があって、そこから急な坂道を少しばかり登ったところに、長寿山西福寺という臨済宗の寺がある。
寺の裏山は原始の木々が鬱蒼と茂っていて良く晴れた初夏の真昼でも暗い。その林の中を暫らく上ると、頂上に堂山古墳がある。平成二五年の五月、僕は古墳の脇に立っていた。足元の古墳は東西に長い『箱式石棺』で、仰向けに一人を伸展葬で埋葬するのに程良い大きさであった。
『箱式石棺』は弥生時代に朝鮮半島から伝わった埋葬方式である。堂山古墳の保存状態は、他の歴史遺跡と同様、御世辞にも良いとは言えなかったが、近くには夥しい数の小さな石仏が並べられていて、地元の人達が何か霊的なものをこの古墳に感じて敬い且つ恐れている様子が窺えるようであった。
石棺の中は空洞で発掘の際に内容物は全て持ち去られたのであろう、そこには何もなく、ただ病葉が少しばかり積み重なっているだけであった。
暫らく眺めた後、帰ろうとして石棺に背を向けてニ、三歩、歩を進めた時であった。風がそよぎ、広葉樹の葉が揺れて、木漏れ日が不思議な影を地面に走らせた。ひやりとしたものを首筋に感じると共に強い力で後ろ髪を引かれる奇妙な気配を感じて、振り返った僕がそこに見たのは箱式石棺の中で仰向けに横たわっている中年の男女の姿であった。
その顔には入れ墨が彫られ、体のあちこちには、丹という赤色顔料の痕が認められた。
男女は何かを語り掛けたそうにじっと僕の顔を見ていたが、二人共に支え合う様に石棺の中でゆっくりと立ち上がった。
男性の首には綬と言う紫の長い紐が掛けられ、それが幾重にも腹に巻きつけられていて、綬の先には金印が取り付けられている。
「何者なのだ、あなた方は」
驚いて、思わず問いかけた声が彼らの耳に届いているのかどうか分からないが、二人は微笑んで何かを言いたそうに僕をじっと見ていた。唇が僅かに動いている。
「なんだ、何を言いたいのだ」
僕は懸命に彼らの唇の動きを読んでみた。どうやら、黄泉平坂と言っているようだった。
黄泉平坂、それはあの世とこの世を繋ぐ入り口ではないか。『古事記』によると、死するものと生きるものが一緒にはいられないという恐ろしくも悲しい現実を知った伊弉諾が恥を掻かされたと言って追って来る伊邪那美から逃れるために黄泉国への出入り口を大岩で閉じたというあの黄泉平坂なのか。
「あなた方が黄泉国から来たことは、見れば想像はつく、では、生きていたあなた方は何処から来たのだ」
僕の問いに、二人はまたも意味ありげな笑いをその青白い顔に漂わせて空を指さした。
「空か」
次には西を指さした。最初、馬鹿にされているのかと思ったが、何となく彼らの謎かけが分かったような気がした。
「そうか、そうなのか」
僕は無意識のうちに二人に吸い寄せられるように近づいていた。もう少しで手が届くと思った時、二人の姿はかき消すように見えなくなって地面で木漏れ日が踊っていた。
「うわ」
僕は危うく墳墓の中に転がり落ちそうになって踏み止まり足元の石棺を眺めた。
これは首長の墳墓で、女は、その妻なのかもしれない。恐らく夫が死んだ数年後に女は死に、遺言で夫のもとに追葬するように命じたのであろう。
彼等が天空を指さしたのは『古事記』にある天鳥船に乗って高天原からやって来たことを意味しているのか。いや、そうではあるまい。彼らは西を指さした。
西には大陸がある。天鳥船とは海人鳥船のことではないか。彼らは天から舞い降りたのではない。風をいっぱいに孕み、鳥のように波を蹴って走る帆船に乗ってやって来た渡来人が彼らの実像ではないのか、そうだ、きっとそれが正解に違いあるまい。
勿論、これらは全て僕の妄想が生んだ幻覚なのであるが、彼等は重要な何かを私に暗示しているように思われて仕方がない。
気が付くと、爽やかな風が吹いて緑の里山が輝いている。何処からか鶯の谷渡りの声が聞こえる。
夏も間近い今頃の季節に鶯が鳴くはずはない。別の鳥が鳴き声をまねているに違いない。
もう少しそこで瞑想に耽っていたいという思いを残しながら坂道を下る僕の足は無意識に速くなった。
運転免許を持たない僕を、不満を漏らしながら、あちこちの歴史遺跡に運んでくれて、今日も坂下の参道に駐車して運転席で待っている妻のもとに急いだ。
「遅い、いつまで待たせるのよ」
と、妻が機嫌を損ねる前に彼女のもとに辿り着かなければならない。
歴史にはあまり興味を示さない彼女が、このところお気に入りの『高慢と偏見』という外国の小説を読みながら、待ちくたびれて、きっとあくびをしているだろう。