暗躍する者
「――どういうつもりかね」
「……ぐっ!!」
夜の闇に包まれた学園の屋上に影二つ。
一つの影がもう一つの影の腹部を怒りのままに殴りつけ、その影は必死に踏み止まりながら呻いた。
殴りつけた影は、敏也とエリーネが携わっている実験の責任者――通称、博士。
もう一方は、昼間敏也を襲った例の襲撃犯だった。だが、その顔からは覆面が失われ、腹部を殴られた痛みによって顰めた素顔を晒している。
雲海の隙間から覗いた月明かりに照らされ始めた二人は、互いに睨みあっている。
「……なぜわざわざ市民たちの体力までを奪った? それも、視覚的な偽装すら施さずにあれほど巨大なものを展開するなど。魔術に耐性の無い者があの結界に触れればどうなるか、わからない君ではあるまい」
「ふんっ、命の遣り取りの無い戦いなどで真の力は測れはしない。その程度、わからない貴様ではあるまい?」
「……口の減らない男だな、君は。わたしからの依頼内容を覚えているかね?」
「……さて? 『大神敏也を殺せ』……だったか?」
「――ふざけるな」
バチバチ、と博士の手のひらから放電現象が起こっている。あまりにも感情が昂っているため、術式を介さずに魔力が変質し始めているのだ。
「依頼内容をもう一度言ってあげよう。――『大神敏也の実力を死なない程度に試せ。ただし、一般市民は絶対に巻き込むな。エリーネという少女も同様に』――だ。……彼らの資料付きで確かに命令したはずだ。……忘れたとは言わせないよ?」
「……ああ、そういえばそうだったな。すっかり忘れてい――っ!」
ふざけたジェスチャーを交えながら軽口を叩こうとした男の顔面を、白衣をはためかせながら急接近した博士の拳が容赦なく殴り抜いた。
男の口から、ピビッ、と血を飛ぶ。
「――舐めるなよ、坊や。まさか、君が誰の部下だったか、忘れたわけではあるまい。――日本軍鬼術部隊、第一師団所属、現隊長、断神善十郎どの?」
「……ふっ、相変わらず手が早く、末恐ろしいな。――楠瀬燐火……前隊長どの」
鬼術部隊とは、治安維持部隊とは違い、日本軍内に存在する部隊である。
そして、そこに在籍するのは高位に位置する魔術師たちばかりであり、主に国家級の事件に対応する、政府の懐刀とでも言うべき者たちだ。
二人は睨み合う。お互いが仇敵であるかのように。
だが、博士はいち早く表情を崩し、彼を小馬鹿にするような表情を作った。
「――まあいい。その様を見るに、おおかた、敏也に手痛い反撃を喰らったのだろう。……どうかね? 若く、未熟な世代に命を脅かされた気分は?」
「……黙れ、冷血女め」
「……その反応。どうやら本当に敏也にやられたようだね? ……ふふっ、まさか君ほどの男が仕返しされていようとは。――一向に成長しないと思っていたが……彼も少しずつではあるが、前に進んでいるのだな」
そう言いながら街の方角を眺める博士の表情は、まるで母親のように暖かな表情をしていた。が、善十郎は憎々しげにそんな彼女を見ている。
「……なんだ、母親の真似事か? ――やめておけ、お前のような冷血な人間にそんな感情は不相応だ。そんなものを抱え続ければ、いずれ何もかもが破綻するぞ」
「……相も変わらず失敬だね、君は。また殴りたくなってしまうじゃないか。――それに、わたしにはそんなつもりはないよ。……ただ――」
彼女は穏やかな表情で月夜を見上げ、
「ただ、あの子たちに可能性を与えてあげたいと、わたしの願いを受け継いでほしいと、そう思っているだけさ」
「……なに?」
善十郎の顔が訝しげに歪む。それを見た博士はふっと表情を緩め、
「善十郎。わたしたちは多くの命を摘み取ってきた。そして、護れなかった命もたくさんある。――そうだね?」
「……いまさら何を――」
「君は、それを後悔しているかい?」
「――あり得ん。わたしたちは最善を尽くしてきた。それでも……護れなかったのだ。救えなかったのだ。――それを非難できるのは、救えなかった命たちだけだ。……安全地帯から喚くウスノロたちの声など知ったことか……ッ」
吐き捨てるように言った。
それを聞いた博士は月へと右手を伸ばし、それを掴みたがるように、でも掴めないとでも言いたげに、手のひらを虚空に彷徨わせる。
「――そう。それがわたしたちの限界だった。この手で拾い上げた命よりも……斬り裂いた身体のほうが圧倒的に多い……」
手を降ろし、悲しげな顔で善十郎を見る。
「……だがね、これからの世代には、わたしたちのような想いをしてほしくないのだよ。……出来ることならば、恒久的な平穏の中で生きてほしい……」
「――不可能だ!」
叫ぶ。否定する。無理だ、と。
「何を考えている! 誰よりも現実の中で生き、それを切り抜けてきた貴様がっ! そんな世迷言を言うようになるとはッ!」
「世迷言……か」
「そうだッ! ――戦わずして、何かを掴むことなどできんっ! 生きる為には、他者を踏みつけねばならない時が必ず来るのだッ! 奪うことができん者に、未来などないッ!」
それは真理。人であるならば、避けようのない現実。しかし――
「――勘違いしないでくれ、善十郎。わたしは別に、世界平和が実現できると思うほどロマンチストではないし、生きる為の戦いを否定するつもりもないよ。そして、現実から逃げるつもりもない」
「……では、どういうことだ! 五年前に政府に打診したお前の計画とは、今回の一件のお前の目的とはなんだっ!?」
「――高みを目指すことさ」
「……高み?」
善十郎は困惑している。意味不明で曖昧で唐突な言葉。まるで謎かけだ。
だが、それでも博士は雄弁に語る。
「あの二人には、その可能性がある。――いや、その可能性をわたしが植え付けたのだ。まあ、芽吹くかどうかは彼ら次第だがね」
ニッと口元を緩め、
「――うまくいけば、二つの『歯車』は共鳴し、二つの存在は互いを揺り動かし始める。それに伴い、彼らは自らを昇華することだろう。そして、いずれは我々の限界すら、想像すら越える存在となる。――わたしはあの二人がそうなってくれると……敏也とエリーネを信じている」
その目は、何一つ曇りのない真摯な輝きを灯している。
片手を腰に当て、月明かりに照らされ、吹き荒れる夜風に白衣を靡かせている博士のその姿は、人の意志の、静かな力強さを醸し出していた。
「……つまり、魔術師を強化する何かしらの術式を埋め込んだ、ということか?」
「今はそう思って貰えれば十分だよ」
それを聞いた善十郎は、得心のいった表情をした。
「……なるほど。今回の一件はそのための布石――要は、こやしだったというわけだな」
「そのとおりだ。――試練無くして芽吹く才などありはしない。いや、あってはならないのだ。強靭な心と経験、そういった土台が無い力など、不安定で不気味だ。それはほんの少しの悲しみで折れ、手当たり次第に災厄を振り撒くことになるだろう。――本人の意思と自覚は関係なくね」
博士はそこまで言うと、嘲笑うかのように鼻で笑った。
「私たちは『あの事件』で知っただろう? ――そんな力に憧れや羨望を抱くなど、愚の骨頂なのだと。だからわたしは彼らに成長を促すため、君をぶつけた。おかげで敏也は一歩前に進み、エリーネは結界への介入プロセスを完全に身に付けたよ」
「なにっ、あの少女が……? たった一回で、わたしの結界構造を全てマスターしたというのか?」
「ああ、彼らの状態……もちろん戦闘に限ってのことだが、それは彼らに埋め込んだ『ギア』を通じて、ある程度はモニタリングしていてね。――彼女が君の結界に介入しているときのプロセスはほぼ完璧だったよ。次に会った時……いや、誰の、どんな複雑な結界であろうと、短時間で解呪してしまうだろうね、くく」
「……」
愉快そうに笑う博士を見て、善十郎は納得できなさそうに唸っていた。
まさか、幾たびの戦闘を重ねて研鑽してきた傑作たる結界を、まだまだ未熟な魔術師によって完璧に解析されるとは夢にも思わなかったのだ。
「くくく、……まあ、普段の彼女ならば無理だっただろうが……。君が暗闇の中、エリーネが弟のように構まっている敏也を虐めたことで、彼女のタガも外れたようだ。これも若い世代が持つ可能性の内の一つさ。――災難だったね、善十郎?」
「……この女狐がっ。――忌々しい! それも狙いだったのだろうっ?」
「さて、どうだろうか。わたしは神ではないからね。束ねられ、目の前に差し出された可能性の中から最善の道を選んでいるだけさ」
「……くっ」
善十郎は悔しそうに唇を噛んだ。
昔から、気が付けばいつだって手のひらの上で踊らされてしまう。どう足掻いても敵わない。
「――さて、ではそろそろお引き取り願おうか。協力感謝するよ、善十郎。……心配しなくても、君の目撃情報はこちらで消しておいたから大丈夫さ。……ああ、それと、四神の宗家と黄竜の姫君に、治安維持部隊を別件で足止めしてしてもらったことへの礼を言っておいてもらえるかね? それと、――順調だと」
「……フン、言われずともそうする。……巻き込んでしまった市民たちにも、裏から便宜を図ろう」
「当然さ! ――鬼術部隊の本部を消し飛ばされたくはないだろう?」
「ちっ」
この女ならば不可能ではない――そう思った善十郎は舌打ち一つするだけで、特には言い返さなかった。
だが――
「――一つだけ忠告しておくぞ、楠瀬燐火」
「……何かね?」
彼は博士に背を向ける。そして、
「エリーネとかいう少女はともかく。……あいつは……大神敏也は危険だ。力を持てば何をやらかすかわからんぞ。今の内に摘み取っておいたほうが――」
「君はいつも口が過ぎる。それ以上言うと――殺すよ?」
瞬間、善十郎の全身を悪寒が包んだ。
それはまるで得体の知れないものに突然覆い被さられたかのような気持ちの悪さ。
チリチリと背を焼く二つの鋭い視線と、彼女が潜り抜けてきた死線によって研ぎ澄まされた殺気が、彼の身を凍りつかせた。
相変わらず冷たい声音が、風に乗って善十郎の耳に届く。
「……君程度が懸念することなど想定済みさ。――だからこその、二人だ」
「……そうか。――貴様は変わったな、楠瀬燐火。……以前の貴様なら、人の可能性など謳いはしなかっただろうに」
「……」
そう言うと、善十郎は彼女の怒りから逃れるように屋上から飛び降り、闇夜の中へと消えていった。