小さな疼き
次の日の放課後、エリーネは体育館裏の空き地を目指しながら歩いていた。
その右手には、彼女の下駄箱に放り込まれていた手紙が一つ。
(ラブレターなんて、二年になってからは来なかったのに……)
エリーネは少々ゲンナリしていた。こういった手合いは初めてではない。
一年生の始めの頃は、それはもう山のように恋文をもらっていた。正直読むのも、返事をするのも面倒なほどに。
ただ、律義で真面目な彼女はそれら全てに返事を書くか、直接断るか、そのいずれかの対応を取っていた。――答えはもちろん、ノー、だ。
日本に留学したばかりのエリーネにはそんな浮ついたことに感けている暇はなかった。少しでも早く日本での生活や日本語に順応する必要があったし、――それに異性を強く意識した事など、当時は皆無だった。
(みんな容姿しか見ていませんし……)
少し強く吹き始めた風に靡き始めた銀髪を押さえながら、耳にかける。
母親譲りの容姿、それは彼女の誇りだった。
幼い頃から、いつか母親のような立派で美しい魔術師になりたいと思っていたし、そうなるために努力してきた。
その結果、見事に母親の若かりし頃とほぼ同じ姿になった。
だが、その弊害がこのような形で現れてこようとは、当時の彼女は思いもしなかったのだ。
(どうして、もっと人の内面を見ようとしないんでしょうか……)
エリーネには理解できなかった。
一目惚れ? たとえそうだとしても、すぐに想いの丈を伝えるのは如何なものだろうか? そんな小さな想いが、人の心を動かすと本気で思っているのだろうか?
芽生え始めの小さな気持ちを伝えられても、エリーネには、それに応えるだけの曖昧さが存在しなかった。
(……手早く断ってしまおう)
彼女は溜息一つでそう決心し、指定された場所まで急いだ。
――近くの演習場では、魔動機の操縦訓練をしている人たちがいて、グラウンドのほうでは部活に勤しむ人の姿が見えた。
そんな人々に暖かい視線を向けながら、彼女は歩く。
◆
体育館裏の空き地に着くと、そこには一人の男が立っていた。その表情はにこやかなもので、――だが、エリーネには不自然なものに見えた。
彼女は怪訝な表情で男に尋ねる。
「……あなたが手紙を出した人ですか?」
「――ええ、そうです。すみません、突然呼び出してしまって」
男が笑みを濃くしてそう言った。しかし、その瞳は粘つくような気持ちの悪さを見せている。
エリーネは、その男の粘着質な雰囲気と不自然さにぞっとしていた。そして、自分がかなり面倒なことに巻き込まれていることを直感的に察する。
(誰のせいでしょうね。……まあ、どうせ大神くん絡みでしょうけど)
脳裏で茶髪頭の間抜け面を思い浮かべたエリーネは、目尻を少しだけ吊りあげた。
「――お断りします。では」
「え!? ちょ――ちょっと待てやゴラァッ! まだ何も言ってねーだろうがっ!!」
「――それがあなたの本性ですか? 拙い偽装ですね、バレバレですよ?」
突如激昂した男へ冷やかな視線を向けながらエリーネは言った。
その瞳の温度は極寒だ。もしこれを向けられている相手が敏也だったならば、ひいっ、と怯えながら縮こまるほどの冷たさである。
今のエリーネは相当不機嫌である。ただでさえ昨日の授業での一件でイラついていたというのに、さらに面倒な事態に現在進行形で巻き込まれているのだから。
――もう、ここら一帯を吹き飛ばしてしまいたいほど彼女のボルテージは溜まっている。
だが、己の器量の狭さを自覚できず、そうしようともしない目の前の男は、彼女のそら恐ろしさに気付けない。
男は怒りを隠さずに彼女に喰ってかかる。
「けっ、さすが……あの半端ヤローのパートナーだけあって鬱陶しい性格してんな」
「……やっぱり大神くんのせいですか。文句なら彼にどうぞ。関係ない私を巻きこまないでください」
「そういうわけにはいかねーんだよなぁ。お前にはあのクソ野郎をボコるための餌になってもらわねーと」
それを聞いたエリーネが呆れたように肩を竦ませる。
「……私を人質にした程度で彼が駆け付けるとでも? ……甘い幻想ですね。まるで乙女のようです。反吐が出そう。あなたの脳内はメルヘンですか?」
「ちょ、調子に乗んなよゴラァッ!?」
情け容赦のない彼女の物言いに傷付けられた男は、今までで最上級の怒りを表しながら叫んだ。その声はあまりにも必死過ぎて裏返りかけている。
「――それで? 私を捕まえるつもりですか? ――魔動科であるあなたが?」
エリーネは気付いていた。その男が魔術科ではないことに。
(魔術科の人間が、私たちのことを憎々しげに『半端』だとか言うはずがありませんし)
魔術科の人間は、彼女たちをからかいと親しみを込めて『半端者』と呼ぶことはあっても、憎しみを込めることはないのだ。
それは、魔術を扱うことの難しさをその身で学んでいる彼らには、到底成すことのできない非道な真似だから。
――魔術は、制御する魔力量を間違えると、最悪の場合大惨事を引き起こしかねない危険な力だ。だから皆、より一層の繊細なコントロール力を持ってして術式を制御しようとする。だがそれはかなり難しいことで、まだまだ途中で失敗する者も多い。
だから、彼らは魔術をうまく扱えない人物を貶したりなどはしない。
(まあ……魔動科に魔術科の苦労をわかれ、という方が無理ですか)
エリーネは、仕方ないですね、といった感じで溜息を吐いた。
そんな彼女を見て、男は物凄い形相で怒りを表した。どうやら、彼女の溜息を嘲りによるものだと勘違いしたようだ。
「マジで調子に乗りやがってぇッ!! そんなに魔術を使えることが偉いのかよォ!!」
「は? 私は、別にそんなつもりは――」
「オイッ!! とっととやっちまえッ!!」
その言葉と同時に、体育館の屋根から二体の魔動機――第二世代『メシア』が飛び降りてきた。
魔動機たちは、ズンッ、と地鳴りを起こしながら着地し、その内の一体が両腕のマニュピレーターでエリーネの腹部を乱雑にわし掴み、彼女の身体を持ち上げた。
「っ――」
その衝撃と痛みにエリーネの顔が苦痛に歪む。
幸い両腕は自由だが、術式を使おうとしたり、下手な動きをすれば握りつぶされてしまうだろう。
「っ~~、――魔動機まで出してくるなんて……本当に呆れました」
(……とりあえず大神くん、あなたには後でお仕置きです)
この場にいない諸悪の根源を思い浮かべ、怨嗟の言葉を脳内で呟いた。
◆
一方その頃、大神敏也はといえば――
「――レンジでパスタが作れるだぁ? ……技術の進歩ってすごい」
私服姿で、スーパーで食糧の買い出しをしていた。そして、買い物かごを足元に置いたまま、調理器具のコーナーで未知の衝撃に打ち震えている。
「ん? 『四十年前から続く伝統の技術。ぜひお試しください』……? そんな前からあんのかこれ、スゲーな」
敏也は目を輝かせながら、あれこれと調理器具を物色している。まるで、おもちゃを前にしてはしゃぐ子供のようだ。
――と、そこで彼の携帯端末が着信音を奏でた。
初期設定の味気ない音が鳴り響く。
せっかくノってきたところだというのに邪魔をされて少々ご立腹な彼は、気怠げにポケットから端末を取り出した。
「ったく、誰――エリーネ?」
意外なものを見たかのように首を傾げる。画面に表示されていた着信相手はエリーネだった。そして、未だにコールは続いている。
(何の用だろ? あいつが俺にかけてくることなんて滅多にないのに――まさか、これから昨日のお仕置きするとか……!?)
敏也は「ひいぃっ」と頭を抱えながら怯えていた。
そんな敏也を見た周りの奥様方が「どうしたのかしら?」「怖いわあの人……」「ママー、変なお兄ちゃんがいるよー?」「こらっ、見ちゃいけません!」などと騒いでいらっしゃる。だが、そんな周囲の様子にも気付かないほど彼は慄いていた。
正直このまま出ずに済ませたい。
けど、このまま出ずに無視したら明日の学校でどんな目にあうかわからない――そう思った敏也は、プルプル震える指で『応答』のコマンドをとった。
「――ただいま電話に出ることができません。ピーっという音の後に――」
《ふざけんなっ!! この半端ヤローがッ!!》
「……あん?」
なぜエリーネの携帯から彼女の、小鳥がさえずるかのような麗しい美声ではなく、こんな汚らしい声が? ――もしや。
「……変声期か? ごめんな、俺、気付いてやれなくて。――でも安心しろよ! それでも俺は、お前のパートナーだから!」
(……決まった!)
敏也は内心ガッツポーズをする。が、相手のお気には召さなかったようだ。
電話の相手は声に怒りを滲ませながら、
《てめぇ……そんな態度とってていいのか? お友達がどうなっても知らねーぞ?》
「ま、そういう状況だよな。――で? 何が目的でエリーネの端末から掛けてきてるわけ? さっさと用件言えよ」
敏也はそう言いながら買い物かごを持ち、足早にレジへと向かった。
通話相手は、クックック、と笑っている。
《今すぐ体育館裏にある空き地まで来てもらおうか》
「――あ、ごめん待って。今日、薬局でトイレットペーパー安いんだよ。それ買ってからでいい?」
《トイレットペーパーとパートナー、どっちが大事だァァァッ!?》
大声で相手は怒鳴ってきた。
その叫びを聞いた敏也は、うっせぇなぁ、とでも言いたげに顔を顰めている。
そして、耳と肩で端末を挟み、自然な動きでレジのお姉さんに諭吉さんを渡す。
「安売り馬鹿にすんなよ!! ――いいかね? うちはね? 政府からの細々とした見舞金で生活してんのっ! もちろん生活に困窮してるってわけじゃないけど。でも、できるだけ節約したほうが遊ぶ金ができるだろ?」
《そういう問題じゃねぇッ!! 人質取られてんのに冷静すぎんだよてめぇはッ!!》
「あーもー、ピーピーうるせぇなぁ……すぐ行くから、三つ指着いて待ってろよ」
《はぁ!? てめっ、最後までふざ――――》
ブツッ、と通話を切断した。これ以上あの濁声を聞いていたくなかった。
「はい、お釣りです♪」
「ども」
お釣りを受け取った後、レジのお姉さんに会釈をして、敏也は急いで食料を袋に詰め込むのだった。
◆
正直、驚いた。
彼女の危機を知った時、表面上は冷静だったが、胸はざわめいていた。
助けないと――そんな想いが、自然と湧いてきていた。
身体は勝手に動いている。肉体強化まで掛けて、懸命に走っている。
これはきっと、一時の感情。気の迷いだから。
また、言い訳をしている自分がいた。
それが、どうしようもなく不快で、もどかしかった。
〈何かが胸の中で、一度だけ脈動した〉