あいつは立派な猫だったよ
いつも何気なく挨拶をするように鳴き声を上げる。
それは、誰かに届いているように思うが、誰にも届いてはいなかった。
だが、その弱々しい鳴き声が私の鼓膜を震わせていた。
自転車で最寄りの駅に行く時、いつものように腹をすかしてこちらに歩き寄ってきた。私はずっとその声を無視し続けた。面倒ごとに首を突っ込みたくなかったからだ。それでも、アイツは喉を振るわせ鳴き声を上げる。
「なんなんだよ、鬱陶しいな!」
少しばかり体を跳ねさせてトボトボとどこか遠い暗闇へと姿を消した。
ことの発端は私なのだ。全て私が悪かった。
腹をすかしているのをかわいそうだと思い猫の餌をやった。
水色の安っぽい首輪を振りながら大層うまそうに飯を喰らう。
そんなところをみるのがいつの間にか自分の幸せだと感じられる瞬間だったのだ。
無責任で身勝手な私を恨んでいることだろう。
ここにアイツがいるのなら、ちゃんと謝りたかった。
だが、もうアイツはいない。
そう、今朝良い朝を迎えられると思い、通学への準備をしている頃のことだった。
一つのチャイムが悲しく部屋に鳴り響いた。
それに気づき、自動でついた画面に目をやるとみたことのない老婆が立っていた。
「朝、散歩をしていたんですが、猫が一匹死んでたんですよ。お宅の猫ですか?」
そう告げられた。
1日の始まりとともに生命の終着点と言える、「死」を告げられたのだ。
不幸中の幸いだろうか、家にいる猫は机の下で白目をむきながらいびきをかいて眠っている。
(じゃあ、どの猫が死んだんだ?)
汚れで黒ずんだサンダルを履き恐る恐る戸を開け足を運んだ。
目の前に広がっていたものはあまりにも残酷で、現実を突きつけるようなものだった。昨日まで元気そうに鳴き声を上げていていた猫は
口から血を吐き、道の真ん中で眠っているように倒れていた。
いつの日にか見た覚えのある安っぽい首輪をしている。
それは、水色で光を反射することもない、まさに蛇足な反射板が埋め込まれていた。
この子、お宅の猫ですか、とまた同じ質問を投げかけてきた。
「いいえ、違います」そんな言葉しか出なかった。
脳を最大限まで稼働させて、一日中の疲労を感じたがそんなありふれた言葉しか出なかった。
ゆっくりと踵を返してあの猫と同じようにトボトボと歩きながらその場を後にした。少しでもいい、どうにかして現実から目を背けたくなった。
いつも私がやっている編集アプリを開き、何もなかったかのように電車に揺られる。そんなことをしても無意味なのに、何故そんなくだらないことをするんだ。
私に説いてみたがその答えが返ってくることはなかった。
そして、これからの人生にもその解答は聴けないのだろう。
家に帰り、もう一度、モノトーンカラーのアイツが死んでいた場所に行く。
そこには、毛の一本、血の一滴も残ってはいなかった。
まるで、アイツが死んでいなかったかのように。
もう一度思い出を蘇らせて竹藪に入る。
そこには無尽蔵で無造作に竹が生えていた。
自分で勝手につけた名前を思い出しながら必死になって名前を呼ぶ。
だが、アイツの鳴き声はしなかった。
ただ、そこには自分の声が竹の葉が擦れて嘲笑っているかのような音しかなかった。
本当の死、それは誰にも忘れ去られてゆっくりと姿を消していく。
そんなものだと感じてしまった自分がいた。
明日、学校の帰りに一輪菊の花でも買って置いといてやろう。
自分はまだ猫が死んだとは完全に理解しようとはしなかった。
ふと机に向かって明日のことを考える。
すると、不意に玉ねぎの選別をしている時を思い出した。
玉ねぎが完全に腐敗しきり鼻にツンと刺激させてくる死の匂い。
そんな時にアイツはフラッと自分の3メートル先の反対側に立っていた。
今は、その距離がとても近かったように感じてしまう。
あの声が鼓膜を振るわせ自分を気付かせる。
「なーご」またあの声が聞こえると思い振り返るとそこには何もいなかった。
ただ、終わりのないアスファルトでできた一本道と枯れ草が揺れているだけだった。
また、あの道を今日も通る。風の甲高い音を立てて、猫の鳴き声の真似をしている。最期にあげた餌は完全に無くなることはなかった。
そして、自分にこう言い聞かせるように胸に手を当て、そっと呟いた。
「アイツは立派な猫だったよ。俺もアイツに笑われねぇように頑張らなければ」
誰かが死んでも、誰かが生まれたとしても一日中は平等に、残酷にやってくる。
自分たちはその世界に無造作に広がる残酷さのほんのした断片だけを傍観しているだけなのかもしれない。今日も、風に揺られ、笹の葉が擦れ、地面に落ちる。
それは、世界を模倣している。あの日見た、一本道のように。




