新しい道
行き倒れの男はノアと名乗った。行くところがあるのかという使用人の問いかけに対し青白い顔を横に振った。
「一宿一飯の恩義を返しなよ」そう言われたノアはブラウンに働かせて欲しいと頼んだ。
湯を使い泥汚れを落としたノアは骨と皮で身体中に鞭で打たれたような傷があった。しかしがつがつと食べる割には所作が綺麗で礼儀正しく平民には思えなかった。
考えたブラウンはサミュエルに付け侍従として鍛えることにした。
身体が健康になり顔にも肉が付くと想像よりも整った顔立ちだった。領地でも群を抜くのではないかと思われた。
これはメイドの間で諍いが起きるかもしれないと見たブラウンは速やかにお嬢様付きとすることにした。それと共にノアの背後を念入りに調べさせた。
調べは簡単だった。ノアがどうにか絞り出した言葉を聞きそれに裏付けを取るだけだったからだ。
「わ 私は 子爵家の 庶子 です。屋敷では 冷遇されており 食事も満足に 食べられませんでした。
ところが 義兄が 事故で亡くなり 後継ぎが必要に なったのです。
いきなり 跡継ぎに と言われても な、なる気は ありませんでした。
それで 逃げ出しました。あそこでこき使われて、死ぬよりも 知らない 場所の方が ましだと思いました」
やっと紡ぎ出した言葉は途切れ途切れだったが、悲惨さは充分に伝わった。
「子爵家で嫡男が亡くなったと言えば……。何故もっと早く逃げ出せなかったのかい?」ブラウンは気の毒そうに聞いた。
「外から 鍵を掛けて 閉じ込められて いたのです。食事は 僅かな隙間から 届けられて いました。義兄の 鬱憤が溜まると 鞭で打たれたり 殴られたり 蹴られたりしました」
「それは酷いな…そこまでするものか?よく生きていたね。でも所作が綺麗だったのは何故だい?」
「マナーは 母が生きていた頃に 教えて 貰いました。義兄は強面で 私に妬みが あったようです。同情した使用人が 分からぬように傷薬を差し入れてくれて 何とか生命を 繋げていました」
胸が潰れそうになり熱いものがこみ上げてきたブラウンは、やっとの思いで声を出した。
「良いお母上だったのだな。それに味方が一人でもいて良かった」
「はい、自慢の 母 でした」
「ここで働くのにマナーは役に立つよ。しっかり働きなさい。温かい寝床と美味しい食事は約束しよう。この後医者も手配してあるから安心しなさい。とても腕のよい先生だ。もちろん働くようになれば給料も出す。頑張ることだ」
「ありがとう ございます」
そう言ったノアの瞳にきらっと光るものが見えたのはブラウンの秘密だ。
ノアが健康を取り戻し一月程経った頃、ブラウンは主に紹介した。
「お嬢様この者はノアと言います。サミュエルと共に専属の侍従にいたします。只今勉強中ですのでお目溢しをお願いいたします」
「よろしくね、ノア。分からないことはサミュエルに聞いてね。良い職場であるように努めるわ」
ノアは意外に執務の能力が高かったのでサミュエルと共に領地のオリビアの仕事が格段に捗った。
閉じ込められていたノアによると、僅かに差し込む光のなかで母が残してくれた書物を読んで過ごしていたのだと言う。
それを聞いたオリビアは自分の不幸など不幸のうちに入らないと涙を零し、強く生きることを自分に誓ったのだった。
◇
今日はよく晴れたピクニック日和だった。サラとサミュエルとノアそれに護衛が数人と侍女が二人ついての遠出である。
屋敷から馬車で一時間ほどの所に湖があり百合の群生場所となっていた。伯爵家の料理人が張り切ってお弁当を詰め込んでくれた。
湖は透き通っていて小さな魚が泳いでいるのが見えた。木々が木陰を作っている。
散歩道もありそぞろ歩くのに良さそうね。
ここでボートを貸し出すようにすれば、景色のよい観光地になるのではないだかしら。周りに軽食やジュースを売る屋台があれば良いわね。
オリビアは思ったことを口に出していたようだった。
そう呟いたのをサミュエルに聞かれたのだろう。
「お嬢様それは是非旦那様に許可を取られるべきです」
とやる気に満ちた顔で言われた。
「業者との交渉はお任せください。番人もいりますし、食品を出すのであれば清潔には注意しませんといけません。食あたりは大ごとです」
「あら、口に出していたのね。そうね、貴方達に任せてもいいかしら」
「お任せください。観光用の苺畑も良いですね。是非観光地にしましょう。牛乳やチーズも良いですがこれも鮮度に気をつける必要があります」
「それなら出来立てを食べて貰う所を作るのはどうかしら。苺専門のカフェやステーキハウスも良いわね」
「執務の合間にそう言う話も詰めましょう」
「仕事の話も良いですが、ほら百合の花が群生していますよ。ご覧になってくださいませ」
「本当だわ、サラありがとう。とても綺麗ね。これは山百合かしら。オレンジの朝焼け色ね」
「百合の花のクッキーとかどうでしょうか」
「サラだって仕事の話じゃない」
「実家が菓子屋ですからね。商魂は逞しいのです。それではこの辺でランチにされませんか?」
「そうね、久しぶりに外で食べるわ。なんて美味しそうなの。帰ったらうんと褒めてあげないといけないわね」
厨房で働く者たちの笑顔が見えた気がした。
薄めに切られたパンに挟んであるのは揚げた肉やローストビーフだ。フルーツサンドも美味しそうだ。デザートの葡萄やオレンジが綺麗に並べられていた。
フレッシュなジュースや紅茶はサラとノアが淹れてくれた。
ノアの紅茶の淹れ方は丁寧で随分美味しくなった。練習につき合わされたブラウンやサミュエルは慣れないうちは苦さのあまり震えていた。それを笑いながら見ていたのはサラとオリビアだ。
急いで甘いクッキーを口に入れていたのはご愛嬌だ。それがこんなに美味しく淹れるようになったとサラは母親の境地になって喜んでいた。
こんなに幸せで笑いあえる日が来るなんて婚約破棄されたあの日には考えることも出来なかった。
幸せは案外どこにでもあるのかもしれないとオリビアは思ったのだった。
未来への希望が出来たオリビアはもう少し縁談を先延ばししてもらおうと考えた。
家業である貿易の仕事の勉強もしたい。語学は幼少期から習っていたので自信があったが仕事となると別だろう。やりたい事が沢山出来た。
隣で綺麗すぎる侍従と姉のような侍女と頼りになる侍従兼護衛が笑っていた。
明日が楽しみになるなんて人生は面白いものだわとオリビアは明るくなった未来を見据えた。例えそれが茨の道でも諦めないでいようと思える程には強くありたいと、拳を握りしめたのだった。
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