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闇バイト

作者: タイシ
掲載日:2026/01/22

アスファルトの裂け目から、名も知らぬ雑草が顔を出すように、その広告はスマートフォンの画面の隅に、遠慮がちに、しかし執拗に表示され続けていた。


『高収入!即日払い!山奥での簡単な草刈り作業です』


簡単な、という言葉が俺のささくれた神経を逆撫でする。この世に簡単な仕事で高収入が得られる場所など、墓場の他にはないと相場が決まっている。だが、今の俺には選択肢という贅沢品は残されていなかった。家賃の督促状が郵便受けの底で怨念のように澱み、冷蔵庫の中では昨日見つけた最後の卵が哲学的な問いかけを始めている。食うか、食われるか。いや、この場合は腐るか、食われるか、だ。


俺は三十を少し過ぎただけの、何の変哲もない男だ。かつては小さな工場で、機械油の匂いに塗れながらも真面目に働いていた。ささやかな夢もあった。だが、不況という巨大な鉄球が、俺の日常も、夢も、すべてを粉々に砕いていった。会社は潰れ、恋人はより安定した未来を求めて去っていった。残ったのは、空っぽの部屋と、アスファルトのように乾ききった心だけだった。


その広告には、連絡先としてメッセージアプリのIDだけが記されていた。俺は使い古されたスマートフォンの画面をタップし、震える指で定型文のようなメッセージを送った。『バイト希望です』。すぐに既読がつき、機械的な返信が来た。『明日午前8時、新宿駅西口、中央公園前のバス停に来てください。青いバスが目印です。時間厳守。質問は受け付けません』。


翌朝、俺は夜明け前の薄闇のなか、アパートを出た。新宿の雑踏は、まだ眠りから覚めやらぬ獣のように静かだった。指定されたバス停には、すでに十数人の男女が集まっていた。誰もが俺と同じ種類の空気を纏っていた。希望と絶望が混ざり合った、淀んだ空気だ。皆、互いに視線を合わせようとせず、スマートフォンの画面に逃げ込むか、虚空を眺めている。まるで、これから赴く先が地獄だと、本能で悟っているかのように。


やがて、約束の時間きっかりに、古びた青い大型バスが音もなく滑り込んできた。排気ガスの匂いが、朝の冷たい空気に混じる。ドアが開き、中からサングラスをかけた大柄な男が現れた。


「これより、携帯電話は電源を切って回収する。そして、全員、これをつけてもらう」


男が示したのは、黒い布製の目隠しだった。ざわめきが起こる。当たり前だ。草刈りに行くのに、なぜ目隠しがいる。


「おい、話が違うじゃねえか」


若い男が抗議の声を上げた。だが、サングラスの男は表情一つ変えない。


「嫌なら帰れ。ただし、今日のことは誰にも口外しないと誓ってもらう。誓いを破ればどうなるか、賢い君たちならわかるだろう?」


男の低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。数人が悪態をつきながら列を離れたが、大半はその場に留まった。俺も同じだ。ここで引き返したところで、待っているのは冷たい現実だけだ。ならば、この得体の知れない闇に身を委ねる方が、まだいくらかマシかもしれない。


俺たちは家畜のようにバスに乗り込んだ。中はすでに、別の場所で集められたのであろう男女でほとんどの席が埋まっていた。皆、一様に目隠しをされ、押し黙っている。汗と安物の香水、そして恐怖が入り混じった生臭い匂いが車内に充満していた。


俺も目隠しをされると、世界は完全な闇に閉ざされた。バスは静かに発進し、都会の喧騒が徐々に遠ざかっていくのが音でわかった。エンジンの単調な唸りだけが、闇の中の唯一の道しるべだった。


どれほどの時間が過ぎただろうか。二時間か、あるいは三時間か。目隠しの下で、俺は意識を失いかけていた。過去の記憶が、闇の中で明滅する。工場の騒音。去っていった女の背中。親父の葬式で嗅いだ線香の匂い。断片的なイメージが、バスの揺れに合わせて脳をかき混ぜる。


ここはどこだ。俺たちはどこへ向かっている。


そんなことを考えても無駄だとわかっていた。俺たちは、自ら望んでこの闇に足を踏み入れたのだ。もはや後戻りはできない。


不意にバスが速度を落とし、舗装されていない道に入ったのか、激しい揺れが体を襲った。車内のあちこちで、小さな呻き声が漏れる。やがて、バスは完全に停止した。エンジンの音が止むと、代わりに虫の声と風の音が、闇の向こうから聞こえてきた。


「全員降りろ。目隠しはまだ外すな」


サングラスの男の声が響く。俺たちは、互いの体にぶつかりながら、おぼつかない足取りでバスを降りた。むわりとした、濃密な草いきれが鼻をつく。都会では嗅ぐことのない、生命力に満ちた、しかしどこか甘く危険な香りだった。


「目隠しを外せ」


指示に従い、目隠しを外した瞬間、俺は息を呑んだ。


目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。見渡す限りの山間の盆地が、青々とした植物で埋め尽くされている。その広さは、東京ドーム何個分という陳腐な表現では足りないだろう。地平線の果てまで、その異様な緑が続いていた。


そして、その植物の正体に気づいた時、俺の背筋を冷たい汗が伝った。ギザギザの葉を持つ、見慣れた、しかし決してこんな場所にあってはならない植物。大麻草だ。その中に混じって、芥子坊主のような丸い実をつけたケシが、風に揺れている。


ここは、巨大な麻薬のプランテーションだった。


集められた五十人ほどの男女は、その光景を前に呆然と立ち尽くしていた。誰かの口から、引きつったような悲鳴が漏れた。


「なんだよ、これ…」

「聞いてねえぞ、こんなこと!」


パニックは伝染する。恐怖は、群衆の中で増幅される怪物だ。


「俺、逃げる!」

「私も!」


一人が叫ぶと、それに呼応するように数人が走り出した。山の斜面を駆け下り、森の中へ消えていこうとする。


その時、バスから降りてきた別の男女が、彼らの前に立ちはだかった。指示役と思しき、鋭い目つきをした男と、冷たい表情の女だった。


「どこへ行くつもりだ?」


男が静かに問う。その声には、先ほどのサングラスの男とは質の違う、底知れない圧があった。


「一度ここへ来た以上、お前たちに帰る場所はない。ここで働くか、それともここで消えるか。選ぶのはお前たちだ」


女が冷ややかに言い放つ。その言葉は、単なる脅しではないことを、その場にいた全員が理解した。それでも、恐怖が理性を上回った者たちは、構わずに逃げ出そうとした。彼らは蜘蛛の子を散らすように、四方八方に散っていく。


指示役の男女は、それを追おうともしない。ただ、冷たくその光景を眺めているだけだった。まるで、不要なゴミが勝手に処分されていくのを待つかのように。


あっという間に、その場に残ったのはおよそ半分の人間だけになっていた。皆、顔面蒼白で、震えが止まらない者もいる。だが、逃げるという選択肢を、自ら捨てた者たちだった。俺もその一人だった。逃げたところで何がある。あの都会の片隅で、飢えて死ぬだけだ。それならば、この狂気の舞台で、最後まで踊り続けてやる。


指示役の男が、残った俺たちを見回し、満足げに頷いた。


「よし。お前たちは見込みがある」


そして、彼は地面に積まれていた山を指差した。そこには、使い古された鎌が大量に置かれていた。


「一人一本ずつ持て。そして、日が暮れるまでに、見える範囲の草をすべて刈り取れ。特に、実や穂がついたやつを優先しろ。いいな!」


男は腹の底から声を張り上げた。


「草刈り、始め!!」


その怒鳴り声が、俺たちの麻痺した体を無理やり動かした。俺たちは、まるで操り人形のように、一人、また一人と鎌を手に取った。俺も、冷たくて重い鉄の感触を掌に感じながら、一本の鎌を握りしめた。


そして、狂気の草刈りが始まった。


ザッ、ザッ、ザッ。


鎌が草を薙ぐ音だけが、広大な盆地に響き渡る。誰も口を開かない。ただ黙々と、目の前の違法な植物を刈り取っていく。太陽が容赦なく照りつけ、汗が滝のように流れた。土と草いきれ、そして自分の汗の匂いが混じり合い、頭がクラクラする。


俺の隣では、まだ若い女が、涙を流しながら手を動かしていた。その向こうでは、初老の男が、虚ろな目で宙を見つめながら、機械のように腕を振るっている。誰もが、この異常な状況に精神を蝕まれ始めていた。


俺は無心になろうと努めた。何も考えない。ただ、目の前の草を刈る。これは、ただの草だ。そう自分に言い聞かせた。かつて工場で、単調な作業を繰り返していた時のように。思考を止めれば、苦痛は和らぐ。


どれくらい時間が経っただろうか。太陽が西の山に傾き始めた頃、それは突然聞こえてきた。


パンッ!


乾いた破裂音。一瞬、何の音かわからなかった。だが、それが銃声であると気づくのに、時間はかからなかった。


パンッ!パンパンッ!


遠くの森の中から、断続的に銃声が響き渡る。それは、先ほど逃げ出した者たちが向かった方角だった。


作業をしていた者たちの手が、一斉に止まった。誰もが、音のする方を怯えた目で見つめる。


「……やべーって!」


誰かが、かすれた声で叫んだ。その一言が、かろうじて保たれていた緊張の糸を断ち切った。


「うわあああああ!」


絶叫と共に、第二の逃亡劇が始まった。人々は鎌を放り出し、我先にと、銃声とは反対の方向へ向かって走り出す。もはや、そこには何の秩序もなかった。ただ、死への恐怖だけが、彼らを突き動かしていた。


指示役の男女が何かを叫んでいるが、パニックに陥った群衆には届かない。俺は、その場に立ち尽くしていた。走るべきか、留まるべきか。銃声は、明らかに警告や威嚇の類ではなかった。あれは、確実に何かを仕留めるための音だ。逃げれば、殺される。


だが、ここに残っていても、未来があるとは思えない。


俺の周りで、まだ数人が躊躇していた。皆、俺と同じように、恐怖と打算の間で揺れ動いていた。


しかし、銃声は止まない。その冷たく無慈悲な響きが、彼らの最後の理性を吹き飛ばした。一人、また一人と、彼らも逃げ出していく。


やがて、あれほどいた人間は、ほとんどいなくなった。広大な麻薬畑の真ん中に、ポツンと取り残されたのは、俺を含めてわずか五、六人だった。


静寂が戻ってきた。風の音と、遠くで鳴く鳥の声、そして、俺たちの荒い呼吸だけが聞こえる。残った者たちは、互いに顔を見合わせた。皆、血の気の引いた顔をしていたが、その瞳の奥には、恐怖とは別の、奇妙な光が宿っているように見えた。それは、覚悟か、諦念か、あるいは狂気か。


俺たちのうちの一人、痩せた中年男が、ふっと乾いた笑みを漏らした。


「……ここまで来たら、もう同じか」


男はそう呟くと、再び鎌を拾い上げ、何事もなかったかのように草を刈り始めた。その姿に引きずられるように、他の者たちも、そして俺も、再び作業に戻った。


もはや、恐怖はなかった。ただ、奇妙な静けさが心を支配していた。ザッ、ザッ、という鎌の音だけが、俺たちがまだ生きていることの証明だった。俺たちは、まるでこの世の終わりの日に、最後の仕事を黙々とこなす農夫のようだった。


日が完全に沈み、空が深い藍色に染まった頃。


盆地の隅にあったプレハブ小屋のドアが開き、中から数人の男女が出てきた。彼らの雰囲気は、これまでの指示役たちとは明らかに違っていた。服装こそラフだが、その立ち居振る舞いには、鍛え抜かれた者の隙のなさが感じられた。


その中の一人、リーダー格と思しき男が、俺たちを見てゆっくりと歩み寄ってきた。


「はい、そこまで!」


その声には、有無を言わせぬ響きがあった。俺たちは、ぴたりと手を止める。


男は、俺たち六人の顔を一人ずつ、値踏みするように見回した。そして、満足げに頷くと、隣にいた仲間に向かって言った。


「今日の収入は、六人か。まあ、上出来だな」


収入? 六人? その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。これは、労働ではないのか。俺たちは、労働力として集められたのではないのか。


すると、男の隣にいた別の男が、携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。


「もしもし、局長? ええ、終わりました。今日の『S要員』は、六名です」


S要員。その言葉が、俺の脳に突き刺さった。


電話の向こうから、くぐもった笑い声が聞こえてきた。


『そうか、六人か! また賭けに負けたか、はっはっは! ご苦労だったな』


賭け? 一体、何がどうなっているんだ。


電話を終えた男が、俺たちに向き直った。そして、先ほどのリーダー格の男も、俺たちの前に並び立つ。最初に指示を出していた、あの鋭い目つきの男と冷たい女も、いつの間にか彼らの隣に控えていた。


リーダー格の男が、懐から手帳を取り出し、俺たちの目の前で開いてみせた。そこには、金色の旭日章が鈍い光を放っていた。


「我々は、警察庁警備局、いわゆる『公安』だ」


男は静かに告げた。最初に俺たちを威嚇していた指示役の男女も、無表情のまま、同じように身分証を提示した。


頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。公安警察。この国で、最も謎に包まれた実力組織。


「……どういう、ことですか?」


残ったうちの一人、若い男がかろうじて声を絞り出した。


リーダー格の男――局長と話していた男は、まるで出来の悪い生徒に教えを諭す教師のような口調で言った。


「これは、草刈りのアルバイトなどではない。これは、リクルートだ。我々が求める特殊な資質を持った人材を、効率的に選び出すための、大掛かりなオーディションだよ」


男は、広大な麻薬畑を顎でしゃくった。


「この国には、法では裁けぬ悪が蔓延っている。国際的な犯罪組織、テロリスト、そして、国家そのものを内側から蝕む者たち。そいつらと戦うためには、時として、我々も非合法な領域に足を踏み入れなければならない時がある」


男の目は、狂信者のようにギラついていた。


「金に目が眩み、違法な仕事だと知った途端に恐怖に駆られて逃げ出すような、ありきたりの小悪党はいらない。銃声くらいでうろたえる臆病者もな。我々が必要としているのは、どんな非人道的な状況に置かれても、動じずに自らの任務を遂行できる強靭な精神を持った人間。危険を承知の上で、さらにその奥にある真実を見極めようとする冷静な判断力を持つ人間だ」


つまり、この地獄のような一日は、そのための「ふるい」だったというわけか。逃げ出した者たちを撃ったあの銃声も、おそらくは空砲を使った脅しだったのだろう。すべては、俺たちのような「残る」人間を炙り出すための、壮大な芝居だったのだ。


「お前たち六人は、そのテストに合格した。おめでとう」


男は、そう言って笑った。その笑顔は、蛇のように冷たかった。


「お前たちには、『S要員』となる資格が与えられる。Sとは、Specialistスペシャリストであり、Shadow(影)であり、そしてSacrifice(犠牲)でもある。国という巨大なシステムの、誰も知らない場所で、人知れず汚れ仕事を引き受ける存在だ。もちろん、報酬は破格だ。お前たちがこれまでの人生で見たこともないような大金が手に入る。だが、その代償として、お前たちのこれまでの人生は、ここで終わりだ」


新しい名前、新しい経歴が与えられ、俺たちは国家の「影」として生きていくことになるのだという。拒否権はない。俺たちは、この場所に来た時点で、すでに社会的には「存在しない」人間にされていたのだ。


馬鹿馬鹿しい、と思った。あまりに壮大で、あまりに身勝手な話だ。だが、怒りは湧いてこなかった。むしろ、奇妙な安堵感があった。空っぽだった俺の人生に、無理やりではあるが、一つの意味が与えられた。それは、たとえ汚れ仕事であっても、一つの「役割」だった。


リーダー格の男が、俺の前に立った。


「お前、いい目をしているな。最後まで、状況を冷静に観察していた。恐怖よりも、好奇心が勝っていたタイプか。名前は?」


俺は、乾いた唇を舐めた。そして、答えた。


「名前は、もう捨てた」


俺の答えを聞いて、男は初めて、心の底から楽しそうに笑った。


「気に入った。お前のような男を待っていた」


その夜、俺たちはバスではなく、黒塗りのセダンに乗せられた。目隠しはもうない。車は、闇に包まれた山道を滑るように下っていく。窓の外には、見知らぬ景色が流れていった。


これから俺を待っているのは、どんな地獄だろうか。わからない。だが、不思議と不安はなかった。アスファルトのように乾ききっていたはずの心に、熱いマグマのような、黒く、歪んだ感情が流れ込んでくるのを感じていた。


俺の人生は、今日、一度死んだ。そして、明日からは、国家という巨大な怪物のための、一本の鎌として生きていく。


闇の向こうに、街の灯りが見えてきた。それは、俺がかつて生きていた世界とは、まったく別の世界の光に見えた。俺は、ただ静かに、その光を見つめていた。

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