ep.1 オアシスの向こう側 ⑤
それからもしばらく、新太は、オアシスに通い続けた。
仕事が終わると、部屋に戻り、扉を開く。
草原に座り、湖を眺め、何も考えずに呼吸をする。
誰もいない。
何も起きない。
それが、何よりも、心地よかった。
だが――
ある夜、現実に戻った新太は、携帯を手に取ったまま、しばらく動けなくなっていた。
年末が近づいていた。
正月には、久しぶりに地元へ帰る予定だ。
表示されたのは、懐かしい名前。
――智也。
学生時代からの親友だった。
何でも話せた。
冗談も、愚痴も、夢も。
うまくいかないときは、互いの部屋に転がり込み、夜が明けるまで語り合った。
……いつから、連絡を取らなくなったのだろう。
新太は、画面を伏せ、天井を見上げる。
――俺は、誰にも踏み込まない人間だった。
――由梨の言葉が、まだ胸に残っている。
オアシスは、楽だ。
誰もいない。傷つかない。否定されない。
けれど。
胸の奥に、わずかな、しかし無視できない空白があった。
“誰もいない”ということは、
“誰とも、分かち合えない”ということでもある。
草原の静けさの中で、ふと浮かぶのは、
誰かと笑い合っていた、あの頃の記憶だった。
「……なあ、ヴェル」
その夜、オアシスで、新太は、ぽつりと声を落とした。
「ここ……誰か、入れてもいいのか?」
ヴェルは、湖のほとりに立ったまま、振り返る。
「君が、そうしたいなら」
「この世界は、君のものだ」
「……誰でも?」
「“君が選んだ人”なら」
“選んだ人”。
その言葉が、胸に、静かに刺さる。
新太は、しばらく黙り込んだ。
選べば、関係が生まれる。
関係が生まれれば、期待も、衝突も、裏切りも、ついてくる。
ここは、そういうものから、逃げてきた場所だ。
――それでも。
胸の奥で、もう一つの声が、囁いた。
――このまま、ひとりで、満足していいのか。
――誰にも必要とされない世界で、安らいでいるだけで。
新太は、ゆっくりと、息を吐いた。
「……一人だけでいい」
「大勢はいらない」
ヴェルは、表情を変えずに聞いている。
「俺が……昔、ちゃんと、笑っていられた頃の、相手だ」
「……たぶん、そいつなら」
言葉の続きを、新太は、うまく言えなかった。
――そいつなら、俺を、俺のままで、見てくれる気がした。
――評価じゃなく、役割でもなく。
ヴェルは、しばらく新太を見つめていたが、やがて、静かに頷いた。
「……いいよ」
「ただし」
「……ただし?」
「君が、彼をここに呼ぶということは――」
「“この世界を、ひとりのものではなくする”という選択だ」
新太の喉が、わずかに鳴った。
「衝突も、違いも、持ち込まれる」
「君の“傷つかない場所”は、もう、完全には守れない」
それは、警告だった。
同時に、問いかけでもあった。
――それでも、誰かを、迎え入れるのか。
新太は、視線を落とし、草を握る。
誰かと関わるたび、
傷つくか、傷つけるか、どちらかを選ばなければならなかった人生。
だからこそ、ここを作った。
誰も入れない、否定されない場所を。
……それでも。
ふと、胸に浮かんだのは、
学生時代、智也と並んで、夜の河川敷を歩いたときのことだった。
くだらない話をして、笑って、
何者でもない自分を、何者でもないまま、受け入れ合っていた、あの時間。
――あの頃の俺は、ひとりじゃなかった。
新太は、顔を上げる。
「……それでも、いい」
「俺……一人で作った世界に、閉じこもりたくない」
自分の口から出た言葉に、
新太自身が、いちばん驚いていた。
ヴェルは、ほんのわずかに、目を細めた。
「……それは、“逃げない”ってことだよ」
新太は、答えなかった。
だが、その言葉を、否定もしなかった。
「……正月に、地元へ帰る」
「そのとき、話してみる」
オアシスの風が、二人の間を、静かに吹き抜ける。
誰もいない世界に、
“誰か”を入れるという選択。
それは、新太にとって、
この世界を作ったときよりも、ずっと、重たい決断だった。
だが――
その一歩を踏み出さなければ、
この場所は、ただの“逃げ場”のままで終わる。
新太は、湖を見つめながら、静かに呟いた。
「……俺、まだ、誰かと、生きていたいんだと思う」
ヴェルは、答えなかった。
ただ、どこか満足したような、しかし測りかねる表情で、そこに立っていた。
この選択が、
やがて、二人を決定的に引き裂くことになるとも知らずに。




