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ep.1 オアシスの向こう側 ④

それから、新太は、何度も扉を開いた。


 仕事を終えた夜。

 由梨との電話のあと、眠れなかった夜。

 会議で自分の意見が、誰にも拾われなかった日。


 扉を開けば、あの草原がある。


 風は、いつも同じ温度で吹き、

 空は、決してまぶしすぎず、暗すぎず、

 あの一本の木は、何も言わず、そこに立っている。


 現実では、言葉を選び、表情を整え、役割を演じる。

 だが、ここでは――ただ、立っているだけでいい。


「……ただいま」


 ある日、新太は、誰にともなく、そう呟いた。


 ヴェルは、少し離れたところに腰を下ろし、草を弄んでいる。


「“おかえり”って言ってほしい?」

「……いや。別に」


 新太は、木の根元に腰を下ろした。


 不思議なことに、ここでは、時間の感覚が曖昧だった。

 長くいるつもりでも、現実に戻れば、ほんの数分しか経っていないこともある。


 ――現実に、影響はない。

 ――ちゃんと、仕事も、生活も、続いている。


 自分に、そう言い聞かせながら、

 新太は、日に日に、この場所に“帰る”頻度を増やしていった。


「……なあ、ヴェル」

「なに?」


「ここってさ……逃げ、なのかな」


 ヴェルは、少しだけ目を細める。


「どうして、そう思うの?」

「現実でうまくいかないから、ここに来てる気がするんだ」

「それって、結局……」


 言葉の続きを、新太は、飲み込んだ。


 ヴェルは、否定も肯定もせず、穏やかに言う。


「“休む”ことと、“逃げる”ことは、似てるんじゃないかい?」

「でも、同じじゃないさ、」


「……何が違うんだよ」


「“戻るつもりがあるかどうか”」


 新太は、答えられなかった。


 戻る。

 どこへ?


 退屈な毎日。

 誰とも深く関わらない日常。

 「どうせ俺なんて」という、あの思考の癖。


 それでも、生きていく場所は、現実しかない。

 それくらいの理屈は、分かっている。


 だが――


 ヴェルが、静かに続ける。


「ここは、君が“選ばなくていい場所”だ」

「正解も、不正解も、他人の目も、ない」

「……だから、楽なんだ」


 新太は、草を握りしめた。


「……楽だよ」

「何も考えなくていい。何者かにならなくていい」


 胸の奥で、何かが、ほどけていくのを感じる。


 ある夜、ふと、思いつく。


「……ここ、少し、変えてもいい?」


 ヴェルは、にこりと笑った。


「もちろん。君の世界だ」


 新太は、目を閉じた。


 一本だけだった木のそばに、小さなベンチを置く。

 遠くの地平に、淡い湖を浮かべる。

 水面は鏡のように静かで、風景を歪めない。


「……誰も、いないままがいい」

「声も、視線も、期待も、いらない」


 次の瞬間、世界は、新太の思った通りの形をとっていた。


 ベンチに座ると、身体の奥まで、力が抜けていく。


 ――ここなら、何も失わない。

 ――誰にも、負けない。

 ――何者にも、ならなくていい。


 その安らぎは、甘く、静かで、抗いがたい。


「……いい世界だね」


 ヴェルの声は、どこか、確かめるようだった。


「君が、“傷つかないために”選んだ形だ」


 新太は、うなずいた。


「……俺、ここにいるときだけ、ちゃんと呼吸ができてる気がする」


 ヴェルは、その言葉を、すぐには受け取らなかった。

 少しだけ、間を置いて、静かに言う。


「でもね、新太」

「ここには、“誰もいない”」


 新太は、視線を上げる。


「……それが、いいんだろ」

「比べられない。否定されない。傷つかない」


「うん。君にとっては、ね」


 ヴェルの瞳が、ほんの一瞬だけ、鋭くなる。


「でも、それは同時に――」

「“誰からも、必要とされない世界”でもある」


 胸の奥に、わずかな棘が刺さる。


「……何が言いたいんだよ」


 ヴェルは、穏やかな笑みを崩さない。


「ただの、確認だよ」

「君は、本当に……“誰もいない場所”が、欲しかったのかって」


 新太は、言い返せなかった。


 湖の水面に、自分の姿が映る。

 そこにいるのは、誰にも求められず、誰にも拒まれない、透明な自分。


 ――それで、いいはずだった。

 ――ずっと、そう願ってきたはずだった。


 それなのに。


 胸の奥で、言葉にならない違和感が、静かに疼いていた。


「……今は、これでいい」

 新太は、そう言うことで、自分を納得させた。

「俺は、現実から逃げてるわけじゃない。ただ……休んでるだけだ」


 ヴェルは、否定しない。


「そう思えるなら、いい」


 だが、その声には、どこか、試すような響きがあった。


 風が、草原を渡る。

 誰もいない、静かなオアシス。


 新太は、まだ知らない。


 この“何も起きない世界”が、

 やがて、彼にとって、最も重たい“選択”を突きつけることを。


 ――ここに、誰かを、入れるのか。

 ――それとも、この静けさを、守り続けるのか。


 その問いは、まだ、遠い未来のものだった。

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