ep.1 オアシスの向こう側 ③
扉の向こう側は、何もなかった。
床も、天井も、空もない。ただ、白とも黒ともつかない、奥行きのない空間が、どこまでも広がっている。重力の感覚はあるのに、地面の感触がない。歩いているのか、浮いているのかも分からなかった。
「……ここ、どこだよ」
新太の声は、吸い込まれるように消えた。
ヴェルは、宙に浮いたまま、くるりと一回転する。
「ここが、君の世界の“外側”だよ。まだ、何も決められていない場所」
「外側……?」
「うん。形も、色も、意味もない。だから、君の考えた通りにできる」
新太は、思わず笑ってしまった。
「……冗談だろ」
「現実逃避のための、都合のいい夢ってやつ?」
ヴェルは、否定もしなければ、肯定もしなかった。ただ、穏やかな声で言う。
「君は、さっき、こう考えたね。“誰も傷つかない世界があったら”って」
胸の奥が、ひくりと揺れた。
「……それは、ただの独り言だ」
「でも、君の本音だろ?」
ヴェルは、新太の目をまっすぐ見つめた。
「ここでは、遠慮しなくていい。正しさも、評価も、順位も、いらない」
「君が“こうだったらいい”と思うものを、ただ作ればいいんだ」
新太は、視線を逸らした。
――そんなもの、あるわけがない。
長い間、何かを“選ぶ”ことを避けてきた。欲しいものを欲しいと言わず、嫌なことを嫌だと言わず、波風を立てないことだけを選んできた。
自分の理想なんて、とうに、擦り切れている。
「……俺には、何もないよ」
「作れるほどの“理想”なんて」
ヴェルは、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、逆に聞くね」
「“嫌だったもの”は?」
新太は、言葉に詰まった。
嫌だったもの。
会議で、誰かの意見が潰される空気。
成果を数字でしか見られないこと。
誰かの成功を、心のどこかで妬んでしまう自分。
そして――
――「どうせ俺なんて」と、何度も自分を切り捨ててきた、その癖。
「……ぶつかるの、嫌だった」
思わず、口をついて出た。
「誰かと本気で意見が食い違うのも、嫌だった。否定されるのも、否定するのも……」
言いながら、胸が、少しだけ軽くなるのを感じた。
「傷つけたくなかった。……たぶん、傷つくのが、怖かっただけなんだけど」
ヴェルは、うなずいた。
「じゃあ、まずはそこからでいい」
「“ぶつからなくていい場所”。“否定されない場所”」
何もない空間の中で、ヴェルが指を鳴らす。
ぱちん、と、小さな音。
すると、遠くの方で、淡い色が滲むように広がった。輪郭のない光が、ゆっくりと、世界に染み出してくる。
「……なに、これ」
「君が、今、思い浮かべたものの“入口”だよ」
新太は、無意識に、目を閉じた。
頭に浮かぶのは、派手な理想郷ではなかった。
誰もいない場所。評価も、比較も、言い訳も必要のない空間。
ただ、静かで――息がしやすい場所。
次の瞬間、足元に、感触が生まれた。
土の匂い。
やわらかい風。
目を開けると、どこまでも続く草原が、静かに広がっていた。空は、淡い夕暮れ色。太陽は見えないのに、世界全体が、穏やかな光に包まれている。
「……」
言葉が、出なかった。
遠くに、木が一本だけ立っている。大きすぎず、小さすぎず、ただ、そこにあるというだけの存在。
鳥の声も、人の気配もない。ただ、風が草を揺らす音だけが、耳に届く。
「……何も、ないな」
思わず、そう呟いた。
ヴェルは、隣に降り立ち、肩をすくめる。
「でも、君は“ここがいい”と思った」
「誰もいない。だから、比べられない。否定されない。……君が、息をつける場所だ」
新太は、胸の奥に溜まっていたものが、すっと抜けていくのを感じた。
評価も、役割も、期待も、ここにはない。
“何者か”である必要が、ない。
ただ、そこに、立っているだけでいい。
「……変だな」
新太は、乾いた笑いを漏らした。
「何もないのに……ちょっと、楽だ」
「それが、“オアシス”だよ」
ヴェルは、そう名付けるように言った。
新太は、木の方へ歩き出す。草を踏む音が、やけに現実的だった。
幹に触れると、ひんやりとした感触が、指先に伝わる。
――夢じゃ、ない。
「……ここ、俺だけの場所、ってこと?」
「今は、ね」
ヴェルは、あえて言葉を濁した。
「君が、そうしたいなら」
「誰も入れない世界にもできる。君が作った、君だけの場所だ」
“君だけの場所”。
その言葉が、胸に、甘く染み込んだ。
現実では、どこにいても、誰かの期待や評価から逃げられない。
だが、ここでは――何者でもない自分で、いられる。
「……しばらく、ここに来てもいい?」
「仕事が終わったあととか……」
「もちろん」
ヴェルは、嬉しそうに笑った。
「君が作る世界なんだから」
新太は、もう一度、周囲を見渡す。
何もない草原と、一本の木だけの風景。
それなのに、胸の奥にあった濁りが、薄くなっているのが、はっきりと分かった。
――俺、逃げてるのかな。
ふと、そんな考えがよぎる。
だが、それを打ち消すように、心のどこかで、もう一つの声が囁いた。
――今は、いい。
――少し、休むだけだ。
ヴェルが、穏やかな声で言う。
「無理に、現実と戦わなくていい」
「ここは、君が“選ばなくていい場所”なんだから」
その言葉は、救いのようでいて――
同時に、どこか、危うい響きを帯びていた。
だが、このときの新太は、まだ気づいていなかった。
この静かなオアシスが、
やがて、彼の人生を揺るがす“境界”になることを。




