ep.1オアシスの向こう側 ②
第2幕 オアシス
しばらくの間、声も出なかった。
目の前にいる、小さな魔獣――ヴェル。赤と緑の色合いは、部屋の白い壁の中で、やけに浮いて見える。
「……ドッキリか?」
自分の声が、やけに現実的に響いた。
ヴェルは首をかしげる。
「そう思いたいのなら、それでもいいよ」
「でも、その扉は、君が作ったものだ」
「……俺が?」
「うん。正確には、“君がずっと考えていたこと”が形になったんだよ。」
新太は、扉を振り返る。
さっきまで、ただの壁だった場所。そこにあるのは、紛れもなく“異物”だ。
「……俺は、こんなもの、頼んでない」
ヴェルは、ふっと笑った。
「頼まれてから現れるものばかりじゃ退屈じゃないか」
「それに……」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「君は、さっき、考えていた。――“自分の思った通りに作れる世界があったら”って」
胸の奥が、ひくりと動いた。
「……ただの、独り言だ」
「独り言ほど、本音だよ」
新太は、何も返せなかった。
扉の隙間から、淡い光が漏れている。
それは、蛍光灯の白とも、夕焼けの橙とも違う、名前のつかない色だった。
――どこか、懐かしいような。
「……その向こうに、何がある」
「君の世界」
ヴェルは、迷いなく言った。
「君が、君のままでいられる場所」
「……意味が分からない」
「分からなくていい」
ヴェルは、取っ手の近くまで飛んでいく。
「でも、見ないままでいると…たぶん、君は、ずっと“向こう側”を考え続ける」
向こう側。
その言葉が、胸の中で、静かに反響した。
新太は、扉に手を伸ばしかけて、止める。
――怖くないわけがない。
常識では説明できないことが、目の前で起きている。
「……もし、変なことになったら?」
「ならないよ」
ヴェルは、あっさり言った。
「少なくとも、君が“壊したくないもの”は、壊れない」
「……そんな保証、どこにもーー」
「君の存在がそれを証明してくれるさ」
言葉の意味を、考える前に、心臓が一つ、強く鳴った。
由梨の声が、脳裏をかすめる。
――あなた、誰の人生にも踏み込まない人だった。
踏み込まない。
選ばない。
傷つかないように、誰の領域にも入らないまま、ここまで来た。
――それで、俺は、何を得た。
新太は、深く息を吸う。
そして、扉の取っ手を、今度は、しっかりと握った。
「……ほんの、少しだけだ」
「いいよ」
ヴェルは、にこっと笑った。
「君の“ほんの少し”は、たいてい、世界ひとつ分ある」
取っ手を回す。
蝶番が、低く鳴る。
扉の向こうには、地面も、空も、まだなかった。
ただ、白とも黒ともつかない、広がりだけがある。
――何もない。
けれど、不思議と、怖さはなかった。
「……何も、ないじゃないか」
「うん。だから、作れる」
ヴェルは、当たり前のように言った。
「ここは、“最初の場所”。君の世界の、始まりだ」
新太は、足を一歩、踏み出す。
何も踏んでいないのに、確かに立っているという感覚があった。
落ちることも、沈むこともない。
「……本当に、俺の……」
「うん」
「ここでは、誰も君を否定しない」
その言葉が、胸の奥に、静かに染みていく。
否定されない。
比べられない。
選ばなくていい。
――そんな場所が、もし、あるのなら。
「……まず、何をすればいい」
ヴェルは、少しだけ、目を細めた。
「君が“こうだったらいいのに”と思ってきたことを、作ればいいのさ」
「どんなに小さなことでも」
「ここでは、それが、現実になる」
新太は、目を閉じる。
誰も、声を荒らげない場所。
誰も、誰かを見下さない世界。
正しさが衝突しない、穏やかな空気。
――せめて、ここでは。
ゆっくりと、目を開く。
白い空間の向こうで、何かが、かすかに形を持ち始めていた。
それが、救いなのか、
それとも彼自身が作り出した“オアシス”なのか。
まだ、新太には、分からなかった。




